花天月地【第2話 星は流れて】
七海ポルカ
第1話
深夜、
月が無い。
星は輝く。
彼は腕を深く衣の中に隠して、組んだまま、眠ることも無くずっとそうしている。
(幾度見上げても、星は見えん)
彼が言う『星』は空の星では無い。
空の星が描く軌道によって映し出される、占星術の『星』だ。
彼が探しているのは、
彼と
幼い頃に、生まれながらに、魂を分け合って生まれた相手だと、占い師に言われたのである。
それは讒言などではなく、龐統自身、ある時からそう感じるようになった。
諸葛孔明と龐統は、八つ歳が離れていた。
龐統が普通の人間のように無邪気に、自分の明日を自由勝手に夢見る子供でいられたのは、八つの時までだった。
諸葛亮がこの世に生まれたその瞬間、何か自分に不思議な力が宿ったのが分かった。
自分は普通の人間ではないのだと、だから何かを成さねばならないのだと、突き動かされるように学んだ。
彼はこの歳になるまで、自分と孔明は【対の星】なのだと、信じ続けてきた。
そして彼はいつか諸葛亮と会った時、彼を屠って、長らく自分を『影』に仕立てて来た諸葛亮の呪縛から逃れ、自由になることを望んでいたのだ。
――――だが……。
戦場で諸葛亮と邂逅した時に、龐統は彼の死を強く感じた。
空に凶兆の赤い星が輝いていた。
それは諸葛亮の『星』の側で妖しい光で満ちていた。
まるで食らいつくそうとするかのような、危険な光。
それに気づいた時、龐統は動いた。
動きたいと願ったのではない。――突き動かされたのだ。
彼は
先だっての大戦で、龐統は諸葛亮の命を救った。
救った今でも、揺らぎなくそう思っている。
(奴を守ってやりたいなどと)
諸葛亮の呪縛から逃れる為に、死を望んでいたのだ。
だがあの時、龐統は無我夢中で突き動かされるように諸葛亮を助けていた。
『
怒りに燃える、琥珀の瞳。
『そして私のいる戦場には二度と姿を見せるな。次にお前を戦場で見つけたら、その首を必ず飛ばしてやる。
私を裏切ったからじゃない。
――貴様は最初から、孫呉の敵だったからだ。』
最初から、呉の敵。
呉の敵である諸葛亮を、お前は助ける運命だったのだと、あの琥珀の瞳は見据えて来る。
彼は龐統の裏切りに怒ったのではない、運命の相手を知っていながら離れることを望み、望みながらもいざとなったら、抗うことも出来ず、呆気なく運命の轍に落ちた、龐統の弱さを批判したのだ。
諸葛亮の為に命を賭けれることを、自覚しなかった龐統を。
(俺は、孔明の命を奪うことが、願いだった)
八歳の時、諸葛亮がこの世に生まれたことを感じ取ったその時から、いつかいつかこの存在を屠って、自分自身が自由に、望むように生きれるようになりたいと願っていた。
あの時諸葛亮の命を救ったのは、龐統自身にさえ、説明の出来ないことだったのだ。
自分の手を握り締める。
(俺はただ、俺のこの手で、奴を屠りたかっただけだ。
他の人間に、奴を殺されるなど、我慢がならなかっただけ)
何故ならそんなことはあり得ないのだから。
龐統の光であり、影である諸葛亮ならば、彼の命を救い、奪うのも、龐統であるべきだった。
何故なら諸葛亮にとっても龐統は光と影であり、命を救い、奪うものであるべきだから。
(だが……)
星は動いた。
地上の大きな脈動が、天に響き、天の運行にすら影響を及ぼしているのだ。
星は地上より、遥かな時間と、遥かな高みで動いているが、その星とて、死ぬことはある。
――――予期出来ぬ動きをすることがあるのだ。
諸葛亮の星は動いた。
それは龐統の予期出来なかった動きだった。
龐統の【対の星】だった彼は、その
残された龐統は、元通りに居続けることさえ出来なかった。
諸葛亮が動いたならば、龐統も動かざるを得ないからだ。
(また俺は、孔明の力に引きずられて生きている)
望んだわけではないのに、天がそう、自分を生かす。
『……それほど宿命の相手なら、何故共に歩もうとしないのです?』
『光と影、天と地、白と黒……同じ轍を歩む者だというのなら他の人間よりも親しみを抱いていいはず。なのに何故殺そうとするのです?』
お前には分からない。
龐統は陸遜に言った。
『己の血を分けた兄弟よりも近しい他人が存在する気味の悪さを。
……選び取る道が、実は自分で選んだものではなく、……見知らぬ人間の単なる対の行動でしかないと分かった時の絶望も』
偶然巡り合っただけで、あれはなんの因縁もない人間だ。
龐統の世界は、ほとんどが悪いことだったが、良くも悪くも孔明以外の人間が存在しない。
かつてはそこに、家族だけは存在させたいなどと思ったこともあったと思うが、家族さえ、所詮自分を理解出来ないのだと分かった時、龐統は家族を捨てた。
だから龐統も、
彼がどんな人間であれ、どんな夢を抱いていたとして、何の興味も無かった。
『……呉では、
それは、今では三国中で【
ざわ、と会議場全体に驚きの波が広がった。
龐統はその中にいて、一人、その不思議な波を奇妙に思っていた。
蜀の将軍たちは口々に、今までの孫伯符の呉における輝かしい戦功と、それを常に支え赤壁の戦いでも総指揮を執った周公瑾の姿に敵ながら、と称賛を送っている者もいれば、
