いつか貴女とハッピーエンドを
砂山 海
前編
「ごちそうさまでした」
私はカルボナーラとサラダがあったお皿とそれを作ってくれた彼女に手を合わせると、軽く頭を下げる。いやほんと、頭が上がらない。だってソースからベーコンまで自家製で作ってくれているんだもの、そこらのお店で食べるより美味しいのがここにあるのだから。
「よかった、喜んでくれて。文香が美味しそうに食べてくれるから、いつも嬉しい」
そしてご飯もそうだけど、こうして食後に満面の笑みをくれる栞がもっと好きだ。
「だっていつも美味しいんだもん。今日のカルボナーラなんて何回食べても美味しいし、昨日作ってくれた鶏肉のご飯もすっごい美味しかったしね」
「あぁ、シンガポールライスね。あれは初めてにしては我ながら上手にできたと思う」
「おかわりしちゃったもんね、二人とも」
「うん……でも、同じ物を食べてるはずなのに文香の方が細いのが、ねぇ」
若干いじけた眼を向ける栞だが、別に太っているとは思えなかった。むしろ巨乳でほどよく肉付きも良く、私が男だったら絶対に無視できないスタイルで羨ましい。羨ましがられてはいるが、私なんてただ痩せているだけで魅力があるかと言われれば、客観的に判断しても微妙だと思う。胸もお尻も小さいのがコンプレックス。でも、栞はそれがいいといつも言う。人って分かり合えないものだ。
「そんなすねてる子には折角今日アイス買って来たんだけど、やめよっかな」
「えっ、なにそれ。どこの何味?」
栞が目を大きくし、身体を乗り出してくる。
「限定商品のピノのダブルベリートロピカルミックス味。好きでしょ、栞」
「うわぁ、そんなのずるい。我慢できるわけないじゃない。明日、100グラム増えていても許しちゃう」
「じゃあ、食後のデザートとして一緒に食べようか」
「洗い物終わってからでいい?」
「いいよー、栞のためなら待つよ」
にんまりした笑顔を浮かべながら栞は上機嫌で洗い物を始める。私はソファの定位置に移動し、テーブルの上に置いてある雑誌を手にしながら、そんな彼女を覗き見していた。これからの事を考え上機嫌で歌まで口ずさんでいる栞、普段の彼女からは想像もできない姿を私が独り占めしている。一緒に住み始めて三年経つが、まだまだ栞との生活は新鮮味に溢れている。
私達が同棲するキッカケとなったのは大学二年生の時だった。私と文香は同じ映画研究会というサークルの仲間で、新歓コンパの時からなんとなく馬が合い、仲良くなっていた。小難しいフランス映画は苦手で、でも爆発ばかりのハリウッド映画もあまり好きでは無く、トゥルーマンショーみたいなコメディの奥に潜む人間の悲哀と希望みたいな映画が好きという共通点から、部室のみならず学食も共にする仲になっていった。
もう一つ私達に共通していたのは、お金が無かったって事だ。これはほとんどの大学生に対して当てはまるんだろうけど、私と文香は地方から出てきていたため一人暮らしをそれぞれしていたから、なおさらだった。だからバイトと勉学の両立に疲れていたし、色々工夫はしていたけれども若い欲求は止められないわけで、あれこれ欲しいものもたくさんあった。新しいスマホも欲しいし、服も欲しい。飲み会にも行きたいし、新作の映画もチェックしておきたい。でもバイトの数を増やすなんてそれ以上は無理。そんな最中に、いつものように文香とご飯を食べていた時に不意にこう言われたのだ。
「じゃあさ、ルームシェアしない?」
突然の提案を笑って却下するどころか、私は率直にいいかもと思っていた。二人で住めば家賃は半額になるし、食費や栄養バランスもきっと改善される。何より他の誰かだと嫌だったかもしれないが、文香とならいける気がした。趣味も合い、空気も合い、笑いのツボも一緒だったのだから。私がその案に同意すると文香は驚いた顔をしていたが、すぐにノリノリで部屋を探し始めた。
