三十一話(ビスマルク海海戦)
昭和十八年二月末、雪風は第十六駆逐隊の僚艦・時津風とともに、第三水雷戦隊司令官・木村昌福少将の指揮下に入った。指揮官は旗艦・白雪に座乗。護衛任務は重く、白雪、朝潮、荒潮、朝雲、浦波、敷波といった歴戦の駆逐艦が揃い、ラエを目指す輸送船団八隻を護衛する大規模な行動となった。
その船団の甲板には、無数の陸軍兵が荷物とともにひしめいていた。伊豆涼介少尉は雪風の艦橋から彼らを眺めながら、どこか落ち着かない胸中を抱えていた。自分たちは、幾度も砲火の中をくぐってきたが、あの輸送船にいる兵たちは、大半が戦場を知らぬまま死地に送り出されていく。彼らの顔に浮かぶのは、希望よりも不安、決意よりも諦めの色だった。
ビスマルク海にさしかかった三月二日。正午を迎える頃、敵機来襲の報が艦内に響き渡った。アメリカ軍とオーストラリア軍による連合空襲隊が、上空から襲いかかってきたのだ。低空からの反跳爆撃が、次々と輸送船を炎上させ、海に沈めてゆく。
「見張り員、十二時方向、敵機五、低空接近中!」
伊豆は即座に艦橋に飛び込み、操舵を指示した。爆弾がすぐ頭上で炸裂し、水柱が雪風の艦首を濡らした。旭盛丸が爆発音とともに大きく傾き、火の玉のように沈んでいく。その甲板にいた多くの兵が、海中へ投げ出された。
「総員、救助準備! 漂流兵を引き上げるぞ!」
伊豆は叫び、自ら甲板へ駆け出した。ロープと梯子を手に、波間に揺れる兵たちへ手を伸ばす。重い装備を背負った兵士たちは、溺れかけながらも必死に応えた。
「しっかりしろ! お前さんらはまだ死ぬな!」
雪風と朝雲は、旭盛丸から流れ出た九百人近い兵士を収容。伊豆の手も、海水と血に濡れた兵の腕を幾度も引き上げた。その中には、顔にやけどを負いながらも「ありがとう」と絞り出した若い兵や、濡れた軍帽を握りしめる老兵もいた。
雪風の医務室はたちまち負傷兵で溢れ、包帯と薬の匂いが艦内に漂った。だが休む間もなく、雪風はそのままラエへ向けて急行。司令部要員三十名を含む兵たちを無事に揚陸した。
翌三月三日早朝、雪風と朝雲は再び戦闘海域に戻る。敵機はなおも波状攻撃を続けていた。伊豆は操艦と対空砲火の指揮を並行して行いながら、落ち着いた声で命令を飛ばした。
「次、二時方向、急降下機! 応射用意、撃てっ!」
その声の向こうで、時津風が爆煙に包まれた。被弾し、艦橋から火の手が上がる。雪風は直ちに接近し、海に投げ出された乗員を救助。水兵たちは伊豆に引き上げられながら、「雪風が来てくれて助かった……」と涙をこぼした。
伊豆はひとりの機銃員に毛布をかけ、「大丈夫だ、しばらく辛抱しろ」と声をかけた。その青年は頷き、かすれた声で「俺、姉ちゃんの顔が見たいです」と漏らした。
雪風は一度戦場を離脱し、浦波と初雪へ救助兵の移乗を行ったが、再び戦場へと舞い戻る。夜の闇を抜けた海に、炎を上げて漂流する荒潮を発見。残された生存者百名を救助した。
艦内は、再び人と熱気と血と汗に満ちていた。伊豆は毛布の補充や飲料水の配給を指示しながら、救助した兵の一人と目が合った。
「お前さん、あの時の……」
そこには、かつてガダルカナル撤収の際に雪風に救助された若い陸軍兵の姿があった。偶然の再会に、二人は言葉少なに頷き合った。
「また助けてもらっちまったな。海軍さんには頭が上がらん」
伊豆は微笑を浮かべたが、その裏には怒りと悲しみが渦巻いていた。なぜ同じような犠牲を繰り返さねばならないのか。なぜ兵たちは、戦う前にこうも多く命を落とさねばならぬのか。
その夜、艦橋に立った伊豆は、闇に沈んでいく炎の残光を見つめながら、静かに誓った。
——俺は、できる限り多くを守る。どんな命令が降ろうとも、雪風にいる限り、誰一人、見捨てはしない。
その背中には、過酷な戦場の現実と、消えることのない希望と責任が、深く刻み込まれていた。
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