第19話:掴み取った支配下、歓喜の報せ

野手として支配下登録を目指すと決めてから、

雄太はまさに、地獄のような日々を送っていた。

彼の体は、常に疲労の極限にあり、

私もまた、その隣で、

不安と期待の間を揺れ動く毎日だった。


支配下登録の期限が、

刻一刻と迫っていた。

彼の努力が、報われるのかどうか。

私には、それだけが心配で、

不安で、夜も眠れない日々が続いた。

朝、鏡に映る自分の顔は、

少しだけやつれているような気がした。

けれど、そんなことよりも、

雄太の夢が叶うことの方が、

私にとっては大切だった。


会社の同僚たちも、

「田中くん、どうかな?」と、

声をかけてくるたびに、

私の心臓は、いつもより速く脈打った。

みんなが、彼のことを気にかけてくれている。

その優しさが、私には心強かった。

彼らの期待が、雄太へのエールになっている。

そう信じた。


佐々木コーチからも、

時折、連絡が入るようになった。

「雄太くんは、本当に努力家ですね。

野手としての才能も、素晴らしいものがある」

佐々木さんの言葉に、私は胸が熱くなった。

彼の努力が、確実に報われようとしている。

その事実が、私を奮い立たせた。

けれど、佐々木さんの声の奥に、

どこか、まだ結果が読めないという、

僅かな緊張感も感じ取れた。

それが、私の不安をまた募らせる。

あと少し、あとほんの少しで、

全てが決まる。

その予感が、私の心を締め付けた。


ある日の午後、

会社で仕事をしていると、

私のスマホが震えた。

表示されたのは、佐々木コーチの名前。

私は、息をのんだ。

いよいよ、結果が出るのか。

私の心臓は、もう破裂しそうなくらいに

高鳴っていた。

手のひらには、びっしょりと汗が滲んでいる。

この電話一つで、

私たちの未来が、決まるのだ。

そう思うと、全身が震えた。


恐る恐る電話に出ると、

佐々木さんの声が、弾んでいた。

「美咲さん!決まりました!

田中くん、支配下登録ですよ!」


その言葉を聞いた瞬間、

私の全身から、力が抜けていくのを感じた。

電話を握っていた手が、震える。

私の目から、熱いものが、

止めどなく溢れ出した。

喜びと、安堵と、

そして、これまでの雄太の努力を思うと、

涙が止まらなかった。

脳裏には、彼が肩を壊して絶望していた顔。

夜遅くまでバットを振る姿。

痛みを隠して練習する背中。

その全てが、走馬灯のように駆け巡った。

「本当ですか……!

本当なんですね……!」

私は、佐々木さんの声に、

かろうじてそう答えるのが精一杯だった。

涙で声が、ひどく震えていた。


佐々木さんが、

「今、田中くんも隣にいますよ」と

言ってくれた。

「美咲!」

雄太の声が、電話口から聞こえてくる。

彼の声も、歓喜に震えていた。

「やったよ、美咲!

支配下登録、掴み取った!」

彼の言葉に、私は、

嗚咽を上げて泣き続けた。

もう、何も言葉が出ない。

ただ、彼の成功を、

心から喜び、涙するだけだった。

私の頬を伝う涙が、

止まることはなかった。


電話を切った後も、

私はしばらく、その場で泣き続けた。

周りの同僚たちが、

私の異変に気づき、駆け寄ってきた。

「美咲ちゃん、どうしたの!?」

私が泣きながら、

「雄太が……!

雄太が、支配下登録に…!」

と告げると、

同僚たちは、一瞬、呆然とした後、

一斉に歓声を上げた。


「やったぞ雄太!」「うちの星だ!」

「まさか、本当に!」

「田中くん、おめでとう!」

オフィス中に、喜びの声が響き渡る。

みんなが、自分のことのように喜んでくれた。

誰かが、私の背中をさすってくれる。

また別の誰かが、私を抱きしめてくれた。

その温かさが、私の心を包み込む。

みんなの喜びが、私の喜びにもなった。

私は、彼らの腕の中で、

ただひたすらに、泣き続けた。


すぐに社内には、

雄太の支配下登録の知らせが広まった。

部署の掲示板には、

雄太の大きな写真と、

「祝!田中雄太選手、支配下登録!」

という手書きの文字が張り出された。

会社全体が、彼の偉業を讃え、

祝福ムードに包まれている。

私が給湯室に行くと、

山下先輩がコーヒーを淹れていた。

彼は私を見て、少しだけ目を赤くし、

「…ったく、心配させやがって」と呟いた。

その声は、どこか震えているように聞こえた。

彼の不器用な優しさに、

私はまた胸を熱くした。


夜、雄太が家に帰ってきた。

彼の顔は、疲労の色が濃いけれど、

その瞳は、達成感と喜びで輝いていた。

彼のユニフォームからは、

土と汗の匂いがする。

それは、彼の全身全霊をかけた証。

その匂いが、私には何よりも愛おしかった。


私は彼の元へ駆け寄り、

彼の胸に飛び込んだ。

彼の腕が、私を優しく抱きしめる。

彼の体温が、私に伝わってくる。

彼の心臓の音が、私の耳に心地よく響く。

「雄太、本当におめでとう……!」

私の声は、まだ涙で震えていた。

彼の肩に顔を埋めると、

彼の力強い鼓動が、

私の耳に直接響いてくる。


「美咲、ありがとう。

お前がいてくれたからだ」

雄太が、私の頭を優しく撫でながら、そう言った。

その言葉一つ一つが、

私の心の奥底に染み渡る。

これまでの全ての苦労が、

報われたような気がした。

彼が野球を諦めかけた時も、

彼の隣にいた。

彼が泥にまみれても、

彼の隣にいた。

そして今、彼が夢の扉を開いた瞬間も、

彼の隣にいることができた。

私にとって、これ以上の幸せはなかった。


二人で、ささやかなお祝いをした。

普段は飲まないお酒を、少しだけ。

グラスをカチンと合わせる音は、

私たちの新しいスタートを告げるかのようだった。

彼の目の輝きが、

いつにも増して眩しい。

「ここからが、本当のスタートだ」

雄太が、そう言った。

彼の言葉に、私は頷いた。

支配下登録は、あくまで通過点。

彼が目指すのは、一軍のマウンドだ。


「一軍に上がったら、

美咲を招待するからな。

最高のピッチングと、

最高のホームランを見せるよ」

雄太が、そう言って笑った。

その言葉を聞くたびに、

私の胸は、期待でいっぱいになった。

彼が一軍のマウンドに立つ日。

彼が、プロとして、

輝かしい舞台で活躍する日。

その日が来ることを、

私は何よりも楽しみにしていた。


彼の夢は、もう彼の夢だけじゃない。

私と、そして彼の周りの大切な人たちの夢になっていた。

彼の挑戦は、私にとっても、

人生を賭けた挑戦だった。

この先に何が待っていようと、

私は彼と共に、この道を歩んでいく。

そう、心に誓った。

夜空には、満月が煌々と輝いていた。

彼の温かい手のひらが、私の手を握る。

その温かさが、私たちの絆を、

何よりも強く、私に感じさせた。

私たちは、固く手を繋ぎ、

新しい未来へ向かって歩き出した。

アオハルに還る夢。

その夢は、今、確実に、

私たちの目の前で、輝き始めていた。

彼の隣で、私は、

何度でも泣いてしまうだろう。

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