第1章 第2話「巫女の血」

リセリア・セラフィーヌが「三指の巫女」と呼ばれるようになったのは、十歳の時だった。


その年、東の山肌に不吉な瘴気が立ちこめ、村の祈祷士たちが手に負えずにいた。

年長の巫女が次々と力を失い、土地が病みはじめていた。

だが、まだ幼かったリセリアだけが、結界の内側に立ち、ひと晩中、祈りを捧げ続けた。


夜明け、雲が割れ、朝日が土地を照らしたとき、瘴気は霧のように消えていた。

それ以来、彼女の名は特別なものとして扱われるようになった。


三指の巫女——


その力は、国にとって希望であると同時に、鎖でもあった。


「リセリア。あなたはもう“私たちの希望”なのです」


そう告げたのは、当時の巫女長。

灰色の瞳をした厳格な老女で、優しさもあったが、それ以上に伝統と責任を重んじる人だった。


「希望」という名の檻が、彼女の人生を囲む。

外に出ること、旅をすること、友と自由に語ること。

それらは「大切な器を守るため」という名目で禁じられていった。


それでも、少女時代のリセリアには友がいた。

リセリアと並び称される存在である。

名を、ネリア・ファリュスという。


リセリアと同い年で、同じく巫女の血を引き、ほぼ同等の力を持つ少女が、リセリアと仲良くならないわけがなかった。

リセリアの方が早くに覚醒したため、その力はリセリアの方が、一歩抜きん出てはいたが、それでもネリアの才は誰もが認めるものだった。


ネリアは、賢くて、絵を描くのが好きで、物静かで思慮深い子だった。

沈黙の中に世界を描く、静かな強さを持った少女だった。


二人はよく、結界の近くの森で風にあたりながら、石の上に座っておしゃべりをした。


「いつか、ね。外に出て、広い空を見たいな」

リセリアは、目を細め、遠くの空を見ながら、夢のように語った。


「広い空ならここにもあるよ」


「でも、違うの。あの雲の向こうには、見たことない光がある気がするの」


リセリアの希望に輝く瞳、まっすぐで純粋な言葉に、ネリアはそっと笑った。

羨ましいと思った。夢を語れるその心が、自分の中から失われつつあることを、彼女は感じていた。


セルティアの巫女として生まれ、強すぎる力を持つ者は、国の柱として次代に定められる。それは誇りであると同時に、重く厳しい宿命だった。


リセリアはもちろんのこと、覚醒してからというものネリア自身も——

賢いからこそネリアは、嫌というほどわかっていた。

セルティアの巫女としての宿命から逃れられないことを。


だからこそ、リセリアの純粋でまっすぐな夢を語る姿を見て、まぶしく見えた。

そして、少しだけ——ほんの少しだけ、胸が痛んだ。



強すぎるがゆえに、次代の柱として定められた巫女。


子を産むことも、愛を知ることも、いずれ禁じられる——そう教えられていた。


それでも、風向きは変わる。彼女たちが十九になった年だった。

ある日、外から「祈祷依頼」が舞い込んだ。

セルティアは原則鎖国していたが、特別な信頼と条約に基づき、外に巫女を一時派遣する制度があった。

学びの地アルメオ自治領の南の村で、悪しき存在が祟っているという。


当初は年長の巫女が行くはずだった。だが急病により、代替者として選ばれたのが、当時十九歳になっていたリセリアだった。


「これは一度限り。決して外に心を向けてはなりませんよ」


巫女長のその言葉に、リセリアはただ、黙って頷いた。

けれど、心は静かに揺れていた。

初めて見る外の世界。結界のない風。土の匂い、人々のざわめき。


——そして、彼に出会った。


カシアン。

ヴァルシア王家の血を引く医師見習いで、聡明で、柔らかな人だった。

生まれながらにして「王家の婚外子」という重い影を背負って育ったという。

王都では侮られ、政治の表舞台からが遠ざけられていた。


「だから僕は、この手で誰かを救える道を選びたかったんだ」


その言葉が、妙に胸に残った。

彼は自由ではなかった。でも、自由になろうとしていた。


二人は、数日の間に、何度か言葉を交わし、手を重ねることさえなかった。

けれど、心は確かに通った。


「あなたを迎えに行きます。僕が医師になったら、きっと」


その約束が、冗談ではないことを、リセリアは信じた。


国へ戻ってからの日々は、より厳しくなった。

彼女の中に芽生えた感情が、まるで結界の内側で静かに反響するように、何度も彼の声を思い出させた。


「巫女は、国に生き、国に死す」

そう言われて育った。

けれど、心だけは国に縛られたくないと、初めて思った。


そして、約束のとおり、二年後。

彼は再び彼女の前に現れた。


「迎えに来ました」

「……ほんとうに来てしまったのね」

「あなたがここにいる限り、どんな形でも来ると決めていた」


そう口にしたとき、カシアンの声は穏やかだった。けれど、その瞳の奥には、揺るぎない意志が宿っていた。


その言葉に、リセリアはただ静かに瞬きをする。

自分の心の奥底に、いつしか芽生えていた“外の世界”への憧れ。風の向こうにある光を——雲の彼方に広がるまだ見ぬ景色を、ずっと夢見ていた。

けれど、それを“叶えたい”と望むことには、どこか遠慮があった。

国に縛られた巫女としての役割、望まれた在り方、それらを壊してまで歩み出す勇気までは、まだ持てなかった。


そんな自分の心に、彼はまっすぐに応えてきた。

迷いのないまなざしで、扉の外から手を差し伸べてくれたのだ。


——あの日から、すべてが少しずつ変わり始めた。



本来なら咎められる結婚だった。

巫女は国に属し、その命も役目も、神託と国の意思の下にあるべきだ。

特に、子を宿すことは“力の伝承”として許可されることもあったが、それはあくまで巫女制度に組み込まれた形式のみ。

リセリアのように、“自らの意志”で外の男と結ばれることは例外だった。


けれど、リセリアは譲らなかった。

「それでも、私は選びたい」と、時の巫女長を前にして口にしたとき——

彼女の灰銀の瞳には、どんな神託よりも揺るぎない光が宿っていた。


巫女長は、静かにため息をつき、重く言った。

「……結婚は認めましょう。だが、“子を持つこと”だけは、決して許されぬと念を押しておきます」


——それでも、命は芽吹いた。


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