第10話 冷たき手の中で
回廊の角を曲がったときだった。
「あっ、いた!」
焦燥に満ちた声が空気を切った。
フィンだった。荒い呼吸と共に顔を歪め、その瞳は焦りに揺れていた。安堵の気配は微塵もない。
「……頼むからやめてくれよ。お前が勝手に動いてるなんてバレたら──俺の首が飛ぶんだぞ!」
肩を上下させながら、フィンは何度もレイを見回すように確認する。その眼差しは、まるで失くした子供を見つけた親のようだった。
しかし、レイは穏やかな笑みを浮かべて応じた。
「フィンさんがかけてくれた“隠れ身の魔法”、とても優秀でしたよ。音も気配も完全に消えるなんて、とてもすばらしいです」
まるで珍しい仕掛け玩具を手にした子供のような、無垢な声音だった。
「ぜひ、私も使えるようになりたいのですが……どうすれば、よいのでしょう?」
その一言で、フィンの顔から血の気が引いた。
「な……ななな、なにを言い出すんだお前は!?」
フィンは思わず声を荒げた。
「教えるわけないだろ!?っていうか、まさか……おい、まさか何かやらかしてないよな!? “騒ぎは起こさない”って、あれだけ約束したのに!」
「安心してください、フィンさん。私は約束を破るような男ではありません」
レイの言葉は穏やかだった。
「まだ、何もしていません」
「まだ」の一言に、フィンの顔が引きつる。
「……“まだ”ってなんだよ。何をする気だったんだよ……いや、訊きたくないな……」
レイは冗談のように肩をすくめてみせた。
フィンはしばらく沈黙していた。
何かを言いたそうに、口を開きかけては閉じ、もう一度開こうとして、また飲み込む。
その繰り返しの末、ついに大きく息を吐き、額に手を当ててぼそりと呟いた。
「はぁ……ほんと、俺の命がいくつあっても足りねぇ」
「で? 教えてくれないのですか?」
レイは歩きながら、何気ない調子で問いかけた。まるで道端で季節の花でも話題にするような、穏やかで無邪気な口調だった。
「教えないって言ったら?」
フィンは眉をひそめたまま足を止める。背中に冷や汗が伝っているのを自覚しながら、レイの横顔を盗み見る。
「……少々、口を滑らせてしまうかもしれませんね?」
レイの声はあくまで柔らかく、楽しげですらあった。
だが、そこに込められた意味は、柔らかさとは真逆のものだった。
フィンは苦虫を噛み潰したような顔で頭をかきむしる。
「お前な……! そういう脅し方をさらっとやるの、やめろって……!」
しばらく無言で歩いたあと、フィンは観念したようにぼそりと呟いた。
「……ったく。いいか? そんなすぐに習得できるもんじゃねえんだ、あれは」
レイは目を細めて耳を傾ける。
「まずな、魔法ってのは“魔力”を感じることから始まるんだよ。だが、そもそもそれができる奴が少ねえ。めったにいねえんだよ、ほんとに」
レイは興味深げに頷いた。
「魔力、ですか。なるほど──感じ取る“才能”ですね」
「お、意外と分かってるじゃねえか」
フィンは少し驚いたように返す。だがすぐに視線を戻し、肩をすくめた。
「だがそれがなけりゃ、知識をどれだけ詰め込んでも意味がない。魔力が感じ取れない奴に、魔法は絶対に使えねえ」
「ふーん……それは、どうやって?」
レイが首を傾げる。興味本位にも聞こえたが、その目には淡い光が宿っていた。まるで、答えの中に“何か”を探しているかのように。
「まずは……そうだな。みぞおちの奥、腹の中心あたりにある“魔核”ってやつの存在を感じ取ることだな」
フィンは少し歩調を緩めながら、指で自分の腹を軽く叩いた。
「それから、魔核から全身に枝分かれしてる“魔脈”──魔力の通り道だ──そいつを辿るように意識する。流れがわかれば、ようやくスタートラインってとこだ」
「魔脈……」
レイは小さく呟いた。足元の石床を見つめながら、その言葉を何度か口の中で転がす。
「つまり、体内の“魔力”の流れを感じ取れと。……意識で?」
