カイランの部屋は、貴族の一族に属しているとは思えないほど簡素で、必要最低限の家具しか置かれていない。彼の思想が庶民に寄り添っていたため、一族からは疎まれてきたことが、この部屋の質素さに表れている。

　部屋の中央には、カイランが横たわるベッドがあり、その周囲にはわずかな装飾品があるだけだ。

　かつてのカイランは、アレックスに似た若々しい顔立ちを持ち、冒険者としての勇敢さがその瞳に宿っていた。

　しかし、今や彼の髪はすっかり白くなり、深い知恵と経験が刻まれた皺が顔に浮かんでいる。目はかつてのように鋭くはないものの、穏やかで優しい光をたたえていた。

　サイドテーブルには、旧世界で一般的だった光量の魔法のランタンが置かれている。これは装飾用ではなく、実用的なものであることが一目でわかる。夜目（ルナリス）のある世界でこれを使う者は限られている。

　その多くは、生まれつき夜目（ルナリス）が弱い者か……あるいは、老化によってその機能が低下した高齢者だ……。

　レイロンの加護が限界に近づき、夜目（ルナリス）の機能もほぼ失われたカイランは、暗闇の中で目を閉じている。彼の呼吸は静かだった……。まるで己が死ぬときを待っているかのように……。

＊＊＊

　目を開けたカイランは、暗闇の中を見ることはできないが、そこに確かに数人の気配を感じた。

　「カイラン……よかれと思って与えた加護で長い間、辛い思いもさせてしまったな……」

　ベッドの脇から彼の上半身を抱き起こした女性の声は、若き日に聞いた神々しくて暖かな……懐かしい声で、暗闇の中で自分を見つめる鋭くも神々しい夜目（ルナリス）の色には、見覚えがあった。

「おお……あなたは……レイロン様……お迎えですか？」

　彼の中ではレイロン像が神格化されていたため、うっかり、あの世からのお迎えかと思ってしまったのだ。

　レイロンは、カイランの勘違いに微笑みながら、優しく彼の肩を撫でて言う。

「まだ迎えの時間はきておらぬ。もう少しだけ、わしの加護を信じおくれ……」

　衰えた彼が少しでも楽に上半身を起こせるよう、レイロンは自分の体でカイランを支えていた。

「長生きすることが人の幸せかと思ったが……そうはならんときもあるものだな……」

　カイランを支えながら、彼の顔をじっと見つめていた……

　自分の与えた長寿の祝福が、カイランにとって本当に幸せだったのかという疑問が渦巻いている。

　そんな罪悪感があったからこそ……彼に何かできないかと、自らアレックスを連れてきたのだ。

「あなたはなにも悪くありません……事実上、軟禁生活だった私にとっては、ひ孫へ過去の冒険譚を話すのも幸せな時間でした」

　そう語る彼の表情は穏やかで、どこか懐かしさを感じさせるものだった。

　上半身を起こしてくれたレイロンの優しい声に耳を傾け、思うように動かなくなった体を彼女に預けている。閉じられた目の中で、過去の冒険の日々を思い出し、微笑んでいるかのようだった。

「……アレックス、そこにおるのか？」

　ひ孫であるアレックスの気配を感じて、彼の手が伸びる。

　レイロンはその手を優しく掴み、彼の腕を支えながら、彼の心の中にある感謝の気持ちを受け取っていた。

＊＊＊

「ひいじーちゃん！」

　アレックスの声が部屋に響くと、カイランは微かに微笑む。

　彼の手は、アレックスの手の温もりを感じ取りながら、かつての冒険の日々を思い出していた。

「アレックスか……戻ってきたのか」

　カイランの声は穏やかで、どこか懐かしさを感じさせるものだった。彼は目を閉じたまま、アレックスの手をしっかりと握り返す。

「ひいじーちゃん、僕、やっとルミナス・ステップまで手紙を届けてきたよ」

　アレックスの声には、旅の苦労と達成感が滲んでいた。カイランはその声を聞きながら、彼の成長を感じ取る。

「そうか……よくやったな」

　アレックスの手のひらに刻まれた傷や、旅の疲れを感じ取りながら、彼の成長を心から喜んでいた。かつて自分が冒険者として駆け巡った日々を思い出し、アレックスの姿に重ね合わせる。

　「お前の手から、たくさんのことを感じるよ。旅の苦労も、成長も……」

　カイランは、アレックスの手を優しく撫でながら、彼の成長を心から誇りに思っていた。

＊＊＊

「アレックス……キミは自分を誇っていい。一族の影に怯えていた子供は、もういないんだ」

　カイランの目の前に現れた少女は、彼のひ孫と年の変わら年頃の姿をしていたが、その熟練した気配は彼を驚かせた。

　動きや佇まい……冒険者だったときの勘から、ただの人間ではないことを感じ取っていた。

　彼女の服装の特徴を見て、その少女が人間でないことを確信する。その服は女性向けの露出の多い服とは違い、ホムンクルス特有の体温を調整する構造だと気づく。同時に、ただのホムンクルスでないことにも勘づいていた。

　そして、その特殊な服装から、カイラン自身が最後の望みを託した不老不死のホムンクルスの郵便配達員であることを悟った……

「あなたが……バニーウォーカーなのか？」

　とカイランは問う。

　彼の声には驚きと敬意が混じっていた。

　ルーリーは首の後ろのうさ耳フードを被ると……

「そうだよ、おじいちゃん。100年分の手紙、確かに届けてきたよ」

　と答えた。

　この瞬間、カイランは彼女の訪問が特別な意味を持つことを感じ取った。

＊＊＊

　その時、ひ孫の手を握る彼の手に、もう一つの手がそっと重ねられた。

　カイランはその手の温もりに驚き、ゆっくりと顔を向けた。失われた夜目（ルナリス）で顔を見ることはできないが、その手の感触は100年前と変わらないものだった。

「カイラン……」

　イーウェイの声が静かに響く。

　カイランはその声に反応し、微笑みを浮かべた。

「イーウェイ……君は変わらないね」

　イーウェイは彼の手を優しく握り返し、微笑んだ。

「久しぶり！　100年ぶりじゃん！　ずっと会いたかったんだよね〜！」

　彼女の手をしっかりと握り、目を閉じたまま、存在を感じ取った。その声は100年前と変わらず、明るく振る舞っているように聞こえるが、微かに涙ぐんだ声であることを聞き逃さなかった。

「この命が尽きる前に……もう一度会えてうれしいぞ」

　カイランの言葉が静かに部屋に響いた。彼の声は穏やかで、どこか達観した響きを持っていた。

　イーウェイはその言葉を聞き、胸の奥に重いものが沈むのを感じた。

　彼女は何かを言おうと口を開いたが、言葉が見つからない。彼がどれほどの時間を……この瞬間のために準備してきたのかを思い、心が締め付けられる。

　ルーリーは、サイドテーブルに置かれた魔法の火の仕掛けに手を伸ばした。

「みんな、夜目（ルナリス）を抑えな。目を痛めるよ」

　彼女の指先が軽やかに動くと、ランタンが静かに光を放ち始めた。旧世界の照明と同じ光量を持つそのランタンは、夜しかない世界に生きる者たちにとっては、まるで太陽のように眩しい。

　光が部屋を満たすと、カイランの顔が徐々に浮かび上がった。彼の目は、失われた夜目の代わりに、ランタンの光を頼りにイーウェイの顔を捉えた。彼女の表情は、懐かしさと喜びが入り混じったもので、カイランの心に温かさをもたらした。

　ルーリーは、光の加減を調整しながら、カイランとイーウェイの再会を見守っていた。彼女の心遣いが、二人の間に流れる特別な時間をより一層引き立てていた。

　カイランは、ランタンの光が部屋を満たす中、イーウェイの顔をじっと見つめた。彼の目には、100年前と変わらない彼女の姿が映し出されていた。

　彼の心は、長い年月の中で積み重ねてきた思い出と共に、今ここにいる彼女の存在に感謝の念を抱いていた。

「本当に……何も変わってないね……イーウェイ」

「カイランも……ちょっとは老けたけど、あの時のままじゃん。ずっと……あの時のまま……待ってたってことじゃん」

　ランタンでできた狐の尻尾の影が、何度も動いていた。

　狐の耳を寝せるように倒し、両手を握って笑顔になる彼女の姿を見て、カイランの心は揺れ動いた。彼は、これまで抑えてきた感情を解放するように、深く息を吐き出した。

　100年ぶりの青春が動きだしたこの瞬間、ルーリー達の目には、山道の食堂で出会った頃の2人の姿が見えてきた気がした。