怪人白ポスト
中川多聞(中川パロロ)
全文
【二〇二四年一二月一日】
水流が渦を作り、柔らかい糞塊は下水へ押し遣られた。排泄物が便器に飲まれゆく様を、茫然と傍観する男。彼の名は
妙に長い用便を済ました禪は、鈍重な足取りで居室内を移動し、薄い布団に首から下を潜らせた。二一時まで一〇分余。天井の蛍光灯は未だビカビカとしている。勾留された容疑者が消灯を待たずして床に就く事は珍しくない。取り調べによって味わう精神的痛苦と、娯楽の不足から来る退屈が、活気を失わせるのだ。禪も同様であった。眠っているのか起きているのか、生きているのか死んでいるのか分からない漠漠とした面持ちで、仰向けの姿勢をただ取り、目を瞑っていた。
妙なことには、禪のみならず、彼の身柄を拘束した警察当局すらも、彼が実際に罪を犯したとは考えていない。推定無罪の原則に基づきそう判断しているという事ではない、彼の無実を殆ど知っているのだ。では、なぜ逮捕・拘置に至ったのか? その答えを読者諸氏に理解して頂く為には、二ヶ月前から発生した「白ポスト」殺人事件を、順序立てて記述する必要がある。当該事件は文句の付けようもない未解決事件であり、その記録は治安維持権力の完敗を示している——不可思議な猟奇犯「白ポスト」は、自らの殺人欲求を満たしながら、ついぞ尻尾を出さなかった。いかなる捜査も奴の正体を明らかにする事は叶わず、真相の一端を知り得たのは、「白ポスト」が惨殺した数名のみであった——。
【二〇二四年一〇月一八日】
一九時頃、通報を受けた禪は、後輩巡査と共に、何何市内のある庭付一軒家へ向かった。受話器の向こうから聞こえた声は著しく震えており、衝撃的な事物を見てしまっての通報である事は分かりやすかった。巡査は声の主を憐憫しつつ、物騒な事件に関わらざるを得ない、自分の立場をも哀れんだ。
目的地までは五分と掛からなかった。パトカーの車輪がブレーキの快音と共に止まり、赤い回転灯の光が家屋の外郭を断続的に照らす。邸の入り口である鉄格子門の前には、女が項垂れていた。
白黒の車両を見るや否や、乾いた声を張り上げ張り上げ駆け寄った女。禪はそれを見、幽霊にでも出会したような心地になった。車窓へ張り付かんばかりに接近した彼女は、驚愕と動揺のあまり、唇を戦慄かせ、眼球が飛び出そうな程に目を剥き、散り散りに乱れた前髪を面上に這わせていたのだ。女の呼気は窓に白い曇りの丸を描き、遠回しに彼女が生者である事を証明していた。肝を冷やした禪はドアを開けた勢いで女を押しのけ、助手席に座していたもう一人の巡査と外へ飛び出した。途端、女は警官達から目を逸らし、門の中へ走した。何か我々に見せたい物があるのだろう、一刻も早く見せたいものが。そう判断した二人は、彼女を追って門内へ入った。角張った石畳に、革靴とレディース・ブーツの足音が何度も響く。制服に覆われていない手や顔が、初冬の空気に引き締まる。女は玄関ドアの前に辿り着いた途端、それまでの慌ただしさとは打って変わって足を止め、禪達へ振り向きながら、扉を開けた。
上り框に、男がグッタリともたれ掛かっていた。巡査達は神妙な顔で彼に近づき、観察した。首に深い傷が入り、少量の皮と肉で辛うじて繋がっている。それ故に、頭はほんの少し余計な力が加われば、ポトリと土間に落ちてしまいそうな程不安定だ。斬られたのは首のみならず、洋服の上下とネクタイもまた、鈍な刃物によって滅多矢鱈と切り裂かれている。ジャケットの内側にあるシャツには、血が染み込んで余りある。
注意深く観察するまでもなく気付いた事が、禪にはあった。この死体の素性である。顔を一瞥してすぐに誰と理解し得た。下膨れの顎、楕円形の銀縁眼鏡——彼は元文部科学政務官、現何何市議会議員、そして当該一軒家の家主、
田柱は公約のわかりやすい政治家であった。「日本の表現の自由を守る」という題目を掲げ、若年層向けの漫画やアニメ、ビデオゲームなどの規制につながる政策への反対意見を議会において提言し、インターネット上でその仕事振りを宣伝していた。「オタク」を自称していた彼の、「キャラ付け」にも似た極端な振る舞いは、大衆の中に身を置く軽度の「オタク」層に熱烈な支持者を増やした反面、「表現の自由という言葉を使っている割には、一部の大衆文化しか守れていないのではないか」という旨の懐疑や批判に基づく、剣呑な敵対者をも生んでいた。
門側から甲高いサイレン音が鳴り響いた。救急車である。通報者——田柱婦人——がパトカーと並行して出動を要請していたのだろう。しかし負傷者の命を救うには遅すぎた。彼女は強く目を閉じた。
【一〇月二四日】
田柱の死体が発見された後、直ちに捜査が開始されたが、警察当局の労苦に見合う情報は、容易には出現しなかった。事件現場から採取された指掌紋・抜け毛・皮脂は、同定調査の結果、すべて田柱夫妻の物であると判明した。犯人のそれと思わしき物は無かった。また、刑事課の警官によって被害者の人間関係も探り回られたが、殺人犯の特定に有効な証言は得られずに終わった。第一発見者である田柱夫人は、彼女自身の証言によれば、自宅で夫の亡骸を目撃する直前まで、趣味の一人カラオケに赴いていた——事件当日、某カラオケチェーン店の監視カメラに映っていた彼女の姿が、発言の裏打ちとなった——。
政治家である被害者の事、政治的事件の中で殺されたのではないか、という疑いを持った一部の刑事は、田柱が勤務していた何何市議会の他議員数名に、そうした事件の有無について問うたが、彼らは政治家の手先が殺した可能性を否定した。そして、「彼のやり口を嫌っていた民間人に襲われた、と考える方がまだ自然だ」という旨のみを述べ、冷や水を浴びせたのであった。
【一〇月二五日】
謎という霧の中へ、足掛かりが突然生まれたのは、田柱殺害から丁度一週間後、何何大学法医学研究室によって死体の司法解剖が完了した折であった。亡骸の腕に、包丁の類を用いて文字が刻み込まれていたのである。
