ソロモン72柱のレガリヤと魔脈の胎動

坂倉蘭

第1章 復讐者と旅の始まり

第1話 モノクルの契約

 ハストラル大陸の東の果て、荒野に吹く風は土と血の匂いを運ぶ。


 バージッド・ラ・コスタ、愛称バスタは、15歳の少年らしい華奢な体をよろめかせながら立ち上がった。


 汗と埃にまみれた顔、燃えるような赤毛の下の瞳は、怒りと決意で揺れている。


 足元には盗賊団の残骸――折れた剣、ひしゃげた鎧、そして息絶えた男たちの姿。


 バスタの右手に握られたのは、ついさっき盗賊の頭領から奪った銀のモノクルだ。


 細やかな紋様が刻まれたフレーム、黒いレンズはまるで深淵を閉じ込めたように不気味に輝く。

(これが…本当にソロモン72柱のレガリアだっていうのか?)



 バスタはモノクルを握りしめ、荒野の地平線を睨む。


 3日前、故郷の村を焼き尽くした盗賊団を追ってこの地まで来た。


 家族も、友も、そして幼馴染のカミルも――すべてを奪われたあの夜の炎が、少年の胸を焼き続ける。


 カイラ・ミール・ディストニ、愛称カミルは、バスタの村でただ一人生き残った少女だった。


 黒い眼帯で左目を隠し、いつも静かに微笑む彼女の姿が、バスタの脳裏に焼き付いている。


 あの夜、盗賊が村を襲った時、カミルはバスタを庇って捕らわれて連れ去られたのだ。


 盗賊の頭領は死に際に、血まみれの唇でこう囁いた。


「そのモノクルは…フルカスだ…他の物と違い気性は荒くはないが気をつけな、ガキ…あれは…それに何故襲ったかと聞いたな⋯帝国の八英傑の一人が俺たちを雇って村を襲わせたんだ。

 お前の幼馴染の眼帯の娘、カミルだったか…帝国に捕らわれて、もう本国へ護送されてるはずだ。強大な帝国から取り返すなんて無理だ…ざまぁーねな⋯」


 言葉はそこで途切れ、頭領は息絶えた。


 バスタは呆然と立ち尽くす。


 カミルが帝国に連れ去られた――その事実が少年の心を締め付ける。


 モノクルを手にした瞬間、確かに何かを感じた。


 脈打つような、生き物の鼓動。


「昔聞いた爺さんの話だと、目に付けるんだよなこれ⋯大丈夫だよな」


 少年はためらいながらも、モノクルを左目に装着した。


 世界が一瞬で変わった。


 視界が赤と黒に染まり、荒野が溶けるように歪む。


 バスタの耳に、落ち着いた老紳士の声が響いた。


「ふむ、ようやくお目覚めでございますか、若様」


 声は深く、まるで古い館の執事が主に仕えるような、丁寧だがどこか尊大な響き。


 バスタは反射的に剣を構え、周囲を見回す。


 だが、荒野には誰もいない。風すら止まり、静寂が少年を包む。


「誰だ! どこにいるんだよ!」


「落ち着かれませ、若様。わたくしはここ、貴方の左目のモノクルにございます」


 バスタはモノクルに手をやり、目を細める。


 声は確かに頭の中で直接響いている。


「お前…何者だ?」


「わたくしはフルカス、ソロモン72柱の第50番目、知識と策略を司る者でございます。このモノクルは貴方の手で目覚めました。さて、若様、わたくしと契約を結ばれますか?」


(契約? ソロモン72柱? カミルを救うためにも力が必要だ…)


 バスタの頭は混乱で一杯だった。


 ソロモン72柱の伝説は、子供の頃に聞いた昔話だ。


 ハストラル大陸を支配する72のレガリア、それぞれに悪魔が宿り、所有者に絶大な力を与える。


 だが、そんな話が本当だなんて、思ってもみなかった。


 頭領の言葉が脳裏をよぎる。


 帝国の八英傑、カミルの眼帯、強大な敵――それらに立ち向かうには、この力が不可欠だと感じていた。


「契約って…何だよ。俺に何をしろって言うんだ?」


 フルカスの声が、穏やかだがどこか冷たく響く。


「簡単な話でございます、若様。貴方の望みを叶えましょう。力、富、あるいは復讐…何でもお望みのものを。代わりに、わたくしの目的にお付き合いいただきます。72のレガリアをすべて集め、破壊し、統合する。それがわたくしの願いでございます」


