第12話 意志なき選択

 沈黙が落ちた。咲ききった花々の間を、温室の空気がゆるやかに撫でていく。


 レイは、変わらぬ笑みのまま、静かに口を開いた。


 「……命令をください」


 それは穏やかな申し出だった。だがセレスの瞳は、そこでかすかに揺れた。


 「……そんな、大げさな……」


 笑うように言ったその声には、わかりやすい迷いがにじんでいた。


 「いや……わかってる、考えないといけないって……でも、すぐに返事は……」


 レイは黙って聞いていた。静かな水面のように、無表情のまま、ただその言葉を受け止めていた。


 「ママが言ってたんだ……その……今は慎重に動く時期だって……僕じゃない、ママが、ママが……」


 視線は定まらず、口ぶりはどんどん幼くなっていく。


 「そうですか」


 レイは小さく頷いた。その声には、変化があった。わずかに、温度が下がったのだ。


 「“慎重に”。“ママが”。“今は時期じゃない”。──それが、あなたの答えなのですね」


 セレスはぎくりとした。レイの語調が、先ほどよりもはっきりとした硬さを帯びていた。


 「命令はできない。責任は負えない。判断は他者に委ねる。──でも当主にはなりたい」


 「ち、違う、僕はそんな……!」


 「では、やはり当主にはなりたくはないのですか?」


 レイの問いは、先ほどよりも一段低く、抑え込むような声だった。


 セレスは答えられなかった。


 「……だから、なりたいわけじゃない。ただ、ママが……」


 「あなたがどうしたいかを聞いています。お母様の意志ではなく、あなた自身の意志を」


 「そ、そんなこと急に言われても……!」


 セレスの声が裏返る。


 レイの瞳が細くなる。あれほど静かだった笑みが、徐々に意味を変えていく。そこにはもう、愛想や配慮といったものはなかった。


 「では──あなたが何もしないのなら、私がします」


 その言葉は、唐突で、異常だった。


 「第五公子ユリウス。手始めは彼です。最も野心的で、最も危険。始末するにはいい標的でしょう」


 「なっ……!?」


 セレスの顔が蒼白になる。


 「次に、第四公子グラン。彼の持つ諜報網は不快ですが、殺しましょう。鍵は毒か、情報の逆利用」


 レイは、楽しげですらあった。口調はなめらかで、まるで詩を詠むようだった。


 「第三公子ディアロス。彼は武においてのみ脅威ですが、策略には疎そうだ。動線と習慣を割り出せば問題ありません。……そして最後に、第一公子ライナルト」


 レイは息を吸い、ゆっくりと吐いた。


 「──飲んだくれの処理に時間は割けません。始末は一瞬で済ませます」


 空気が、凍った。


 セレスは椅子から少しずり下がった。身体が言うことをきかない。


 「や、やめろ、そんなの……!」


 「なぜ?」


 レイは歩み寄ることなく、距離を保ったまま静かに問う。


 「あなたが望む“当主の地位”は、何もせずとも得られるのです。あなたは選ばれ、私は働く。ただそれだけの構図に、なぜ怯えるのです?」


 「望んでない! なりたいなんて、思ってない……!」


 「では、拒絶なさいますか?」


 「……それも……違う……」


 レイは、初めてわずかに顔を伏せた。


 目を閉じて、息を吸う。──その静けさのなかに、どこか“諦念”があった。


 「……なるほど」


 ぽつりと、呟いた。


 「あなたは、何かを望むことも、拒むこともできない。──つまり、何者でもない」


 セレスの瞳が揺れる。


 レイの声が変わっていく。滑らかに、抑制を外すように、ひとつずつ段階を下っていく。


 「“でも”、ばかりですね。“でも”の向こうには、何もない。あるのは他人の意志と、流される自分だけ」


 レイの手がゆっくりと上がる。指先が、まるで花を摘むような優雅さで宙を泳ぐ。


 「私は、誰よりも従順です。誰よりも誠実です。──命じられれば、どこまでも壊します。けれど……」


 そこで、目を開いた。


 その瞳には、もう“笑い”はなかった。ただ、冷たい水面のような光がひと筋、底に沈んでいた。


 「命じもしない、拒みもしない。そんな“空白”のような存在に、私は従えません」


 それは断罪でも、憎悪でもなかった。

 ──ただの、結論だった。


 「さあ──そろそろ、決断をしましょう」


 その瞬間、温室の空気がぴんと張り詰めた。


 「ねえ、第二公子。あなたには、それができるはずなんです。ずっとそう言われてきたでしょう? “あなたが継ぐべきだ”って。“あなたが選ばれるべきだ”って!」