白ポスト
刃物傷は、そう読める配置になっていた。この刻字の発見以降、捜査関係者達は当該事件の犯人を「白ポスト」と仮称し始めた。単なる名付けと侮るなかれ、この把握によって、事件を追う人々は、謎多き猟奇者の輪郭をある程度捉えたのである。
そもそも「白ポスト」は、この殺人事件を以て初めて世界に産み落とされた造語などでは決してない。二〇世紀から既に、日本各所へ置かれていた物の名である。この設備の沿革の原点には、戦後の悪書追放運動がある。一九六〇年代、東京都において青少年健全育成条例が施行され、不健全図書という括りが、定義も曖昧なままに公的なものとなった。これと機を同じくして、警視庁と市民団体により装置されたのが、有害図書を児童へ触れさせないための悪書追放ポスト、すなわち白ポストなのである。権力者からの表現統制という側面と、市民大衆の自主的な活動としての側面を兼ね備えた代物であると言える。
白ポストの外見は、置かれた自治体によって微妙に異なる。郵便物投函用のポストを白く塗った物、薄い鉄箱に投函口を空けた物——いずれにも共通しているのは、「有害な雑誌・情報媒体をこのポストに入れてください」という旨の文言が、大きく書かれている事である。白ポストに「投函」すべきとみなされた「悪書」は、設置当時発行部数が増えていた、通俗性・猥雑性の強い週刊誌や、刺激的な漫画本等であった。
時代が進むにつれて「白ポスト」の効果は薄れていった。不健全な雑誌やマンガは書店のみならず、コンビニエンスストア、スーパーマーケットにも置かれるようになり、インターネットを用いれば老若男女問わず刺激的なコンテンツを楽しめるようになった。二一世紀に入る頃には、有害図書を箱の中に封じ込めて子どもの視界から離す白ポストは、完全に形骸化した。
市民団体の根強い想いからか、撤去の手間を惜しんでか、二〇一〇年代に至って尚、一部地域の駅前などに「白ポスト」は残存していた。それ故に、現在の高校生や大学生、即ち若年層の中にも、この設備を知る者は存在する。
白ポストに関する予備知識を深めるにつれ捜査関係者の誰もが、こう考えるようになった——殺人鬼「白ポスト」は、有害図書やそれを守ろうとする者を激烈に憎んでいる。不健全な作品への規制を、身を焦がす程強く望んでいる。漫画アニメに迎合し、「表現の自由」を汚す政治家を殺したのもそれ故であり、悪書追放の象徴を名前として背負い、犯行現場に残すのもそれ故である——。
この推理推測は、後述する第二の「白ポスト」事件によって、より確実なものとして扱われ始める。
【一〇月二六日】
午前中、禪巡査の勤務する交番に、またも緊迫した通報が入った。住所は地下鉄何何市駅から程近いマンション。先の事件みたく有名な邸宅ではなかった。彼は同時間帯に勤務していた後輩警官に、パトカーの運転を一任すると、目的地に到着するまで、黙して助手席に座し、思案に耽った。車中にいる事も忘れ、カーナビの無感情な話し声に生返事さえした。
政務官殺しの犯人が「白ポスト」と仮名を付けられた事、そして、白ポストという文化・設備に紐づいた犯人像の解析は、警察官として既に彼も知るところであった。次なる被害者を出さない為に、一端の警察官として、殺人鬼の居場所を探るには何をするべきか。刑事事件の詳しい捜査は交番勤務の巡査ではなく刑事課が行うため、禪が「白ポスト」事件を追う必要は無いのであるが、そうであるからと言って無関心でいられる性分ならば、彼は警察官という職業になど就いていないのだ。凶悪犯罪者が放置されている間、何何市に住む市民は、結果的に害を被らずとも、犯人逮捕まで不安を抱え続ける。巡査はそれがどうにも悩ましかった。
どの地域にもある店ばかりの市街地が、窓外を目まぐるしく流れてゆく。画一的な街並みの中、ふと禪の目に留まったのは、駅看板であった。偶然にも特定の地名を間近に見た禪は、己のボンヤリとした感覚、自分がいる場所が曖昧になってしまった感を、解消する事に成功した。そして、彼は思い出した。かつてこの駅前にも、「悪書追放」の旨の何某が書かれた、あの白塗りポストがあった事を。
「そうだ、あれ、いつの間に駅から無くなって……」
「禪さん、降りてください、体調悪いんですか?」
後輩巡査の声。無骨な音。彼は既に車を出ており、外側から助手席のガラス窓を裏拳でゴンゴンと叩いていた。車は件のマンションの、駐車場に静止している。
被害者は当該建築物の一室を賃借していた男性、
男は部屋着と思わしき衣服を身に纏い、玄関扉の方を向いてフローリングにうつ伏せ、死んでいた。うなじから腰にかけて縦横無尽に切り刻まれ、扉へ向く腕には、両手首から先が無かった。断ち切られたのだ。だらしなく緩んだ袖から、血溜まりが伸びていた。玄関と一直線に繋がる部屋奥の窓が大きく開いており、カーテンが音もなく揺れていた。中山は窓からの侵入者に背後を取られ、襲われたのだ。
禪は視線を床から上げ、周囲を閲し、本物の手を探した。それらは部屋の隅、散らかった机上、被害者が普段使いしていたと思われるデスクトップPCの、文字盤の上に力無く置かれていた。その様子はさながら、両手が身体から分離し、ひとりでにコンピュータを操作したかのようであった。断面である手首近くの皮膚は、鋸の類を以て切られた事でズタズタになっていた。そしてモニター上の文書には——。
「やっぱりお前か、「白ポスト」」
田柱の死は報道されたものの、殺害方法、犯人像に関する詳細は秘匿されていた。「白ポスト」の模倣犯が現れたという事は有り得なかった。
禪は殺人を利用した意識誘導に、自分が巻き込まれた事を腹立たしく思った。一思いに何か蹴ってやりたいとまで思ったが、今が今立っている場は初動捜査も済んでいない事件現場である。彼は力の籠った舌打ちをかまして苛立ちを発散させると、薄手袋を嵌め、冷静に現場を検証し始めた。
