第20話
長い、長い、一日が終わる。
スポットライトの熱と、無数の視線とカメラ。そのすべてが、今はもう遠い世界の出来事のようだ。
「……お疲れ様」
がらんとした楽屋で、私が重たい体をソファに沈めていると、近くから平坦な声がした。
朝霧氷織。グループ内でも一番の信頼を置く戦友。
「氷織は今日も平坦だなぁ……」
「……煽ってる?」
一度双方の胸を一瞥した後、ジロリと氷織が私の方を見てきた。
「や、声だよ、声」
彼女は「……なるほどね」と言うとスマートフォンの画面から、一度も目を離さなくなった。指先だけが凄まじい速さで何かと戦っている。
「……今日の凪、エンカウント率、高かったね」
「エンカウント率?」
「……うん。プロデューサーとか、スポンサーとか、面倒なNPCにやたら絡まれてた」
彼女の独特なゲーム用語。
私にはもう、その意味が痛いほどよくわかる。
「まあね。ツアー前だから仕方ないよ」
「……MPが枯渇してる。顔に書いてある」
「……そんなに?」
「うん。赤ゲージが点滅してる」
氷織はそう言うと、ようやくスマホから顔を上げた。いつも眠たそうな瞳が、まっすぐに私を射抜く。
「さっさと帰って、ポーション飲んだら? 今日のログボ、もらえなくなっちゃうよ」
「……大丈夫。これから、もっと効くポーション、飲みに行くから」
「エナドリ?」
「や、ぽしゃけ〜」
私がそう言って少しだけ笑ってみせると、氷織は、ふん、と鼻を鳴らして、またゲームの世界に戻っていった。
彼女なりの優しさなんだろう。
ゆっくりと立ち上がり、楽屋の隅で今日の「私」を脱ぎ捨てていく。
キラキラした衣装をハンガーにかける。
ステージ用の完璧なメイクをクレンジングシートで拭い去る。
そして、クローゼットの奥に隠してある、いつものどうでもいいパーカーとショートパンツに着替える。
キャップを目深にかぶり、度の入っていない、伊達眼鏡をかける。
鏡に映っているのは、もう「国民的アイドルの夕薙凪」じゃない。ただの「七瀬」という、どこにでもいる、女の子の姿だった。まぁ七瀬なんて呼ぶのは一人だけど。
「じゃ、お疲れ」
「……おつ。気をつけてね」
氷織のエールに、私は小さく手を振って楽屋を後にした。
裏口から、そっと外へ出る。守衛の人が機械的に挨拶をしてきたので「お疲れ様です〜」と『表の顔』で返事をする。
夜の空気が火照った体を冷ましていく。
すぐに、一台のタクシーを拾う……わけには、いかない。
まず、警戒。
角を曲がったところに黒いワゴンが停まっている。あれは、週刊誌の車だ。間違いない。
私は、一度大きくため息をつくと、わざと駅とは反対の方向へ歩き出した。
オフィスビルに入り、出入り口が複数あるコンビニに入店。買う気もないお茶を買い、入ってきたときとは別の出入り口から店を出る。
ビルからビルへと歩き回り、入り組んだ路地を、いくつか通り抜ける。
何度も、何度も、背後を振り返る。
大丈夫。
誰もついてきていない。
ようやく、大通りに出て流しのタクシーに、手を上げた。
「……すみません。●●駅の方まで」
いつもの合言葉。
河川敷、とは絶対に言わない。
運転手さんの記憶に、万が一にも残らないように。タクシーの後部座席に深く体を沈める。
窓の外を、街の明かりが、すごい速さで、流れていく。
(……私、何やってるんだろう)
ふと思う。
仕事で、くたくたに疲れているのに。
どうしてこんな、スパイ映画みたいな面倒なことをしてまであの場所に向かっているんだろう。
陽介の顔が浮かぶ。
彼の不器用でまっすぐな言葉。
彼の人の良さそうな優しい笑顔。
あの場所だけが、私が「夕薙凪」ではなくただの「七瀬」でいられる、世界で唯一の聖域だった。
(……けどもう……いいんじゃないかな)
タクシーの窓に、自分の、疲れた顔が、映っている。
(あの人になら、本当のこと、言っても、いいんじゃないかな……)
「私、本当は夕薙凪なんだ」って。
もしそう告白したら。
彼はどんな顔をするだろう。
驚くだろうか。
怒るだろうか。
それとも幻滅してもう会ってくれなくなるだろうか。
わからない。
怖くて、わからない。
でも、これ以上、あの優しい人に、嘘をつき続けるのは、もっと怖い。
ぐるぐると、同じことばかり考えているうちに、タクシーは目的地の近くに来ていた。
コンビニの前で下ろしてもらい、缶チューハイを購入。レモンの七パーセント。今日は奮発して味玉も買ってみた。
買い物の後、河川敷へと続くいつもの暗い道を歩く。
足が少しだけ重い。
そして、河川敷の法面、その定位置に姿が見えた。彼はひとりで缶チューハイをちびちびと飲んでいた。
川の向こう岸の小さな明かりを、ただぼんやりと眺めている。
その横顔は、少しだけ、寂しそうに見えた。
私が近づいていくと、その足音に彼が気づく。
ゆっくりと、こちらを振り返る。
私の姿を認めた瞬間。彼の顔が、ぱあっと、花が咲くみたいに、明るくなった。
「七瀬さん!」
その子供みたいに、嬉しそうな笑顔。
私のすべての計算とか打算とか悩みとかネタバラシとか、そういうものを、全部吹き飛ばしてしまう、あまりにも無防備で純粋な笑顔。
(……ああ、だめだ)
心の中で、何かが音を立てて崩れていく。
(言えない)
この笑顔を、曇らせてしまうかもしれない、本当のことなんて。
(言えないよ、こんな顔されたら……)
私は胸の奥の罪悪感を、笑顔の一番奥にぎゅっと押し込めた。
そしていつもの「七瀬」として、彼に微笑みかける。
「ん。陽介、お待たせ。今日、早くない? 仕事サボった?」
「定時帰りしただけだよ!?」
「ふふっ……おつかれ」
―――――
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