第3話

 対岸で私を迎えてくれたのは苔むした対の狛犬だった。どちらが雌雄か区別がつかないほど風化していた。闇の中へ吸い込まれるように蛇行して続く石段の両脇には赤い提灯がぶら下がっていた。提灯の光は山頂付近まで続いている。私は急激に疲労を感じて足下を見つめる。履き慣れた靴の紐が片方解けていた。私は紐をしっかりと締めなおした。そうすると石段を登ってやろうという気持ちが芽生えてきた。鉄橋を渡り、鬼堂老街へ戻る気は無かった。あの釣り人に会うのもひどく気が進まなかった。私は石段に足をかける。

 石段を登り、森の奥へ進んでゆく。闇夜に浮かぶ提灯の赤い光が石段を照らし、まるで赤いカーペットの上を歩いているようだ。この先に何があるのか、あの釣り人は興味がないと言っていた。私だってさほど興味はない。しかし、あの濃厚な死の雰囲気を漂わせる鬼堂老街には留まりたくなかった。初めは石段を数えながら登っていたが、いつしか数がわからなくなった。夜風のいたずらでざわめく葉擦れの音に肩を竦める。

 かなり上の方へ登ってきたはずだが、不思議なことに息切れもしていない。胸に手を当てると心臓の鼓動は定期的なリズムを刻み、生きていることを実感する。いや、時計のように鼓動することだけで生きていると言えるのだろうか。私は自己否定の疑問を振り払い、足を進めた。

 石段が途切れ、巨大な牌楼が聳え立っている。私は一度躊躇った。この牌楼をくぐればもう戻れない気がした。いや、もしかしてあの鉄橋を渡った時点で手遅れなのかもしれない。ならば、ここで思い悩むことはない。私は牌楼をくぐった。空気の密度が変わったような気がしたのは気のせいだろうか。玉砂利の上に敷かれた石造りの通路を進むとそり返った屋根の廟が見えてきた。廟の前には黒い外套を着た人たちが整列していた。その異様に私は足を止める。みな目深にフードを被り、拝礼したまま微動だにしない。この儀式はいつか終わるのだろうとしばらく眺めていたが、彼らは金縛りにでも遭ったかのように身じろぎもせずただ立ち尽くしている。私はあの廟に何が祀られているのか気になって仕方がなかった。いつまで待っても彼らは望んだ苦行のように揺らぎもしない。私は息を殺して彼らの横をすり抜けていく。好奇心に抗えず、振り向いてみた。フードの中にあるのはただの闇だった。私は見てはいけないものを見てしまった恐れに震え上がる。足早に駆け出し、逃げるように格子戸を開けて廟に飛び込んだ。

 廟の中は香炉から立ち昇る煙が充満していた。外気よりもやけに空気が冷ややかで鳥肌が立つ。正面に立つ本尊を見上げると、観音像のようだった。憂いを含む笑みを浮かべるその顔に何故かひどく懐かしさを覚えた。私はその顔を知っている。彼女に深い親愛の情を抱いていた。切ない想いが心に満ちて、目に涙が滲んだ。私は彼女の名を呼ぼうとしたが、それはできなかった。白い霧が揺蕩うように私の頭の中は無機質な虚無に支配されていた。それが心地良くもあり、私はただ慈愛の眼差しを享受していた。香炉に立つ線香を見て、私もそうしようと思った。木箱の中から線香を取り出し、蝋燭の火に翳す。すると線香は瞬く間に灰になってしまった。何度やり直しても無駄だった。私はやむなく諦めた。観音像に向かって私は膝を折って祈った。記憶の彼方にいたはずの彼女ともう一度会いたいと。観音像はただ万人に向けた微笑みを浮かべたまま、私を見下ろしている。私は願いが叶わぬことを知り、廟を後にした。

 外に出ると、思わず目を見開いた。黒装束たちが腕をまっすぐに伸ばし、皆同じ方向を指差している。分厚い雲間から覗くのは血のような赤色の月。月の印影がまるで脈打っているように錯覚する。私はその場から逃げ出した。無意識に彼らの指差す方向へ。廟の右手にやってくると、煉瓦造りのトンネルが真っ暗な口を開いていた。錆びついて朽ちた鉄格子は何本か折れ、トンネルへ入るには充分な隙間があった。絡み合う蔦の隙間から第六坑道と刻まれた銅板が確認できた。ここはあの釣り人が話していた炭鉱に違いない。坑道は大きくカーブを描いて奥へ続いている。等間隔に続く木で組まれた柱が鳥居のように見えた。足下には水溜りが点在し、湿った土臭い空気が流れてくる。坑道は夜の闇よりも濃く、迷路のように入り組んでいるかもしれない。また、ここを棲家にする危険な野生動物と出くわすかもしれない。入るなんてありえない、という気持ちとここまで来たのだからもうどうなったって良いじゃないかという気持ちがせめぎ合う。坑道の濃密な闇は静寂を纏い全てのものを包み隠してくれるような気がした。私は柱にかけてあった煤けたランタンを手に取る。火を灯すには蝋燭が必要だ。廟にあった蝋燭を拝借しよう。

「この先へ行くのかい、ならこれを持っていきな」

 目の前にいたのは茶房の番台にいた老婆だった。老婆はまだ火を灯して間もない蝋燭を私に差し出す。私は覚悟を決めるしかなかった。

「この先には何があるんですか」

「さあ、わしも行ったことがない。行き止まりなのか、どこかに抜ける道があるのか、誰も知らない」

 老婆は首を振る。

「もし道に迷いそうになったら戻ってくれば良いでしょう」

「迷いそうだと思ったときにはすでに迷っているもんだよ」

 行けば私はこの坑道から出られなくなる可能性があるということだ。しかし、鬼堂老街へ戻ったところで私は途方に暮れるだけだ。海の見える坂道のバス停で下りのバスに乗っても行き先はわからない。

 この悪夢のような世界から果たして抜け出すことができるのか。私は希望の光となるランタンを掲げて坑道の奥を照らした。そして諦念にも似た気持ちとともに歩き始めた。振り返ると老婆の姿はすでになかった。

 坑道はあらゆる方向に曲がりくねり、気まぐれに分岐し、どこまでも続いていた。古い鉄製の階段を登り、深い穴に通じる梯子をどこまでも降りてゆく。ここは私の墓場なのかもしれない。誰にも知られることなくここで朽ちてゆく。私はいつしか出口ではなくこの坑道の終焉を探していた。そうすると、不思議と闇が怖いとは思わなかった。しかし、蝋燭の火がもう消えようとしている。光の届かぬ坑道は完全な闇となる。ランタンの光があるからこそ自ら進む道を選べたのだ。それがなくなれば私は道を見失い、闇に呑まれてしまう。焦燥の時間は短かった。蝋燭が燃え尽きてしまったのだ。

 周囲は闇に包まれている。遠くで水滴の落ちる音が聞こえている。私は一体何者だったのだろう。棺桶の中の遺体、廃屋の首吊り死体、はたまた釣り人の餌か。

 それらを否定して私は自由を選んだ。少しも後悔はしていない。私は硬い岩に背を預ける。完全な闇の中、目を開けているのか、閉じているのかもわからない。私の意識は深淵と溶け合い、不安も苦しみも無に同化してゆく。壁に書かれたチョークの名前は何だったか。心残りなのは彼女の名を思い出せないことだ。瞼の裏で古い廟の中で見た彼女が私に微笑みかけた。

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鬼堂老街の夜 神崎あきら @akatuki_kz

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