第2話
白湯のようなお茶にも飽きてきたし、店を出ることにした。番台で金を払おうとしたがポケットをまさぐっても財布がない。そういえば、バス代を支払った覚えもなかった。
「味のないお茶に代金はもらえないよ」
老婆はそう言ってくれだが、私は踏み倒す言い訳をした気分になり心苦しかった。
「鬼堂老街はどちらですか」
「この先の道をまっすぐいくと街灯が立っている。その階段を降りると良い」
私は礼を言って茶房を出た。茶房の窓ガラスに影が過ぎった。思い違いだろうか、よくよく見ても茶葉を入れたアルミ缶が並んでいるだけだ。そこには微かに私のくたびれた顔が写っているだけだった。
海を見渡す遊歩道を進むと、老婆の言う通り、街灯を見つけた。傾斜の急な石造りの階段をほのかに照らしている。周囲に明かりがなく、三匹の蛾が集っていた。私は森を貫くように続く不揃いな階段を降りてゆく。
森が開けると、どこか懐かしい街並みが現れた。灰煉瓦造りの洋風建築や木造平屋の民家が密集している。民家のひとつに明かりが灯っているのを見つけ、安堵する。格子窓に顔を近づけてみると、微かな嗚咽が聞こえてきた。白木の箱の周りを黒い着物を着た者たちが囲んでいる。箱は人ひとりが入る大きさ、おそらく棺桶だ。周りを囲むのは遺族や縁者だろう。皆頭に黒い頭巾をかけて顔を隠している。それも異様だったが、不揃いに長い箸で棺桶の中から何かを拾い出している。一人が白い破片を取り出した。それは浜辺に落ちている珊瑚の死骸のようだった。それを別の者が箸で摘み、白い壺に慎重に納めている。その動作を複数人で繰り返している。重い沈黙が家の中を支配していた。蝋燭の炎の元、お骨上げをしているのだ。
私は違和感を覚えて後ずさる。お骨上げは火葬の後で行うものだ。何故自宅で棺桶からお骨を拾うのだろう。疑問が解けぬうちに、次に箸が掴んだのは絡み合う長い毛髪だった。黒い髪はしっとり濡れているのか艶やかな光沢を帯びていた。まさか見間違いかと思って目を離せずにいると、次に白い球体を摘み出した。絡み合う赤い繊維が糸を引く。あれは眼球に違いない。黒い瞳は生き生きと輝いて見えた。
私は恐怖に喉元まで出かかっていた声を必死で押さえ込んだ。しかし、喉をならす音が夜の静寂に響いた。ひとりが長い箸を持つ手を止め、ゆっくりとこちらを振り向いた。私は金縛りに遭ったようにその場から動くことができない。こちらを向いた顔は闇そのものだった。目深に黒い頭巾を被っており、顔に影が落ちて人相は認識できない。それに呼応するようにその場にいた全員がゆっくりとこちらを振り向いた。個性の無い人々は影の奥から私を凝視したまま、押し黙っている。
「ひえっ」
私は堪えきれずに掠れた悲鳴を上げ、場に尻もちをついた。足が震えて立ち上がることができない。
「あなたも弔問ですか」
黒い着物のひとりが音も無く扉を開く。私は尻もちをついたまま後ずさる。上品な仕草で屈み込み、長さが不揃いの白い箸を差し出す。女性のような声だが、黒い頭巾を目深に被っているため、判別がつかない。
「い、いえ、私は違います」
私は思い切り首を振った。力を振り絞って立ち上がり、壁伝いにその奇妙な葬式を行う家を離れた。道が婉曲して家の明かりが見えなくなるまで安心はできなかった。等間隔に立つ街灯の明かりが点滅して濡れた石畳の道を照らしている。これほど民家があるのに、明かりがついた家がなく生活音が無い。それに気が付いたとき、背中にぞわりと鳥肌が立つ。いや、鬼堂老街全ての住人が弔問に訪れているのかもしれない。だとしてもあまりに静かだ。
ふと、視線を感じて振り向いた。煉瓦造りの壁、支柱が剥き出しになった倒壊しかけの廃屋が建っていた。蔦に覆われた廃屋の梁から何かがぶら下がって風もないのにゆらゆら揺れている。太いロープで吊られたそれは背中を向けている。片方の靴がコンクリートの上に転がっていた。すでに息はないだろう。いつからそこにそうしているのか。彼がどうしてこの末路を選ばなければならなかったのか、私には知るよしもない。崩れかけた煉瓦の壁に白いチョークで女の名前が書いてある。裏切られたのか、死別したのか。いや、興味を持ってはいけない。私には何もできないのだから。
ロープがくるくると捻れ、身体がゆっくりとこちらを向く。もしや、先ほど感じた視線は彼だったのだろうか。私は彼がこちらを向き終わる前に廃屋の前を立ち去った。
廃屋を過ぎると岩にぶつかる水の音が聞こえてきた。開けた場所に出て、渓流に鉄橋が架かっている。アーチを描く橋はコンクリートが剥がれ落ち、鉄骨が露出している。コンクリートはひどく劣化してところどころ黒焦げだ。橋の向こうは別の山が連なっており、山の斜面に赤い光が点々と続くのが見えた。光は山頂に向かって伸びている。
「ここは炭鉱から石炭を運ぶ水道橋だった。だから空襲で狙われて破壊されてしまったんだ。死んだ親父に聞いた話だよ」
渓流で釣りをしていた中年男性が魚を釣り上げた。銀色に光る魚を魚籠に入れ、懐中電灯の光を頼りに釣り針に新しい餌をつけている。
「この橋は渡れますか」
「ええ、とても頑丈に造られているので渡れますよ」
釣り人は竹竿を軽く振って渓流に釣り糸を垂れる。私は親切な彼に今が何時かを尋ねようと思った。しかし、それを聞いても意味が無いような気がしてやめた。
「この先には何がありますか」
「さあ、行ったことがないからわからないね」
なぜ橋を渡らないのだろう。私は不思議に思った。彼は鬼堂老街の住人なのか。地元の人間が足を踏み入れない場所というのは何かある。行かない理由は何だろう。この先へ行くべきだろうか、私は躊躇した。
「何があるか知りたくはないですか」
「ああ、興味はないね」
釣り人は竹竿を跳ね上げる。そこには空の針がついているだけだった。小さく舌打ちをして男はまた新しい餌を針に通している。それは爪がついた子供の小指のように見えた。私は急に恐ろしくなり、渓流にかかる鉄橋に足を踏み出した。足下のコンクリートが剥がれて鉄網が露出している。釣り人の言う通り、橋はとても頑丈で揺れることもない。上流から何かが流れてくるのが見えた。私は片側だけ残ったアーチの下から身体を乗り出し、目を凝らす。澄んだ水に浮かんで流れてきたのは赤い着物を着た人形だった。艶めかしい肌は蝋のように白く、まつ毛の長い人形だ。微かに開いた桃色の唇が艶やかに光っていた。私は人形を拾い上げたかったが、橋の上からでは到底届かない。人形は橋の下をくぐり、くるくる回転しながら下流へ流れていった。私はひどく寂しい気分になり、足早に橋を駆け抜けた。
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