第8話:プロテストの舞台、私の祈り
プロテスト当日。
朝早く、雄太は静かに家を出た。
私は彼の朝食を作り、
玄関で見送った。
テーブルに並べた、
彼の好きな卵焼きと、
高タンパクな鶏むね肉のソテー。
一つ一つ、心を込めて、
彼の成功を祈るように作った。
彼が元気を出せるように、と。
雄太は、私の作った朝食を美味しそうに平らげた。
その顔には、緊張の色はほとんど見えない。
ただ、静かな決意が宿っているようだった。
食卓に差し込む朝の光が、
彼の横顔を、神々しいほどに照らしていた。
「行ってくるね、美咲」
彼は玄関で、いつものように私を抱きしめた。
彼の腕の温かさ、そして、彼の鼓動が、
私の胸に直接伝わってくる。
ドクン、ドクン。
その音は、私の心臓の音と重なって、
まるで一つになったようだった。
彼の汗と、微かな石鹸の匂い。
その全てが、私にはたまらなく愛おしかった。
この人の隣に、ずっといたい。
そう、全身で願った。
「頑張ってね、雄太」
私の声は、少しだけ震えていたけれど、
彼には届いただろうか。
雄太は振り返り、いつものように屈託のない笑顔を見せた。
「おう!行ってくる!」
その声は、いつもと変わらない。
けれど、その瞳の奥には、
彼の並々ならぬ決意が宿っているのが分かった。
彼の背中が、朝日を浴びて、
どこまでも大きく、逞しく見えた。
その背中に、私は「行ってらっしゃい」以外の
どんな言葉もかけられなかった。
ただ、彼の背中が、私の視界から消えるまで、
じっと見送った。
彼が家を出てから、私は落ち着かなかった。
時計の針が進むたびに、
胸の奥で、不安がざわめく。
テレビをつけても、ニュースが頭に入ってこない。
家事をしても、手につかない。
私の心臓は、ずっとドキドキと音を立てていた。
手のひらには、じんわりと汗が滲む。
まるで、私自身がプロテストを受けるかのように。
佐々木さんからは、
「美咲さんは、いつも通り、
雄太を信じて待っていてください。
それが、一番の支えになりますから」
と、事前に言われていた。
だから、私は彼の邪魔にならないよう、
ただ、静かに彼の成功を祈るしかなかった。
祈るたびに、手のひらが熱くなる。
その熱が、彼に届くことを願った。
彼の夢は、もう彼の夢だけじゃない。
私の全てが、彼の夢に捧げられていた。
昼が過ぎ、午後になった頃、
私はいてもたってもいられなくなり、
彼のプロテストが行われている球場へ向かった。
佐々木さんからは、
「関係者以外は入れない」と聞いていたけれど、
それでも、彼の近くにいたい。
彼の夢を、少しでも近くで感じたい。
その一心だった。
電車の中で、窓の外を流れる景色を眺めながら、
私は雄太との高校時代を思い出していた。
放課後の練習。
彼がマウンドで輝く姿。
私はユニフォームを着て、ボール拾いをしながら、
彼の背中を追いかけていた。
汗を拭う彼の顔が、いつも眩しかった。
「美咲、パス!」
彼がそう言って投げてくれるボールを、
私は必死で追いかけた。
あの頃の私も、今と同じくらい、
彼の野球に夢中だった。
青春の、きらめくような日々。
彼の汗の匂い。
グラウンドの土の匂い。
その全てが、私には懐かしく、
そして、愛おしかった。
あの時間は、二度と戻らない。
けれど、今、私たちは新しい夢を追いかけている。
その事実に、私は胸が熱くなった。
彼の野球への情熱は、あの頃と何一つ変わっていない。
それどころか、挫折を知った分だけ、
より深く、より強固なものになっている。
そう、信じていた。
球場の外周を歩いていると、
中から、時折、乾いた金属音が聞こえてくる。
「カキーン!」
それは、雄太のバットがボールを捉えた音だろうか。
そのたびに、私の心臓は高鳴った。
頑張れ、雄太。
心の中で、何度もそう呟いた。
風に乗って、彼の息遣いが聞こえてくるような気がした。
その音の一つ一つが、
彼の努力の証なのだと、私には分かった。
彼の放つ一打に、彼の全ての想いが
込められている。
そう思うと、私の目からまた、
熱いものがこみ上げてきた。
その球場から漏れてくる音全てが、
私にとっては彼の息吹のように感じられた。
しばらく歩いていると、
見慣れた後ろ姿を見つけた。
スーツ姿の男性が、球場の入り口付近で
誰かと話している。
その横顔を見て、私は思わず息をのんだ。
鈴木さんだ。
やはり、彼は来ていた。
プロのスカウトとして、
雄太のテストを見に来たのだろうか。
私の胸に、複雑な感情が渦巻いた。
彼は、雄太の再挑戦をどう思っているのか。
高校時代のライバルとして、
純粋に応援しているのだろうか。
それとも、どこか複雑な思いを抱いているのだろうか。
私には、彼の真意が、未だに掴めない。
ただ、彼の表情は、読み取れない。
真剣な眼差しで、球場の入り口を見つめている。
その時、鈴木さんが話していた相手と別れ、