「意識っていうか、感覚ってやつだな。目を閉じて、深く集中するんだよ。最初は何も感じねぇ。けど、たまにいるんだ。突然“感じる”ようになる奴が。お前がそうかは知らねぇけどな」
フィンはそこで歩みを止め、レイのほうを見た。
「……まさか、お前。もう何か感じてるのか?」
「いえ、まさか。感じ取れないかと思いましたが……やはり、すぐには無理ですね」
レイが肩をすくめるようにして言うと、フィンは胸を撫で下ろすような表情を見せた。
「……そ、そうだよな。そりゃそうだ。びっくりさせるなっての……」
口では軽く返しつつも、その頬には本物の安堵が浮かんでいた。
──もっとも、感じ取れたとしても大した意味はない。
フィンは内心でそう切り捨てる。
魔力の流れを知覚し始めてからが、ようやく訓練の“土俵”に立ったに過ぎない。魔力は使えば使うほど魔核を刺激し、その容量はゆっくりと成長していく。
だが、その成長が許されるのは“若いうち”だけだ。
成人を迎えれば、魔核の発達は止まる。いかに才能があろうと、それ以降は操作技術や応用で補うしかなくなる。
いまから始めるというのなら──多少は伸びるかもしれない。
だが、幼少から鍛錬を重ねてきた“俺たち”には、到底及ばない。
──せいぜい、無駄な努力をすればいいさ。
そんな思いをひそめながら、フィンはわずかに口の端を持ち上げた。
だが次の瞬間、その表情は凍りつく。
「……その目が、気に入りませんね?」
静かな声が、真横から聞こえた。
気づけば、レイがこちらを見ていた。
いや──見ていた、というより。
ぐるりと。
音がしそうなほどの動きで、レイの顔がフィンのほうへ向けられていた。
笑っていない。微笑でもない。
その瞳は、暗い夜の底のように沈んでいた。
「どこか……馬鹿にされているような?」
その言葉に、こちらを見ているようで何も映していないような瞳にフィンの呼吸が止まった。
体が、動かない。
全身を硬直させるような金縛りが、どこからともなく身体を縛り上げる。
見えない鎖に絡め取られたかのようだった。
レイが一歩、近づいた。
そして、両手を静かに伸ばす。
フィンの顔に、すっと添えられたその手のひらは、異様に冷たかった。
包み込むように、頬を覆う。
親指だけが立っていた。
その爪が、真っ直ぐにフィンの両目へと向かう。
「……そんな目で見るのはやめてくださいよ。ほんとうに、えぐってしまいますよ?」
囁きは、吐息と共に届いた。
やさしい声音だった。まるで恋人に触れるような仕草で。
けれどその奥にあったのは、底の見えない狂気だった。
フィンの口から、言葉にならない悲鳴が漏れた。
レイは、ぱっと手を放した。
まるで悪戯を終えた子供のように、あっさりと。
「ところでフィンさん──お願いがあるのですが」
にこり、と微笑を添えて。
フィンは反射的に、両手で目元を覆った。
「な、なんでしょうか……?」
喉が渇いていた。声が上ずり、足もとがふらつく。
レイはそんな様子をどこ吹く風といった顔で、軽やかにフィンの背後へと回り込む。
耳元へ唇を寄せ、柔らかく囁いた。
「ちゃんと、調べてきてくださいね? ……では、私はこの辺で」
意味深な声音だった。
そしてレイは、満足そうに背を向けた。
コツ、コツ、と石床を鳴らしながら歩き出す。
その背中は上機嫌に揺れていた。
「ど、どこに行くんだ……?」
フィンの問いに、レイは振り返らない。
「温室まで少し。──ちょっと、気になるものがあったので」
軽い口調だった。だが、足取りはやけに確かだった。
「……気になる?」
「ええ。所有者はもういないのでもらっておこうかと」
レイはそれだけを言い残し、歩みを進める。
フィンは言葉を失ったまま、その背中を見つめた。
いつのまにか、喉が乾いているのに気づいた。
蝋燭の明かりが闇に溶ける。
足音だけが、妙に耳に残った。
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