第二十六話 「戦艦と駆逐艦」

夜明け前の南洋の海――。

薄靄のなかを、雪風は単艦で航走していた。


「前方、比叡の艦影!」


午前4時20分、見張りの叫びが艦橋に響いた。

その姿は、まるで海に突き刺さった鋼鉄の巨塔だった。艦体は大きく傾き、複数個所から黒煙を上げていた。砲塔はうなだれ、副砲は沈黙。だが、なお艦橋には微かに灯りがあった。


「信号によると通信不能。雪風、ただちに接舷準備!」


伊豆はマイクに向かい、短く命じた。

――敵はもう来る。すでに空は白みはじめている。


午前5時5分。空を切り裂くような音と共に、最初の敵機が上空に姿を見せた。


「対空戦闘用意!」


火器長の号令により、雪風の機銃と高角砲が吠えた。翼を傾けた米軍機は、爆弾を艦首に落としながら飛び去った。水柱が上がり、甲板が震えた。至近弾の衝撃で汽缶に亀裂が入り、発電機も停止。艦の全体が、うめくような低音を発した。


「主機温度低下! 最大速力、出ません!」


「白戸水雷長、頭部に破片が!」


医療兵の叫びが艦橋に届く。伊豆は唇を噛んだ。もう一発、直撃があれば雪風も終わる。


**


午前6時、照月、時雨、白露、夕暮が到着。護衛艦隊は5隻に増えた。比叡への接舷を強行した雪風には、あらゆる重圧がのしかかっていた。


「司令部、雪風に移乗開始」


午前6時15分――戦艦比叡から、阿部弘毅中将以下の第十一戦隊司令部の士官たちが雪風へ乗り移った。

伊豆は、濡れた士官服のまま艦橋に入ってきた阿部中将を迎え、即座に敬礼を交わした。


「雪風、以後、戦隊旗艦として行動する」


その言葉に、艦内の空気が一瞬凍った。

「駆逐艦が、戦隊旗艦かよ……」と誰かが小声で漏らした。


そして、誰かが掲げた。

巨大な中将旗が、雪風のマストにはためいた。


**


その旗は、米軍機にとって“答え”だった。


「敵機、上空旋回中! 爆撃隊来ます!」


連続する急降下。照月が左舷に爆弾を受け火災発生。白露も艦橋付近に至近弾を受け、被害が続出。

雪風の周囲は火と煙に包まれ、比叡は再び爆弾と魚雷を浴びた。舵は完全に故障。曳航の予定だった戦艦「霧島」も退避を余儀なくされた。


「比叡の救援、不能……」


誰かが呟いた言葉が、伊豆の鼓膜を殴った。


阿部司令官は、艦橋の端で帽を取り、しばし目を閉じていた。


「雪風、比叡乗員の救助を急げ。残った者は……仕方ない」


伊豆は咄嗟に応じた。


「了解――救助準備!」


ボートと縄梯子が下ろされ、比叡の生存者たちが雪風の甲板に引き上げられていった。中にはやけどを負った水兵、血まみれの通信兵、放心した砲術士官の姿もあった。


「――まだ、いるぞ!」


海面を漂う生存者を、伊豆は自ら双眼鏡で探し、指示を出した。


**


午前8時過ぎ。阿部司令官は第27駆逐隊に比叡の雷撃処分を命じた。

時雨、白露、夕暮がそれぞれ魚雷2本を発射すべく準備に入った。


伊豆は黙っていた。

戦艦を味方の手で沈める――その光景を見たくはなかった。


だが、その瞬間、雪風の無線機がガリガリと唸った。


「連合艦隊司令部より、処分中止命令――!」


時雨への信号で雷撃は止まった。雪風の艦橋には、見えないため息が流れた。


**


混乱のなかで、第七戦隊との誤認衝突を避けるため、駆逐艦隊は比叡を海に残したまま退避命令を受ける。


午後、伊豆は舷側から最後に比叡を振り返った。


巨大な艦影は、もう煙と炎に包まれていた。海面に浮かびながら、静かに、誰にも看取られず、沈んでいこうとしていた。


「なんであんな馬鹿でかい船が、こんな……」


伊豆の拳は震えていた。

恐ろしかったのは敵の爆弾ではない。味方の無策、作戦の無理、そして死んでいく者たちを見て、何もできない自分――


「艦長、雪風、サボ島沖へ引き返せとの命令です。比叡、捜索」


「了解。見つかるとは思えんがな……」


雪風は夜の海へ舞い戻った。30分にわたり海域を周回したが、もはや比叡の影はなかった。


その日、第十一戦隊司令部は「比叡沈没」と報告した。


**


「涼介……比叡を見殺しにした気がする」


艦橋の暗がりで、通信士の斉藤が呟いた。


「違うさ。俺たちは、できる限りのことをした。それだけだ」


そう応じながら、伊豆自身の言葉に虚しさが混じっているのを自覚していた。

でも、海は何も答えない。ただ、あの日と同じように――黙って波を打っているだけだった。



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