提案から一ヶ月後、二人での生活が始まった。2LDKの部屋に家具家電はそれぞれ持ち寄り、良い物を使うようにした。使わない方はすぐにリサイクルショップに持っていき、そのお金でお互い欲しかった生活雑貨などを買い足し、新しく楽しく煌びやかでオシャレな新生活の足しにした。私の中でそれはすっごく楽しかった。カーテンの色一つにつけてもお互いゆずれない部分があったし、キッチンマットを敷くか敷かないかでも意見を交わし合ったし、便座カバーを使うか使わないかでも話し合った。でもその違いを埋めるのが何だか楽しくて、自分と対等の人と住むんだという実感を得ていた。
新生活は物凄い高揚感があった。文香の事をよく知っているつもりだったけど、一緒に暮らし始めて改めて知るズボラさ。とにかく片付けができないし、家事炊事もひどいものだった。それでも一緒に帰ればすぐににぎやかになり、どちらかが遅くに帰ってきても「ただいま」を言えば「おかえり」と返ってくる嬉しさ。嬉しい事や嫌な事があってもすぐに話せるし、相談も泣きごとも言い合えた。二人で気になっていた映画を見てはすぐに批評を言い合えるのも素敵だった。そんな私達だったから。お酒が入った時にふと私の方からこんな事を言いだしてしまった。
「ねぇ、彼氏ができるまでの間、お互い付き合ってみよっか」
「えっ、私と栞が? ……いやまぁ、いいけど。でもどうしたの?」
「んー、こう一緒に住んでたらさ、新婚さんみたいだなぁって思ってね。でまぁ、私も文香も彼氏がいないからさ、なんかどうせ一緒にいるなら気分だけでも味わいたいなあって」
「いやぁ、栞のそういうとこ可愛いよね。絶対みんなの前ではそんな事言わないのに、こうして一緒にいたらたまにすっごい可愛い発言ぶっ込んでくるんだもん」
「いやほら、お互いどっちかに彼氏ができるまでね」
「わかってるって」
ちょっと気分を味わうため、そんな新生活で浮かれていた想いから始まった私と文香の交際は思いのほか順調に進んだ。一緒に映画館に行ったり外食したり時にはぶらぶらと公園を歩いたりと、それまでとさして変わらない事をしていても一応付き合っているという事実が私達をときめかせた。時にはケンカももちろんしたが、おおむね仲良く、いや時には友人以上のものが心に燃え上がっていた。文香が彼氏だったらいいのに、こんなに私をわかってくれる人が運命の人ならいいのに。今思い返せば恋が始まっていたのかもしれない。でもその時はそれ以上の事を考えるのが怖かった。もし文香が違う思いを抱いていたらどうしよう。小さなズレだとしても、デリケートな問題だからこそ埋められない差になってしまうだろうから。
そんな悶々とした思いを抱きながら迎えた二人きりのクリスマス。ケーキとチキンと奮発した赤ワイン。形式上のカップルだけれども雰囲気だけはしっかり味わおうと一緒に内装も凝った。そして二人でワインを一本空けようかという頃、文香が突然キスしてきた。
「……恋人同士だから、キスくらいはね」
酔っている以上に頬を染めている文香が妙に可愛くて、色っぽくて、不意を突かれてされるがままのキスに私はやや呆然としていた。向こうも本気なのかな、それとも単に酔っているだけなのかな、どう返せばいいのだろうか。そんな戸惑う私の様子に我に返ったのか、文香は唇を離した。
「ごめんね栞、ちょっと酔っていたみたい」
すっと目線を外し泣きだしそうな感じの文香の肩に手を置くと、私は改めてキスをした。
「好きだよ、文香。私、飲んでるけど、まだ酔ってないから」
「栞……私も栞が好きなんだよ」
奪い返すキス。私の唇をこじあけ文香の舌が入ってきた時には驚いたが、同時に嬉しくて幸せな気分になった。私は抱きしめ、文香の口内を更に舌でまさぐる。文香も負けじと返してくる。そして間もなくキスだけでは飽き足らず服の上から触っていた胸などを直に触りたく、服を脱ぎ、より激しい愛撫へと移ろい……身体を重ね合った。酔っていたってのもあったが、お互いに抑えていた想いもあったのだろう、脳みそが焼け焦げるような昂奮を帯びながら文香を抱いた。自分で自分が止められず、小柄な文香が私の腕の中で果てて涙ぐむ度にまた私に火が点き、止まらなかった。
