第6話:高まる期待、彼の視線
プロテストまで、残りわずか。
佐々木さんの指導と、
私の献身的な支えを受け、
雄太はプロテストへの確かな手応えを
感じ始めているようだった。
彼の表情から、以前のような焦りは消え、
静かな自信が満ちていた。
毎朝、私は彼の朝食を作るために、
日の出前に起きる。
彼が食べるものを、一つ一つ丁寧に。
彼の体が、最高のパフォーマンスを
発揮できるように。
それが、今の私の全てだった。
彼が家を出た後も、私の頭の中は
彼のことでいっぱいだった。
今日の練習はうまくいくだろうか。
肩は、痛くないだろうか。
そんな小さな不安が、
いつも私の胸の奥に潜んでいた。
けれど、彼が夜、練習から帰ってきて、
「今日の球、今までで一番良かった!」
と目を輝かせて話してくれるたび、
私の心は、その不安を吹き飛ばし、
彼への期待で満たされていく。
雄太の体は、この数ヶ月で劇的に変化した。
佐々木さんの緻密な指導のもと、
彼は肉体改造にも励んでいた。
無駄な脂肪が落ち、しなやかな筋肉が
全身を覆っている。
触れるたびに、その硬さに驚く。
その一つ一つが、彼の血と汗の結晶なのだと、
私は知っていた。
ある日のこと、雄太が練習着のまま、
少し照れたような顔で私に話しかけてきた。
「佐々木さんがな、
『お前の球速、高校時代より出てるぞ』ってさ」
彼の言葉に、私は思わず息をのんだ。
高校時代、「二刀流の怪物」とまで呼ばれた彼の、
あの頃を上回る。
それは、どれほどのことだろう。
彼の投球練習を見ていると、
その球威は、見る者を圧倒するほどだった。
ミットに吸い込まれるボールが、
重い音を立てて響く。
コントロールも、以前にも増して精密になっていた。
バッティング練習では、
快音がグランドに響き渡るたびに、
私の胸は高鳴った。
彼の再挑戦の噂は、
メディアにも広がり始めていた。
「元怪物・田中雄太、プロテストで再起へ」
そんな見出しが、スポーツ新聞の一面を飾ることもあった。
テレビのスポーツニュースでも、
彼の話題が取り上げられることがある。
世間の注目が、日を追うごとに高まっていくのを感じた。
私は、彼の隣で、彼の夢が大きくなっていくのを
感じていた。
それは喜ばしいことだったけれど、同時に、
大きな不安も私の中に芽生え始めていた。
世間の期待が高まれば高まるほど、
彼にかかるプレッシャーも尋常ではないだろう。
もし、また挫折してしまったら……?
彼の肩の古傷が、また彼の体を蝕むのではないか。
あの時の絶望を、もう一度味わうことになるのか。
そんな恐怖が、時折、私の心をよぎる。
それでも、私はその不安を振り払う。
大丈夫。彼なら、きっとできる。
私には、そう確信できるだけの
雄太の努力を知っていたから。
そんな私とは裏腹に、雄太は
まるで子供のように無邪気に野球を楽しんでいた。
彼の目の輝きを見るたびに、
私はこの選択が間違っていなかったと、
心からそう思えた。
彼の笑顔が、私にとっての太陽だった。
ある日、テレビの野球ニュースを見ていると、
高校時代のライバル、鈴木さんの姿が映し出された。
彼は、すでにプロの舞台で活躍している選手だった。
そして、彼がプロ球団のスカウトも兼任していると
いう話も、ちらほら耳にしていた。
鈴木さんは、画面の中で、
どこか複雑な表情をしているように見えた。
彼の目は、雄太の活躍を追っているように思えた。
彼が雄太の再挑戦をどう思っているのか。
私には、想像することしかできなかった。
高校時代、鈴木さんは常に雄太の背中を追いかけていた。
才能溢れる雄太と、努力でそれを追いかける鈴木さん。
二人は、良きライバルだった。
けれど、鈴木さんの瞳の奥には、
いつも雄太への、どうしようもない劣等感が
滲んでいるように見えたことがあった。
だからこそ、彼の再挑戦の報道を見て、
鈴木さんが何を思うのか。
かつてのライバルが、自分と同じ舞台に、
再び上がろうとしている。
しかも、二刀流として。
それは、彼にとって、嬉しいことなのだろうか。
それとも、また苦しみを呼び起こすものなのだろうか。
私は、鈴木さんの複雑な感情を思うと、
少しだけ胸が痛んだ。
彼が、雄太を認める。
それは、雄太の才能と努力が、
いかに素晴らしいかの証だ。
けれど、その裏にある鈴木さんの苦悩も、
私には感じ取れるようだった。
ある夜、雄太が電話で話している声が聞こえた。
相手は、佐々木さんだった。
「……はい、鈴木さんがですか?
まさか、彼が……」
雄太の声に、僅かな動揺が混じっているように感じた。
私は、隣の部屋でそっと息を潜めた。
きっと、鈴木さんのことだろう。
雄太が電話を終えて戻ってくると、
彼の顔は、少しだけ険しくなっていた。
「どうしたの?」
私が尋ねると、彼は少し躊躇った後、
「いや、なんでもないよ」と笑った。
けれど、その笑顔は、どこかぎこちなかった。
私には分かった。
きっと、鈴木さんのことだ。
彼が、雄太に何らかの形で接触してきたのだろう。
私は、彼の言葉を深追いしなかった。
彼が話したくないことなら、無理に聞かない。
それが、私の彼への信頼だった。
でも、私の心の中には、
鈴木さんへの警戒心が、さらに強く芽生えた。
彼の存在が、雄太の夢に、
どんな影響を与えるのだろうか。
良い影響であってほしい。
けれど、もし、彼の足を引っ張るようなことがあれば。
私は、彼を全力で守り抜くと、心に誓った。
「ねぇ、雄太。今日はゆっくり休もうね」
私が言うと、彼は「ああ、そうだな」と頷き、
私の手を握った。
彼の温かい手のひらが、私を安心させる。
この温かさが、ずっと続けばいいのに。
プロテストの日が、刻一刻と近づいてくる。
雄太は、最後の調整に入っていた。
私は、彼のコンディションが最高潮になるよう、
食事のメニューや、マッサージの時間を
さらに細かく調整した。
彼の口から「疲れた」という言葉が
出ることは、ほとんどない。
けれど、彼の体の小さなサインを見逃さないように、
私は毎日、彼の様子を注意深く観察した。
彼の夢は、もう彼の夢だけじゃない。
私と、そして彼の周りの大切な人たちの夢になっていた。
彼の挑戦は、私にとっても、
人生を賭けた挑戦だった。
この先に何が待っていようと、
私は彼と共に、この道を歩んでいく。
そう、心に誓った。
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