第2話・その街に行けるなら、次は二人で。
頭の中で、いつも物語が息をしている。大きな街が広がっていて、その街の中にたくさんの建物が並んで人々がそれぞれの人生を生きている。そしてその世界を、僕は真上から見下ろしている。机の上に広がった、ジオラマの大都市を眺めるみたいに。
その空想癖が原因で、心無い言葉や理不尽を受けたこともあったけれど、僕は生まれ持ったこの感覚を、憎んだり悪者にしたことは、これまで一度もない。雨が降った後には、必ず虹がかかるんだって、知ることができたから。
今日も僕は本を片手に、頭の中の世界をぐるぐると回す。ゼンマイを巻くのは僕、信号を送るのも僕、社会を回すのも、僕。僕の世界で起こる全ての出来事は、いいことも悪いことも、僕が根元にいるから起こることだから。
昼休みの図書室の、日差しのいい窓際に寄りかかって、ページをめくる。新刊を開けば産まれたての言葉達の鮮度が美しく、古い本を開けば埃を被った記憶達に哀愁を感じる。これだから、読書はやめられない。
図書室には誰もいなかった。最近のクラスメイトたちは、ゲームの話題やアニメの話題、最近のトレンドの話題ばかりで、読書も漫画や雑誌ばかり。さらに言えば、僕が図書委員になってからは、もっと来る人が少なくなった気になってしまう。事実、客足は遠のいているけれど。
そうなったならば、こうして静かにページと会話をすることにすればいい。「本と友達」だなんて言葉が孤独を表す言葉にされてしまいがちだけれど、本としか交換できない話題があることも、僕が確かなものにしている。
こうして静かな読書を楽しんでいると、久しく聞かなかったドアを開ける音が聞こえた。他の教室じゃない。間違いなく図書室の入り口が開いた音だ。
音に気付いて少し近づくと、見たことのある顔が目に飛び込んだ。
「あ、永瀬さん」
それは、声劇部・未完声に所属している同級生の永瀬汐恩さん。確か、今はそうだったな。
「あれ?あなたはもしかして〜」
「永瀬さん、だよね?」
「ぽぷらくんじゃん!やほ〜!☆」
「や、やほ〜」
声をかけられたのが嬉しかったようで、朗らかで柔らかい笑顔を見せてくる。小鳥が羽ばたくようにツインテールが揺れて、細くて華奢な手を振ってくれる。太陽にも勝る柔らかなその笑顔は、未完声にもそこ以外でも、宝物となっているだろう。
「図書委員の仕事ご苦労様〜!」
本棚に並ぶ本の背表紙をツツツツとなぞりながら、僕に労いの言葉をかけてくれた。
「ありがと。永瀬さんはどうしたの?」
「汐恩でいいよっ。私は舞衣子ちゃんが部長会に行ったからそれまでの暇つぶし☆」
「汐恩さん、いつも舞衣子さんといるの?」
「そうなんだよ〜☆舞衣子ちゃんは私の天使なんだもん!あ、譲らないよ〜?」
「あはは…。まぁ、別に取る気もないけどね」
日差しの温かい図書室の中で、二つの他愛のない言葉が交差する。誰かと二人きりで話す機会は少なかったために、この時間はなんだか、新鮮で面白く感じてくる。
「せっかく図書室に来たし、何か本でも借りよっかな〜☆」
しばらく話して会話に区切りがつくと、汐恩さんはてくてくと別の本棚に向かって歩き、本を探し始めた。
「戯曲でも探すの?」
「いや、個人的に読みたい本だよっ☆」
汐恩さんは行儀よく並ぶ本を、手に取っては戻し、手に取っては戻しを繰り返しながら、広大な本棚の海を泳いでいた。
「ぽぷらくんのオススメの本って、何かある?」
ふいに汐恩さんは、こんなことを尋ねてきた。本のオススメを訊かれること自体はこれまで何度もあったが、最近知り合った人に訊かれるとなると、なんだか不思議な気持ちだった。
「えっと…、最近読んでるやつでよければ」
そう言うと僕は、ライトノベルコーナーに並ぶ本から一冊引き出して、汐恩さんに手渡した。