まず禪の目に付いたものは、机の右側、大型パソコンの横に並ぶ、書籍の背表紙であった。「ぷにぷにいもうとは隠れマゾ」「すーぱー無敵のロリ巨乳JS 対 催眠デカチンおじさん」「爆乳ロリエルフは人間様に完全服従いたしましたぁぁっ♡」——いずれも、軽薄で扇情的な題名と、丸っこい題字、そして、恍惚とした女性の絵があしらわれていた。
「これは……」
禪の違和感は、こうした本が、人目につく机上に並べられている事にあった。性欲発散目的のエロ本を、インテリアのように露出させていたのは何故だ?いくら一人暮らしであるとはいえ、あまりにも欲求に明け透けでは? そう思ったのである。
巡査の様子に気付いた中山の弟が、口を開いた。「あー……こんな状況だし隠すのも良くないですね、兄貴は、東次郎は成人向け漫画を描いて生計を立ててたんですよ。要するにエロ漫画家だったんです。こいつらは言ってみれば、兄貴の仕事用の資料です。ペンネームは……そうそう」彼は話のままに、背表紙の一番下に記された名前を指差した。全て「みちまろ」という同一のペンネームである。
腑に落ちる禪であった。よくよく見ればエロ漫画の横には「ポージング集 女性編」といった、漫画家らしい資料もある。
「僕が定期的にここへ来てたのは、彼の生存確認の為です。僕もよくは知らないんですけど結構売れっ子だったらしくて、仕事が忙しいと丸一ヶ月身内に連絡せずに引きこもる事もあるんで、生活習慣病とかで倒れてないか定期的に確かめに来てたんです。今日もそれで……まさか、こんな死に方するとはね……」
スマートフォンでウェブの検索エンジンを開き、件の名前を打ち込む禪。間も無く、「みちまろ」の作品が、ビッシリと彼の目の前に、検索結果として表示された。骨格的に付くはずのない巨大な乳房を身に備えた非実在女児が、一昔前の学校指定水着を着、ランドセルを背負い、男の腕で首を絞められ、絶頂する一枚絵や、肉付きの豊かな「アニメ顔」の女性が、全裸になり、服従の姿勢を取る犬のように腹を見せながら、蕩けた笑顔で男性器に服従宣言をしている漫画の一頁、身体を殴り、罵詈雑言を浴びせかけながら犯してくる相手に、アニメキャラが嬉しそうに謝辞を述べる一コマ——。
禪は顎に手を当てた。犠牲者が出てしまった事は悔やむべきだが、今回の殺害により、「白ポスト」の動機が、有害図書の制作に携わる者、及びそれを擁護する者の粛清であるという事が、より明確になった。
現場検証を行う捜査員が数人、その他警察関係者が数人、部屋へ訪れた。約六畳の部屋にごった返す人々の中には、「白ポスト」事件の捜査を陣頭に立って指揮している、何何市警察署の刑事、
「ご無沙汰ですね」
「そうでもないだろう……禪巡査、あんたに話しておきたい事がある。何何市駅前の白ポストの事だ」
刑事が言及したそれは、先程から禪の頭の中に引っ掛かっている事象でもあった。駅の風景からスッポリと欠けてしまった白ポスト。街に潜む殺人犯の名前の由来。彼は上半身を刑事の方へ乗り出し、傾聴の意思を示した。
鴻野は「白ポスト」という仮称が出た時点で、かつて何何市駅前に件の物が設置されていた事を、思い出していた。当該設備と事件との関わりを探る為に、彼は駅周辺地域の町内会員、とりわけ、白ポスト運動に携わっていた者と接触を図った。そして運よく、駅前の白ポストを管理していた、齢八〇を超える男性から話を伺う機を得たのである。
男の話によれば、五〇年前、彼は警察の後援を受け、町内会の数人の同志と共に、市内各地に白ポストを設置した。二〇二〇年のその者達は、彼を残して全員他界し、市内の白ポストも殆ど取り除かれたのであるが、駅前の最後の一台—男が担当していたポスト—は、彼による維持・管理が続けられていた。しかし今年の一〇月初頭、持病によって死期が近いと診断を受けた老爺は、心中するかのように、自身の半生と共にあった存在の、撤去を決断したのであった。しかし、その時に妙な事が起こった。正式な処分を待たず、白ポストが紛失してしまったのである。撤去を取り決めてから、業者が処理施設へ運ぶまでの約一週間、白ポストはゴミを入れられないよう投函口を塞がれ、駅に放置された状態にあった。しかし、いざ業者が到着してみると、白ポストはその場から消え失せていた。業者の戸惑う連絡を受けた老爺も、自ら駅へ赴き確認したが、確かに台座もろとも無くなっていた。
「自分で言うのもなんだが、なぜあんなものをわざわざ横取りするのか、と」
殺人者「白ポスト」の名を知らない老人は、怪訝げに語った。その反面、彼の話を聞いた刑事は、興奮で目が丸くなっていた。一〇月の始め、即ち田柱が殺される少し以前に、白ポストが何者かに盗まれていたのである。
「やったのはほぼ間違いなく奴だろう。白ポストの理念を体現する為に、箱を自分のものにしたんじゃないかと思うのだが」
話を一連聞いた禪は、唸った。興味深い事実ではあるが、事件の解決とどう結びつけたものか、殺人事件に不慣れな巡査には見当が付かなかった。もっとも、荒事の処理を得意とする刑事にもよくは分かっていなかったのであるが。
現場の人混みや、目の前の惨殺死体をよそに、新たな謎に悩む二人。彼らは、部屋の入り口近くを囲むテープの近くで、怯えながら聞き耳を立てていた少年に、気付かなかった。
【一〇月二九日】
この日、市街のパトロールを終え、交番前へ帰着した禪は、入り口扉の前に、様子のおかしい何者かが立っているのを発見した。いかにも憂鬱そうに俯き、時折嘆くように顔を手で拭っている。線が細く、黒い詰襟がダブついている。
「君、その制服ってことは、近くの公立中学校の生徒だよね。今平日の昼間だけど、なんでこんな所にいるの?」
巡査に話しかけられ、学生は顔を上げた。長い前髪から、半べそをかいて潤んだ黒目が見え隠れしている。その容貌には小動物の雰囲気がある。
「僕を逮捕してください。「白ポスト」が人を殺したのは僕のせいです」
涙声で訴える少年。禪はギョッとした。その通り名は未だどのメディアも報道していない筈だ、と。