翌朝、隣に裸で寝ている文香を見て一瞬とまどったけど、すぐに愛しさが勝り抱き寄せた。文香は私の胸の中で心地良さそうに笑い、おはようと一言伝えると、ぎゅっと背中に手を回してきた。素肌で感じる相手のぬくもり。この日から私達の関係は本当の意味で始まった。付き合いたての感動と燃え上がる性欲に溺れてしばらくは毎日エッチをした、一緒にいる事が愛情の証と思い込んでべったりといつも傍にいた。だけどお互いにちょっとだけそれに疲れてから、お互いの時間を大切にするようになった。
今は二人とも定職に着いているため、金銭的な余裕もあってか気ままに好きなように過ごしている。無理に干渉もしないようになった。ただ、愛情は確かにある。楽天的で前向きな文香の傍にいれば元気になれるし、守ってあげたくなる。身体の相性もいいし、文香よりも素敵な人はきっといない。男女問わずに、だ。きっとそれは向こうも同じだと信じている。だからこそまだ同じ部屋にいながらも、一向に出て行こうとしない。
「あー、そういえばさぁ、こんなの届いてたんだよね」
新作のピノを半分ほど食べた頃、不意に夕方届いていた郵便物を思い出し、栞に差し出した。
「なにこれ……結婚式の案内状?」
「そう、しかもアキちゃんと新堂君の二人がだよ。ほら、覚えてるでしょ、同じサークルの」
「そりゃ覚えてるけど……えーっ、あの二人付き合ってたんだ」
栞は眼を丸くして案内状に食いついていた。それも仕方ない、だってアキちゃんはどちらかと言えば映研にはおよそ似つかわしくないギャル風で、部員からは若干浮いていた。対して新堂君と言えば群を抜くほどの映画オタクで古典から最新作まで、文学からアニメまで幅広く網羅しており、人生のすべての時間を映画に捧げているような人だった。
「アキちゃんが押したのかなぁ」
「そりゃそうでしょ、新堂君なわけないよ」
「でも、新堂君だってあれだけ映画観てたから素敵な台詞だって幾らでも言えるかも」
「知ってても似合わないなぁ。でも、人は見かけによらないもんね」
「そうだね。いやでも、結婚かぁ……もう、みんなそういう歳になっていくんだろうね」
「そうだねぇ」
ついこの間まで学生で結婚なんて遠い未来に思っていたのだが、こうして近い知り合いが結婚するとなると、なんだか現実が私に思い切りビンタしてきたみたいな気分になった。毎日が幸せでそこそこ楽しくて、気付けば一日一年過ぎて行くのに、心はまるで成長していない気がする。でもそれなりにがんばっているのだからこれでいいかもと思っているところにこれだ、世の中は私以上にがんばって進んでいるのだろう。
「栞は行く?」
「んー、会社の予定見てからかなぁ。七月は特に何もないと思うんだけど」
「私も明日会社行ってから決めるかな」
「それがいいよ」
すっとそこで話が途切れると、なんとなくお互い目を合わせずにテレビの方へ目を向けた。画面の中ではお笑い芸人達が身体を張っており、笑い声が響いているが私も栞もくすりとも笑わなかった。ちょっとだけ柔らかくなったピノももうさっきよりは美味しくない。少しだけいたたまれない気分になったが、すぐに布団に入るのは気が引けた。どうせ寝られないだろうし、それに何だかこの場から立ち去る事が現実から逃げている、そんな気さえしてしまっていたから。
「私、もう歯磨いて寝るね」
「あ、うん。私はもうちょっとだけテレビ観てから寝るね」
先に席を立ったのは栞だった。私は栞の背中を少しだけ見送ると、気付かれてはいけないとテレビに目を向ける。普段は笑って観ているテレビも何だか味気ない。そうして彼女が歯磨きを終えておやすみと呟き終えてから一時間後、ようやくテレビを消した。しんとした室内に響く冷蔵庫と窓の外から聞こえる遠いバイクの音。明日も仕事だからと小さく溜息を吐くと立ち上がり、今日は栞が寝ている部屋に行かずに自分の部屋に行こうとしたのだが、ふと足を止めた。そうして結婚案内状を再び手に取る。
「結婚、かぁ」
