第1話 鬼の国の迷い人
とても悲しい夢を見た気がする。
心の中にじわりとしみこむ感情が、目覚めたばかりの少女の心をさいなんだ。
布団から身を起こしたその少女の名前は
商人の家の娘であった。
香子は、翡翠山家に生まれた三人の娘の内の末っ子である。
歳は今年で16になり、一番上の娘は20、次は18であった。
三人の娘は、誰もが人目を引く美貌を兼ね備えていたが、それぞれその方向性は異なる。
長女は人を寄せ付けない氷のような美の持ち主で、次女は華やかで目立つ相貌の大輪の花のような美だった。
三女である香子は、素朴で愛らしく、野山に咲く小ぶりな花のように、親しみのある美を持っていた。
そんな姉妹なので、年頃になれば嫁にほしいと言うものは多かった。
三姉妹たちに直接惚れた男性が告白する事もあれば、家と息子を支えるためにと年頃の男性を持った父母が頭を下げに来た事もある。
それを受けて、長女は町の有力者の家に嫁ぎ、次女は似合いの美男子の家へ。
しかし、香子だけはそういった恋愛事には縁がなかった。
誰もが香子を愛らしく思い、善人であり、共に時間を過ごす事を快く思っていたが、なぜか人生の伴侶に名前を挙げる事はなかったのだ。
翡翠山家の人間はこれらの事実に大層首を傾げたが、焦るほどの事でもないと楽観視していた。
香子が20を超えるまでは。
結婚こそが、娘の幸せと考えた香子の両親は、焦りのままに見合いの場をもうけるようになった。
それまでは自然の流れにまかせるままにしていたが、さすがにと思ったのだ。
その結果、香子は一つの家と話がまとまったのだが、それがまさか香子が事故に巻き込まれる原因になるとは夢にも思っていなかった。
振動の激しい山道を一台の自動車が走っていく。
内部にいるのは、運転手と着物を着た女性、香子である。
香子が向かう目的地は、嫁ぎ先の家だ。
香子は浮かない表情で、嫁入り道具などの荷物を詰めた鞄と、空の曇り空を何度も見つめた。
(お母さんとお父さんは結婚をすれば、女性は幸せになれると言っていたけれど、本当にそうなのかしら)
自動車の窓には、香子の髪にある黒いかんざしが映る。
高級品をうかがわせる艶と素材のそのかんざしは、今回の嫁入りのために父が専門の者にわざわざ素材から作らせたものだ。
(私にはそうは思えないけれど、この年まで育ててくれたんだもの。彼らにそんな事言えないわ)
職につく意思を持った女性の社会進出は増えているが、まだまだ男性の方が優遇される時代。
美しいとはいっても、蝶よ花よと育てられた娘が苦労すると考えていたため、香子が婚期を逃す事は避けたいと考えたのだ。
しかし、香子は結婚に夢を見てはおらず、男性をこれまでに好きになった経験もなかった。
そのため、いまいち両親の価値観には賛同できなかったのだ。
(結婚する事が親孝行だというのならばするけれど、正直あまり気乗りはしないわ)
結婚に対して前向きではない香子が、自動車の中でため息をついていると、ふいに違和感を感じる出来事が起きた。
今まで順調に走っていた自動車が、ふらふらと蛇行し始めたのだ。
物思いに沈んでいた香子は、その異変に気付き、運転手の方を見る。
運転席越しに見る運転手の姿は、一部しか見えなかったが、何かただならぬ事が起こったのだと、一目でわかった。
力なく脱力した運転手は、腕をだらりと下げ、自動車の進路を制御していなかったからだ。
香子の頭の中は真っ白になった。
何かしなければ、と思う彼女だが、それが果たされる事はない。
蛇行し続けていた自動車は、ガードレールに激突し、突き破ってその向こうへ。
香子と運転手を乗せた車は、崖下に真っ逆さまに落ちてしまった。
時をほんの少し巻き戻し、鬼の国では一人の青年が通りを歩いていた。
名前は
よく鍛えられている事が伺える、精悍な体つきの若者だ。
歳は20で、鬼の国の長の息子である。
額に生えているツノは黒。
よく見るとその角にはいくつもの小さな傷があった。
一鬼は、国の各所を見回るのが日課だった。
国の長の息子として、自分にできる事をするためだ。
そんな一鬼を見かけた子供が走り寄ってくる。
「一鬼お兄ちゃん! またおいらたちと遊ぼうよ」
一鬼は面倒見がよく、困っている者を積極的に助けていた。
そのため、迷子になった経験のある子供に、よくなつかれるのだった。
「また今度な。今はやる事があるから」
「ちえー。今度は絶対遊んでくれよな」
一鬼は子供達の頭を撫でて、不満そうにする彼らと別れる。
街の中や人々の営みに問題がないのを見た後、一鬼は国の外へ出る。
一鬼たちが住む鬼の国は、人から見えない特殊な空間にある。
しかし、ごくまれに人間が迷い込む事もあるため、定期的に外も見回っていたのだ。
国の外に出た一鬼は、森の中を歩く。
そこで彼は、体力が尽きて倒れていた香子という女性を見つけるのだった。
目を覚ました香子は、知らない家の中に寝かされている事に気づいた。
部屋は和室で、壁には掛け軸や置物の花瓶がある。
来ている服は誰かが着替えさせたため、記憶のものと異なっていた。
戸惑う香子はあたりを見回す。
(一体どうしたというのかしら、体のあちこちが痛いわ)
最初はぼうっとしていたものの、徐々に記憶を取り戻すにつれて彼女は顔を青くした。
(そうだ。私は事故で……。運転手の人は助からなかった。なら私も?)
