第10話:ライバルの視線、変化する心(鈴木視点)
あの記者会見を、俺は球団のスカウト室で見ていた。
大型モニターに映し出される田中雄太の姿。
やつれた顔はしているが、
その瞳の奥には、濁りのない真っ直ぐな光が宿っていた。
俺が、仕掛けた罠だ。
いや、罠というよりは、
やつへの、そして、俺自身への、
最後のテスト、だった。
高校時代から、田中雄太は俺の目の前に立ちはだかる、
巨大な壁だった。
努力ではどうにもならない、
天賦の才。
投手としても、打者としても、
あいつは全てを持っていた。
俺は、誰よりも努力した自負があったけれど、
あいつには、いつも及ばなかった。
その劣等感は、まるで全身にまとわりつく
泥のように、俺から離れることはなかった。
だから、あいつが肩を壊し、
野球を諦めたと聞いた時、
正直、安堵した自分がいた。
これで、やっと、俺は
自分の野球を追える。
そう思った。
卑怯だと分かっていても、
心の奥底では、そう願っていた。
だが、俺自身もまた、
プロ入りして数年後、
スランプに陥り、二軍に降格した。
一軍の華やかな舞台から、
薄暗い二軍のグラウンドへ。
俺の心は、深い絶望に沈んでいた。
このまま、俺の野球人生は終わるのか。
そんな自問自答を繰り返す日々。
球団からは、二軍で現役を続けながら、
スカウト業務を兼任するよう打診された。
半ば引退勧告のようなものだった。
俺は、野球への情熱を失いかけ、
このまま現役を諦めることも考えていた。
そんな時、数年ぶりに聞く田中の名前は、
「二刀流で再挑戦」という、
馬鹿げた、いや、信じられないほどの
ニュースだった。
社会人の草野球で、剛速球を投げ、
ホームランを打っている、と。
そんな話、信じられるはずがない。
一度壊れた肩が、そう簡単に治るものか。
ましてや、あの時の、
あの痛みを隠してまで投げ続けた、
田中の、あの無謀さを、俺は知っている。
だが、同時に、俺の心は揺さぶられた。
あいつが、もう一度、
あのマウンドに立とうとしている。
その事実が、俺の中に燻っていた
野球への情熱を、微かに揺り動かした。
俺は、二軍のグラウンドで、
スカウトとして、あいつのプロテストを
視察する機会を得た。
その時、俺は、あの情報をリークした。
あいつの過去の傷を、わざわざ抉り出した。
世間がどう騒ぐか、なんて、どうでもよかった。
俺は、ただ知りたかったんだ。
あの田中雄太が、本当に、
過去の自分を乗り越えられたのかを。
あの時の、逃げた自分と、
本当に、向き合えるのかを。
それは、やつへのテストであり、
同時に、俺自身の、過去への決別でもあった。
もし、あいつがこの試練を乗り越えられないなら、
俺もまた、野球を諦める。
そんな、覚悟にも似た気持ちが、俺の中にあった。
記者会見が始まった時、
俺の胸は、どこか冷めていた。
どうせ、ありきたりな謝罪と、
建前を並べるだけだろう、と。
だが、雄太は違った。
「僕は、二度と嘘はつきません。
高校時代、肩の痛みを隠して投げ続けたことは、
僕の大きな過ちでした。
僕の弱さが招いた結果です」
モニター越しの雄太の言葉が、
俺の耳に突き刺さる。
真っ直ぐな瞳。
偽りのない声。
あいつは、全てをさらけ出した。
俺が知っている、あいつの傲慢なまでの
自信とは違う。
それは、弱さを受け入れた上で、
それでも前を向こうとする、
真の強さだった。
俺自身も、二軍で挫折を経験したからこそ、
彼の言葉の重みが、痛いほど理解できた。
あいつは、俺が乗り越えられなかった
「過去の自分」と、真正面から向き合っている。
その姿に、俺は心を揺さぶられた。
「僕の夢は、僕一人のものじゃない。
応援してくれる皆さん、
そして、僕を支えてくれる家族と、
大切な人のために、
僕はもう一度、このマウンドに立つことを誓います」
その言葉を聞いた時、
俺は、モニターの前で、
動けなくなった。
全身に、鳥肌が立った。
家族と、大切な人。
きっと、美咲のことだろう。
高校時代から、ずっとあいつの隣にいた、美咲。
俺が、あいつの肩を壊すほどに追い込んだときも、
ただ黙って、あいつを支え続けていた美咲。
あいつは、一人じゃない。
その事実が、俺の胸に、
じんわりと、熱いものを広げていった。
俺は、田中の才能を憎んでいた。
けれど、今、そこに、
人間としての成長が加わった。
俺が、あいつに与えた試練を、
あいつは、真正面から乗り越えてみせた。
俺の劣等感は、一瞬にして、
まるで凍りついていた氷が溶けるように、
胸から消え去っていった。
代わりに残ったのは、
純粋な、ライバルとしての敬意と、
そして、なぜだか分からないけれど、
あいつを応援したいという、
温かい感情だった。
あいつが、過去の自分を乗り越えたように、
俺もまた、二軍での挫折を乗り越え、
もう一度、一軍のマウンドに立つ。
雄太の姿が、俺にそう決意させた。
プロテスト当日(第8話で描写された日)。
俺は、スカウトとして、球場にいた。
あいつが、どんな投球を見せるのか。
どんなバッティングをするのか。
そして、どんな顔をしているのか。
それだけが、俺の関心事だった。
バックネット裏から見た田中の投球は、
信じられないほどだった。
高校時代よりも、球速が増している。
コントロールも、研ぎ澄まされている。
そして、打席に立てば、
放たれる打球は、まるで砲弾のようだった。
奴は、間違いなく「怪物」として、
再びここに立っていた。
いや、あの頃よりも、
さらに進化している。
その事実を、俺は認めざるを得なかった。
彼の投げる一球一球に、
彼の振るバットの一振り一振りに、
俺は彼の、全てを賭けた覚悟を感じた。
あの時の俺は、ただのスカウトとして、
彼の評価をしていた。
だが、記者会見を見た今、
あの日の彼の姿を思い出すと、
彼の努力の全てが、
俺の胸に迫ってくるようだった。
あいつは、本当に、
全てを乗り越えてきたのだ。
テストが終わった後、
雄太は、俺の存在に気づいていたのだろうか。
少しだけ、視線が合ったような気がした。
あの時の俺は、無表情を装っていたけれど、
胸の奥では、複雑な感情が渦巻いていた。
けれど、今なら、あいつに伝えられる。
「お前は、本当に、すごい奴だよ」
そう、心から。
スカウトの仕事に戻ると、
俺はすぐに、田中雄太の評価を再検討した。
球団の幹部たちに、彼の獲得を強く進言する。
育成枠からでもいい。
二刀流という難しい挑戦だとしても、
彼には、それだけの価値がある。
いや、二刀流だからこそ、
彼には無限の可能性がある。
そう、確信した。
そして、俺自身もまた、
二軍で燻っていた自分に別れを告げ、
もう一度、一軍のマウンドを目指すことを決意した。
あいつが、俺に火をつけたのだ。
俺の推薦が、どこまで届くかは分からない。
けれど、俺には、もう迷いはなかった。
田中雄太という男が、再び、
あの輝かしい舞台で、
多くの人々の心を揺さぶる姿を、
俺は、心の底から見たいと思った。
それは、もはやライバルとしての感情だけではなかった。
一人の野球人として、
彼の才能と、彼の人間性に、
純粋な敬意を抱いていた。
そして、俺自身もまた、
あいつに負けないくらい、
輝いてみせる。
そう、心に誓った。
窓の外は、もう夜の闇に包まれている。
スカウト室の机の上には、
まだ多くの資料が積み重なっていた。
けれど、俺の心は、
どこか晴れやかな気持ちで満たされていた。
田中雄太の再挑戦は、
俺の心の中の、古い澱(おり)を、
洗い流してくれたようだった。
そして、俺自身もまた、
彼から、何かを受け取った気がした。
それは、諦めない強さと、
正直であることの尊さ、だったのかもしれない。
俺は、再び、野球に夢中になっていた。
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