球場の入り口へと向かった。
私は、彼に気づかれないよう、
少し離れた場所から、彼の様子を伺っていた。
彼が、入り口で一度立ち止まり、
球場の中をじっと見つめた。
その背中から、何とも言えない緊張感が漂っていた。
まるで、彼自身も、雄太の合否を
固唾をのんで見守っているかのように。
そして、彼はゆっくりと、扉の向こうへと消えていった。
あの扉の向こうに、雄太がいる。
その事実が、私には何よりも尊かった。
夕方になり、雄太から連絡が入った。
私のスマホが震えた瞬間、
心臓が飛び出しそうになった。
着信画面に表示された「雄太」の文字を見るだけで、
全身の血が逆流するような感覚に陥った。
「終わったよ」
その一言に、私の心は安堵と緊張で満たされた。
「どうだった?」
私が尋ねると、彼は少し間を置いてから、
「……やれることは、全部やった。
後悔はない」
そう答えた。
彼の声は、疲れているけれど、
どこか清々しい響きがあった。
その言葉を聞いて、私は彼の努力を信じた。
きっと、大丈夫。
彼の声の奥に、彼の全てが詰まっている。
そう確信できた。
「今から帰るから、夕飯、楽しみにしてるな」
雄太の声が、私を安心させる。
私は急いで家に戻り、
彼の好きな料理を作り始めた。
冷蔵庫から出したばかりの冷たい食材が、
私の熱い指先で温まっていく。
彼の帰りを待つ間も、私の心臓は
ずっとドキドキと音を立てていた。
キッチンに立ちながら、
彼の好きなハンバーグの種をこねる。
その手を動かすたびに、
今日の彼の姿が目に浮かぶようだった。
彼の努力が、報われますように。
ただ、それだけを願った。
焦げ付かないように、
火加減を調整する。
彼の夢が、焦げ付くことのないように。
彼の夢を、私が守り、育てるのだ。
彼が帰ってきて、玄関のドアを開けた瞬間、
私は彼の元へ駆け寄った。
彼の顔は、少しだけ疲れているけれど、
その瞳は、達成感に満ちていた。
彼のユニフォームから、土と汗の匂いがする。
それは、彼の全身全霊をかけた証。
その匂いが、私には何よりも愛おしかった。
私は彼の背中にそっと手を回し、
彼の温かい体を抱きしめた。
彼の硬い筋肉が、私の腕に食い込む。
その全てが、彼がどれだけ頑張ったかを示していた。
「おかえり、雄太」
私が言うと、彼は優しく微笑み、
私の頭を撫でてくれた。
その手の温かさが、私を包み込む。
夕食中、雄太はプロテストでの出来事を
詳しく話してくれた。
彼の言葉の一つ一つから、
彼の野球への情熱と、
成功への強い意志が伝わってくる。
彼の話を聞きながら、私は
彼の隣にいることの幸せを噛み締めた。
彼の話を聞くたびに、
私の不安が少しずつ溶けていくのを感じた。
彼がこれほどまでにやり切ったのだから、
きっと、良い結果が待っている。
そう、私は確信した。
「そういえば、鈴木さんも来てたよ」
雄太が、ふいにそう言った。
私は、ドキリとした。
やはり、彼は来ていたのだ。
「何か話したの?」
私が尋ねると、雄太は少しだけ顔を曇らせた。
「いや、少しだけ。
『お前、まだ野球やってたのか』って」
彼の言葉に、私は胸が締め付けられた。
やはり、鈴木さんは、
雄太の再挑戦を快く思っていないのだろうか。
その言葉の裏に、どんな感情が隠されているのだろう。
私には、彼の本心が分からない。
複雑な思いが、私の胸をよぎる。
私なんかで、彼のこの苦しみを
理解してあげられているのだろうか。
そんな自問自答が、胸を締め付けた。
「でも、大丈夫だよ。俺はもう、
そんな言葉で折れるような、弱い俺じゃない」
雄太は、私の不安を察したように、
優しく私の手を握った。
その手の温かさが、私を安心させる。
彼の言葉は、静かだったけれど、力強かった。
その強さに、私はまた、涙がこみ上げてくるのを感じた。
彼の手を握り返すと、その手のひらから、
彼の決意が伝わってくるようだった。
この温かさがあれば、どんな困難も乗り越えられる。
そう、私は確信した。
彼の腕が、私をそっと抱き寄せる。
彼の肩に顔を埋めると、
彼の体温が、私に彼の全てを伝えてくれた。
彼の夢は、もう彼の夢だけじゃない。
私と、そして彼の周りの大切な人たちの夢になっていた。
彼の挑戦は、私にとっても、
人生を賭けた挑戦だった。
この先に何が待っていようと、
私は彼と共に、この道を歩んでいく。
そう、心に誓った。
夜空には、満月が煌々と輝いていた。
まるで、私たち二人を祝福してくれているかのようだった。
彼の温かい手のひらが、私の手を握る。
その温かさが、私たちの絆を、
何よりも強く、私に感じさせた。
そして、私は彼の隣で、静かに目を閉じた。
彼の穏やかな寝息が、私の心を包み込んだ。
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