「おおぉ〜?ライトノベルだ〜!☆」
「最近読み始めて、気に入ったんだよね。ライトノベルだけど、言葉選びも綺麗で、内容もわかりやすいよ」
「『ナオの時空旅行奇譚』ね〜☆絵も可愛いし、厚みもちょうど良さそう!ファンタジー小説、なのかな?」
「SF小説だよ。作者曰く、ずっと書きたいと思っていた作品らしいよ。それがデビューから十年経った今年、満を持して文庫本になったってわけなんだ!」
「そうなんだ〜!詳しいね!☆」
「一度気になったら、作者までリサーチしちゃうからね〜」
一冊の文庫本から始まった新しい会話。好きな本のことを人に紹介するこの瞬間が、とても楽しい。その本を、少しでもその人に頷いてもらえるように伝えたい。自分の知っている魅力を、余すことなく解き放ちたい。その思いが、僕なりのプレゼンに熱を与えていた。
汐恩さんは僕の熱弁を聞きながら、時々頷きを挟みつつ、最後まで聞いてくれた。
「そうなんだね〜!☆ぽぷらくん、台本作ったりするから本好きだろうなとは思ってたけど、ここまでとは思わなかったよ〜!」
「いやいや…、ただの妄想好きだよ」
「そんなこと言ったら、私も同じだよ!私も毎日、頭の中でもう一つ地球が回ってるからね〜。そこで色んな人が暮らしてて〜…」
汐恩さんは楽しそうに、自分も僕と同じ空想癖のあることを打ち明けた。しかしその空想癖は僕とは違って、まるで絵の具で描いた風景画のような、色んな色に描き変えられる柔軟性のある、夢の中のような景色があった。けれど、「頭の中で一つの街がある」というところは、奇しくも僕と重なっていた。
「僕もそんな感じなんだよね。普段はそこで起きた出来事を物語にしてるというか」
「そうなんだね!私も同じ!☆やったぁ!共通点ゲットだぜ!」
「共通点ってモンスターボールで手に入るものなのかな…?」
「レアリティだとキュワワーだよ!激レア!」
「ポケモンも詳しいなんて…!」
昼休みのたった数分の間にここまで弾んだ会話に、僕は汐恩さんにある、人と人との空気を和ませる不思議な魅力に気がついて、そしてそれがなんだか可笑しくて、くすっと口角を上げていた。
「おぉ!笑った〜☆」
僕が笑ったのを見て、汐恩さんも一緒になってけらけらと笑い出す。それが面白くて、嬉しくて、お互いあははと声が重なっていた。
長くて短い昼休みは、チャイムの音ひとつで終わりを告げてしまった。結局舞衣子さんは、会議が長かったのか来ることはなかった。
「舞衣子さん、結局来なかったね」
「まぁ、この場合は仕方ないね。別に珍しい話じゃないし☆」
「そうなんだね」
「…それに、今日は楽しかったよ!」
「え?まぁ、僕も楽しかった」
僕がそう微笑んだのを見て、汐恩さんも同じように笑み返していた。
廊下から生徒たちが教室に戻る音を聞いて、僕も汐恩さんも教室に戻ることにした。
「あ、鍵なら私が返しに行くよ!」
図書室の施錠を済ませた時、汐恩さんはこんなことを言った。
「え?汐恩さん、図書委員じゃないよね…?」
「次の英語の授業のご用聞きしなきゃだし、そのついでだよっ」
それを聞いて僕も納得し、お言葉に甘えて汐恩さんに鍵を託した。
「じゃあ、先に戻るね。鍵、ありがとう」
「いいのいいの〜。また放課後ね!台本、楽しみにしてるよ!☆」
同じ具合の眩しい笑顔を見せ合って、僕は教室へと歩き出した。
教室へと戻る道中、僕は汐恩さんとの会話をもう一度思い返していた。語ってくれた彼女の中の世界、そこに広がる大きな街。そこにはどんなドラマが生まれて、どんな出来事が起こっているのだろう。
もしその街に行けたとしたら、
「次は汐恩さんと、二人で行きたいな」
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