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 ――件の牢獄、小さな鉄格子付きの明かり取りと布団以外には何もない独房に、若子はうずくまっている。明かり取りの真下、丁度日の射さないところを選んで、ぼんやりと横座りする彼女からは、往年の面影は殆ど消え失せていた。ばさばさに乱れた髪、ずた袋のような囚人服……一切の虚飾を剥ぎ取られただけでなく、生気までも奪われたように見える。もしかしたら彼女の生命は、肉体を彩っていた着物や宝飾品の方にこそ宿っていたのかもしれない。


 彼方から足音が近づいてくるのを、彼女の耳は捉えるともなく捉えた。牢番の男だと頭の片隅で認識する。


「面会だ」

「……はい」


 口ごもった返事は、鍵の回る冷たい響きにかき消される。ふらふらと彼女は独房を出て、従順に男について行った。


(また瑶子が来たんだわ。懲りない人ね)


 初めのうちは、母と同じく、従妹は自分を惨めにさせるためにわざわざやって来るのだと思い込んでいた。けれど、できる限り地味ななりをして、足繁く通い、恨み節ひとつ口にするでもない相手を見る度、その本当の心がわかりかけてきた。この人には本当に下心や邪心といったものはなく、ただ獄中の家族を慮る気持ちだけでここまで赴いてくるのらしい、と。それからは若子も、いくらか打ち解けた心で瑶子と接することができた。瑶子を蔑む気持ちはすっかり、若子の内面から消え去っていた。


 面会用の室に通されて、若子は些か面食らった。小窓の向こうにある顔は瑶子のそれではないどころか、黒い布の影に隠れて殆ど見えなかったのである。


 心地よい低い声は、若子の聴いたこともない教会の名を告げ、そこの牧師だと名乗った。


「なぜ私のところに牧師さんがいらっしゃるんです? 死刑執行前の懲戒かしら」


 彼女の声は驚きから、自嘲気味なものへと変わる。牧師は黒い頭巾の奥で、穏やかにたしなめる。


「そのようなことを冗談でもおっしゃるものではありませんよ。第一あなたは終身刑でしょう。死刑とは言われていないのでは」

「ええ」

「私は、ただあなたとお話をしに来ただけです。あなたの本心をお伺いしたいと思い」


 もっと気を楽にするように、と前置いて――とはいえ若子の表情は相変わらず張り詰めていたが――、牧師はいくつかの質問をした。


 あなたはこれまでの罪を後悔しているか?


「後悔も何も、何が罪だったのか、未だに私わからないのよ。ただ、自分の心のままに生きてきたってだけなのに。瑶子達を憎んだのも、私がそう振る舞えば家族が喜んだからそうしたってだけだわ。……こんな話、どこにだってごろごろしているわ。それなのに、他の誰とも違って私や家族だけがこんな牢屋に入れられるなんてね」


 では、これまでしてきたことを、あなたは何だったと思っているのか。


「そうねえ。あれは村人を楽しませるためのものだった、と思っているわ。ええ、私達は金持ち連中を処刑させることで、彼らの鬱憤を晴らさせてやったの。没収した財産はいわば手数料ね」

「あなたはご自分の頭で、もしくは心で、考えたことがなかったから、今このような境遇に落ち込まれたのでしょう。お従妹御の瑶子様のことも、度重なる不必要な処刑のことも、どこかで立ち止まって考えたなら、自分の周囲がいかに歪んでいたかがおわかりになったはずではございませんか」

「牧師さんはそうおっしゃるけれどね」


 若子はちらりと上目遣いに相手を見やって続ける。


「歪んだ世界で、自分が歪んでいることに気づくのは、とても困難なことだと思うわ。そうじゃない?」

「あなたのおっしゃることも、成程もっともです。しかしながら、ともにお過ごしになった瑶子様や、前当主の弥栄様、伯父御の日出海様、それに女学校のご学友でいられた瀬戸恵美子様ら……その方々は、まっとうな感性をお持ちでした。結局のところ、あなた方ご一家は、自らの目と耳を塞ぎ都合の好い事物しか受け入れなかった。そう言われても反論できますまい」

「……」


 口を噤む若子。俯く彼女の表情には何も窺えない。


 しかしながらその沈黙は僅かしか続かなかった。先程とは異なる牢番の男が、彼女を呼びに来たので。


「時間だ。来い」


 男は半ば引っ立てるようにして若子を室外へ連れ去っていく。面会人の牧師に会釈ひとつするでもない、その傍若無人な態度には、流石の彼も少しむっとした。


 勝手に帰ってもよくないだろうと判断して、牧師は暫くその場に佇み、小窓の向こうをじっと眺めていた。じきに、初めて若子を伴ってきた男が姿を現した。どこか慌てふためいていて、牧師にも食ってかかるような口調で尋ねる。


「囚人は?」

「先程、別の牢番に連れられていきましたが」

「そいつは偽物だ! 外を見張っていた奴をやっつけて、その制服を奪って忍び込みやがったんだ。畜生、急いで見つけんと――」


 男はそれきりまた室を出て行ってしまい、牧師ひとりが取り残される。彼は面会用の室を出、元来た廊下を戻っていった。この非常事態に、客人の案内をしてくれる者など現れようはずもない。


 建物の外に出ると、青葉繁る大樹が聳え立っているのが目に入る。昼でも薄暗い木蔭に身を寄せて、周囲の喧騒に耳を澄ませてみる。


 偽の牢番に連れ去られたのは、若子だけでなく、利男や辰代もだという。建物の内外に抜け穴等がないことから、あくまで牢の職員を装って、誰にも怪しまれぬままに外に連れ出したに違いない。そしてその目的については、意見の分かれるところだった。即ち、逃亡を手助けするためだという説と、強い恨みを抱く者達が私刑のために引き出したのだという説と。


「あの親子を助けて得をする奴がいるかね? 昔ならいざ知らず、不正な財産は没収されて一文なしも同然の状態。全盛時に恩を売ったのも多くいるだろうが、捕まった後は見向きもされなくなったじゃないか」

「そうなるとやっぱり、恨みを晴らすための犯行か。正式な裁判の結果とはいえ、住民を苦しめた挙句に縛り首を逃れてひっそり生きているとなれば、腹も立つだろうよ」

「俺だって村の人間じゃないけど、終身刑と聞いて、甘すぎると思ったよ」

「その分じゃあの親子は、相当怒りを買っているわけだな。こうなったら、ここの近辺だけ調べていても仕方ない。央間村や富貴村にも捜査の手を広げなきゃあ――」


 彼らの会話は、内容の割に切迫感に欠けていた。彼らも内心、あの親子がいたぶられて死んでも構わない、寧ろその方がいいとさえ考えているのだろう。


 小暗い木蔭の中、牧師はローブに隠れた手をじっと握りしめ、長い間呻吟していた。が、やがて覚束ない足取りでそこを辞し去ったのだった。

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