第40話 数学と英語
窓の外では、午後の光がゆっくりと傾きはじめていた。カーテンの隙間から差し込む陽が、畳の上に淡く広がる。わたしは座布団に座りながら、ノートを開いた。
目の前には太一くんがいる。テーブルを挟んで、ふたり分の教科書と参考書が並び、文房具が散らばっていた。太一くんの家に来たのは、先週のことがきっかけだった。
「数学、ここわかる?」
わたしはノートを指さした。図形問題で、角度の計算がややこしく絡まっている。
太一くんはわたしのノートをのぞき込むと、ペンを手にとって別の紙に図を書き始めた。
「この補助線を引いてみて。そうすると三角形がふたつできるから……ここが90度で、こことここが同じ角になるんだよ」
「え、すご……そっか、補助線か。そこまで思いつかなかった」
「よく出るパターンだから、覚えておくといいかも」
わたしは感心したように太一を見つめた。
「やっぱり太一くん、頭いいよね」
その言葉に、太一くんは少し照れたように顔をそらした。
「……いや、勉強しか取り柄がないだけ」
わたしは笑った。
「それでもすごいよ。私、ほんとに図形とかダメだから助かる」
ふたりの距離は、テーブルを挟んで変わらず一定だったけれど、話す声の調子や表情には、どこか自然なぬくもりがあった。
しばらくして、今度はわたしが太一くんに問題を出す番になった。
「この英語の文、意味わかる?」
わたしが指さしたのは、仮定法の文だった。
「えっと……If I had wings, I would fly to the sky. でしょ」
「うん、そう。太一くんならどう訳す?」
「もし僕に翼があったら、空を飛ぶだろう……かな」
「おしい。fly to the skyって言ってるから、“空へ飛んでいくだろう”のニュアンスが強いんだって」
「へえ、なるほど。れんさん、英語強いんだ」
「たぶん、文法は好きなほうかも」
太一くんは素直に「ありがとう」と言った。
ふたりはそうして、教え合いながらじっくり時間を使って勉強を進めていった。互いの得意な分野が異なるのも、ちょうどいいバランスだった。
休憩時間に、わたしはカバンから小さなお菓子の袋を出した。
「チョコ食べる?」
「あ、ありがとう」
「この時間って、頭が疲れてくるよね」
太一くんはこくんと頷いた。
「でも、一緒にやってると楽しいな。ひとりでやってたら、たぶん寝てる」
「わかる、それ」
ふたりは笑い合った。そのとき、わたしの胸の奥に、小さな安堵のようなものが灯った。無理に話題を探さなくても、こうして自然に過ごせる時間があるということが、どれほど救いになるか。わたしはそれを実感していた。
「進路、前に迷ってるって言ってたよね」
ふとたずねると、太一は一瞬だけ視線を伏せた。
「……まだ迷ってる。大学行くか、就職するか。どっちがいいか、わかんなくて」
「うん、難しいよね。どっちにもそれぞれの不安あるし」
「親のこともある……母さん、ひとりだし」
わたしは太一くんの言葉に、そっと目を伏せた。
あの夜、太一くんがクローゼットにわたしを隠したときの、あの苦しい空気が胸によみがえる。でも、れんは顔を上げた。
「でも、太一くんがどうしたいかを大事にしてほしいな。誰かのためにって思うのもすごく優しいけど、それだけだと……」
言葉に詰まったわたしに、太一くんがやわらかくうなずく。
「うん。……ありがとう」
また、少しだけ時間が流れた。窓の外では、日が傾きはじめていた。時計を見ると、もう夕方だった。
「そろそろ、帰らなきゃかな」
「もうそんな時間か」
ふたりは立ち上がり、使った教材を片付け始める。わたしがカバンにノートを入れながら、ぽつりと言った。
「太一くんと勉強できてよかった。きっと今日の分、テストにも出るよね」
「うん。れんさんが教えてくれた英語のとこ、特に出そう」
「ほんと? じゃあ間違えたら太一くんのせいだね」
「えっ、それひどくない?」
わたしはくすりと笑った。
玄関まで見送りに出た太一くんは、少し迷ったあと、わたしに言った。
「また、来てくれる?」
わたしは目を見て、はっきりと頷いた。
「うん。また来る」
そうして、ふたりは「じゃあ、またね」と言葉を交わして別れた。夕暮れのなか、わたしの背中には、穏やかな光が差し込んでいた。
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