第5話
放課後。
旧校舎の三階にある、今は使われていない音楽準備室。あの日、私たちが「契約」を結んだ、共犯者だけの密室。窓から差し込む西日が、埃をキラキラと照らし出す光景は、数日前と何も変わらない。変わったのは、向かい合って座る、私たち二人の関係性だけだ。
ここでは、私は「学園のアイドル」でなくてもいい。ただの、大神瑠璃でいられる。
「……では、本日の業務報告および反省会を始めます」
私が、少しだけ得意げにそう宣言すると、天弓紅輝くんは、呆れたように、でもどこか面白そうに口の端を上げた。
「仕切るのは、そっちなのか」
「当たり前でしょう?このプロジェクトの、主席研究員は、私なのだから」
彼の表情は、昼休みに友人たちの前で見せた甘い笑顔とは似ても似つかぬ、いつものクールで分析的なものに戻っている。私も、背筋を伸ばし、腕を組んでみせる。ここからは、ビジネスの時間だ。……ということにしておかないと、私の心臓が、もたない。
「まず、総論として、本日の『偽装カップルお披露目ミッション』は、大成功と評価できるわね。目標であった『付き合い始めた事実の周囲への自然な浸透』は、想定以上の速度で達成されたと見ていいでしょう」
「ああ、同感だ。特に、朝の挨拶における君の演技力……あれは、正直、度肝を抜かれた」
私たちは、淡々と、今日の「演技」を振り返る。その口調は、まるで戦場から帰還した指揮官同士のようだ。
「ふふん。私の実力、見くびってもらっては困るわ。あなたの『昨日はよく眠れたか?』という問いかけと、あのとろけるような笑顔も、不意を突くという点で非常に有効だったわよ。……でも、その後の『頭を撫でる』という行動、あれは、事前に合意したレギュレーションの範疇を若干、逸脱していたんじゃないかしら?」
私が少し皮肉を込めて指摘すると、彼は表情一つ変えずに答えた。
「緊急避難的な措置だ。君のカウンター攻撃の破壊力が高すぎたため、主導権を維持するための苦肉の策だ。結果として、周囲の誤解を深めることに成功したのだから、戦術的には正解だったと判断する」
「……まあ、いいでしょう。今回は、見逃してあげる。……ちなみに、私の『子ども扱いしないで』からのボディタッチ、どうだったかしら?」
「それも、高評価だ。相手の行動に対し、ただ受け身になるのではなく、拗ねるという感情表現を交えつつ反撃することで、単なる『守られる彼女』ではない、主体性のあるキャラクター像を構築することに成功していた」
完璧な分析だ。彼は、私たちのあの、心臓が飛び出そうになるほど甘ったるいやり取りを、まるでチェスの棋譜でも見返すかのように、冷静に、的確に評価していく。
「昼休みの尋問会も、概ね問題はなかったわね。特に、小野寺さんからの『どこが好きか?』という高難易度の質問に対する、私の回答。『私だけに見せてくれる、あの、とろけるみたいに甘い笑顔』……あれは、100点満点だったでしょう?」
「ああ、満点だ。俺の理性が飛びかけた。……俺の『俺しか知らない顔を、もっと見たいと思ったから』という回答も、なかなかだったと思うが?」
「ええ、なかなか、ね。正直、少しキザすぎて、鳥肌が立ったけれど、最高だったわ」
「否定はしない。だが、あの状況では、あれくらい強い言葉で畳み掛けなければ、友人たちを完全に納得させることは困難だっただろう。費用対効果で言えば、最大のリターンを得られたと言える」
費用対効果。リターン。彼の口から紡がれるビジネス用語に、私は妙な安心感を覚えていた。そうだ、これは業務なのだ。私たちのあの行動は、すべて計算されたもの。そう思わなければ、自分の心臓がもたない。
ひとしきり今日の成果を確認し終えた後、私は、がたりと椅子から立ち上がり、彼の隣へと回り込んだ。そして、彼の座る椅子の背もたれに、両腕を乗せる。彼の頭上から、その顔を覗き込むようにして。
「……でも、紅輝くん。一つ、懸念事項が浮上したわ」
「……なんだ?」
不意に距離を詰めた私に、彼が少しだけ身じろぎしたのがわかった。
「私たち、演技が上手すぎるんじゃないかしら。このままだと、互いのアドリブがエスカレートして、本当に、取り返しのつかないことになってしまいそうよ?私はそれでもいいのだけれど」
そう言って、彼の頬を、人差し指で、つん、と突いてみる。
「今日の昼休みだって、あなた、私のセリフに、本気で照れていたでしょう?耳まで、真っ赤だったわよ?」
「……っ、そ、それは、演技だ。君の言葉に、心を揺さぶられる、純情な彼氏を演じるための、計算された赤面だ」
「あら、そうなの?じゃあ、今の、この赤面も、計算?」
私が、さらに顔を近づけると、彼は、ぐっと、言葉に詰まった。
西日が、彼の横顔をオレンジ色に染めている。その、少しだけ気まずそうに逸らされた視線を見て、私は、ほんの少しだけ、意地悪な気持ちになった。
ここでは、私は「みんなのお姉さん」でいる必要はない。彼だけには、本当の、我儘な私を、見せてもいいのだから。
「……私が『笑顔が好き』と言った時、一瞬、動揺していたじゃない。バレてない、とでも思った?」
「……気のせいだ。俺は、君の次の手を予測し、最適なカウンターを思考していたにすぎない」
「ふーん……」
彼は、ポーカーフェイスを崩さない。だが、その言葉が嘘であることは、私には何となくわかった。
「……とにかく、今後の課題として、『演技の過剰なエスカレーションによる、互いの精神的ダメージの抑制』……ううん、むしろ、その逆ね。『精神的負荷を、どこまで高められるかの、限界値テスト』を、議題に上げるべきじゃないかしら?」
「……君は、一体、何を言っているんだ」
呆れたような彼の声が、なんだか、とても心地いい。
「だって、そうでしょう?私たちのプロジェクトは、始まったばかり。最高の経験値を得るためにも、これから、もっと、色々なシチュエーションを試して、強化していかなくちゃ。……でないと、本当に、心臓が、いくつあっても、足りなくなりそうだもの。……私の、じゃなくて、あなたの、ね?」
最後の言葉は、悪戯っぽく、彼の耳元で囁いた。
それを聞いた彼は、一瞬だけ、本当に一瞬だけ、あの、昼間に見せた甘い笑顔の欠片のようなものを、口元に浮かべた気がした。
「……善処する」
そう短く答えた彼の耳もまた、西日に照らされて、少しだけ赤く染まっているように見えたのは、きっと、気のせいではないだろう。
こうして、私たちの、奇妙で、淡々としていて、そして、彼だけには甘えてしまう、特別な反省会は、静かに幕を閉じたのだった。
ああ、この時間、本当に、最高。……もっと、彼を、困らせてみたいな。
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