8
邸内の勝手口から女中部屋に行こうとすると、顔馴染みの女中に呼び止められる。
「瑶ちゃん、お嬢様がお呼びだよ。えらくお怒りだったけど」
「そう……」
きっと今日の、処刑の件だ。――若子は一度怒ると手がつけられないほど残酷になるので、彼女の部屋に向かう足も鈍ってくる。――けれど、考えるまでもなく、自分は何ひとつ悪いことをしていないではないか? あの少年は、瑶子の目には、悪人とは映らなかった。あの全身のあざのために、あらぬ疑いをかけられただけのような気がしてならなかった。仮にもし、彼が真の悪人だったとしても、火あぶりという残虐極まりない罰を与える必要はないように思われる。第一、村に正式な裁判所や処刑場はないのだろうか? いくら自治が発達していて中央の権力が及ばない土地でも、処刑くらいはそれを執行する専門の人間の手で、行われるものではないのか……。
(やっぱり、私は間違っていないわ。お嬢様にどんなことをされても、どんなことを言われても、自分を貫こう)
一度そう思い決めると、瑶子の足は速度を増した。
程なくして、令嬢若子の部屋の前へと辿り着いた。扉をノックすると、「お入り」という至極不機嫌な主の声が響く。瑶子は臆さず中へ入る。
「瑶子。なぜ呼ばれたかわかって」
「処刑のことではございませんか」
「ええ、そうよッ。あんな腹立たしいことなんかないわよッ!」
言いざま、若子は相手の頬を平手で打つ。左右を、続けざまに、幾度も、幾度も。
口中に血の味が広がっても、瑶子は黙って耐えた。こうした彼女の沈黙、さらには静かなる抵抗の光を宿した黒い瞳が、なお若子の癪に障った。若子は乗馬用の鞭を力一杯振るった。腕といわず脚といわず、打てる限り打ち続けた。――この理不尽な私刑の時間は、瑶子が気を失い、同時に、心配になった女中が様子を見に来るまで続いたのだ。
「全く、あんな乱暴な女の子は見たことないよ。この子の顔ったら、まあ真赤に膨れ上がって。身体の方も酷いもんだよ、お医者の先生が息を呑むのをわたしゃこの目で見たのさ。……」
狭苦しく薄暗い女中部屋で、三人の女中が囁き交わす。その中央に敷かれたせんべい布団に寝させられているのが、瑶子。今しも、雇い主の令嬢の陰口を叩いているのが、即ち瑶子を令嬢の部屋へ送り出した女中だった。彼女はあくまで命令に従っただけなのだが、瑶子をこのような目に遭わせたという罪悪感は消えるはずもない。寧ろその罪悪感を雇い主一家への義憤に紛らして、外に出そうとしているようにも見える。
「ああ、さっきこそこそ勝手口を出入りしていたのが、お医者様だったのかい。正々堂々と正門から入らせればよかったじゃないか」
「私だっていくらそうしたかったか。でも正門では奥様に見つかると厄介だからね。奥様はご自分のことには湯水のようにお金を遣うのに、私達使用人にはこれっぽっちもやりたがらないんだよ。ほらいつだったか、おまきさんが倒れた時だって、医者を呼ぶのを渋って、代金は自分達で払うからと頼み込んで、漸く許可が下りたんじゃないかね。……またああなると面倒だから、もう始めから許可なんぞを貰わずに迎えをやったのさ」
「事情はよーくわかったよ。……けれど瑶ちゃんは、何でまた、お嬢様にぶたれることになったの」
「例の処刑さね……あの野蛮極まりない仕置きを、この子が命がけで止めさせたんだと。それでお嬢様は大層お腹立ちになって」
「今度の処刑は、何だか始まりから妙だったね。罪人がどんな罪を犯したかも知らされず、ただ火あぶりにするとだけ発表されて……。それも、相手はまだ子供だっていうじゃないか、ねえ」
「極めつきが、瑶ちゃんがその子を助けた後で、偉そうな御仁がどこかへ連れ去ったっていうのさ。噂の域を出ないけど、如月の方から来たとか……」
