第2話:グラウンドの奇跡、私の胸騒ぎ

あのファミレスでの夜から、雄太は変わった。

いや、元に戻った、という方が正しいのかもしれない。

彼の瞳の奥に、再びあの炎が宿った。

それは、私がずっと待ち望んでいた光だった。


彼は、夜遅くまで、

近くの公園で自主練習をするようになった。

仕事から帰ってきて、

簡単な食事を済ませると、すぐに着替えて

外へ飛び出していく。

その背中には、迷いなど微塵もなかった。


最初は私も付き合ったけれど、

彼の集中力は凄まじい。

私が隣にいることすら忘れているんじゃないかと

思うほど、ボールと向き合っていた。

その姿は、まるで野球に取り憑かれた

少年が、そのまま大人になったようだった。


私はそんな彼の邪魔をしないよう、

少し離れた場所から、ただ見守るだけだった。

公園の片隅にある古びたベンチに座り、

冷たい夜風に吹かれながら、

私は彼の背中を見つめ続けた。


彼の練習風景は、まるで演劇を見ているようだった。

投げるたびに、ボールが唸りを上げる。

「シュッ!」という、乾いた風を切る音が、

暗闇に響き渡る。

バットを振るたびに、「カキーン!」と、

金属バットがボールを捉える快音が、

夜の公園に響き渡る。

その音は、私の心臓に直接響くようだった。


高校生の時よりも、体が大きくなったせいか、

球の重さも、打球の速さも、

段違いになっている気がした。

あの頃は、ただ彼の才能に驚いていたけれど、

今は、そこに彼の血の滲むような努力が見える。

肩を壊した彼が、再びこの場所で、

こんなにも力強くボールを投げ、

バットを振っている。

その事実が、私の胸を熱くする。


「すごいね、雄太」


練習を終えて、ベンチに座り込んだ雄太に、

私はペットボトルの水を差し出した。

彼はぐっと喉を鳴らして水を飲み干し、

大きく息を整える。

彼の体から立ち上る湯気が、夜の冷気の中で

白く漂っていた。


「だろ?自分でも驚いてるんだ。

まるで、肩の故障がなかったみたいに。

いや、それどころか、あの頃よりも

力がついてる気がする」


屈託なく笑う彼の顔は、充実感に満ちていた。

その横顔を見て、私はふと思う。

もし、あの時、彼が肩を壊していなければ、

彼は今頃、憧れのプロの世界で輝いていたんだろうか。

そんなことを考えて、胸が締め付けられるような、

切ない気持ちになった。

彼の失われた時間。

その時間を取り戻すために、彼は今、

必死に目の前のボールを追いかけている。

そのひたむきさに、私はまた、

涙がこみ上げてくるのを感じた。


でも、それと同時に、彼の隣にいることが、

何よりも嬉しかった。

この輝きを、もう一度見せてくれてありがとう、と。

私なんかで、彼の夢を支えられるのだろうか。

そんな不安が、胸の奥に小さく芽生える。

けれど、彼の眩しいほどの笑顔を見るたびに、

その不安は、すぐに消え去ってしまうのだった。


自主練習が始まって数週間が経った頃、

私は彼のためにできることを探し始めた。

彼の体が、少しでも楽になるように。

彼の夢が、少しでも近づくように。


栄養のある食事を作って、練習の合間に

差し入れをしたり、

彼が使う練習用のボールや、

新しいグローブを買いに行ったり。

最初は、雄太は「そんなことしなくていいのに」と

遠慮したけれど、私が

「雄太が頑張ってるの見てたら、私も

何かしたくなるんだよ」と笑うと、

照れくさそうに「ありがとう」と

受け取ってくれるようになった。

彼の喜ぶ顔を見るのが、私にとって何よりの喜びだった。


彼の練習着を洗うたびに、土と汗の匂いがした。

日中の仕事で疲れていても、

彼のユニフォームの匂いを嗅ぐと、

不思議と元気が湧いてくる。

私はその匂いを、なぜだか愛おしく感じてしまう。

これが、彼の夢の匂いなんだと。

泥と汗にまみれたユニフォームを丁寧に洗いながら、

私は彼の今日の努力を想像する。

きっと、今日もたくさんの汗を流したのだろう。

そう思うと、彼の体が少しでも休まるようにと、

丁寧にシワを伸ばし、アイロンをかける。


夜、疲れて眠る彼の寝顔を見つめながら、

私は彼の夢が叶うことだけを、ただひたすらに願った。

彼の寝息が、静かに部屋に響く。

私はそっと彼の頭を撫でる。

硬く短く刈り込まれた髪。

その感触が、私に彼の揺るぎない決意を伝えてくるようだった。


ある日のこと。

雄太が珍しく、浮かない顔で帰ってきた。

「どうしたの?」

私が尋ねると、彼は少し躊躇った後、

ぽつりぽつりと話し始めた。

「練習をしてたら、昔の俺を知ってる人がいてさ。

『お前、まだやってたのか』って。

『諦めが悪いんじゃないか』って言われたんだ」

彼の声には、僅かながら、傷ついた色が滲んでいた。

私は、彼の言葉を聞いて、胸が締め付けられた。


「そんなことないよ!雄太は、諦めてなんかない!」

思わず声を荒げてしまった。

私の感情が、彼への心配と、彼を傷つけた相手への

怒りで、ぐちゃぐちゃになる。

「雄太は、すごいんだから。

あの時のことだって、雄太が一番苦しかったのに…!」

私は、あの日の後悔と、彼を独りにした悔しさが

蘇り、涙が溢れて止まらなくなった。


雄太は、そんな私を見て、驚いたように目を見開いた後、

優しく私の頭を撫でてくれた。

「ありがとう、美咲。でも、大丈夫だよ。

俺はもう、そんな言葉で折れるような、

弱い俺じゃない」

彼の声は、静かだったけれど、力強かった。

その言葉に、私はまた涙が止まらなくなった。

彼は、本当に強くなったのだ。

私なんかが、彼の足を引っ張ってはいけない。

彼の夢を、私が全力で支えなければ。

そう、強く心に刻み込んだ。


次の日からの雄太の練習は、さらに熱を帯びていった。

まるで、昨日の出来事が、彼の心に火をつけたかのようだった。

私は、彼の隣で、彼の夢が大きくなっていくのを

感じていた。

それは喜ばしいことだったけれど、同時に、

大きな不安も私の中に芽生え始めていた。

世間の期待が高まれば高まるほど、

彼にかかるプレッシャーも大きくなるだろう。

もし、また挫折してしまったら……?

彼の肩の古傷。

その傷が、また彼の体を蝕むのではないか。

そんな恐怖が、私の心をよぎる。


それでも、私はその不安を振り払う。

大丈夫。彼なら、きっとできる。

私には、そう確信できるだけの

雄太の努力を知っていたから。


私にできることは、ただ一つ。

彼の隣で、彼の夢を信じ続けること。

そして、彼が安心して野球に打ち込めるように、

全ての心配事から彼を守ってあげること。

それが、彼の隣にいる私の使命だと思った。

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