第三話「爆音の新年」
1941年12月29日。
南方戦線の拠点・パラオ泊地に、雪風は無事帰投した。
薄曇りの空、群青色の海面に重巡・妙高をはじめとする艦隊が碇泊し、爆風と焦臭をまだ纏う艦影が静かに揺れている。
工作艦「明石」での応急修理を終えた雪風は、実戦からの帰還を祝う間もなく、次なる任務への準備を始めていた。
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「伊豆少尉、操艦精度の報告書、読みましたぞ。見事な判断と舵取りだったそうじゃないか」
桟橋で出迎えたのは、補給担当の軍需大尉。
階級こそ上だが、現場を知る士官たちは既に涼介を「雪風の舵手」として認めていた。
「恐縮です。艦長の指示が的確でした」
そう答える涼介の表情は冷静だ。だが内心では、ひとつの確信を深めていた。
(俺はもう“田中宏”じゃない。俺は――伊豆涼介。雪風の操舵手だ)
現実感は薄い。それでも、仲間の命と艦を動かす感覚が、かつての自衛官時代とは比べものにならないほど“生”だった。
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1942年1月4日。
雪風は再び、ダバオへと進出した。
第16駆逐隊の第一小隊(雪風・時津風)は、ダバオにて第二小隊(天津風・初風)と合流。
陣容を整え、次なる作戦行動へ備える。
だが、その日――突如、空が怒声を上げた。
「敵機接近ッ! 全乗員対空配置ッ!」
甲高い警鐘と共に、灰色の空を引き裂いてやってきたのは、アメリカ陸軍の大型爆撃機――B-17 フライングフォートレス。
その巨体はまさに“空の要塞”。
ダバオ湾を覆うように飛来し、艦隊の頭上に影を落とした。
「来るぞ……!」
爆弾投下。
振動が船体を打ち抜き、湾全体が揺れた。至近の水柱が艦橋を舐め、艦首が一瞬、宙に浮く。
涼介は冷静に叫ぶ。
「左舷全速、舵一杯ッ! 波に隠れて抜けろ!」
艦体が急旋回し、水煙を巻き上げる。
巨大な影が通り過ぎた次の瞬間、爆発音が遅れて響いた。
「妙高被弾! 第三砲塔付近、火災発生ッ!」
隣の重巡・妙高が、煙と炎に包まれていた。
だが――雪風は、無傷だった。
「……艦長、回避成功です」
飛田艦長はただ短く、うなずいた。
「よくやった」
**
その夜、艦内の士官室では、正月らしき雰囲気も、餅も、正月飾りもなかった。
あるのは、安堵と、疲労と、静かな誇りだった。
「……伊豆、お前は運がいいのか、それとも……」
飛田艦長が酒を注ぎながら言った。
「……“雪風”が守ってくれているのかもしれません」
涼介は酒を受けながら、ふと思った。
(いや、違う。雪風を“守る”のは俺の仕事だ)
この艦と、この仲間たちと共に――戦い、生き延びる。
それが、彼にとって“再び与えられた人生”の意味であり、唯一の希望だった。
**
1942年の幕開けは、爆音と共に訪れた。
“幸運艦”雪風の伝説は、ここから始まる。
そして伊豆涼介――元タクシー運転手・田中宏の物語もまた、ここから真の戦場へと進んでいく。
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