 声が、震えていた。激情ではない。──熱が、冷たい刃のように研ぎ澄まされていた。


 「だったら、示してください。命じてください! 私に! 私を使って、世界を変えてください!」


 踏み込む。


 花壇を越え、ベンチへ近づく。まるで咲き乱れる花々を蹴散らすような威圧。


 「あなたが望むなら、世界はあなたのものになるんですよ? ただ一言で、私はすべてを差し出します。さあ、さあ!」


 その目は笑っていなかった。


 けれど、口元には笑みがあった。


 ──無垢な、無慈悲な、破壊者の笑み。


 「始末しましょう、ユリウスを。グランも、ディアロスも、ライナルトも。そのすべてを通った先に、あなたの王座があります。あなたは座るだけでいい。ねえ、簡単でしょう?」


 圧が、空間ごと迫ってきた。


 セレスの背が、ぐっと椅子に押しつけられる。


 「……っ……」


 喉がひくついた。


 息がうまく吸えない。頭の芯がぐらりと揺れる。心臓の音が、やけにうるさく響いていた。


 ──命じれば、全部終わる。


 この狂気を向けられるのは、他人で済む。


 自分は何もせず、ただ座っていればいい。


 「……あ……」


 言いかけて、セレスは気づいた。


 それは、自分が“決断”するふりをした“逃避”だった。


 言葉が喉奥で溶ける。


 「……やっぱり……無理、だよ……」


 途切れ途切れの声だった。


 レイが微かにまばたいた。


 「私は……そんなこと、できない……」


 その瞬間、すべての空気が冷えた。


 レイの動きが、ふっと止まる。


 わずかな間。


 花の香りだけが、濃く漂っていた。


 「──そうですか」


 乾いた声が落ちた。


 それは、静かすぎて──聞こえた瞬間にはもう、背筋に爪を立てられたような感覚が残った。


 「……もういいや」


 それは、何かを見限るような、無慈悲な切り捨ての言葉だった。


 その刹那──何かが、空気を裂いた。


 血が飛んだ。


 頬に飛沫がかかり、セレスは数秒、それが何なのか分からなかった。


 「あ……?」


 指を頬にあてる。ぬるりとした感触があった。


 次いで──遅れて痛みが来た。


 肩の奥が焼けるように熱い。だが、それが「痛み」という感覚だと理解するまで、彼はしばらく呆けたように目を瞬かせていた。


 「……あ、あぁ、ああっ……ああああああっ!!」


 悲鳴が喉から噴き出した。


 だが、それは反射ではなかった。恐怖と混乱が、ようやく彼の中で「痛み」を形にしたのだ。


 レイの手が、顎をつかみ上げる。


 「顔を見せてください。あなたの“最後”が、どんなものか──ちゃんと見届けておきたいので」


 その声は、まるで芸術品を鑑賞するように静かだった。


 「いたい……いたいっ……やめっ……やめてよおっ……!」


 レイは応えなかった。ただ一歩ずつ、丁寧に“壊して”いった。


 「坊ちゃまは……きっと、痛みなんて知らずに育ったんでしょうね」


 セレスの右前腕の内側に刃を沿わせる。


 「でも、最後の場所が大好きな温室とは、よかったですね?」


 刃が浅く滑る。皮膚の下に鈍い焼けが走り、筋が切れる“音”をセレスははじめて聞いた。


 「う、ぐ、あっ、あっ、ああぁあぁっ……!」


 口から泡を吹くようにして、喉を振り絞る。


 「痛いですね。──これは? こっちは?」


 レイはうっとりとした声で言った。


 セレスは震えていた。涙も鼻水も垂れ流し、美しさも品位もすべて地に堕ちていた。


 だが、レイは慈悲も軽蔑も持たなかった。最初から、感情など持ち合わせていないようだった。


 「足首を壊します。これで逃げられません」


 そう言って、刃が右足の内側に刺さる。


 骨に届かせず、腱だけを断つような、狙い澄ました切断だった。


 「ひ、あぁあああっ!! いたいっ、いたい、やめ、やめて、やめてってばぁ……っ!」


 その泣き声は、もはや誰に向けたものでもなかった。


 甘い花の香りに満ちた空気が、その苦悶の声を静かに包み隠していく。


 「この空気、ほんとうに好きなんです」


 レイが微笑む。


 「人の苦しみと、血と、甘い花の香り──ぜんぶ混ざると、まるで春の終わりみたいで」


 そして、彼は喉元に刃をすべらせた。


 最期の声は、掠れた息と血の泡に消えていった。


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