救い

冬部 圭

 四十を過ぎた頃から誰に対してなのか分からないけれど、いろいろなことになんとなく負い目を感じるようになった。

 普通に暮らしていることに。誰かの不幸を見て自分の不幸はそれほどでもないと感じることに。時間を浪費することに。刹那の享楽のために酒をあおることに。

 普通って何だろう。金曜日の夜、自宅で缶ビールを飲みながらそんな疑問を持つ。

ありふれていること。特別ではないこと。どこにでもあるようなこと。

 僕が普通かどうかなんて、世の中は気にしてはいない。普通が何かなんてことを考えても何も現実は変わることが無いのに。

 酔っているから頭が回らないんだ。そう言い訳してまた一口ビールを口に運ぶ。

人付き合いにわずらわしさを感じてしまってから、友人と連絡を取るのも億劫になった。そんな風にしているとこちらの態度が透けて見えるのか、いつの間にか仕事以外での他人との関わりはほとんど失われてしまった。

 年老いた母は時折僕の事を気にして電話をくれる。兄弟は姉が一人だけ。子育てで忙しくしているみたいで基本的に僕の事は放置。近くに住んでいるけれど年に一度会うかどうかでほとんど他人と変わらない。

 人に対してそんな感じだから、モノ、コトに対しても似たようなものだ。

 情熱をかける何かが有るわけで無く、恋焦がれる誰かがいるわけでもない。そんなことを自覚すると、今の自分は抜け殻のような存在のような気がしてくる。抜け殻。それはもともと中身があった奴が言うことかもしれない。もともと中身がなかった僕は、空気の入っていない風船みたいに薄っぺらい毎日を過ごしている。

 明日、明後日何をしようか。仕事は休みだが、やらないといけないことは何もない。やりたいことも。

 僕は人生を浪費している。生きるために働いているはずなのに、生きていて楽しいと思えない。何なのだろうこれは。

 酔っているから思考が後ろ向きなんだ。そんなに飲んでいないのにすべてを酒の所為にしていろいろなことを見なかったことにしようとする。

 明日酔いが醒めても別に光り輝く朝が来るわけではないことを知っているけれど。そのことを忘れたくて飲んでいたはずなのだけど。


 翌朝目が覚める。酔いも醒めている。だけど、気分は晴れない。せめての気晴らしにラジオをつけてみる。流れてくるニュースはどこか遠い世界の出来事を話しているみたいで凶悪な事件にも悲惨な事故にも心は動かない。

 コーヒーを入れて朝食のパンをかじる。

 食器を洗い、洗濯、掃除を済ませると本当にやることが無くなる。

「虚しい」

 ひとり、言葉が漏れる。形にすると更に身に染みてくる。

 突然、来訪者を告げるチャイムが鳴る。

「はい、ただいま」

 玄関を開けると小学生の甥の蒼が立っている。

「どうしたんだ」

 戸惑いを感じながら蒼を招き入れる。

「母さんとけんかして飛び出してきた」

 蒼は正直に事情を話してくれる。姉さんが蒼の気に障ることを言ったので反発したと言うところみたいだ。

「家に連絡しておくよ」

 そう告げると、

「まだいいよ」

 と少し拗ねたような声で答えが返ってくる。

「うちは何もないから退屈だろう」

 追い返すつもりは無いが、事実を伝える。

「ラジオがあるじゃん。退屈じゃないよ」

 蒼はそんなことを言う。

「じゃあ、好きなの聞いてていいよ」

 特に話をしたいわけでもないらしいので放っておくことにする。蒼はダイニングテーブルについてラジオのチューナをいじる。普段僕が聞きなれない局を選曲したようだ。自分の部屋にいるのに何か居心地が悪い。

