第9話:信じる力の温かさ、彼の笑顔
プロテストが終わってから、
結果を待つ数日間は、
私の人生で最も長く、
そして、最も不安な時間だった。
時計の針は、まるで動かないかのように、
ゆっくりと、けれど確実に、
私を追い詰めていくようだった。
朝、目覚めても、夜、眠りについても、
その不安が、常に胸の奥に張り付いていた。
雄太は、いつもと変わらない様子で
仕事に行き、夜には自主練習にも励んでいた。
彼の落ち着いた姿を見ていると、
私まで不思議と落ち着くような気がした。
けれど、時折、ふいに遠くを見つめる
彼の横顔には、僅かな緊張が
張り付いているのが分かった。
彼もまた、私と同じように、
この結果を待つ重みに耐えている。
そう思うと、胸が締め付けられた。
彼の背中が、いつもより少しだけ、
大きく見えた。
私も、彼に余計なプレッシャーをかけたくなくて、
結果については一切口にしなかった。
ただ、いつも通り、彼の好きな料理を作り、
彼のユニフォームを洗い、
彼が疲れている時には、黙ってマッサージをしてあげる。
それしか、私にはできなかった。
彼の好きな匂いの柔軟剤で洗ったユニフォームは、
太陽の匂いを吸い込んで、ふわりと香る。
その香りが、彼の努力の証のように思えた。
夜、マッサージをする私の手の上で、
雄太の筋肉が、ピクリと震えることがある。
「痛い?」
私が尋ねると、彼はいつも「大丈夫」と笑う。
けれど、その声は、微かに掠れている。
彼の体から伝わる熱が、
彼の命の鼓動が、私に彼の全てを教えてくれるようだった。
彼の頑張りが、手のひらから直接伝わってくる。
その熱が、私の不安を少しだけ和らげてくれた。
彼の呼吸の音を聞いていると、
彼の隣にいられることの幸せを、
じんわりと感じることができた。
会社の同僚たちも、
プロテストの結果を気にしているようだった。
給湯室で、同僚たちがひそひそと話しているのが
聞こえてくる。
「田中さん、どうだったんだろうね」
「やっぱり、難しいんじゃないか?」
そんな声を聞くたびに、私の心は
チクリと痛んだ。
けれど、彼らもまた、雄太の夢を
見守ってくれているのだと、
私は知っていた。
彼らの視線には、好奇心だけでなく、
温かい期待も含まれているのが分かった。
休憩室で、コーヒーを淹れていると、
「美咲ちゃん、田中くん、頑張ってるんだね」
と声をかけられることもあった。
その言葉一つ一つが、私には心強かった。
そんな中、ある日の朝刊に、
驚くような記事が載っていた。
『元「二刀流の怪物」田中雄太、
過去の故障隠蔽疑惑でプロテストに暗雲か!?』
その見出しが、私の視界いっぱいに広がる。
私は、思わず新聞を床に落としてしまった。
手が、ガタガタと震える。
なぜ、今になってこんなことが……?
しかも、「隠蔽疑惑」という、
まるで雄太が悪いことをしたかのような書き方。
私は怒りで、体が熱くなるのを感じた。
心臓が、ドクドクと激しく脈打つ。
これは、誰かの悪意だ。
そう直感した。
雄太が、これを読んだら、なんて思うだろう。
せっかく、過去と向き合い、全てを告白したばかりなのに。
彼の努力が、彼の誠実さが、
こんな形で踏みにじられてしまうのか。
私は、不安と怒りで、
どうしようもなく心が乱れた。
あの時、高校で彼を独りにした時と同じくらい、
いや、それ以上に、彼の心を守りたいと思った。
スマホを握りしめ、すぐに彼に連絡しようとしたが、
指が震えて、文字を打つことができなかった。
その日の午前中、
私は会社でも落ち着かなかった。
スマホを何度も確認するけれど、
雄太からは連絡がない。
佐々木さんからも。
嫌な予感が、私の心を支配していく。
会議中も、上の空で、
同僚の話が全く耳に入ってこない。
早く、雄太に会いたい。
彼の声を聞きたい。
その一心だった。
昼休み、私はたまらず、佐々木さんに電話をかけた。
「佐々木さん、雄太のことで……!」
私の声は、ひどく震えていた。
佐々木さんは、私の動揺を感じ取ったのか、
落ち着いた声で言った。
「美咲さん、大丈夫です。
雄太くんは、今、記者会見の準備をしています」
記者会見……。
彼の言葉に、私は息をのんだ。
逃げずに、真正面から向き合うと決めたんだ。
彼の決断に、私はまた、胸を締め付けられた。
そして、同時に、彼の強さに、
深い尊敬の念を抱いた。
記者会見の様子は、テレビのニュースで中継された。
私は、会社の休憩室で、
同僚たちと一緒にテレビの前に座った。
みんなが、固唾をのんで画面を見つめている。
雄太は、壇上で、深く頭を下げた。
その姿を見て、私は胸が締め付けられた。
彼の背中が、とても小さく見えた。
けれど、その背中には、
彼が背負ってきた全てが詰まっている。
そう思うと、また涙がこみ上げてきた。
そして、ゆっくりと話し始めた。
彼の言葉は、嘘偽りのない、誠実なものだった。
高校時代の葛藤、痛みを隠していたことへの後悔、
そして、それでも野球を愛し続けたこと。
彼の言葉には、彼の全てが詰まっていた。
その声は、力強く、会場全体に響き渡る。
私の目からは、自然と涙が溢れてくる。
隣に座っていた同僚たちが、
鼻をすする音が聞こえた。