「どういう事だ? 君が「白ポスト」として田柱と中山を殺したのか?」
学生は続ける。
「僕が直接やったんじゃないんです、でも、僕がいなきゃ起こらなかった事件なんです。あいつは、白ポストに身を隠して、さまざまな刃物で人を殺す、表現規制の権化は、僕が作り出した化け物なんです」
禪はまたも驚いた。警察当局しか知らないはずの犯人像についてスラスラと言及した少年の肩を、禪は強く掴んだ。
「……冗談で言っているなら今すぐ帰りなさい。ただ、本当に何か知っているのなら、中で話を聞く」
交番内のパイプ椅子に座し、紙コップに入れられた緑茶で唇と喉の渇きを癒し、少年——名前を
中学校から程近い何何駅前の白ポストが無くなった折、澪は面白半分である噂話を作り、同級生に話した。それは、白ポストが撤去されたのではなく、「自我を持って動き出した」という旨の、怪談話であった。付喪神の要領で、白ポストに魂が宿り、中から手足が生え、怪人と化した。この化物は有害図書を生み出す人間、それを享受する人間を殺す為、今日も何何市のどこかを徘徊している——短い話だったが、それ故に気安く語り継がれ、アッと言う間に学内に広まった。それに伴い「怪人白ポスト」には当初無かった様様な特徴が付帯された。都市伝説が語られ語られ、恐怖の存在としての表象を変貌していったのだ。彼が話を作って一週間も経たない内に、「怪人白ポスト」は、「全ての刃物の性質を持つ魔法のノコギリを持ち」、「最長三メートル伸びる腕を無数に生やす事が出来」、「箱で隠した素顔を見られると、見た者をどこまでも追いかけて殺す」、人間離れしたモンスターと化していた。
自分の創作した話が校内へ拡散し、内心歓喜していた澪であったが、間も無くこの作品は、彼の胸を締め付ける不安要素に豹変した。そのきっかけとなった出来事は、中山東次郎の死である。今から三日前、あるマンションに住む友人と遊んだ帰り、少年は不運にも事件現場——中山の死亡したあの一室——を通っててしまった。澪はそこで殺人者「白ポスト」の名を聞き、事件現場の手前までコッソリ近付いて、警察の話を盗み聞いた。
彼の耳に、無慈悲にも入り込んでくる情報の数数。「前と違う凶器」「白ポストを被った殺人者」「田柱議員を殺した者と同一人物」「被害者は成人漫画を描いていた」——怪人「白ポスト」の実在をマザマザと思わせる言葉を、聞いてしまったのである。
「僕の考えた化け物が現実になって、人が死んでしまいました。元凶は自分です。あんな話作らなきゃよかった。自分が殺したと言われても反論できません。見て見ぬ振りをするのが苦しくて、自主しようと思ってここに来ました」
澪は震える声で懺悔した。禪は口を挟まずにそれを聞き通した後、少年と目線を合わせ、キッパリと言い放った。
「君を逮捕する事はできない。空想上の怪物が実体化して、現実世界を生きる人間に危害を与えるなんてことは。はっきり言ってあり得ない。キャラクターが画面から飛び出す事はないんだ。ゲームと現実は区別して考えなさい」
少年は突き放されたような感覚を覚え、反抗的に口をせぐりあげた。巡査は続ける。
「「白ポスト」の正体は、君の広めた噂話を模倣した、人間だよ。そして、殺人の責任は中学生の噂話に影響を受けて人命まで奪った犯人にある。君に罪はない」
陽が沈む頃、澪は交番を去った。その後ろ姿や足取りは、話を聞く前よりも、軽やかであった。禪はデスクの固い椅子に腰掛けながら、緩慢に息を吐いた。少年の気を沈める為にああ言ったものの、警察官としては彼を疑う必要がある。繊細そうな少年が、一時の気の迷いと極端な思想に溺れ、加害を行なった後、罪悪感に耐えられず周りくどい自首を行なった、そのような筋書きを検証する必要があった。
【一一月九日】
禪は安堵した、澪の無実が殆ど確定したが故に。
二件の殺人事件が発生した日の死亡推定時、少年は個別指導の学習塾に通っていたのだ。市内某塾の勤怠情報や講師の言から、その事が明らかになった。しかし、この現場不在証明は犯人の特定作業が後退した事をも意味していた。紛失した白ポスト、それにまつわる都市伝説、どう結びつけたものか……巡査はこの頃、暇さえあれば当該怪事件の事をばかり考えるようになっていた。
「禪巡査いるか」
ガラス戸の外からガサついた声。鴻野であった。禪は彼が手早く室内に入り、ストーブへ近寄る様を、椅子に腰掛けたまま眺めていた。
「何かあったんですか?」
「これから「白ポスト」と疑わしい人物に話を聞きに行く」
やにわに立ち上がる禪であった。刑事は続ける。
「殺された田柱と中山には、共通点があった。二人ともインターネット上でしばしば、敵対者から辛辣なコメントをされていたんだ」
「田柱はそうだと聞きましたが、中山もですか」
「描いてるもんの内容が内容だったからな。現実にやってたら児童の強姦に当たる事ばっかし。SNSでそういう絵をあげるもんだから、基本的に趣味の悪いロリコン以外はいい顔しねえ。当然、本人に手厳しく当たる「アンチ」もいた。余裕で誹謗中傷に当たる言葉を「みちまろ」にネット経由で送ってた訳だ。まあ気持ちはわかる」
禪は相槌代わりに茶菓子をかじった。
「そういうネットアンチにに目星を付けさせてもらって、サイバー犯罪対策課に開示を依頼したらな、一個、探りを入れるべきアカウントが見つかった訳だ」
鴻野はストーブへ屈めていた体を伸ばし、腰にトントンと拳をぶつけた後、スマートフォンの画面を禪に見せた。一四〇字以内の短文で、日常の不満を「ボヤく」ことに特化したオンライン・プラットフォーム「ボヤッキー」の、ユーザーページである。ユーザー名の欄には「さなみー」とあった。
慣れた手つきで液晶画面をスクロールし、「さなみー」の過去の書き込みを見せる鴻野。
(田柱が死ぬ直前の「ボヤき」)