森の中から民家に移動している事で、あの世に魂が召されてしまったのではないかと危惧したが、香子の不安はすぐに晴れる。
「大丈夫か?」
香子が物思いに沈んでいる間、その部屋に一人の青年が入って来ていた。
黒い角の生えた彼の姿を見て、香子は仰天する。
(額に角が……! この人は一体?)
息をのむ香子の顔色をじっと見つめた黒鬼は、彼女の内心にかまわず尋ねる。
「体の調子はどうだ? どこか痛い所は?」
問いかけられた香子は、数秒の間を置いて、どうにか答える。
「だ、大丈夫です。あなたが私を?」
「そうだ。森の中で倒れていたからここまで運んできた」
命の恩人だと分かった香子は、自らが寝かされていた布団から出て、畳に膝をつき、頭を下げる。
「危ないところを助けて下さり、ありがとうございました。この御恩は忘れません」
「気にするな、目の前で倒れているものがいたら、誰だって助けるはずだ」
人とは違う姿をしているものの、目の前の存在は悪いものではない。
そう結論つけた香子は名前を名乗った。
「私の名前は香子と申します」
「俺の名前は一鬼だ。今日はもう夜がふけて遅い。この家でゆっくりしていくと良い」
香子が部屋の窓に視線を向ける
目覚めた時はそこまで気が回らなかったが、夜の闇が見えた。
この闇の中を女性一人で歩くのは危険だと考え、香子は彼の元で一晩だけ世話になる事にした。
白い遺跡の中を歩く影がある。
白い角の生えたその青年の名前は百鬼だ。
年齢は20で、一鬼と仲の良い鬼だった。
遺跡を守り、悪戯が無いように見張る仕事をしている。
見回りを終えた百鬼は、遠くから歩いてきた他の鬼から話しかける。
同年代のその鬼は、興奮した様子で喋った。
「
百鬼の脳裏に、子供の頃の思い出が蘇った。
一鬼と共に鬼の国から出て、人間の街へ出かけた時の事だ。
角をかくして歩く、人間の街は新鮮で、多くの人波にのまれながらあるいたその出来事は、百鬼には忘れられない出来事だった。
しかし、黒い角を持つ鬼にはとある呪いがかけられている。
そのせいで、一鬼は襲ってしまったといわれているのだ。
大変な騒ぎになる前に鬼の国に帰ってこれたが、あの時の出来事は一鬼に深い傷を残している。
一鬼は、女鬼に触る事ができないし、目を見る事も、話す事もできないのだ。
子供であっても同様で、年頃になって嫁を迎えなければならない時期だというのにと、彼の父親が嘆いていた。
子供の頃の出来事は、一鬼と百鬼との間の秘密であるが、彼の父親は何となく何があったのか察しているように思えた。
だから、一鬼が国の外に度々出て巡回する事にも寛容であったのだ。
一鬼の心の傷が癒えるような、何かのきっかけが得られるようにと。
この解呪の遺跡に、始まりの黒鬼の角がはめられる日が来れば、そもそもそういった問題の多くが解決するが、この世の中はそう物事がうまくいくようには、なっていないと百鬼は知っていた。
朝日を浴びて通りに立つ香子は、そこが人間の住む場所ではないという事実を、まざまざと突きつけられていた。
通りを歩く者達は、みな額に黒か白の角を生やしていたからだ。
(すでに分かっていた事だけれど、ここは本当に人間の世界ではないのね)
心の置き所が分からず、香子は目の前の光景をじっと見つめ続ける。
そんな香子に声をかけたのは、外に連れ出した一鬼だ。
香子が目覚めた事を知った一鬼は、(洗濯した元の着物が乾いていなかったために)鬼の国の服を彼女の元へもってきた。
その後、国で祭りを行うと言い、どうせならば見てから帰ってはどうだと持ちかけたのだ。
香子は家族や嫁ぎ先が心配しているから、と断ったのだが、子供達ががっかりすると言ったため、彼女は首を縦に振らざるを得なかった。
(人間のお客さんなんて何十年ぶりだから、って言われてしまったら断り辛くなってしまったわ)
家にいるはずの家族や、まだ見ぬ嫁ぎ先の者達を思いながら、香子は心の中でだけだため息をつく。
そんな彼女に、子供達が走り寄ってきた。
「本当に人間だ! 角がない!」
「一鬼お兄ちゃんのお嫁さん!?」
「鬼の国に住むの!?」
生命力ありあまる子供達は、香子の姿を上から下までまじまじと見つめながら、息継ぎする間もなくしゃべり続ける。
勢いに押される香子に配慮して、一鬼が彼女を隠すように子供の前に立った。
「こら、彼女が困ってるだろ。初対面の相手に無礼を働くんじゃない」
「「「ごめんなさーい」」」
彼らを見た香子は口元に小さく弧を描く。
種族が違っていても、子供のやる事はどこも変わらない。
わんぱくな子供達ではあるが、無邪気で素直な子供達なのだと香子は思った。