みんな、雄太の言葉に、心を動かされている。
「僕は、二度と嘘はつきません。
そして、僕の夢は、僕一人のものじゃない。
応援してくれる皆さん、
そして、僕を支えてくれる家族と、
大切な人のために、
僕はもう一度、このマウンドに立つことを誓います」
彼の言葉を聞いて、私はテレビの前で、
また泣いていた。
今度は、悲しみでも不安でもない。
彼の誠実さと、強さに、心を揺さぶられての涙だった。
隣に座っていた同僚たちが、
そっと私の背中をさすってくれる。
彼らもまた、テレビの雄太の姿に
感動しているのが分かった。
「田中くん、すごいね…」
そんな声が、あちこちから聞こえてきた。
記者会見の後、世間の風向きは一変した。
「田中雄太、真実の告白。彼の誠実さに感動の声続々」
ネットには、雄太を応援するメッセージが殺到した。
彼の勇気が、多くの人々の心を動かしたのだ。
私は、スマホのニュース記事をスクロールしながら、
雄太の誠実さが、ちゃんと世間に届いたことに、
心から安堵した。
そして、私は後になって、
この情報リークが、鈴木さんの
「不器用なエール」だったことを知った。
佐々木さんから、その経緯を聞かされた時、
私は驚きと、複雑な感情に包まれた。
最初は、なぜ今になって、と
彼を責める気持ちもあった。
どうして、そんな形で、彼の過去を暴くの、と。
私なんかで、彼のこの苦しみを
理解してあげられているのだろうか。
そんな自問自答が、胸を締め付けた。
けれど、彼が雄太に「本気で向き合ってほしい」
と願ったこと。
そして、その結果として、雄太が
全てをさらけ出し、より強くなれたこと。
それを考えると、私の鈴木さんへの感情は、
複雑な感謝へと変わっていった。
彼の行動は、確かに雄太を追い詰めたけれど、
同時に、雄太を真の強さへと導いたのだ。
彼の、ライバルとしての、
そして、一人の人間としての、
不器用な優しさに、私は胸を打たれた。
その夜、雄太が帰ってくると、
彼の顔は、いつもと変わらない、
穏やかな笑顔だった。
「心配かけてごめんな、美咲」
私が彼の顔を見ると、彼は優しく私の頭を撫でてくれた。
その手の温かさが、私を安心させる。
彼の言葉は、静かだったけれど、力強かった。
その強さに、私はまた、涙がこみ上げてくるのを感じた。
彼の手を握り返すと、その手のひらから、
彼の決意が伝わってくるようだった。
この温かさがあれば、どんな困難も乗り越えられる。
そう、私は確信した。
佐々木さんが雄太の誠実さに深く頷き、
会社の同僚たちも、雄太の真摯な姿勢に心を動かされ、
温かいエールを送ってくれた。
私は、雄太の周りに、こんなにも温かい人たちがいることに、
心から感謝した。
彼の努力が、多くの人の心を動かしている。
それが、私には何よりも嬉しかった。
雄太は、自分を信じてくれる全ての人々に感謝し、
吹っ切れたように自主練習に励み始めた。
彼の目の輝きが戻ったことに、私は安堵し、
笑顔で彼を支え続けた。
会社の給湯室で、山下先輩がフッと小さく笑いながら、
「…まぁ、お前が活躍したときのために、
いつでも帰ってこれるように、
あのデスクは開けてあるんだがな。
話の種にもなるし。」
と呟くのを耳にし、私は彼の不器用な優しさに
再び胸を熱くした。
彼らは、雄太がどんな結果になっても、
温かく迎え入れる準備をしてくれている。
その事実が、私には何よりも心強かった。
夜、雄太が寝息を立てて眠っている間も、
私は彼の野球ノートをそっと開いた。
びっしりと書き込まれた文字。
練習内容、体の状態、技術的な課題、
そして、未来への目標。
その文字の一つ一つから、彼の野球への情熱と、
成功への強い意志が伝わってくる。
読み進めるうちに、彼の苦悩や葛藤も、
私には手に取るように分かった。
何度も壁にぶつかり、それでも立ち上がり、
前を向こうとする彼の姿が、
目に浮かぶようだった。
彼の努力の結晶が、このノートには詰まっている。
この努力が、どうか報われますように。
私はそっと、彼のノートを閉じた。
このノートは、彼の野球人生そのものだ。
彼の夢は、もう彼の夢だけじゃない。
私と、そして彼の周りの大切な人たちの夢になっていた。
彼の挑戦は、私にとっても、
人生を賭けた挑戦だった。
この先に何が待っていようと、
私は彼と共に、この道を歩んでいく。
そう、心に誓った。
夜空には、満月が煌々と輝いていた。
まるで、私たち二人を祝福してくれているかのようだった。
彼の温かい手のひらが、私の手を握る。
その温かさが、私たちの絆を、
何よりも強く、私に感じさせた。
そして、私は彼の隣で、静かに目を閉じた。
彼の穏やかな寝息が、私の心を包み込んだ。
結果は、まだ分からない。
けれど、雄太がこれほどまでに努力し、
誠実に向き合ってきたのだから、
きっと、良い結果が待っているはずだ。
私は、彼を信じている。
そして、何があっても、
彼の隣にいることを、誓う。
この、長く、不安な日々も、
きっと、私たちの物語を
より深く、彩り豊かなものにするだろう。
そう、自分に言い聞かせた。
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