第29話 告白
日曜の朝は、意外なほど穏やかだった。
目を覚ますと、窓の外には白んだ空と、風に揺れるカーテンの影。わたしは布団の中でしばらくまどろみながら、昨夜のことを思い返していた。太一くんの母親のこと。クローゼットの中に隠れながら、聞いてしまったやりとり。あの「たーくん」という呼び方。あの空気。
スマホの通知が小さく鳴ったのは、ちょうどそのときだった。
《昼、少しだけ境内で会えないかな? 話したいことがある》
太一くんからのLINEだった。
わたしは少しだけ呼吸を整えてから、すぐに返信する。
《うん、大丈夫。12時くらい?》
《それで》
会話はそれだけだった。でも、それだけで十分だった。わたしは布団から体を起こし、窓を開けた。夏の風が部屋の中に入り込んでくる。
──話したいことって、なんだろう。
わたしはその「予感」を、おそらく言葉になる前から知っていた。
⸻
境内は、日曜の昼だというのに静かだった。誰かの足音が砂利を踏むたび、鳥の声が遠くから返ってくるような場所。
わたしが鳥居をくぐって奥へ進むと、もう太一くんはいた。背を向けて、社のほうをじっと見ている。シャツの背中に、木漏れ日の影が揺れていた。
「……待たせた?」
声をかけると、太一くんはゆっくりと振り返った。
「ううん、俺も今来たとこ」
嘘だ、と思った。でも、そういうやさしい嘘が太一くんらしいとも思えた。
太一くんの表情は、いつもよりほんの少し曇っている。わたしは太一くんの隣に立ち、ふたりでしばらく社の方を見ていた。何かに祈るようでも、沈黙を守るようでもなく。
太一くんがようやく口を開いたのは、それからしばらくしてだった。
「父親のこと、話してもいい?」
わたしは小さくうなずいた。
「離婚の理由……母さんが言ってたことじゃなくて、本当のこと」
太一くんは、境内の石畳をじっと見つめたまま話しはじめた。
「うちの親が離婚したの、小学生の終わりくらい。母親は、あれは突然のことだったって言ってたけど、俺はなんとなく、気づいてたんだ。……父親が、浮気してたこと」
心が、一瞬きゅっと締まる。
「家に知らない女性の香水の匂いがついてた日があって。最初はなんとなく、ただ変だなって思うだけだった。でも、何度もあったから……さすがに、わかるようになるよね」
太一くんは、苦笑のような表情を浮かべる。でもそれは笑っていなかった。
「それで、ある日、母親が携帯を見ちゃったんだと思う。ある朝、急に泣いてて……『あなた、嘘ついてたのね』って」
言葉が、そこから少し詰まる。
「……父さんは、何も言わなかった。ただ黙って荷物をまとめて、家を出てった。結局、正式に離婚届を出したのはそれから半年後だったけど、母さんは……まだ納得してないんだと思う。いや、納得しようとしてないのかもしれない」
わたしは、彼の隣で、風の音に耳を澄ませるようにして聞いていた。
「母親にとっては、まだ“たくみさん”なんだ。父の名前。ずっと“たーくん”って呼び続けてるのも……たぶん、父さんを忘れたくないんだよ」
「……だから、太一くんのことも、」
「うん。俺のこと、父さんと重ねてる。それだけじゃない、たぶん……“夫婦だったころ”に戻りたいんだ。だから俺にまで、時々“たーくん”って……」
太一くんは、そこでようやく顔をあげてれんを見る。迷いのある、どこか傷ついたままの目。
「……でも、俺はその役割を背負いたくない」
わたしは、ほんの少し胸が痛くなった。太一くんがそれを、言葉にするのはどれほどのことだったろうと、思ってしまったから。
「ごめんね。昨日、れんさんにあんな姿見せて……本当は、見せたくなかった」
「ううん。……ありがとう。話してくれて」
わたしの声は、思ったよりもやわらかくて、自分でも驚いた。太一くんが少し、肩の力を抜いたように見えた。
境内の風が、ざあ、と緑の葉をゆらす。ふたりの足元には、木漏れ日の斑模様が映っていた。
「少し、救われた気がする。話せてよかった」
「わたしも……ここで聞けて、よかった」
夏の昼の光はまぶしかったけれど、それ以上に静かで、あたたかだった。
ふたりの間には、何も起こらない時間が流れていく。ただ、それが少しずつ心をほぐしていくような、そんな午後だった。
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