第145話 仄かな灯火
まるで迷宮・・・。
“見えない”の小さな手に引かれて、長く狭い通路や階段を抜けて、外に出たと思っても、全ては切り取られた四角の天井から見上げる空ばかりだけど・・・。
時間は・・・そうだ・・・明け方よりも1時間程前だろうか。
夜の闇と天の星を払い、夜明けを告げる鳥はまだ鳴かない頃。
暗闇ではあるが、空には星がまだ明るく輝き・・・まだ半分に満たない月が空に浮かんでいた。
・・・このチビはたった一人で、いつもこうしてこの城を横断して縦断して・・・上がったり下がったりして、自分の元へとやって来ていたのか、と改めて驚く。
ふいに潮の匂いがした。
・・・海水と言うよりは、汽水の、浅く根を張る草と泥と・・・水影に魚の潜む生臭い匂い。
この宮殿は、海や大河から運ばれた人員や品物が、船でそのまま運び込まれる経路がある。
遠征をして勢力拡大する度に、どっと首都に物や人が流れ込み、潤う仕組みは時差なしでそのまま宮殿にも反映されていると言うわけだ。
いくつかの拠点から人員と兵站が用意され前線に投入される仕組みの我が国に比べて、この国の補給と兵站の厚さは何なのだろうとずっと不思議だったのだ。
背後に、巨大な補給庫がある機構運用を構築していたのか。
・・・議会を通して追加予算を繰り返し前線を防衛していた自分たちに比べて、帝国の拡大が事業であるこの国は・・・当然、それは投資でもあり徹底して回収すべきものである。
これに比べたら、我々なんて・・・と改めて愕然とする。
物事は、やる時は
・・・でも、あの人でも、システムを根本から変えると言うのは、やっぱり難しかったのだろう。
・・・私達、"限られた塊だけで義務として体当たり"だもの。
おかげで、兄弟姉妹は沢山死んだ・・・。
繋いでいた小さい手に、ぎゅっと力が入った。
水の匂いが強くなり、目の前に、蔦のレリーフの鉄の門扉が現れた。
下の方は何か
後ろ
外側は、コンクリートやモルタルのようだが、中身は石造り。
昔の建築の名残であろう。
その独特の、暗さ・・・時間が止まったまま繰り返されているような不思議な感覚に、唇を噛む。
・・・ここは・・・地下牢か。
かつて
昔話だと、お姫様は大抵は塔の
・・・となると、ここにいるのは・・・。
小さな灯りに照らし出され闇に浮かび上がるように、壁に繋がれて腰まで水に浸かる目白の姿に、心臓から流れた血液が逆流しそうだった。
・・・精気は無い。
でも、死んではいない、という事に・・・安堵もし、絶望もした。
・・・この状況だ。
今は死んでいない、つまり、これから死ぬのだ、という・・・命の進路に恐ろしくなる。
“見えない”を端の方に立たせて、そっと頬を撫でた。
「・・・連れてきてくれたんだね・・・ありがとう・・・この人、私の、
自分たちの何気ない会話や、城の物事を見ていて、この小さい子供なりに判断したのだろう。
“見えない”はほんの小さく頷いた。
何段か階段になっていたが、すぐに深みに入り、腰まで浸かる。
冷たさが一瞬で骨まで凍えさせるようだった。
まるで蝋のような、石膏のような白い顔をそっと両手で包んだ。
「・・・目白お兄様、目白・・・ねぇ、
やっと会えたのに。
・・・ねぇ、なんでこの人、ここにいるの。
なんで、逃げなかったの。
あの時、
・・・アンタは・・・まだ、飛べたじゃないの・・・。
目白の怖いくらい冷たい頬に、無念さばかり滲んで、涙が止まらない。
冷たい舌先を吸って噛むと・・・ほんの少し反応が返ってきた。
「・・・アンタって・・・ほんと・・・お姫様みたい・・・」
・・・口づけで目を覚ますなんて。
目白の目に、小さな命が灯ったのに、
「・・・俺の
久しぶりに聞く声だった。
反響するように設計された大聖堂で、この兄弟子の声はいつだって、人として、人の魂を癒してきた・・・あの優しい声。
私の踊りなんて、歌なんて、神様をちょっと喜ばすだけ。
・・・誰かを救った事なんて、一度も無い。
でも、この人は、子を亡くした母親や、夫を亡くした妻や・・・人が生と同じように与えられる苦しみに寄り添って救って来た。
うん、と
そのまま命を分け与えるようにして体温を移していた。
ランプに油をほんの少し足すようなものかもしれないけれど。
「・・・なんてザマよ・・・アンタがなんでこんなこと・・・」
責めるようにそう言うと、目白が頷いた。
「・・・下手を打ったと・・・言わざるを得ないけど・・・」
かつて、戦線で敵に追われ敗走した時もこう言って・・・。
あの時も、この妹弟子は自分を助けに来た。
そうして、初めて・・・結ばれたのだと・・・言いたいけれど。
罪悪感が、無いわけではない。