女中達の秘密の会話は、そこで途切れた。奥の間の手が足りないので、呼び出されていったのである。
静寂が戻った部屋の天井を見上げて、瑶子は女中達のしていた噂を思い返していた。自分のことを決して忘れぬと誓った、あのあざだらけの少年。彼は、先の噂が本当なら、如月に行ったものらしい。
(如月ならば、あの人のためにもいいわ。あの土地はとても進歩しているというから、火傷の治療も一番良いのが受けられるはずだわ)
(あの火傷は、ちゃんと治るかしら。やっぱり痕くらいは、残るのかしら。……火傷だけじゃないわ。火あぶりにされる前から、もう大怪我をしていた。あれほどの酷い傷を負いながら、私に一生懸命お礼を言おうとなさったあの人が、悪人なわけはない)
(その人を助けて鞭の罰を受けたけれども、私は苦しくなんかない。痛いは痛いけれども、苦しくはない。これからも毅然として過ごしていくべきだわ。亡くなったおばあさまのように……)
いつしか天井の染みが、祖母の面影を映してくるように思われて、瑶子はいつまでも飽かず見つめていた。
――女中達が戻ってきたのは、夜更け近くだった。なぜかひどく怒っている。
「どうしたんです、奥様が何か……?」
「それがねえ、聞いてよ、瑶ちゃん!」
彼女達の話は、こうだった。――夫人の居室に呼ばれて行ってみると、そこには、何とまあ沢山のダイヤモンドが並べられていたのである。勿論原石ではなく、どれもこれも見事な加工を施されたうえで、素晴らしい装身具にされている。髪飾り、耳飾り、帯留め、指輪、首飾り、ブローチ、腕輪……全部数え上げれば、何十もあったであろう。夫人と令嬢のはしゃぎようは並大抵のものでなく、ひとつひとつをその身に着けたり外したりしなければ気が済まないという有様。そのために持ち前の和服やドレスを着たり脱いだり、髪を結ったり解いたりしては悦に入っているのだからおめでたい。召集された女中達は、着付けや髪結いの準備だの片付けだの、てんやわんやだったが……。
「本当にねえ。あの中の一番小さなダイヤモンドでも私達に恵んでくれれば、少しは暮らしも楽になるものを」
「お怒りになっていたのは、それでですの」
「ううん、他にもあるの。……ほら瑶ちゃん、これお嬢様からの施し物ですって」
「あら!」
手渡されたのは、木彫りで薔薇の花をかたどったブローチだった。
「お嬢様はねえ――ああ口に出すのも汚らわしい――瑶子の傷はどうってことないだろう、なんてうそぶくものだから、私腹が立ってひどい怪我だと申し上げたの。そうしたらあの人は反省するどころか、『じゃあこれをあげるからせいぜい薬代にでも』って! このブローチはね、さっき話したダイヤモンドの山に紛れていたもので、宝石じゃないからといって捨てられる寸前だったものなんだよ。ダイヤモンドを見舞代わりにするならまだしも、ゴミにするところだったものを寄越すなんざ、ねえ。あれが人間のすることかね」
「でも私、嬉しいわ。お嬢様から何かいただいたことは、一度もなかったんですもの。私、このブローチずっと大事にしますわ」
「まあ、瑶ちゃんたら……」
呆れて物も言えなかった女中達だが、ブローチを眼前にかざし、心底嬉しそうに微笑む瑶子を見ると、この素直で優しい心根の少女が一層いじらしくてならなかった。
そんな風に思われているとはつゆ知らぬ瑶子は、木彫りの薔薇に見惚れながら、そのうちうとうととして、深い眠りに落ちていった。彼女には、あまりにも色々なことが起きた一日であった。
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