黄色い栞

春日 いと

第1話

「毎週、欠かさずに来ていますね」

 公民館の多目的室の入り口で体操用の靴に履き替えていたら声を掛けられた。ショートカットの毛先が跳ねている痩せた女性。

「そうですね、痩せたくて頑張っているんですけど。でも、また肥りだしちゃって」

 私はポンポンとお腹を叩いて見せた。

「あら、いいのよ、肥ったほうが。痩せたら大変よ」

 そりゃあ、急に痩せたら変だろうけれど、私の肥り方だって異常だ。感染症蔓延のため、二年もお休みしていたロコモ予防の高齢者向け健康体操教室。やっと外出自粛が解けて再開するというお報せが広報に出ていたので、すぐ申し込んだ。それから十か月。私は毎週休むことなく通い続けている。それなのに、五か月で五キロも増加したのだから外出解禁前の体重を越えている。これではまるでリバウンドだ。七十を越えると付いた脂肪を取るのは大変だというのに。

 あれ? リバウンドってこんな時にも使っていいのかな? まあいい。名前も知らない人にこんな事を話す必要はない。再開した体操教室には昔の仲間はほとんど来ていなかった。新しい人ばかりで居心地が悪い。

「その本」と、彼女は私のバッグの中を覗くようにして指さした。

「私もその本読みました。泣けますよね」

 さっき来る途中で図書館に寄って借りた本。だからまだ一行も読んでいない。そうなのか、泣けるのか。だけど内容は話して欲しくないなあ。そう思いながらも一応話を合わせて言ってみた。

「この作者、いいですね」

 すると彼女は「私もこの作者さん、大好きなんですよ」と言い出した。困ったなと思っていると、丁度前からの参加者が「こんにちは」と通って行った。挨拶を返して、ちらっと時計を見る。

「あらっ、もう五分前。行かなくちゃ」と、急いで彼女から去った。ああ、面倒くさい。私は知らない人が苦手だ。

 体操教室が終わると急いで家に帰った。手洗い、うがいをきちんとして、すぐに借りて来た本を開く。図書館にリクエストをして三ヵ月待ってやっと来たのだ。ワクワクしながらページをめくる。

 ところが、とても読みやすいのに頁をめくる手が止まってしまう。だってしんどいのだ。今の若者達はこんなにも生きにくい世界の中にいるのか。こんなに辛い思いをしているのか。

 私の子ども時代も楽じゃなかった。梅干ししか入っていない日の丸弁当を隠しながら食べた。父親はほんのちょっとの事で声を荒げて茶わんを投げつけた。母親を殴るのは当たり前で、祖母は足蹴にされる母親の様子を見ながら黙々とご飯を食べていた。奥の間には寝たきりの祖父が居て、私たちは見ないようにして暮らしていた。それでも食事を運んだり下げたりするのは子どもの役目だった。少し大きくなると、祖父の汚れたおむつを井戸端で洗い流すのが私の仕事になった。それでいつも体に変な匂いが付いているような気がしていた。

 本を読みながらお煎餅を摘まむ。体操をして戻るとお腹が減る。夕飯まで待てないので、ついついお茶を入れて何かを口に入れてしまう。あの頃はいつもひもじかった。だからこんな生活から抜け出すのだとみんな頑張っていた。そう、毎日毎日必死で生きて来た。周り中みんな貧しかったからそれが当たり前だと思っていた。あの頃とどう違うのだろうか。何で子どもの心が折れてしまうのだろうか。そんなの絶対いけない。この作者の書く世界はいつも色々考えさせられる。

 うーんと唸りながらページをめくると、上部に返却日がスタンプされた黄色い栞が挟まっていた。図書館が貸出の際に挟むもの。まただ。また挟まっていた。返却日は昨日の日付だ。これは私の前に借りた人が残した物だろう。私が借りた時の栞は取り出して返却日を忘れないように冷蔵庫に留めてある。