「T柱みたいなアニメ漫画を人気取りの道具にしてる政治家も それについていく芯も教養も品性もないブヒりたいだけのオタク気取りTアノンも死ねよマジで それが嫌なら アニメに影響を受けた性犯罪者に犯されろ 女の子たちの身代わりに」
(一〇月一九日、田柱の殺害が報道された直後の「ボヤき」)
「今日はちょっと高い酒買っちゃおっかな〜!!!!!理由は明言しませんが!!!!!」
(中山が「みちまろ」という名義で、一般企業の広告ポスターの絵を担当した事を受けての「ボヤき」)
「ごめんちょっと本当に無理、「それとこれとは別」とか言ってられないマジで。性暴力賛美で得た知名度で一般の仕事もらうって何考えてんの?」
「「ポスターそのものにエロ要素は無い」とか屁理屈言ってんなよ精神小学生オタク共 キ◯ガイなのはあの恥知らずエロ絵描きだけで十分だから 有名になった手段が問題なんだよ 戦争協力した作家と変わんねえんだってあいつは」
「私に粘着したり「み…まろの方がフェミのアンチよりも理性的」って言ってるオタク共、マジで認知歪み過ぎてるから脳の病院行った方がいい、実生活ちゃんと遅れてる? 敵ながら気の毒になってくる」
「「エロ漫画家が一般向けのポスターやったらダメなのか」ってキレるオタク、「AV女優がテレビ出たらいかんのか」ってキレてるおっさんと似たものを感じる。その行為自体は合法でもそれに至る知名度を得た手段に問題があるんだよ。いつまでゴミみたいな屁理屈こねてズリネタ守ってんだよあいつら」
「なんでみtまろみたいな性犯罪者が呑気に生活してレイプ漫画描けて名誉も得て、懸命に生きてる女の子が尊厳失って心身のバランス崩して貧乏しなきゃなんないんだよ つくづく性差別に甘い国ボケボケボケボケボケ」
(一〇月二七日、中山の殺害が報道された直後の「ボヤき」)
「殺されでもしなきゃ人の痛みが分からないって神様が判断したんだろうな 世の中捨てたもんじゃない 地獄で自分が描いた漫画みたいに無理矢理レイプされてちっとは反省してくれ」
「同程度のアンチは他にもいたんだが、サイバー犯罪対策課の調査によれば、何何市内のパソコンから書き込んでる奴はこいつしかいなかった」
「これから、「さなみー」の中の人に、話を聞きに行くと」
「ああ、近場だから、時間あるならあんたにも付き合ってもらおうと思ってな」刑事は戸外を見つめた。
「向こうの公立中学校で社会科の教師やってる、
交番近くの中学校——禪の脳裏に、昨日の懺悔が蘇った。
正一八時、市立何何中学校応接室の照明は、いやに明るかった。壁の四隅、机や椅子の足元まで明瞭であった。しかし、クッキリと照らされた室内とは裏腹に、そこに座す人間達の面持ちは暗かった。禪・刑事と向かい合って腰を下ろす、当該中学校の校長と、真井直美。校長は暗色の分厚いジャージを着、真井は長袖の徳利セーターと緩めのパンツで身なりをまとめていた。
応接室が密室になる事を防ぐ為、扉は少し開けられていた。中学生達の他愛無い日常会話や、野球ボールの金属バットに打たれる音などが時折聞こえる。
「今月、ここ何何市内で発生した二件の殺人、ご存知ですか。政治家の方と、漫画家の方が殺された、あの」
「はい」
真井の目には強い警戒の色があった。
「この近辺で怪しい人物など見かけませんでしたか」
「特には」
「ありがとうございます、少し話は逸れますが、この学校で”白ポスト”の化け物の噂が流れていたのはご存知ですか?」
「知りません……あの、それ事件と関係ない事ですよね?」
強い語勢の裏にある怯えを、禪も鴻野もそれとなく感じ取った。
「いえ、あるんです。あの事件、警察はおそらく同一人物による犯行だと考えておりす。まだ報道はされていないのですが、事件現場に「白ポスト」という共通の単語が残されておりましてね」
輪を掛けて強張る真井。
「そうなんですね」
「生徒の方から当校でローカルに「白ポスト」の化物の怪談話が流行っていると伺ったんです。改めて伺いますが、本当に「白ポスト」の噂話について、聞いた事はありませんか?」
「知りません」
「あなたはこの学校の教師で、生徒の駄弁りも否応なく耳に入るはずです。全く知らない、ということは考えにくいのですが……」
「……そう言われてみれば、生徒が話してるのを、なんとなく、聞いたことがある、かも……しれません」
「なぜ先ほど、はっきり、「知らない」と?」
「生徒の雑談を覚えとくほどこちらも暇じゃないので」
「なるほど、ありがとうございます」
「あの、はっきり言いますけど今のって誘導尋問ですよね」
「そう取られるような発言であったかもしれません。不快になりましたのであれば、謝罪致します」
鴻野の返答は淡々としていた。後ろめたい事情を抱える者は、生返事を返され続けると、歯痒さを感じ、挑発されたように苛立つ。刑事はその心情をよく理解していた。彼は落ち着き払ったまま次の一手を指した。彼女をより一層動揺させる為の一手を。ブリーフケースからクリアファイルを取り出し、クリアファイルの中から、折れ曲がらないよう数枚のA4寸尺紙を取り出し、机上に置いたのである。そこに印刷されていたのは、「さなみー」の「ボヤッキー」プロフィール画像と、数件の書き込みのスクリーンショットだった。
瞠目し、肩をいからせる真井。部下の私生活を垣間見てしまった気がし、それとなく書類から目を逸らす校長。
「こちら、あなたの運用しているアカウントでお間違えないですか」
溢れ出すほどの時間を掛け、はい、と返した彼女の仕草は、まるで臓腑に激痛が走っているかのようであった。太腿に爪を食い込ませ、蒼白とした顔面に汗を滲ませ、歯を食いしばり——-。
「これはプライバシーの侵害です」
「申し訳ございません、どうしても捜査の都合上、殺された人物のインターネット上での人間関係にも焦点を当てざるを得ず」
眉間に深い皺を寄せる真井。彼女は激しく膝を揺すり、卓上の茶の水面に、意図せず波紋を描いた。
「でも殺したのは私じゃないです」
絞り出された早口。
