第二十九話 「トラック泊地」
一月下旬、冬の日本を発った雪風は、南方へと向かう船団の一員として太平洋を南下していた。武蔵、瑞鶴、瑞鳳、神通、第十駆逐隊……錚々たる艦隊の一隻として、トラック泊地への進出は一見平穏に見えた。
しかしその道中、洋上での異変が報告されたのは、艦橋直下の見張り員が「浮流物アリ!」と叫んだときだった。
「海面に……あれは、短艇か?」
双眼鏡で覗いた伊豆少尉の目に、荒れた波間を漂う小型の短火艇が映った。陽に焼け、油で汚れた軍服を着た男たちが幾人も乗っている。朦朧とした目をこちらに向ける者もいる。
「生存者だ。海軍徴傭船か何かの……」
操舵を微調整して接近しつつ、伊豆は内火艇の発進を指示した。甲板上では救助準備が始まり、救命網やロープが投げられ、機関長の指揮で医務室も動き出す。
小舟の側に並走して静かに接舷すると、短艇の中の男たちが呻きながら片腕を上げる。目を開けていない者もいた。
「……平洋丸の者です……沈みました。潜水艦に……」
意識がはっきりしていたのは数名だけだった。艇上にいた約五十名全員が乗艦を許され、重油にまみれた衣服のまま担がれ、引きずられ、雪風の甲板へと運ばれていった。
兵曹長が伊豆に報告する。
「どうやら南方慰問団も乗っていたようです。女の人も、いましたよ」
「え? 女が……?」
振り返った伊豆の目に、毛布に包まれた細身の女がいた。雪風の水兵に抱きかかえられたその姿は、凍えた雀のようだった。
「……慰問団の団員……らしいです。歌い手か、芸者か……」
その女性は何かを呟いたが、声は波音に掻き消された。
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二月二十日。トラック泊地は、戦地とは思えぬ静けさに包まれていた。
戦艦大和の士官食堂に設けられた簡素な舞台の幕が、ゆっくりと開いてゆく。微かなざわめきの中で、雪風の乗員たちは整列して腰かけていた。
伊豆少尉もその一人だった。背筋を伸ばして着席しながら、彼は舞台に目をやった。柔らかな照明に包まれて、色とりどりの着物をまとった女性たちが並ぶ。その中に――あの顔があった。
あの日、漂流する短火艇から救い上げた慰問団の女。あの時は重油にまみれ、毛布に包まれていた。その彼女が、今は化粧を施し、笑顔を浮かべ、堂々と舞台に立っている。
「……よく、生きていてくれた」
伊豆は思わず胸の奥を押さえた。
三味線の音が始まり、歌が続く。唄の後には軽やかな踊りがあり、やがて舞台の合間――小休憩となった。
その時だった。
「……少尉殿」
声がかかった。振り返った伊豆の前に、彼女が立っていた。あの慰問団の女。白い着物の袂を整えながら、少し恥じらうような微笑を浮かべて。
「……あのときは、本当にありがとうございました」
彼女の声は、思ったよりも穏やかで澄んでいた。荒海で叫んだ声とはまるで違う。彼女の目は、まっすぐに伊豆を見つめている。
「いや……俺は何も……助けたのは、雪風の皆だ」
「でも、あのとき……あなたが、一番先に声をかけてくれました」
彼女はそう言って、手を重ねて小さく頭を下げた。
「名乗るのが遅れました。……私、南野静香(みなの・しずか)と申します。浅草の寄席で唄と踊りをやっております。慰問団の一員として、南方へ向かう途中で……あんな目に」
「南野……さん」
伊豆はその名を繰り返し、頷いた。
「俺は、伊豆涼介。駆逐艦雪風、操舵士官だ」
「覚えました。伊豆さん……あの夜、あなたがいなければ……私はもう、ここに立っていなかったと思います」
伊豆は黙って目を伏せた。思い出すのは、夜の海に響く呻き声、泣き声。担架にくるまれて運ばれた者の中には、もう目を開かない者もいた。
「……あれ以来、私、ちゃんと唄えるようになりました。……あの夜、もう一度歌いたいって、思ったから」
彼女の目には、涙が光っていた。
伊豆は、その小さな肩にかかる薄布のような帯に目を落とし、言った。
「こんなご時世だ。次、いつ会えるかは……」
「――でも、生きていれば、また会えますよね」
伊豆は息を止めた。そして、微かに笑った。
「……ああ、生きていれば、きっと」
「雪風、沈まないでくださいね」
それはまるで、願掛けのような囁きだった。
「そっちこそ……唄を、絶やすなよ」
ふたりの視線が静かに交わる。
その直後、舞台袖から声がかかり、彼女は「それでは」と小さく頭を下げて、舞台へと戻っていった。
伊豆は一人、舞台の明かりを見つめていた。まるでそれが、戦場を離れた別世界の象徴であるかのように。
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その夜、泊地の中心にそびえるように停泊する戦艦大和では、異例の催しが行われていた。雪風の乗員たちは「慰問団演芸会」の招待を受け、大和艦内の士官食堂へと案内された。
「……こんな贅沢、戦争中にあっていいのかって思っちまうよ」
雪風の先任水兵がつぶやく。長椅子に腰かけた伊豆は、場違いな温もりと照明に身を預けていた。艦内には即席の舞台が設けられ、楽器の調律音が微かに響く。
舞台幕が開くと、そこにはあのとき救助した慰問団の団員がいた。
「――ご無事でなによりでした」
出番の直前、あの痩せた女性が、舞台袖で伊豆に微笑みかけた。
薄化粧を施したその顔に、どこか誇りのようなものが漂っている。
「助けていただいたあの恩は、一生忘れません」
「……あのときは……こちらこそ、何もしてやれなかった」
「いえ。雪風に乗っていた方々の手が、神様に見えました」
やがて舞台が始まった。三味線の音、民謡、流行歌。高座には落語家の姿もあった。乗員たちの顔がほころび、伊豆の胸にも言葉にできない感情がこみ上げる。
「――もう、どこにも帰れないのかと思ってた。でも、助かった」
再び舞台に戻ってゆく女性の背を見送りながら、伊豆は深く息を吸った。あの艦橋で、比叡のマストに中将旗を掲げたときのこと。白戸水雷長の血に染まった帽子を見下ろしながら、沈みゆく太陽を睨んだ瞬間。
この戦争に正義があるのかどうかはわからない。だが、人が人を救うこと――それだけは、確かに意味がある。
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