「紅茶でも飲むか」

 することが無いのでそんなことを聞いてみる。

「飲む。お願い」

 やることができたので少しほっとしながら湯を沸かす。

 ラジオからは穏やかな音楽が流れている。

「母さんが何を言ったかは聞かないんだね」

 蒼が聞いてくる。ラジオをつけているだけで実は聞いていないのかもしれない。

けんかの理由は気になるけれど僕が聞いても役に立たないと思うので、

「僕にはどうすることもできないと思うからね」

 と答える。蒼の肩を持って一緒に愚痴を言ってやってもいいかともちらりと思うけれど、なんとなく億劫だ。

「喋りたくないなら無理に聞かないし、話したいなら耳は塞がない。どちらでも構わない」

 ティーカップなんて洒落たものはないのでコーヒーカップにティーバッグと風情の欠片もない紅茶を入れる。お客さんなので奮発して一個で一杯。

 いい加減に作った二人分の紅茶をテーブルに置く。

「砂糖はどうする」

 普段コーヒーも紅茶もブラックなのでスティックシュガーなんてないけれど、溶かせば白砂糖もグラニュー糖も変わらないだろうと乱暴なことを考える。

「砂糖はいらない」

 蒼もブラック派のようだ。

「母さんは人と比べてでしか幸せを測れないんだ」

 蒼はそんなことを言う。いきなり切り込んでくるのはやめて欲しい。

「僕も人の不幸を見て、ああ僕は不幸じゃないとか、この不幸が僕に降りかかってこなくて良かったなんて感じてる。卑怯者の姉弟だな」

 卑怯者と言うのとはちょっと違うと思うけれど、咄嗟に言葉が出なかったのでそんな風に表現する。

「母さんにはその自覚がないんだ。人を貶して、貶めて優越感に浸っている。とても醜いことだと思う」

 純粋な正義感と言うよりも自分に同じものがあるのを感じているから嫌悪感を持っているような気がする。

「人は人って言ってもそう簡単に割り切れないもんだよ。人がどう思うか、人からどう見られているのか。そんなことに囚われて不自由な暮らしをする羽目になるんだ。皆」

 なんとなく姉さんの肩を持っているような気になる。馬鹿らしい。僕は貶される方だというのに。

「他人の意見に左右されない絶対の幸せを持ちたいものだね」

 紅茶に口をつけながらそんなことを付け加える。どんどん襤褸が出ているような気がしてくる。

「高潔でありたいって思うことは素晴らしいことだと思うよ。だけど、自分がその境地にないからと言って必要以上に自分を貶める必要はないんだ。今の自分の到達点を正しく理解した上でより高みを目指せばいい」

 なりたい自分。そんな理想を失くしてしまった僕が何を言っているんだ。滑稽だなと思う。

「叔父さんはさ」

 蒼は少し紅茶を啜って一拍置いた後、

「生きがいってあるの」

 と、結構直球の質問をしてくる。

「そうだなあ」

 それだけ口に出した後、続ける言葉が見つからない。別に取り繕うことも無いかと思う反面、姉さんに告げ口されるのは嫌だとも思う。

「なんとなく仕事して、なんとなく日々を過ごしている。苦しいのや生活が困るのは嫌だからそれなりに頑張っているつもりだけど、生きがいとは違うような気がするな」

 嘘を吐きたくないけれど殺伐としたことも言いたくない。中途半端なコメントになる。

「多分、生きがいとか考えずに普段生きているんだよ。最近じゃビールを飲んでもいまいち喜びを感じない」

 余計なことを付け加えたなと思ったけれど嘘ではないからしょうがないとも思う。

「大丈夫なの」

 甥っ子に心配されてしまう。

「まあ、独り身だしね。何とかなるよ」

 老後、一人ずつしかいない甥と姪に迷惑を掛けないようにしようとは思う。

「多分、あまり深く考えていないだけでそれなりにいいことはあるんだよ。それに気づきにくくなっているだけで」

 そもそも、蒼が何故そんな話を出してきたのか分からないけれど、あんまり心配させないようにしたい。

「おいしいものを食べたときとか、きっと喜びを感じていると思うよ」

 少し人ごとのようになるがそんなことを言う。蒼は少し安心したみたいで、

「じゃあ、何かおいしいものを食べに行こうよ」

 と誘ってくれる。それは僕にとって救いのような提案に感じる。

「いいよ。何を食べたいのかな。奢ってやるから」

 二人で昼食をとるくらいの余裕はある。今日やることができた。これも救いか。今日は蒼に救われてばかりだ。

「ラーメンがいいな。近くにおいしい店があるって言ってたよね」

 だいぶ気を使われているような気がする。

 話の店は列ができる人気店なので、昼食には少し早いけれどもう出かけた方が良いかもしれない。

「口に合うか分からないけれどそこにしようか。結構混むから今から出よう」

 アパートを出て蒼と二人で店に向かう間。生きててよかったと思える瞬間があることを思い出せたので僕はまだ大丈夫。そう思った。

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