 ただ挟んだだけなら、本を振れば黄色い栞は簡単に落ちる。だから図書館の人が見逃さない。でもこれは振っても落ちない程しっかりとページの中に挟まっている。無理やり押し込んであるというほうが正しいかもしれない。

 私は図書館が好きだ。書店で読みたい本を見つけると、題と作者を覚えておいて図書館で借りる。最近はすぐ忘れるので、本屋を出るとすぐノートに書きつけている。

 前は文庫本を買っていたけれど、近頃は文庫本も高くなった。それに、年金は増えないのに物価だけが上がって行く。十五年間貰うようにしていた個人年金が終わってしまって、生活は倹約、倹約。図書館が頼りなのだ。

 それなのに、図書館は貸本屋ではないからと、新刊書購入数が減っている。そのため、リクエストしても一年近くかかる事さえある。そんな忘れた頃に来た本の中に、この作家が書いた本があった。胸に迫って、泣きながら読み終えて、本を閉じてからもその世界に入ったままだった。それは大きな賞の候補になった小説だった。賞は取れなかったけど私の中では一番だった。黄色い栞を始めて見つけたのがその本だった。そこには三年前の八月二十日のスタンプが押してあったのを覚えている。何故かというと、私の母親の誕生日だから。ちょうど感染症の真っただ中だったので栞を自宅に捨てるのが怖くて、その時は挟んだまま返却した。

 その作家が気になって他の本を二冊借りたら、そこにも栞が挟まっていた。片方は一年前の、もう一冊は半年前の日付だった。調べてみると栞はその作者のほとんどの本に挟まっていた。そして、その作家が今日借りた本で大きな賞を取ったのだ。黄色い栞は他の作者の本にもあった。でも、この作家の本が一番多かった。まるで誰かが栞で自己主張しているようだった。


 あの痩せた女性はその後も会うと必ず話しかけて来た。話題はあの時の本の話から始まって、世の中の事や旅の話といった様々な話。彼女は話題が豊富だった。それで私も気になっていた事を口にした。

「何で最近の若者は生き辛いのかなってよく考えるんです。人の優しさが無くなったのでしょうか。お金があっても幸せじゃないし」

「昔はみんな貧しかったけど、段々貧富の差が出来ちゃったのよ。お金儲けばかりになって、それで心が貧しくなったんじゃない?」

 私の疑問に彼女はさらっと答えた。だけどそれだけだろうか。もっと理由があるような気がする。でも、気後れしてそれ以上訊けなかった。

 彼女はあの作者が好きなようで全部読んでいた。それは私も同じ。そして、本は買わないで図書館で借りるのも同じだった。

「私たちは税金を取られっぱなしなのよ。子どもがいれば義務教育に幼稚園、保育園と色々恩恵があるけど、子どもはいないから。だから本を図書館で借りて、今まで払った税金を還元させて頂くのよ」

 彼女は楽しそうにふふふと笑った。

「そうですよね。リクエストの順番も優先的にしてくれても罰が当たらないわ、なんてね」

 だから私も言ってしまった。すると彼女は言ったのだ。

「そうね。私たちの好きな作家の本はいつも本棚にないものね。新刊だけじゃなくてね。読みたいときにリクエストして待つのは辛いものよ。だから私はね、好きな本に私専用の印をつけたいって時々思うのよ」

 その時、私はあの黄色い栞は彼女が挟んでいたのかもしれないと閃いた。それで、次の週には別の作家の本について話してみた。私の好きな作品だから絶対読んでいると思ったら案の定だった。そして、図書館にあるその本には黄色い栞が挟さんであったのだ。