鬼の国の祭りは、人間の国で催されるものとあまり変わりはない。
出店が出たり、神社ーーだろうか?のようなものに人々が集まって、お参りをしていた。
ただ、目につくのは鬼の数も、店の数も少ないという事。
広い通りから神社に向かうまでの道は、左右にぽつぽつと出店が並んでいるが、それ以上増える気配はない。
通りを歩く鬼達の数も、香子がこれまでの人生で見た人混みよりもかなり密集度が小さかった。
そんな香子の内心に気づいた一鬼が、話しかける。
「少ないだろう? 鬼の数は、年々減っているからな。このままいけば彼らの未来はないんだ……」
憂いを帯びた声に宿るのは、複雑な感情だ。
悲しみと後悔と、そして一抹の寂しさ。
香子は一鬼の複雑な心模様を慮り、話をそらす事にした。
「けれど皆、楽しそうですね。特に子供達が」
そんな香子の心遣いを感じ取り、一鬼も話に乗る。
「ああ、一年に一度だからな。それに今年は、珍しい人間もいる」
「見世物になるのは気分が良くありませんが、無邪気な子供の視線なら仕方ありませんね」
香子が冗談めかしてそう言って、子供達に手をふる。
それだけで視線を向けていた子供達は、甲高い声ではしゃぎ騒ぎ始めた。
香子の言葉の内容は、含むところのない冗談だけだと分かり、一鬼は苦笑する。
鬼のお面とわたがし。
それだけを出店で購入して、香子は神社へたどり着いた。
人間の世界の通貨は鬼の国では使えなかったため、一鬼がすべて金銭を負担したものだ。
申し訳なく思った香子が、嫁入りの際にもたせてもらった黒いかんざしを手渡そうとすると、一鬼に断られた。
「好きでやっている事だからな、それに人間と触れ合った貴重な思い出にもなる」と言われて、香子は引き下がったのである。
お参りを済ませた後、人の少ない場所で、腰掛に座る香子は一人だ。
「喉が渇いただろう」と言った一鬼が、飲み物を買いに行ったからだ。
祭りの喧騒を感じながら、香子は離れた所で盛り上がる鬼達を見つめる。
皆、楽しそうにしているが、時折不安そうな表情を見せる。
物珍しい人間が一人でいるとなれば、近づくものが存在するはずだったが、一鬼が仕掛けたとある事柄の影響で、香子の元を訪れる鬼はいない。
(皆、とても楽しそうけれど、どこか無理をしているように見えるわ)
香子はこれまで見た鬼の国の様子を頭の中に思い浮かべる。
(今まで鬼の国があるなんて知らなかった。どうしてかしら。人間と触れ合ったりできない決まりでもあるのかしら)
何かしらの事情があるのだろうと香子は考えたが、その内容までは想像が及ばなかった。
助けてもらった恩返しをしたいと考えていたが、香子は自分の力がちっぽけなものであるとよく知っている。
(私が考えても仕方がないわね。一人の人間が出来る事なんてたかが知れているもの。それに私には特技らしい特技もないのだし)
暗い闇に沈んでいこうとする思考を引き戻すために、手元にある綿菓子に口をつけるが、その甘さはあまり慰めにはならなかった。
そんな香子に声をかける者がいた。
相手は、白い角を生やした女性の鬼だ。
きらびやかな着物を身に纏い、濃い化粧を顔に施している。
歳は香子より少し上で、17だ。
彼女の名前は
桃鬼は香子の事をジロジロと見つめながら、高圧的な態度で接する。
「あんたが一鬼が連れてきた人間の女? ふーん、あんまり私達と変わんないのね」
気おされた香子はのけぞり、相手から視線を逸らす。
そんな香子の態度を見た桃鬼は、声を甲高くして小さく笑った。
「あははっ、気弱なの? なら、今から言う話を聞いたら気絶しちゃうかもしれないわよ」
口の橋を釣り上げて邪悪な笑みを浮かべる桃鬼は、両手を広げる。
彼女は、香子の言葉や反応などかまいもせず、話を進めていった。
「一鬼は人を食った事がある鬼よ。気を付けないと、あんたも食われちゃうかもしれないわね」
香子は桃鬼のような女性が述べる言葉を、まるごと信じたわけではなかった。
しかしもたらされた情報は、血の気が引くには十分な話であった。
香子がいるのは、彼女が今までいた世界ではなく鬼の国。
何があっても、香子の味方がおらず自力でどうにかしなければならないのだから、そういった常にない状況が、彼女の心を惑わせていた。
「忠告はしたわよ。一鬼をしんようしないことね。じゃあね」
笑みを崩す事なく、桃鬼はその場を去っていく。
派手な着物の背中を見送って数秒してから、香子は知らずに止めていた息を吐いた。
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