第4話 ピンくん
沈黙が少しだけ長くなって、私は何か言わなきゃと焦った。けれど、何を言えばいいのかわからなかった。
さっきまでの会話があまりにも自然だったからこそ、次の言葉がどうしてもぎこちなくなりそうで。
ピンくん。まだ、名前もちゃんと知らない。
私は視線を落として、ベンチのひび割れを指先でなぞった。風が吹いて、葉の音がざわざわと背後の木々から響く。
遠くで鳥の鳴き声も聞こえたけど、ふたりの間には音がなかった。
無理やり口を開いた。
「……ねえ」
「うん?」
「なんで……『ピンくん』って呼ばれてるの?」
質問したあと、すぐに後悔した。しまった、変なことを聞いたかもしれない。空気が少しだけ重たくなった気がして、私は顔をあげられずにいた。
ピンくんは、一度視線を足元に落として、それから静かに口を開いた。
「……あれ、卓球部だったから」
「え?」
「部活、元々卓球部で。辞めちゃったけど。……その、ピンポン球の『ピン』。名前はあるのに、誰もちゃんと名前では呼ばなくて……気づいたら、ピンくん、って」
「ピンポン球の『ピン』……」
私は思わず、繰り返した。信じられなかったというより、納得できなかった。彼は小さく息を吐いたようだった。
「……なんかさ。そういうあだ名って、あるでしょ。サッカー部とかバスケ部とか、花形っていうか、そういう部活の子なら、“ゆうき”でも“ゆーすけ”でも、“ゆーくん”とかって名前で呼ばれる。でも、卓球部ってだけで、“ピンくん”。それがもう、ラベルみたいでさ」
「……それ、ちょっと、ひどくない?」
私はぽつりと言った。彼は肩をすくめるように笑ったけれど、その目は少し遠くを見ていた。
「うん。だから、俺、それ呼ばれるの好きじゃないんだ。……でも、もう、そう呼ばれないと、自分って気づいてもらえない感じがしてさ。
名前は田中太一っていうんだけど、田中って言っても、太一って言っても誰も振り返らない。でも“ピンくん”って言えば、“ああ、あの”ってなる」
「……名前じゃなくて、役割……」
「そう。“いじられ役”とか、“からかい担当”。誰が何言ってもいい相手、みたいな。別に“ピンくん”って呼ばれた瞬間が嫌だったとかじゃないけど……でも、いつからか、それが“名前”になっちゃってて」
その言い方は淡々としていたけれど、私はその中に、いくつもの重たい思いが詰まっているような気がした。
本名が、意味を持たなくなっていく感覚。誰かが一度でも自分にラベルを貼ると、それはあっという間に全身に染みて、もう自分ではがすことができなくなる。
私も、ある。
「……私も、あるよ。そういうの。呼ばれたくない名前。……“れん”じゃなくて、なんか、バカにするための名前っていうか……
……消えないよね、ああいうの」
ピンくんは、少しだけこっちを見た。そして、なにか確かめるようにまばたきをした。視線の先で、私は少しだけうなずいた。
「……俺さ、ほんとはさ、名前で呼ばれると、ちょっとだけ安心するんだ」
「……そうなんだ」
「うん。でも、家でも呼ばれてないから。……親、離婚してて、苗字違うんだよね、いま。すこし前のときまでは“田中”って呼ばれてたけど、いまはもう、誰も使わない。名前も、苗字も、俺のものじゃないみたいで」
私は思わず、息をのんだ。
「……そっか」
言葉がそれしか出なかった。何か他のことを言おうとしたけれど、言葉が詰まった。
私だって、呼ばれることが怖いときがある。誰かの声で、誰かのトーンで、名前を呼ばれたとき、「あ、これは私をバカにしてる」とか「試してる」とかわかってしまうときがある。
それくらい、呼び方って、正直なんだ。
だからこそ、今聞いておきたかった。
「……じゃあ、今度からは、名前で呼んでほしい?」
少しだけ勇気を出して、たずねた。
ピンくんは、ほんの少しだけ笑って、首を横に振った。
「……今は、まだそれでいいよ。れんさんが呼ぶなら、別に嫌じゃないから」
私はその言葉を、風の音に消されそうなほど静かに聞いた。
でも、それは私の中にしっかりと残った。呼ばれる名前が、少しずつ変わっていく瞬間。その始まりのような時間だった。
夕方の空が、すこしずつ赤く染まり始めていた。
草のにおい、遠くで聞こえる車の音、二人分の呼吸――何もかもが、静かに、この場所だけを包んでいた。
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