「ええ、私もそうは思っていません。あくまで捜査の一環として、形式的に確認させて頂いただけです」
鴻野は、半分嘘をついた。真井が犯人である可能性は強いと考え、細身の彼女が成人男性を惨殺する事は至難だとも考えていた。刑事は直接的な証拠を欲していた。彼女が「白ポスト」の怪談を知らないと偽った事は、当然ながら決定的な証左にはならない。「ボヤッキー」での発言も然りだ。彼は根気強く平静を装い、質素な返事によって彼女の自発的な語りを促そうと企んでいた。
もっとわかりやすいボロを出してくれ、それでなくとも、事件解決に繋がる証言を出してくれ——-そのような想いが、刑事の瞳の奥に、暗い執念の火を灯した。
「田柱と中山が殺された一〇月一八日、二六日は、何をしていましたか」
「何をって」
スマートフォンを取り出し、予定表を確認する真井。
「まあ、平日なんで、仕事です」
「お仕事の中で、何か変なことはありませんでしたか? 変な行動をしている生徒がいた、ですとか、「白ポスト」に関する噂話ですとか」
「覚えてませんよ、そんなこと」
いちいち、と、彼女はかなり小さな声で付け加えた。
「ほんの些細なことでいいんです、事件とは直接関係ない事でも構いません」
「事件に関係ない事まで話す義務が、私にありますか?」
女教師の声は震えていた。
「いかんせん手掛りの少ない状況でして……警察の不得の致すところです」
「なんとかしてください……多分この日だったと思うんですけど、生徒が私に、黒板消しを落としてきました」
「ありがとうございます。他に何かありませんでしたか?」
「別に……」
「では、その日、お仕事が終わられた後は何かされませんでしたか?」
「そこまで聞くってことは疑ってますよね」
「そう思われたのであればお詫び致します。ですが先程も申し上げた通りあなたが犯人だとは思っておりません。証拠もありませんからね」
「ならどうして……」
「警察もこの事件、なかなか手掛かりを掴めずにおりまして……申し訳ない」
刑事と真井の質疑応答は、優に一時間を超えた。中学校における月並みな出来事、何何市における茶飯事、先の書類依頼、衝撃的な情報は現れず、退屈極まりない会話が続いた。禪と校長は、聞き込みの最中、二人に分からないよう、手を口に当てて考え込む振りをしながら、何度か欠伸をした。
真井の動向・周辺状況について、隈無く聞き込んだ刑事であったが、ついぞ、彼女の言行に目立つ違和も、決定的な不調和も発見し得なかった。
「長々とお時間を取らせてしまい、申し訳ございません」
真井は二人の謝罪に対し、何の言葉も返さず。その代わりに、向かいの男達へ、苦々しい表情を見せた。自身の素性を舐め回すように詮索した公権力への、不信、恐怖、侮蔑……。
一時間後、残りの仕事を済ませた女教師は帰途に就いた。手の指と指を忙しなく擦り合わせ、地面を強い力で蹴りつけながら歩く。警察に腹を探られていた間に生じた不安が、時間の経過につれて、腑が煮えんばかりの怒気に変化したのである。
真井は、数日前に教員室で小耳に挟んだ駄弁りを思い出していた。
——駅前の白ポスト、撤去されましたね。
——僕らが子供の頃からありましたもんね、思えばあの頃から結構古臭い感じあったなあ。
真井は目尻に思わず涙を浮かべた。小学生もスマートフォンを所持し、中学生がタブレットを用いて学習する現代である。児童が手軽くインターネットに触れられる現代である。有害なメディアを児童から離し、健全な成長をうながす白ポストの精神は、むしろ今こそ顧みられて然るべきではないのか。時代遅れでもない、古臭くもない。そのような旨の事を言い放とうとして、飲み込んでしまった記憶が、脳裏に蘇った。
ムシャクシャした真井はなるたけ早く帰宅し気を休める為に、家への近道である裏路地へ入った。すでに日は沈み、街灯の真下以外はか黒かった。それ故に彼女は、自分が早足で横切った物が、下部を切り取られ、投函口を壁に向けられた鉄箱である事に、気付かなかった、そして、彼女の視界外で奇妙な箱から細長い腕が生え、標的の足へ伸びた事にも————。
【一一月一〇日】
早朝、市立何何中学校の近辺を流れる浅川の茂みに、濃紺の制服達が集まっていた。彼ら彼女らの視線の先には、緩やかに流れる川面、中でも、ある物によって水流が分かたれている地点があった。川の水位を上回る大岩が鎮座することで河流の軌道がうねる事も、倒木が流れに分け入るように川へ転がり込む事も、自然現象としてはあり得る。しかしそれを以てこの制服達—警察組織の捜査員—が動くような事は無い。当局の人員が連れ立って、早朝から調べている河上のもの、川の流れを歪ませているそれは、仰向けに倒れ事切れた、真井の体躯であった。衣服の一切を剥ぎ取られた全裸体は、冬の水に浸っている事も相まり、冷たく、寒々しかった。顔面においては、濁った目が正面を向き、口が力無く開き、死の間際の苦痛を忘れたかのように弛緩している。しかしそれらよりも何よりも見る者の目を引いたのは、骸の肌に付けられた、幾つもの手形であった。血液によって描かれた事で描かれたおどろおどろしい絵は、真井の脇や肋部や下腹部、内腿にベトベトと付けられ、女体を弄った体験を再現するかのようであった。
担架に乗せるため、捜査員が二人がかりで遺体を持ち上げた折、手形に用いられた悪趣味なインキの出どころと、彼女の死因が明確になった。真井の背中から、淡水混じりの血汐が滴り落ちたのである。日本刀や柳刃包丁でも無ければ作り得ない、一太刀による深い刃物傷がそこにはあった。彼女の背面の外傷はそれのみならず、彫刻刀のような小刀で、仙骨のあたりにあの文字が刻まれていた。
「「白ポスト」……」
現場へ到着した禪が名を呟く、足が濡れる事も厭わず川辺の草へ分け入り、真井の後部を目の当たりにした直後の発言であった。彼は見慣れてしまった筆跡に無力感を噛み締める一方、彼女の亡骸に重大な証拠が残されている事を確信した。それは血の手形である。個々人によって異なる指紋や掌紋は、どのような証言よりも雄弁に真犯人の姿を語る。真井の肌に付けられたそれらは、今まで事件現場に何の痕跡も残して来なかった「白ポスト」の手を示す物であり、ここから奴が何者であるか調査し得ると、禪は考えたのだ。