もし栞と結婚したらどんな感じになるんだろう。今の生活と変わるのかなぁ。そもそも、恋愛と結婚の違いって何だろうか。単に戸籍上の問題だけなのかな。女同士だから子供はできないけど、その分ずっと働けるからお金の余裕はできそうだ。美味しい物も食べられるし、旅行にだって行ける。まぁ、お互いインドア派だから気になった本とか集めるから相当な量になるかもしれない。うん、いいなぁ、少し大人な私達。
あー、でも私片付けられないから物が増えたら栞が大変になるかも。栞が忙しくなれば部屋は片付けられないし、料理もできないしで……どうしよう。やっぱり少しずつ片付けとか料理とかできるようにならないといけないかなぁ。甘えてばかりじゃなく、少しでも栞を支えてあげないといけないってわかってるんだけどな。
重たい溜息と共に結婚案内状を置くと、私も寝る準備を始めた。
カタカタと小気味よいタイピング音が途切れず自分のキーボードから奏でられる事が、私の仕事上の小さなモチベーションの一つだった。黙々と作業をするのは苦ではない、むしろ好きな方だ。それに一枚ずつ書類が作成され、仕事が減っていくのが心地良い。途中で追加発注があっても問題ない、それを上手にさばく事に優越感すら覚える。
「課長、日比谷木工さんの見積書です」
「八嶋さん相変わらず早いねぇ。お疲れ様、あとで目を通しておくよ」
かなり太めの課長はちょっとだけ苦しそうに身体をひねって書類を受け取る。そしてその書類を机の上に置くと、のんびりとパソコンを操作する。私からは見えないが、下世話なニュースを見ているのは知っている。でも、そんな事はどうでもいい。
「八嶋さん、このデータ打ち込んでおいてくれるかな」
「わかりました」
先輩から書類を受け取ると、私はさっそくそれに目を通す。同じくして先輩は後輩を連れ立ってタバコ会議に向かう。傍から見れば仕事を押し付けられているように見えるかもしれないが、職場での暇が一番困るので、仕事はあるに越したことはない。それに上司や先輩が仕事に追われて余裕がなくなり、ピリピリした雰囲気になる方が困る。
私が勤めているのは中小というよりは零細よりの鉄鋼製造メーカーで、社員もパートも少ないからかアットホームな感じである。社長の家族みたいな感じで接する職場であり、そのためか飲み会もやや多い。同期は私一人だが、先輩も後輩もくだけた感じで接しているのが見ていて微笑ましい。
そんな会社にあって私は誰とも馴染まずにいた。別に無理して距離を取っているわけではないし、気取っているわけでもない。単に職場でプライベートを話すことが嫌だっただけだ。職場はお金を稼ぐ場所であり、それ以上でも以下でもない。だから誰と仲良くなるわけでもなく、ただ黙々と仕事をしていた。
普通ならそんな態度だと嫌われるだろう。しかしここではそれが口下手だが仕事熱心で真面目と好印象を持たれていた。先輩達も私に仕事をよく回すのは嫌っているからではなく、単に私がやった方がミスが少ないからだというのを入社して半年ほどで気付いた。そしてそのおわびにか、気付けば私の机には缶コーヒーがよく置かれている。
「八嶋さん、また井上さんから打ち込み頼まれたんすか? あの人、いっつも八嶋さんにばかり任せますよね」
一足先にタバコ会議から戻ってきた後輩の本木君が私のパソコンを覗き込む。
「井上さんの仕事って急ぎじゃないのがほとんどですから、後でやってもいいんじゃないすかね。ほら、八嶋さんさっき課長に見積書できたの渡したんですし、一休みしましょうよ。どうすか、俺と昼飯でも。今日こそ行ってくれます?」
私はパソコンと書類を交互に見るだけで、彼の方へは向かない。
「井上さんの他にも片付ける仕事が残ってるから、また今度ね」
「えぇー、いつもそうじゃないすか。ほら、この前美味しい中華屋さん見つけたんですよ。一緒に行きましょうよ」
「場所だけ教えて。今度行くから」
「だから今日一緒に」
「本木こら手前ぇ、八嶋さんの邪魔してねぇで手前ぇの仕事してろバカ」
課長の怒声に本木君は逃げるように私の所を離れて行った。課長は正直あまり仕事のできる人ではないのだが、こういう気配りは上手だ。私はありがたく思いながらもらったデータを打ち込んでいくのだが、頭の片隅では別の事を考えていた。