 やっぱり犯人はこの人かと思ったけれど黙っていた。彼女の反応が怖かった。それほど彼女とのおしゃべりは楽しかった。

 それから三か月後のこと。彼女は突然私の名前を訊いた。その髪はベリーショートになっていた。私が名前を伝えると、彼女はにっこりして言った。

「私は三浦といいます。来週入院するので。ですからしばらくお休みします。ご一緒に本の話が出来て嬉しかったです」

「どこかお悪いんですか」

 私は無神経な聞き方をしてしまった。

「手術するんです。ちょっと心臓がね」

 三浦さんは胸を押さえてみせた。外からでは何も分からない。

「体操しても平気だったんだすか」

 驚いて聞いた。年寄り向けの軽い体操といっても、息が上がる時もあるのに。

「ほら、体力とか筋肉とか付けておけば手術後の回復がいいのよ。医者から許可もらっているし、先生や市の担当者には伝えてあるから」

 そういうものなのか。じゃあ、たいした事ないのかな。

「それにね、入院とか手術とかは初めてじゃないので大丈夫ですから気にしないで下さい」

「あっ、ええと、退院されたら、たくさん小説の話をしたいです」

「ええ。入院中はのんびり本が読めるからいっぱい本を持って行くつもり。また読んだ本の話をしましょうね」

「私も沢山読んでおきます。戻られるのを待っていますね」

 彼女は私に頷いてからゆっくり立ち上がると、フロアの真ん中に出て行った。

 その帰り道、なんとなく落ち着かないので図書館に寄って本を借りた。前にも読んだ彼女の黄色い栞の入っていた本だ。本を持って図書館を出ると、道路脇の赤い色が目を刺した。緑地に植えてある躑躅が満開だった。まだ五月だというのに日差しが強くて例年より赤が濃い。目の前全部が真っ赤になって涙が出そうになった。

 ああ、もっといっぱい話がしたいと、唐突に思った。彼女が退院してきたら、本の感想と一緒に、いつも疑問に思っていることをちゃんと話したい。何で相手が命を絶つほどのいじめをするのか。私の時代はお金がなくて家の手伝いで学校に行けなかった子はいた。女の子だからと高校に行けない子もいた。でも、いじめられて学校に行けない子なんていなかった。と、思う。でも、知らないだけで本当はいたのかな。今の時代にお金が無くて苦労する子がいるなんて思ってもみなかった。貧しい子どもに私が出来る事はあるだろうか。訊いてみたい。そんな話がしたい。

 大丈夫、退院したらまた体操教室に来るだろう。その時にちゃんと話をすればいい。それまで私も沢山本を読んでおこう。そして彼女の代わりに黄色い栞を挟み込んでおくのだ。そして、次に会った時には「三浦さん」と呼ぶのだと、私は決めた。

 それから三浦さんは健康体操教室に顔を出さなくなった。三か月経っても、半月待っても彼女は来なかった。三浦さんとは教室でしか会っていなかったので、住所もメールアドレスも知らなかった。公民館の職員に訊いても、個人情報は教えられないというだけだった。三浦さんの事が知りたいと痛切に思った。名前を教えあったんだから、消えてしまうなんて事はないと、そう信じて待っていよう。

 図書館で三浦さんが読みそうな本を借りて読んでみた。でも、もうあの日以降の日付の栞は入っていなかった。好きだと言っていた作家の新作が出たのでリクエストして読んだのは一年後だった。その本に彼女が読んだという印は無かった。

 そのうち、お気に入りの本に挟んであった黄色い栞はいつの間にか無くなっていることが多くなった。捨てられてしまったのだろう。

 私はその変わりに、自分の栞を挟んだままにしようかと思ったけれど、それは出来なかった。だって、あの日躑躅を見ていて突然気が付いたのだ。あんなに痩せていたのは病気がかなり重かったからだったのだろうと。そういえば何かの拍子にマスクが取れた時の唇は紫色だった。図書館の栞は、あれは彼女が生きているという証明だったのではないのかと。

 今でも、ふと手にした本に黄色い栞が挟み込まれているのを見つけることがある。日付は一年以上も前だけれども、彼女の印、黄色い栞の入った大切な本だ。そんな時は、テレビを消して本を持ってソファに丸まる。そして夜の灯りの下で表紙をそっと撫でてからゆっくり本を開く。

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黄色い栞 春日 いと @itokasugaito75

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