(敵のことではないか)
龐統は思った。
仮に
立派な男達だったと微かに声を震わせた劉備にも、龐統は言い難い違和感を覚えたのである。
孫策は、龐統の記憶にはあまりない。
だが周瑜は覚えている。
烈火の如き気性の軍師だ。
『お前のように自分のことだけしか口に出来ぬような愚か者は、結局は大局において人の為には動かぬ』
彼は最初から、龐統の本質を見抜いていたようだ。
一貫して孫呉にお前は必要ないという態度を緩めなかった。
龐統を取り立てたのは陸遜である。
他の者の話では、陸遜は周瑜に師事を受け、弟子同然だったという。
彼が周瑜の意にそぐわぬものを、一度は南陽へ転戦させられながらも、側に置き続けたのは、今回が初めてだったという。
呉の武将の為に涙を流す劉備から心を遠ざけ、側の孔明に視線をやる。
彼は嘆いては無かったが、周瑜の死に、深く目を閉じていた。
やはり彼は龐統の存在など忘れたかのように、こちらに注意を向けることも無い。
それが真実なのだ。
彼は今や劉備をその星の拠り所とし、劉備と共に涙を流し、敵である相手の死に心を悼めるようになったのだ。
龐統は騒ぎが鎮まらない軍議室から、一礼して退出した。
『
長い廊下を歩き続けていると、後方から名が呼ばれた。
そこに、若き蜀の軍師が立っている。
孔明の側に仕えている青年だ。
龐統は辛うじて名を思い出した。
『……なんだ』
『殿のおられる大会議の最中に席を立つのは止めていただきたい』
『おれがいる必要のない場だと思っただけだ』
『随分冷たい物言いをするのですね。貴方は短時間とはいえ、呉に仕えていた。
『恩義?』
龐統は眉根を寄せる。
『そう。恩義です』
『そんなもの、俺はない。誰にも持たぬ』
姜維は龐統を見据えた。
『この際言っておきますが、貴方のことをまだ快く思わない者達も蜀にはまだ多くいることを忘れないで欲しい』
こつ、と姜維は歩き出す。
龐統を追い越して、背を向けた。
『特に今は、呉に対して不信が募っている所ですからね……。
私は孔明先生が、貴方は
ですが、貴方がもし少しでも不審な行動を起こせば、その時は、容赦なく斬るということも忘れないで下さい。
単純な軍術の使い手というだけではない。
あの男は人を動かす、力があった。
あの孫呉の最も重鎮たると言っていい
陸遜も、あの男に命じられて孔明先生の命を狙ったのです。
あれほど他愛ない子供のように孔明先生に懐いていたのに、周瑜に命じられただけで陸遜は牙を剥いた。
貴方も少なからず、
『おれは周瑜には忌み嫌われていた。言葉などまともに聞いたことも無い』
『……そうですか。ならいいのですが。
龐統は火傷のあとのある顔を姜維に向けた。僅かに、姜維は目を細めるような仕草をした。
『貴方は呉では陸遜の副官として仕え、あの戦いにも副官として参戦していました。
あの者に情けを掛ける気はありませんか?
次に戦場で会えば、その首を、迷わず斬ることが出来ますか?』
【私のいる戦場には二度と姿を見せるな。
次にお前を戦場で見つけたら、その首を必ず飛ばしてやる。
私を裏切ったからじゃない。
――――貴様は最初から、孫呉の敵だったからだ。】
憤怒と憎悪に満ちた目が、見据える。
与えられた言葉の意味を、幾度も幾度も思い出して、龐統は考えていた。
『俺は自分の意志で呉にいたのだ。去ることはいつでも出来た。
奴に恩義など無い。
奴もそのことは承知していた。
あれは、次の戦場で俺を見つけたら、首を飛ばすと言っていたぞ』
『龐統。私は、陸遜をさほどの者とは見ていません。
しかしあの者を指南した周公瑾は恐るべき才でした。
その息吹が掛かっているうちは、注意は必要ですが……所詮、死人の記憶などは時間と共に消えゆくもの。
陸遜に纏いつく周公瑾の影はいずれ消え去る。
そうなった時には、陸遜には何も残らない。
そうなれば排除するのは容易いはずです。
ですが、今は注意が必要ですよ。
奴が孔明先生に斬りかかったのは事実なのですから。
赤壁の記憶も新しい今、陸遜が次は貴方の首を飛ばすと言ったからにはあの者は必ずそれを実行するでしょう』
姜維は龐統を見た。
『貴方はしばらく戦に出ずともいいように、私から孔明先生にお願いしてみます』
『構わん。無用なことだ』
『龐統。貴方と孔明先生の因縁は知っています。【
そのことは、
龐統は瞳を開いた。
もう一度、夜空を見上げる。
周瑜と陸遜の、深い師弟関係は目の当たりにした。
自分が裏切った時の、それを予想もしなかったような陸遜の驚いた表情。
愚かだが、何故そんなにも自分を信じ切れたのか……心底不思議な、琥珀の輝きだった。
驚きから、その瞳の奥から揺らめく炎のように怒りが滲み出して行くのも、見た。
周公瑾が死んだ。
今、あの琥珀の瞳は悲しみに沈んでいるのか。
……怒りに満ちているのか。
それとも他の、表情をしているのだろうか。
見上げる満天の星。
人のように心を持たない星の輝きは、曇ることが無い。
星は今日も、静かだった。
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