それは昨日の結婚式の案内と文香の様子。昨日は近しい人がこの歳で結婚という事にちょっと驚いて文香と上手く話せなくなってすぐに寝ちゃったけど、朝起きたら何だか文香が落ち込んでいた。寂しくさせてしまったかと思ってとりあえず謝ったが、それを否定しながら出社してしまった。もしかして新堂君かアキちゃんが好きだったのかなぁ。
それよりももっとウェイトを占めていたのが結婚って事だった。結婚って、まだ二十三なのにもうするんだ。いや早い人は早いし、うちの親も二十五と二十七だから同じくらいだけど、それでも驚いた。まだ時間はあるはずなのに、生涯の伴侶として決断した事に。ちょっと前まで学生だったのにそんなお金のかかる社会儀式を行う事に。何より結婚と言われても自分に何のイメージもわかない事を決断できた事に。
もし文香と結婚したらどんな感じだろうか。趣味が合うし、笑いのツボも同じだからきっといつも明るい家庭になるだろう。それに文香は怒りを引きずらない人なので、例えケンカになっても長くてその日のうち、大抵が二時間程度で解決してしまう。今でも心地良いと思える生活なのだから、長い年月を重ねれば更に良くなるだろう。
でも、結婚って二人きりの問題でも無いだろう。今では同棲婚も認知されつつあるが、実際に世間の目はどうなのだろうか。文香との関係だって誇らしいが、声を大にして言うのには躊躇がある。それに両親にはなんて言おうか。職場のみんなにしてもそうだ。今は好意的な眼で見られているが、それだってどう崩れるかわからない。考えれば考えるほどに重たくなってくる。単に好きな相手とだけするものではなく、相手の家とも付き合わなければならないし、世間とも堂々と向き合わないとならないのだから。
「お昼行ってきます」
打ち込み速度が鈍ったなと思うとすっと席を立ち、課長に一声かけると事務所を後にした。今日はいつもの定食屋でサバ塩でも食べようと思っていたが、やっぱり中華にしよう。気分だけその気にさせておいて、先に店の場所くらい教えてくれてもよかったのに。仕方ない、ちょっと歩くが角の中華屋さんにしよう。あそこは品数こそ少ないが、美味しい。
なんて無理に前向きに持っていこうとするが、どうしてもさっきの結婚に対する重さが頭から離れられなかった。よく二人ともそんな重いものを抱えて一緒にいられるものだ。私はまだ、いいかもしれない。文香の事は好きだけど、まだいい。それでいい。
何故だか文香の笑顔が頭から離れなかった。
うぁー、今日も一日がんばったなぁ私。疲れたなぁ。
人ごみの中、想いを声に出すのははばかられ、表情も変えずに家路に着く。今日は別に特別忙しかったわけではないが、それでも一日働けばそれなりに疲れるし、そう自分を労わないとやってられない。そして本当は一刻でも早く家に帰ってダラダラしたいが、習慣にしている一駅手前で降りて歩いて帰ることだけはやめない。私は栞と違ってあんなに胸は無いし、色気も無い。だからせめて痩せているだけのこの体型をキープしておかないと。
あまり口にはしないし、話題にもしないが、学生時代から栞はモテていた。本当はちょっと優柔不断で無愛想なだけなのにクールだと思われ、かつ大学一年生の時から妙に色気のある身体をしていた。そんなのモテないわけがなかった。だから私達が一緒に住み始めた時には周りから結構妬まれた気がした。
そんな栞と同棲して初めてわかったんだけど、他の人にはクールと思われる素振りをしているのに、私の前ではすごくデレるって、なにそのギャップ。私も栞にはよく甘えるけど、栞のそれはずるい。普段は高貴なクジャクみたいな外面のくせに、二人きりだと子犬みたいな瞳で見つめるんだもの。差がつけられる一方だって否が応でも分かる。だからこその一駅ダイエット。小さな積み重ねがきっと、栞を離さないはずだ。