「手形の指紋は取ったか?」
死体の近くにしゃがんでいた、捜査員の一人にそう尋ねた禪は、返答を聞いて絶句した。
「すみません……取れないんです……。指紋も掌紋も無い……」
「嘘だろ?手袋越しにやったってことか?」
「それならこんな手形にはならないですね……人形の手で付けたか、指紋掌紋を薬品で溶かすかしたとしか……」
「なんなんだよ全く……いや、君を責めたい訳じゃないんだけども」
「この様子だと手形に使われた血も、おそらく被害者のものですね……」
冬の曇天が轟轟と鳴り響いた。青い茂みが、突き刺すような寒風を受け、気流の形を成すように揺れた。
市警は川辺での捜査と並行し、午前中、彼女の自宅をも調べた。被害者の家宅として。学校付近のアパートの一室には、綺麗にまとめられた生活用品と、机と、パソコン。どこを探しても人間が被り得る白ポストなど見つからなかった。昨日の詰問は、結果的に、いたずらに市政の人間を責め立てる愚行と化してしまったのである。
正一三時、交番に戻り、禪はパイプ椅子にドッカと腰を叩きつけた。現場を取り巻く野次馬を散らす為に、余計な体力を使ってしまった事で、巡査は半日分とは思えない程の疲労を感じていた。
何何市に住む政治家先生とエロ漫画家を殺したのが、怪人物、自称「白ポスト」であるという情報は、二、三前から報道を待たずして広まってしまっており、それは同時に、何何市内に「白ポスト」の胡乱な都市伝説が流布してしまっていた事をも意味していた。結果、今回の真井の死においても、その弊害が生じてしまった。捜査官の話を盗み聞いた者が周囲の人間を誘い、結果的に捜査は滞り、彼女の裸死体が大勢の観衆の視線に晒されてしまったのである。
過剰な力で眉間を揉む巡査。憂わしいのは出歯亀の鬱陶しさのみに限らなかった。唯一の犯人候補が死に、事件の全体像を一から見直す必要が生じた事も、彼の頭を痛めた。「白ポスト」の犯行の動機が、これまでの予想と合致する理念、青少年に悪影響を与える存在の粛清であるとすれば、真井が殺された理由が説明し得ない。彼女は悪書追放の思想に近いものを内面化していたのだから。あの女教師が襲われた事で、「白ポスト」の殺害動機も、殺す対象の選定基準も、再考しなければならなくなったのだ。
禪は苛立ちの余り、獣のような大声を上げそうになるのをどうにか堪えた。現在、もう一人の後輩巡査は巡邏に出ており、何者かが当交番に尋ねてきたら彼が対応する事になる。しかし今の乱れた精神状態で市民の相手をできる自信は、禪には無かった。そこで、一服でもして気分を落ち着ける為に、裏の男性仮眠室へ歩き出した。
バシッ!バシッ、入り口のガラス戸が叩かれる爆音。禪が目の端で捉えた窓外には、人らしき輪郭があった。「入れてください!入れて!」澪の声であった。澪の姿であった。恐怖によって息が荒くなり、唇は震え、目は赤く充血し、肩には力が入り、首が短く縮こまっている。巡査は少年の狼狽を治めるため、ひとまず彼を仮眠室へ連れて行った。禪から差し出された緑茶入り紙コップを、骨の浮いた両手で包み込んでも尚、澪は部屋の隅で震え続けていた。
「何があった」
途切れ途切れになされた、少年の説明——数分前、学校を早退し街路を歩いていた澪は、人通りの少ない路地の奥、昼間でも夕方のように薄暗い建物の陰で、白い箱を被った奇妙な者と目が合ってしまった。左右にユラユラ揺れ動く「白ポスト」に澪は恐懼し、這う這うの体で交番へ逃げ込んだのである——。
「早退したのか?」
「先生が死んでいるのを朝見てから、気分がが悪くなって……今日、日直だったんです。だから早めに家を出たら、校門前の川に人が大勢いて……まだ運ばれる前の真井先生が……」
口を尖らせてえずく澪。禪は慌てて手近にあったビニール袋を構えるが、少年はなんとか堪え、言い継いだ。
「なんで先生が殺されなきゃいけなかったんですか」
それが分からなくて困っている、とはとても返せず、禪は目を強く瞑り、天を仰いだ。戸惑う澪を傷つけぬよう、さりとて事実には反さぬよう、慎重に言葉を選択しようとした、結果、何も言えなかった。
「「白ポスト」が暴走しているんだ」
沈黙を破った澪の呟き。
「怪人「白ポスト」の噂が広まって、輪郭がぼやけたまま、怪異としての力が強くなってしまった。僕はあいつを表現規制の化物として作ったのに、それを知らない大勢の人に語り継がれた事で、ただの見境の無い、目に付くやつは誰でも殺す殺人鬼になってしまったんだ。そうに違いない、だから、オタクに擦り寄る政治家でもない、漫画家でもない先生が殺されて、それで、僕も……」
「まだ言うかっ」
ストレスに苛まれていた禪は、少年へ向ける言葉から怒気を抜く事が出来なかった。巡査は慌ててこめかみに指の第一関節を押しつけ、茶菓子をつまみ、改めて穏やかな目で澪へ語りかけた。
「……俺はむしろ、全く逆の事を考えてる。怪人「白ポスト」なんて、最初からいなかったんじゃないかって」
少年は首を傾げる。構わず禪は続ける。
「要するに、あいつが白ポストを被ってた理由は、ただ自分の顔を犯行時に見られたくなかったから、ってだけなんじゃないかと、今になってそういう風に考えてるんだ。痕跡を消すのが上手いから頭の良い思想犯に見えてたが、実際問題、奴の殺意は立派な主張も一貫した動機も無い、もっと無差別なものなんじゃないかと思うんだよ