 バスタは息を呑む。


 村を焼いた盗賊団、帝国に連れ去られたカミル。


 あの夜の炎と叫び声が脳裏に蘇る。


(カミルを救うためにも、俺はもう無力なままじゃいられない)心の奥で、熱い何かが燃え上がる。


「俺が欲しいのは力だ。誰にも奪われない、絶対の力だ。そして、カミルを帝国から救い出す力だ」


 フルカスの声が満足げに響く。


「素晴らしいお答えでございます、若様。では、契約は成立いたしました。さっそく、このモノクルの力、わたくしの知識をご覧に入れましょう」


 瞬間、バスタの視界に光が走った。


 モノクルのレンズ越しに、荒野の先に蠢く影が見える。


 人間でも獣でもない、異形の魔物だ。


 フルカスが落ち着いた口調で続ける。


「ご覧の通り最初の一歩、試練でございます。あれは別のレガリアの欠片に引き寄せられた魔物。倒すか、倒されるか。さあ、若様、お選びください」


 バスタは剣を握り直し、唇を噛む。


(試練? でも、カミルを救うためだ。もう後戻りしない)魔物が咆哮を上げ、地面を蹴って突進してくる。


 バスタの身体が動く前に、フルカスの声が指示を飛ばす。


「左に飛びなさい、若様! そのまま剣を下から振り上げなさい!」


 バスタは反射的に従い、左に跳ぶ。


 魔物の爪が空を切り、少年の剣がその腹を裂く。


 黒い血が飛び散り、魔物が地面に倒れる。バスタは息を荒げ、モノクル越しにフルカスを睨む。


「お前…なんで俺を助けたんだよ?」


「助けた、とは失礼な。わたくしはただ、若様が死なれては困るだけにございます。せっかくの契約者が早々に死しては、わたくしの計画が水の泡。さよう、ただそれだけのこと」


 バスタは鼻を鳴らし、剣を鞘に収める。


(こいつ、信用できるのか? でも、この力は本物だ。カミルを救うために必要だ)魔物の死体から、微かに光る欠片が浮かび上がる。


 フルカスが静かに言う。

 

「それはレガリアの欠片でございます。わたくしに吸収させなさい。少しずつ、わたくしたちの力が強まります」


 バスタは欠片をモノクルに近づける。光が吸い込まれ、モノクルの紋様が一瞬輝く。少年の身体に、微かな力が流れ込むのを感じた。


「これが…レガリアの力か」


「さようでございます、若様。これが始まりにございます。72のレガリアをすべて集め、破壊し、統合する。その先に、貴方の望む絶対の力があります。ところで、若様の幼馴染のカミルが持っていた黒い眼帯、あれもレガリアの一つでございますよ。

 第22番目のオリアスが宿っており、未来視と運命操作の能力を持っています。眼帯をつけている目は普段は見えませんが、能力使用時には機能いたします」


 バスタは目を丸くする。


 カミルの眼帯がレガリアだなんて知らなかった。


 彼女が眼帯をつけていたのは、子供の頃からずっとだ。見えない左目を隠すためだとばかり思っていた。


「カミルの眼帯がレガリアだって? 俺は知らなかった…でも、それならなおさら、帝国から取り戻さなきゃならない」


 フルカスが穏やかに続ける。

 

「その通りでございます、若様。帝国はレガリアの力を利用しようとしているのでしょう。ラフィス王国が魔脈の交差点に位置し、地脈の魔力がレガリアの力を増幅するため、帝国と教団の争奪戦の要因にもなっています。カミルを救うには、帝国に立ち向かう力が必要です」


 バスタは荒野の先に目をやる。


 地平線の向こう、大陸の中心には覇者の座が待っている。


(カミルを救い、復讐も、力も、全部俺のものにする。もう二度と、弱いままじゃいられない)


「次はどこだ、フルカス」


 フルカスの声が、穏やかだがどこか楽しげに響く。


「気が早いお方で。まずは北西の森でございます。あそこに、別のレガリアの匂いがいたします。準備はよろしいですか、若様?」


 バスタは頷き、剣を握り直す。荒野に風が吹き、土埃が舞う。


 15歳の少年と老執事の悪魔の契約は、こうして始まった。


 大陸の覇者への道は、血と試練に満ちている。

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