あー、でも栞がこの前言ってたケーキバイキングのお店気になる。超行きたい。色々美味しそうだったけど、特にブルーベリーの入ったやつとガトーショコラが美味しそうだったなぁ。栞はモンブラン好きだけど、私はあまり好きじゃないから譲ってあげよう、うん。でもやっぱり色んな種類をたくさん食べたいから、明日から一週間くらいは二駅ダイエットにしようかなぁ。
疲れていても嫌な事があっても、なるべく楽しい事を考えて歩く。夕暮れの風が気持ち良い、行き交う人々の景色が面白い、季節の空気が美味しい、一歩一歩進む度に新しい自分になっていると思えば楽しい。信号で停まっているのはフェラーリだろうか、真っ赤な車体が格好良い。珍しい物が見れてラッキーだ。
途中途中にあるコンビニの誘惑に負けずに歩くが、どこかの家から漂うカレーの匂いに空腹が刺激され気持ちが傾き始めた頃、ラインの着信音が聞こえた。
マッキーからだ。
マッキーは私達の大学のサークルの一つ上の先輩だ。誰に対しても気さくな人で、かつ察しが良い。と言うのも私達がルームシェアを始めて二ヶ月くらいした頃、学食でゴハンをおごってもらっていた時に私が栞の事を好きじゃないかと思うんだけど、どうかな、なんて言ってきた。
一緒に生活しているうちに初めて見る栞の魅力に惹かれつつあったのは事実だけど、他人からそう言われてすごくドギマギした。思えばそれからハッキリと栞の事を意識したのかもしれない。ただまぁ、後で知ったのだが栞も同じような事を言われたらしい。焚きつけられたと言われればそれまでだが、背中を押してくれたと思って感謝している。
だからあのクリスマス以降、誰よりも早く私達の関係に気付いた。当時はからかってくるのかと、それとも偏見の目を向けて蔑むのかとも思ってなるべく一緒にいないようにしていたのだが、同じサークルのメンバーだからどうしても顔を合わせる事もある。ある時不意にマッキーと二人きりになってしまい、距離を取ろうとした私に対してマッキーは相変わらずな調子でつらっとこんな事を言ってきたのだ。
「あー、俺も女だったら混ざれたのかなぁ、そのルームハウスに。うっらやましいなぁ」
心底残念そうな顔をする彼に毒気も抜かれ、私はぽかんとしていた。そうしてすぐマッキーがこう続けたのを今でもハッキリと覚えている。
「ま、人には色々あるよな。俺はさぁ、女の方が好きだけど、恋愛なんて誰を好きになろうが、どれを好きになろうが、当人の問題だもんな。一方通行じゃない恋を見つけられたんだったら、大切にしてやれよ」
その時は感動してちょっと泣いたんだと思う。あぁ、この人は素直な気持ちで祝福し、私達を見てくれるのかなぁって。そんなマッキーの言葉があったから……いや、ちょっと待った、別の事も思い出してきた。後で聞いたんだけど、栞にも同じような事を言って泣かせたんだった。しかも栞には抱きたかったんだけど私とそういう関係なら諦めるよ、仕方ないなんて言ったとか。なにそのセクハラ。しかも私に対しては抱きたいとかそういうのは一切言ってこなかったくせに。いや、マッキーにそんな目で見られても迷惑極まりないのだが、なんかこう、モヤモヤしてきた……。
あぁ、そうだ、ラインの内容見ないと。
我に返り、歩きながらスマホをいじる。歩きスマホは危ないと言われている昨今なので決して褒められた事ではないが、好奇心には勝てない。ちょっと急ぎの仕事が入ったので仕方なくラインを確認してますよ、なんて誰に対しての言い訳かわからない雰囲気を出しながらラインを開くと、大して可愛くもないキャラのスタンプが踊っていた。このどこで拾ったのかわからないけど、絶妙に惜しいセンスの無さがほんとマッキーっぽい。
『おつかれさん。新堂と館林が結婚するってハガキ来たんだけど、お前ら行くの? どっちにしろ、一回飲まない?』
私はちょっと迷ってから行きます、飲みにももちろん行きますと返信していた。
今日も私の方が早く帰れたので余裕を持って夕飯の支度をしていると、力無い文香のただいまが聞こえてきた。学生の頃はそんなのあまり気にもしていなかったが、社会人になってそれぞれの大変さがわかる。だから私は精一杯明るい感じで、おかえりと返す。