違う母の腹から生まれたとは言え、父は同じ。
生きて死ぬためにタブーのハードルを下げている家令であっても・・・それは間違いなく、禁忌であろう。
・・・けれど、それでも。
この小さな
それは・・・たまらない満足感と・・・自分を肯定できる強い根拠だった。
「・・・大丈夫だよ。
そうか、とほっとしたように目白が呟いた。
自分たちに関わり、誰かに累が及び何か懲罰を受けるばかりか、海峡に沈むなんて冗談ではない。
あの小さい"栗の実"も、"小舟"も、きっと
ライサはまたいつか宮城に返り咲いて輝くかもしれないなんて考えるとおかしい。
そんな話をすると、目白が愉快そうにほんの少し笑った。
「・・・うん。いいな・・・そうであったらいい・・・だからさ・・・
目白がついと顔をあげた。
ねだられたのだと分かり、
「・・・ああ、不実な女め。だから
「・・・上の兄王は私が殺してやったからね。心臓をぶっ裂いて、首を捧げてやったんだけどさ・・・」
「まあ・・・私、尽くすタイプだから」
どこがだ、と目白が吹き出した。
「・・・よくやった・・・見事な舞だったとあのガラガラ蛇が言ってた。
「何言ってんの・・・私、神様の花嫁になるくらいの巫女だよ?・・・全員
気配を感じたもの。
我々の敵を打破しろと、力付けてくれたもの。
・・・だから私、あの黒獅子を迷いなく、殺せたんだもの。
「ああ・・・そうか・・・」
自分にはわからないけれど。
そうか。
・・・そうだったらいい。
アンタらが・・・破邪たれと育てたこの妹弟子は見事な女家令になって・・・とんでもない女になってしまったよ・・・。
自分でも気付いてはいないだろう。
それに気づかず、悩む事も無いだろう。
けれど・・・極めて歪んだまま・・・宮廷の備品、兵器、機能になったまま。
こう生きなくてもいい、幸せになれと・・・誰も、教えてやらなかったから。
・・・ああ、誰よりも喜びから遠く、不幸なのは、お前なんだよ、
・・・俺はね、そればかりが後悔なんだよ・・・。
「・・・
何の話だ?と
「・・・昔、
遠い目で言う目白の話を聞いていた
「・・・ウソ・・・やだ、ちょっと・・・冗談でしょ・・・」
「・・・うん・・・冗談じゃない・・・」
ちょっとゴメンね、と
「・・・どうすんの・・・アンタ・・・これ・・・」
「・・・どうしようもない。・・・間も無く、俺の処刑が、後宮で執り行われるそうだ。後宮は男の機能を持った人間は入れないからな」
処刑、と聞いて、
「・・・待って・・・待って・・・」
「いい。どうせ、お前だけ残してここを出るつもりは無かったんだもの・・・俺ね、暗いからさ・・・」
驚きつつ、暗いのは知ってる、と
「・・・だから・・・一緒に心中する気でいたんだから」
「・・・アンタ・・・何言ってんの・・・。私が、なんで・・・ここまで来たと思ってんの・・・?」
「うん。来てくれたのは嬉しかった。・・・信じていたよ、俺の
いつだって信じていた。
あの閉ざされた穴蔵みたいな貴賓室で、足を牙に噛まれていても。
こんな、大昔の水牢にいる今だって。
・・・戦場でだって。
「・・・お前が、病気で死にかけてた時も、
「・・・アンタ、バカみたい・・・」
・・・本当、バカみたい。こんな死にかけてて、なんで、"誓いの言葉"よ。
「・・・“私は翼。あなたの記憶に呼ばれなければ舞い降りる事の出来ない小さな翼。あなたの微笑みの風があれば私はきっとあなたのもとに。・・・愛しい方、私の静かの
突然、詩を口にした
「・・・うん、なかなかだな・・・
「・・・アンタのことよ、私の“静かの湖”」
目白が驚いた顔で
「・・・そうか」
・・・そうか。
まさかこんな愛の詩を捧げられるような日が来るとは。
・・・ああ・・・そうか。
・・・満足だ。
「・・・
一つ息を吸い、そして吐いて・・・一拍置いて、目白は水が流れるように、語り始めた。
・・・それは、この国の地勢、気候、兵力、兵器、生産能力、兵站線、進軍経路、補給拠点、そして敵軍が取り得る次の作戦行動までを含む軍事機密そのものであった。
・・・これだけのものを、閉じ込められていて・・・この人、どうやって・・・。
目白は全てを語り終えると、
・・・水を移し替えたような、仄かな灯火を移したような、命を託したような、そんな気分だ。
「・・・ああ、お前はやっぱり優秀な女家令だ・・・因業娘・・・俺の処刑は、後宮の“百花の庭園”で執行されるそうだ。・・・お前に見せる為だ。悪趣味なことだな・・・なら、どうか、見届けてくれ・・・愛しているよ」
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