あいつが白ポストを被ってたから、被害者の見るべき所を見誤ってた気がしてならないんだ。確かに殺されたのは、「マンガ表現の自由を主張する政治家先生」と「エロ漫画家のおっさん」だったかも知れない。だが言い換えれば、「表現の自由を主張する政治家」と「何何市在住の絵が上手い市民」……そこまで珍しい、他と差別化される人間か? 彼らも、真井も、偶然、やつの気まぐれに巻き込まれて殺されただけで、俺たちが殺人犯の周辺状況や、君の作り話から、「白ポスト」という人格を誤って形作っただけだったんじゃないかって、そんな気がするんだ。奴は実際の所、「青少年の健全な育成を阻む者を許さない」みたいな大義で人を殺してた訳じゃなくて、殺せれば誰でもいい奴が、たまたま撤去前の白ポストで顔を隠す手段を思いついただけだったような、そんな気がするんだ」
数分間、二人は黙していた。澪はチビチビと緑茶を啜り、禪は頭をかき、妙に長く感じる時間を埋めた。
「まあ、俺の予感が正しかったとしたら」
切り出したのは禪であった。
「「白ポスト」はわざわざ君をしつこく狙っている訳じゃない。たまたまその時君が目についただけで、時が過ぎればターゲットが変わるだろう。もっとも、これ以上の被害者が出る前に警察で捕まえるけどな」
空気が少し和らいだ事を機に、二人に精神的余裕が生まれた。彼らは自分たちが次に何をするべきかを考え始めた。
「今日はとりあえず帰りなさい。もう一人の警官が交番に帰ってきたら、パトカーを出して家まで送るよ」
澪は頷き、部屋の隅からノソノソと中央部へ移動した。
ピシ、ピシピシ、軽い力で交番入口のガラス戸を叩く音。禪は少年が入ってきた際、何者かに追われている可能性を加味して入口の鍵を閉めていた事を思い出した。澪の顔に不安の色が蘇る。
「ちょっと待ってな、確認してくる……一応、すぐには見つからない所へ隠れておいてくれ」
警棒を素早く取り出せるよう、手と腰元の距離感を再確認しながら、禪は受付のある応接室に向かった。薄暗い曇り空の下、ガラス戸の外側には、何者も見えなかった。巡回帰りの後輩巡査なら、自分で鍵を開ける。交番に用がある一般市民なら、しばらく入口前で佇んでいる。誰もいない事を察して、去ったのだろうか。訝しむ禪。なるたけ音を立てずに鍵を開け、入口の陰で襲われぬよう、警戒心を高めて一息に外へ飛び出した。
何も起こらない。
周りを見渡した巡査は、鳩尾を殴られたような精神的衝撃を受けた。 彼の真横、丁度交番の内側から死角になっている地点に、背の低い、白い箱、底のくり抜かれた、白ポストの鉄箱が、ただ置かれていた。「白ポスト 青少年に見せたくない雑誌・DVDなどはこのポストに入れてください 何何町内会有志」——中に人間こそ入っていなかったものの、その存在はどのような脅迫よりも禪の危機感を駆り立てた。息を詰まらせ仮眠室へ駆け戻る禪。
澪は「隠れていろ」という忠告を無視し、部屋の中央部の床に、仰向けになって寝ていた。しかし睡眠しているわけでは無かった。襟足もろとも首を斬られ、胴と分離した頭が、床のわずかな傾斜によって転がり、禪の足元にぶつかった。澪は穏やかに目を閉じ、口を半開きにしていた。禪は音もなく殺された少年の、冷えた体を持ち起こした。彼の真下にあった畳に多量の鮮血が染み込み、濃茶色に変色していた。「白ポスト」の文字は、部屋の何処にも見当たらなかった。
それから十分も立たぬ内に、後輩巡査が交番へ戻った。禪は彼に澪の死体を見せ、第三者である市警勤務の警察官にも連絡し、状況の説明と、自らの無罪と、澪の殺害が「白ポスト」の犯行である事を訴えたが、禪の言は通らなかった。彼は、少年が殺された際、交番前に白ポストが出現した事をも話したのであるが、後輩巡査曰く、パトロールを終えて戻った際、そのような物は交番前に見当たらなかったそうだ。白いポストも無く、「白ポスト」の文字も無く、交番の奥で殺されていた少年の死体——その時交番内にいた巡査を逮捕するには、十分過ぎる条件であった。
【二〇二四年一二月一日】
禪が殺人を疑われ、警察当局に拘束されてから、丁度一ヶ月が経つ。澪の死から今に至るまでの間「白ポスト」の殺人事件は起こっていなかった。禪の逮捕後に殺人鬼の犯行がピタリと止んだ事は、市民にとっては幸運であるが、彼にとっては不運極まりなかった。彼が今までの「白ポスト」事件の首謀者である事を、裏付けてしまっているようなものなのだから。おかげで男は決定的な証拠も無いまま極悪人として扱われ、勾留は長引き、娯楽とプライバシーの乏しい部屋で冬を過ごす有様である。
消灯前の部屋の中で目を瞑った禪は、数日前の取り調べにおいて、担当警官が話していた事を思い出した。あの男によれば、市警は「白ポスト」に関する公的な報道をあれほど渋っていたにもかかわらず、禪が逮捕された途端、さも彼が殺人犯の正体であるかのような、紛らわしい報道を、あの仮称と共に各所に許したそうだ。
禪はこの処置が、「白ポスト」事件で民衆から吹き上がった警察に対する不満を、薄めるためのポーズであると悟った。筆跡や他の事件におけるアリバイにより、彼はいずれ真犯人でないと分かるだろう。しかし、その後事件捜査が本格的に再開されることは無い。彼が「白ポスト」として逮捕されたことを以て、強引にこの事件は解決されようとしているのだ。「ある事件が起き、ある者が逮捕された」と聞けば、多くの人間は事件が解決したものと思うだろう。彼は民衆の不安を霧散させるための、犠牲にされたのだ。彼が警察官として復帰できる可能性は限りなく薄い。何より彼自身が今や復職を望んでいない。
【一二月二日】
午前一時を少し過ぎた頃、どうにも寝付けなかった禪は、見回りの者が通り過ぎた頃合いを見計らって布団を抜け出、閉塞感を紛らす為に窓から外の景色を眺めた。雲の厚い、雪の降りそうな程寒い夜であった。
窓外にある唯一の灯り、警察署外の街灯の下に佇んでいた「白ポスト」は、薄鉄の白い箱を絶妙な角度に傾けていた。禪は投函口越しに自分を窺っているのだと理解した。
怪人白ポスト 中川多聞(中川パロロ) @NakagawaPalolo
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