「随分大変だったみたいだね、声が死んでるよ」
「あー、うん、仕事は別にいつも通りだったんだけど、ちょっと昔を思い出してね」
文香は疲れた顔で私の横を通り過ぎ、クローゼットに会社用の服をかけていく。
「昔?」
「いや、大した事じゃないんだけどね……そうだ栞、マッキーからライン届いてる?」
「えっ、マキさんから? いや、知らない」
「また未読なんでしょ」
「うん、まぁ」
「早く見た方がいいよ。私にも来たけど、同じ内容かどうかわかんないし」
文香が部屋着に着替えながら呆れた感じで一つ笑う。いつもの事なのだが、私はメールやラインをすぐに読まない。本当に緊急な用事なら電話してくるだろうと思っているから、メールなんかは緊急性の低い物と認識している。せめて今日中に読めばいいかくらいの感覚だ。なんなら明日でもいい。つまりは面倒くさい。
渋々料理の手を止め、スマホを起動させると六件もの未読があった。全部マキさんからだ。何をそんなにと思いながらアプリを開くと、興味津々な様子で文香が肩越しから必死に覗き込もうとしていた。私はその場に座り込むと、文香にも見えるようにしてあげた。身長が十センチも違うと、日々こうした気遣いも必要だ。
『おつかれさん。新堂と館林が結婚するってハガキが来たけど、しおりん行くの?』
『ふみっちにも送ったけど、まだ返信無いんだよね』
『どっちにしろ、一回飲んで色々話したいよね~』
『ちなみにしおりん、次に会った時にあんまり色気振り撒かないでよね』
『自覚無しエロってこわいわー。どうにかなっちゃうよ、俺だって』
『てかこれ、ちゃんと見ろよ』
……まったく、何をいつもバカな事ばかりよこすんだか。マキさん実は人を良く見て真面目な人だって知ってるのに、たまにこういう偽悪的な事をするから悪趣味だ。別に顔立ちも悪くないから普通にしてればあの性格だからモテるし、私達に割く時間があるなら彼女の一人とでも仲良くすればいいのに……なんて考えていたら肩越しから文香の唸り声が聞こえてきた。
「どうしてマッキーはいつもいつも栞にだけ色気とか言うのよ~」
歯ぎしりすら聞こえそうな恨みがましい言い方に驚き、私は振り返る。
「いや待って文香、マキさんは論外なんでしょ。そういうの無いんでしょ」
「無いけど。でもいつも栞ばっかり女を褒められるのってへこむんだよ」
「いいじゃないの、別にマキさんなんだし」
「勝者の余裕~」
文香はずるずると私の肩口から崩れ落ちて行く。私は小さく息を吐くと振り返り、文香の頭を胸元へ抱き寄せた。
「……そうじゃなくて、私だけが文香の本当の色気を知っていたい。独り占めしていたい。それに建前でどうこう言われるより、本気の好きで晒した姿を文香にだけ知っていて欲しいの」
「栞……大好き」
文香が抱き締め返してくる。小柄な文香だけど、意外と力がある。だからこうしてしっかりと抱き締められると、心の奥が疼く。小さく私の名前を連呼しながら何度も息をするように抱き締めてくるのが好きだ、それだけで理性が徐々にそぎ落とされていく。そして文香が私の胸に手を這わせてくる。ゆっくりと外側から緩急をつけて揉み、同時に首筋にキスをしてきた。このままこの流れに乗ってしまいたいのだが……。
「いやちょっと待って、ご飯支度の途中だから。食べるの遅くなるから、後でしよ」
その時は空腹が僅かに勝っていたため、すがる文香を必死に引きはがすと料理を再開した。憮然としていた文香もご飯を食べ進めるうちに機嫌が良くなっていった。食事が終わるとすぐに洗い物を終え、ひと段落してからテレビでも見ようとソファに腰掛けた途端、文香に押し倒されてキスされた。
「あっ、ちょっと、ダメだって栞……私の番なのに」
でも文香はいつもそう。襲ってきても愛撫し返しているとすぐ、感じ過ぎて動けなくなる。それがまたたまらなく可愛いから、今日もしばらく動けなくなるまで攻め返した。そしてお互いに満足すると、笑い合い、手を繋いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます