第10話

 神楽坂蓮の描く線は、祈りそのものだった。少なくとも、相沢詩織にとっては。


 彼女が信奉する「本物」だけが放つ、痛みを伴う神々しい光。彼のペン先から紡がれる世界は、彼女が渇望し続けた聖域のようだった。


 写真のように精密でありながら、冷たい機械のようではない。そこには詩情が溢れ、物語が息づいていた。


 つくみずが描く、終末世界の静謐な美しさ。阿部共実が抉り出す、思春期の生々しく痛々しい感情。彼女が敬愛してやまない二人の作家の魂が、奇跡的なバランスで一つの画面に共存しているかのように見えた。


 彼といる時間は、彼女の低い自己肯定感を満たし、色褪せて見えていた日常を鮮やかに塗り替えてくれた。天才の隣にいる自分。彼にミューズだと囁かれる自分。


 その甘美な響きは、純度の高い毒のように彼女の判断力を溶かしていった。彼のミューズであるという役割は、それほどまでに抗いがたい酩酊を彼女にもたらしていた。


 だが、その完璧な世界の片隅で、小さな、しかし無視できないノイズが鳴り続けていた。


 橘蒼太に投げかけられた、あの静かな問いが、棘のように心臓に突き刺さって抜けないのだ。


「相沢は、本当に『作者』の顔が見える作品が好きだったんじゃないのか?」


 その言葉を反芻するたび、蓮との会話に感じていた微細なズレが、意味を持って立ち上がってくる。


 彼女が、ある漫画のセリフのないコマについて、登場人物の表情筋の僅かな動きや、背景に描かれた無機物の配置がいかに雄弁に感情を物語っているかを熱っぽく語った時。


 蓮は「うん、面白いね。すごく計算された構図だ」と微笑んだ。


 間違ってはいない。だが、何かが違う。蒼太ならば、きっと「そのキャラは、あの時の出来事を引きずってるから、こういう顔になるんじゃないか」とか、「この無機物は、彼の心理状態のメタファーとして機能してる」といった風に、キャラクターの内面や物語の文脈に深く潜ってくれたはずだ。


 蓮の言葉は常に客観的で、分析的で、まるで評論家のように響く。創作の渦中にいる人間の、苦悩や情熱といった「手触り」が、彼の言葉からは不思議なほど感じられない。


 プロセスが見えない芸術って、信用できるのかな。


 蒼太のもう一つの言葉が、亡霊のように脳裏をかすめる。


 その疑念は、一度芽生えてしまうと、ウイルスのように彼女の思考を侵食していった。


 蓮のアトリエ。高級マンションの一室は、彼の城であり、聖域だった。北向きの大きな窓から安定した光が差し込み、巨大な液晶タブレットと、壁一面に並べられた画集や資料が、彼の才能を権威づけているように見える。


 詩織は、ソファに座って、蓮が来月発売の雑誌に掲載されるという読み切りのカラーイラスト集を眺めていた。以前なら、一枚一枚の絵に感嘆し、その完璧な技巧に心を奪われていただろう。


 しかし、今は違った。


 一度フィルターのかかった目で見てしまうと、完璧さは不気味な仮面のように見えた。


 たとえば、緻密に描き込まれた繁華街の風景。ネオンサインの反射、アスファルトの濡れた質感、雑踏の喧騒まで聞こえてきそうなその絵の、隅の方に描かれた群衆。一人一人の表情が、驚くほどのっぺりとしていて、まるでマネキンのようだ。


 メインのキャラクターを引き立たせるための意図的な省略だと言われればそれまでだが、その無個性さは、どこか異質だった。まるで、魂という名のノイズが完璧に除去された、無菌室の生命体のようだった。


 別のページ。涙を流す少女のアップ。宝石のように輝く瞳は、吸い込まれそうなほど美しい。だが、その奥に感情の深淵が感じられない。悲しみを記号として貼り付けたような、表層的な美しさ。


 阿部共実が描くキャラクターたちが、歪んだ顔で見せる魂の裸体とは、あまりにもかけ離れていた。


 空虚だ。


 その言葉が、不意に浮かんだ。


 蓮の絵は、圧倒的に美しく、技術的に完成されている。しかし、どこまでも空虚だ。まるで、様々な美しいパーツを完璧に組み上げた、魂のない人形のようだ。


 その結論にたどり着いた瞬間、詩織は自分の背筋が冷たくなるのを感じた。


「どうしたんだ、詩織? そんな難しい顔をして」


 声に振り返ると、大型のヘッドフォンを首にかけた蓮が、訝しげに眉を寄せてこちらを見ていた。


「う、ううん、何でもないの! あまりにすごくて……どうやったらこんな絵が描けるんだろうって、ただただ圧倒されてただけ」


 咄嗟に言葉を紡ぎながら、必死に笑顔を作る。蓮は詩織の顔を数秒じっと見つめた後、ふっと表情を緩め、彼女の髪を優しく撫でた。


「そうか。僕の絵は、君をそれだけ夢中にさせる力があるらしい。……嬉しいよ、僕のミューズ」


 蓮は恍惚とした笑みを浮かべると、再び液晶タブレットに向き直った。彼の指が、スタイラスペンを握り、滑るように画面の上を走る。その姿は、紛れもない「天才」そのものだった。


 詩織の心臓が、嫌な音を立てて脈打つ。


 私の考えすぎだ。嫉妬深い誰かが、蒼太に吹き込んだのかもしれない。蒼太は、私を取り戻したくて、こんな卑怯なやり方で蓮くんを貶めようとしているんだ。


 そう思おうとした。しかし、一度抱いた疑念は、消えるどころかますます大きく膨れ上がっていく。


 その時、蓮のスマートフォンが、低いバイブレーション音を立てて机を震わせた。画面を一瞥した蓮は、露骨に顔をしかめて舌打ちをする。


「……ちっ、編集部だ。悪い、詩織。少しだけ席を外させてくれ」


「う、うん……」


 蓮はベランダに出ると、やや乱暴にガラス戸を閉めた。ガラスの向こうで、彼が何か苛立ったように早口で話しているのが見える。


 部屋には、詩織と、スリープモードに移行していく蓮のPCだけが残された。


 黒い画面に、ぼんやりと詩織自身の顔が映っている。不安と好奇心に揺れる、情けない顔。


 脳裏に、数週間前の光景が蘇る。


 このアトリエで、蓮のPCを借りようとした時。彼が慌てて画面を隠す前に、一瞬だけ見えた、無数のフォルダが並んだデスクトップ。その中に、ひときわ異彩を放つ、不可解な名前のフォルダがあった気がする。


「仕事の資料だよ」


 あの時の蓮の、不自然な笑顔。


 見てはいけない。


 理性が、聖域を侵すなと警告する。信じなさい、と。だが、心の奥底で、芸術を愛する彼女自身の魂が、冒涜を許すなと叫んでいた。お前が祈りを捧げる偶像が、本当に清廉であるか、その目で確かめろ、と。


 詩織は、吸い寄せられるように立ち上がった。心臓が早鐘のように鳴り、指先が冷たい。ベランダの蓮が、こちらに背を向けているのを確認する。


 まるで罪を犯すように、彼女は彼の椅子に滑り込み、マウスに手を伸ばした。ひんやりとしたプラスチックの感触が、彼女の罪悪感を増幅させる。


 画面をタッチしてスリープを解除すると、パスワードもかかっていないデスクトップが現れた。整理されたアイコンの中に、それはあった。


『Reference_ARCHIVE』


 そのフォルダ名を見ただけで、詩織は息を呑んだ。


 震える指で、ダブルクリックする。


 開かれたウィンドウの中には、びっしりと並んだサブフォルダが表示された。その名前に、詩織は目を見開いた。


『Akutsu Gege』『Fujimoto Tatsuki』『Asano Inio』『Abe Tomomi』『Tsukumizu』……。


 そこにあったのは、今をときめく人気漫画家から、カルト的な人気を誇る作家まで、数えきれないほどのクリエイターの名前だった。


 恐る恐る、自分の好きな『Abe Tomomi』のフォルダを開く。中には、彼女の全作品の全ページが、高解像度の画像データとして保存されていた。モノローグのコマ、表情のアップ、背景。すべてが几帳面に分類されている。


 他のフォルダも同様だった。まるで、世界中の漫画表現を蒐集した、巨大なデータベースだ。


 これ自体は、異常ではないのかもしれない。研究熱心な作家なら、これくらいの資料は集めるだろう。詩織は必死に自分に言い聞かせた。


 だが、アーカイブの最下層にあったフォルダが、その甘い自己弁護を粉々に打ち砕いた。


『outputs_v3.7』


『generated_failed』


『selected_candidates』


 その、プログラマーが使うような無機質なフォルダ名に、心臓が凍り付くような感覚を覚えた。


 意を決して、『generated_failed』のフォルダを開く。


「……ぁ……」


 喉から、空気が漏れるような音がした。


 ウィンドウの中に広がっていたのは、神の制作過程などではなかった。それは、無数の魂をミキサーにかけ、吐き出された汚泥の山だった。


 蓮の絵柄に酷似しながらも、生命の法則を無視した冒涜的なキメラたちが、何百、何千と並んでいた。指が七本ある天使。顔のパーツが溶けて混じり合う聖女。パースが液状化した街並み。コマに書かれた文字は、日本語のようで日本語ではない、意味不明な記号の羅列。それは、創造の奇跡ではなく、計算ミスの残骸だった。


 あの時の、蒼太の言葉が脳裏に響いた。


『AIの絵って、一見上手く見えるけど、よく見ると指の数が変だったり、背景がぐにゃぐにゃだったりするんだ。データ食わせるだけだから、魂がないっていうか……』


 それは、蒼太が以前、ちらりと話していた画像生成AIの「失敗」の特徴と、完全に一致していた。


 震えが止まらない。マウスを握る手が汗で滑る。


 次に『selected_candidates』のフォルダを開いた。


 そこには、失敗作とは比べ物にならない、完成度の高い画像が並んでいた。蓮が描くキャラクターたちが、様々なポーズや表情で描かれている。いや、生成されている。


 その中に、彼女が見覚えのある絵が何枚もあった。蓮が雑誌に発表した読み切り作品の、決定稿になる前のラフだと見せてくれたものだ。


「この中から、一番イメージに近いものを選んでブラッシュアップするんだ」


 そう言って笑った蓮の顔が、フラッシュバックする。


 あれも、嘘だったのか。


 彼は、描いていたのではない。選んでいただけだ。AIに無数の選択肢を生成させ、その中から最も出来の良いものを「選んで」、それを元に清書していただけなのだ。


 嘘。


 欺瞞。


 虚構。


 私が感動したあの絵は、彼が描いたものではなかった。私が恋をした彼の才能は、アルゴリズムによる模倣だった。彼が語った芸術論は、盗んだ魂を正当化するための言い訳だった。


 では、私は? この胸を焦がした熱情は? 彼の前で流した涙は? 偽りの神に捧げられた、空っぽの祈りだったというのか。


 足元が崩れ落ち、奈落の底へ落ちていくような感覚。目の前が暗くなる。吐き気がこみ上げてきた。


「……なんで……? なに、これ……どうして、こんなものが、ここに……?」


 詩織は、茫然と呟く。その言葉は誰に届くでもなく、空気に溶けて消えた。


「じゃあ……じゃあ、蓮くんは……描いて、ない……? ひとりで、じゃ……」


 自分の声が、ひどく遠くに聞こえた。


 混乱する頭で、なおもフォルダの階層を彷徨う。まるで、悪夢から覚めるための出口を探すように。だが、進めば進むほど、悪夢は深くなるばかりだった。


 そして、彼女はアーカイブの一番深い階層で、たった一つだけぽつんと置かれた、異質なファイルを見つけてしまった。


 他のファイルが全て画像データかフォルダである中で、それはシンプルなテキストファイルのアイコンだった。


 そして、その名前が、彼女の動きを完全に止めた。


『パンドラの箱.txt』


 全身の血が逆流するような感覚に襲われた。


 なぜ、こんな名前が。


 蓮が付けたのか? 自分の欺瞞を、開けてはならない災いの箱だと自覚していたとでもいうのか?


 いや、違う。このネーミングセンスは、蓮のものではない。もっと皮肉屋で、もっと……残酷な誰かのものだ。


 震える指先で、ファイルを開く。


 中に書かれていたのは、短い文章と、一つのURLだけだった。


『これを読めば、お前の信じる「神」の正体がわかる』


 脳天を、鈍器で殴られたような衝撃。


 これは、警告だ。蓮が、誰かから突きつけられた、脅迫状のようなものだ。


 そして、その「誰か」が誰であるか、詩織には痛いほどわかっていた。


 蒼太だ。


 蒼太は、全てを知っていたのだ。蓮の欺瞞を暴き、その証拠を突きつける準備を、とっくに終えていたのだ。


 蓮は、蒼太に嗅ぎつけられていることに気づいていた。このファイルは、彼の欺瞞が暴かれる決定的な証拠。だが、恐怖のあまり削除することもできず、かといって向き合うこともできず、ただアトリエの深淵に隠していた。


 なんと浅ましく、なんと卑小で、なんと醜い男だろう。彼は天才などではなかった。ただの臆病な盗人だ。自分の罪が暴かれる恐怖に怯え、真実を告げる勇気もなく、誰かがこの欺瞞の城を外から壊してくれるのを、ただ震えて待っていただけの――――。


 これが、彼女が「天才」だと信じて崇めた男の、剥き出しの正体だった。


 涙が、ぼろぼろと溢れ出した。


 蓮への裏切られた怒りではない。蒼太への申し訳なさでもない。


 そんな偽物の男に心を奪われ、本物を見極めることもできず、唯一自分を理解してくれていた幼馴染を無慈悲に切り捨てた、愚かな自分自身への、どうしようもない絶望と軽蔑だった。


 ガラス戸の向こうで、蓮が電話を終えてこちらに振り返る気配がした。


 もう、時間がない。


 詩織は、涙で滲む視界の中、マウスのカーソルを画面上のURLに合わせた。


 その先にあるのが、地獄だとわかっている。自分の世界を、今度こそ完全に破壊する、破滅のスイッチだとわかっている。


 それでも、彼女はもう、引き返せなかった。


 震える人差し指が、クリックボタンの上に、そっと置かれた。それは、自らの愚かさに判決を下し、信じていた世界を自らの手で処刑するための、エンターキーだった。

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