5
ここ三日ほど、雨風の強い日が続いたので、旅人といえども宿屋に足止めを食っていた。紗百合と瑶子も御多分に漏れない。
そして今日。見事なまでの快晴! 人々は待ちかねたように、ぬかるみの漸く渇きかけた往来に出て行く。
「私達もそろそろ行きましょうよ、紗百合」
「ええ」
二人も荷物をまとめて、部屋を出る。晴れた日は、気持ちも晴れ晴れとするもの。二人の少女の面はいつにも増して明るく見える。
梯子段を降りて玄関に向かうと、何やら人々がたたきの辺りに集まってわいわい騒いでいる。
「何かあったんですか」
紗百合がにこやかに話しかけた瞬間。彼らは一様に、奇妙なものでも見やるようにゆっくりと振り向いた。その眼差しは、不審とも戸惑いともつかない、言い表しようのない感情に満ちていた。流石の紗百合も、笑顔を引っ込める。
ふと、石垣の中のひとりが、無言で紙切れを手渡してきた。そこには、こう書かれている。
『重罪人逃亡中。次のごとき人物を発見次第、即座に警察へ連行すべし。
一、東風紗百合。齢十七。赤茶髪、丸顔、紅唇の美人。西洋の服を着た踊子。
一、富貴瑶子。齢十七。黒髪、瓜実顔、明眸の美人。西洋の服を着て、ギターなる琴に似たる楽器を所持。
彼女らを捕えた者には、央間村及び富貴村より褒賞金を贈呈の事』
ご丁寧に、二人の写真まで示されているそのお触れを手にして、紗百合は怒りよりも、不安に駆られた。このまま往来に出て行けば、否、出て行かぬまでも、今ここに居合わせている誰かにしょっ引かれるに違いない。直接二人を知らない人間には、二人が冤罪であるということよりも、褒賞金が確実に貰えることの方が遥かに大事なはずだから。しかし、志半ばで捕えられるなんて、無念極まりないではないか……。
「これ、お嬢ちゃん達だろう」
紙を手渡した男が、労わるように尋ねてくる。紗百合は逡巡した末、うなずいた。背後に立つ瑶子の手を握りながら。
「この紙、返してくんねえ」
「はい」
「これは、央間様と富貴様の命令で出されたものだな。……おい、旦那ア、墨と筆出しておくんな」
「え?」「お前さん、何するつもりかね」
驚く紗百合と瑶子、いぶかしむ人々の間で男は得意気に、墨をすり、筆にたっぷりと含ませる。そのまま、例のお触れにさらさらと書き加えた。即ち、「重罪人逃亡中」を線で消す。「連行すべし」の「べし」を消して「べからず」に変える。ちょいと飛んで、「彼女らを捕えた者には……」の後がまた消されて、代わりに「我ら民衆の楽しみを奪う裏切り者の烙印が押されるべし」。
「成程。『次のごとき人物を発見次第即座に警察へ連行すべからず』『彼女らを捕えた者には、我ら民衆の楽しみを奪う裏切り者の烙印が押されるべし』……か。ハッハッハ、考えたなあ」
「これだけ余白があるんだ、何か書いてくれとでも言わんばかりじゃねえか。だから書いてやったのよ、俺達の本当の思いをよ」
男は得意満面、まだ墨の乾き切らぬその紙を、宿屋の前の壁に貼り付けた。どやどやと集まって来た往来の人々、見るなりワアッと歓声を上げる。この貼り紙は他の店や家々にも配られていたらしく、彼らはそれらを破り捨てたり、同じように書き換えたりし始める。――道鷹と利男が望んだ通りの展開にはならなかった。大急ぎで刷らせたお触れ書は、却って二人のお尋ね者を守護するものになってしまったわけである。
紗百合達にとっては好都合なのだが、それにしても不思議なのは、民衆がなぜかくも自分達の支配者に反感を抱いているかということだ。
二人の表情を目に留めた宿屋の主人が、そっと教えてくれた。
「街の方ではどうだか知らんが、ここらでは央間や富貴の当主の評判は甚だよくないんですよ。奴さんら、ここらのような田舎にはてんで見向きもせず、そのくせ税金はきちんきちん納めろというんでさ。その金が私らの役に立ったためしはない、専ら街を富ますために使われているようでね。央間様のお膝元に出稼ぎに行った若者の話では、邸とその周辺ばかりは目も眩むほど贅沢にできているが、一歩外れりゃ、もうあばら家が広がり、食うに困った人がうろついているとか……。なお気の毒なのは、富貴村の人でさあね。特に何をしたわけでもない人が、家族ごと、ろくな裁判もなく処刑されるってんですからねえ。それも毎日です。次は我が家ではないかと恐れて、央間村や市に逃げる人も少なくないそうですよ」
「まあ……」
瑶子は思わず溜息を漏らした。かつて自分が止めたこともある、あの非道な行為は、今も続けられているのである。猛火の中で喘ぐ人が今この瞬間もいるのだと考えると、今すぐ家に帰って、叔父一家に嘆願したい衝動に駆られる。
しかしこの手は、しっかりと、紗百合に握りしめられている。
「ねえ、瑶子。あんたの気持ちはよくわかる。でも、冷静にならなきゃいけない。私達が如月邸に行って義務を果たせば、きっと最良の形で人々を救うことができるはずよ」
実際に口に出したかどうかは定かでないが、瑶子には、紗百合のそんな思いが伝わった。握られた手に力をこめて、承諾の意を表すと、向こうも理解したらしく、ちらと目線を送ってきた。
「もう出発する時間よ、行きましょう。折角皆さんが無事に送り出してくれようというんだから」
「そうね」
二人はそのまま手を繋いで、宿屋の外に一歩踏み出した。途端に、往来の人々の歓声、口笛。
「気をつけて行って来いよオー」「またここにも来ておくれよオー」「何かあったら飛んでいくからなアー」
ああ、何と温かい心の人々! あくまでも二人を自分達の味方と信じて、大切な相手として送り出してくれる。
「ええ、気をつけて参ります」「ありがとう、本当にありがとう! またきっとここに来て、踊って差し上げますわ」
歓呼の声はいつまでも、いつまでも、二人の耳に響いて、慈雨のごとく温かく沁み込んだ。
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