エグゾニュービート

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エグゾニュービート

 大型トラックの排気音エグゾースト響く深夜の駐車場はベンゼンの焼ける匂いで満たされ、真っ赤な獣の二つの眼がこちらを警戒しながら光を放っている。

 コンビニエンスストアの店内から零れる明かりに照らされたメタルの輝きは流線形の美を露わにさせた。


 ほろ苦いコーヒーを一口飲み干すと同時に、その空き缶はカラフルに並ぶボックスの深い大穴へと飲まれていく。

 右手を掲げ、指ぬきのグローブをグッと押し込み指を開いてみたりしてぎっちりと指にはめる。

 そうして左手も同様にグローブをぎっちりと指にはめるのだ


 古臭さすら漂わせるツードアのクーペは今でもその輝きは失われておらず、さながら現役の猟犬。

 黒光りするマシンのドア、そのレバーを軽く引くと同時に垣間見える計器の淡い光、それはまるでコックピットのよう。

 そのシートは全身をしっかりと包み込むように調和し、脚に適切な力が流れては、左足のクラッチペダルを思い切り踏み込むと、左手がシフトレバーに伸びてはコツンと軽く押し出すとともに、右足は自然と中央のブレーキペダルを踏み、右手に持ったキーは無意識のうちにそれを回転させる動作へと移行していた。


 カッカッ……ブロロン……一瞬の静寂の後、轟く排気音は顔を火照らせハンドルを握る指からわずかな汗を滲ませる。


 今や両足のペダルはフリー、高鳴る心臓の鼓動はエンジン音と同じ時を刻む。

 すかさずクラッチペダルを踏み込んでシフトはアール、照らすライトは店のガラスで二つの白い獣の眼を映し出す。

 ギギッと音が鳴り、左手は下り、視線は後方へと動き、右足の力をゆっくりと緩めていく。

 ラバーが地面を擦るノイズはじりじりと大きくなり、ゆうに一トンを超える車体が慣性の法則によって動き出すのを三半規管が感じている。

 そのまま左足のクラッチペダルでゆっくりと歯車をミートさせながら右足のアクセルペダルを煽ってエンジンの回転数を合わせると、排気音はまるで飼い犬のように大人しくなった。


 ――覚悟はいいか?


 駐車場から歩道に面した手前で一時停止をしている間、左右を目視してから静寂の支配する暗闇へと進む勇気を振り絞る。

 左足でペダルを踏み、シフトレバーを左上に動かすと同時に右足でアクセルペダルを軽く踏み込み、クラッチペダルを徐々に緩める。


 一瞬、猟犬の唸りが変化する――ここだ! ローにミートしたクラッチとギアはギャギャギャッとけたたましく音を響かせ、スキール音とともに煙を吹かせては闇の中にこだまし、セカンドにシフトするころには赤いテールとタイヤの焼ける香りだけを残してゆっくりと視界から消えていったことだろう。


 アクセルを軽く煽ると心地よいエンジン音が暗闇に響き渡り、その背後に白煙をまき散らしていく。


 それもつかの間、脈打つ鼓動は視界を曇らせ、額からは水滴がこぼれ落ちる。

 ハンドルを握る指先から噴き出すぬるくぬめりのあるそれは、きつくはめたグローブに染み込んでゆくぬくもりとなって伝わってくる。


 ――焦るな。


 高鳴る鼓動を抑え、ゆっくりとクラッチペダルを踏み込み、サードへとミートさせ、フォース、トップとゆっくり同じようにシフトレバーを動かし、その都度クラッチをミートさせていくのだ。

 エンジンの回転数がわずかに下がり、不機嫌だった飼い犬も今ではすっかり寝息を立てているようだ。


 だが、不覚にも傾斜のきつい上り坂でそれは起こった。

 加速が極端に鈍り、飼い犬はまるでベロをだらんと垂らしてバテているかのような、エンジン音が風前の灯火といわんばかりに弱弱しく息苦しそうに鼓動の弱まりが音として伝わってくる。


 ――このままではエンジンの脈動が失われてしまう!


 焦り、いや、不安、負の感情が渦巻く窮地において、考えることが必要だと自分に言い聞かせるのだ。

 右足は意図的にアクセルペダルを全開に踏み込むも、全く回転数は上がらず、みるみるうちに計器の針は千の位置へとその先端が近づき始める。

 慌ててクラッチペダルを踏み込めば、回転数が大きく上昇して唸り声をあげだした。

 唸り声を無視しているのか、それとも、無意識なのか、左手でしっかりと掴むシフトレバーはセカンドの位置にあり、泣き叫ぶエンジン音のさなかでこれでもかというくらい勢いよくクラッチペダルを放す。


 強い衝撃がその身をガクンガクンと前後に勢いよく揺らしたかと思うと、後ろに押し出されるような重力を感じた瞬間にもう一度ガクンと衝撃が走り、突然に視界が左右に振れてハンドルが暴れだし、エンジンが怒り狂うかのように排気音は唸りを上げ、ギャギャッギャという悲鳴とともに灰色の煙のカーテンを残して加速していく。


 全身がたぎり、口の中はカラカラに乾き、その吐息すらも熱し、グローブも、背中のシートも、何もかもがぬめりのある液体で満たされていた。


 坂道を登りきると緩やかな下り坂になり、ガタガタと震える脚の力がほんの少しだけ緩まったのを感じる。

 唸る飼い犬を黙らせるようにギアをトップに入れ、猛犬はやっと眠りについたかと一安心していると、さらなる難関が待ち受けていたことに気が付くのだ。


 ――連続するコーナー。

 エス字のコーナーが目前に迫る中、道路中央の境界線に等間隔で設置されたアルミニウムのキャッツアイが『お前を見ているぞ』といわんばかりにギラギラとした光を反射させている。

 嵐の前の静けさとはよく言ったものだ、まさに緩い下り坂にエス字のコーナーという地獄の門が待ち受けているとは、よもや――


 腹をくくり、ハンドルに手をかけるとアクセルペダルから足を放し、グイッとブレーキペダルを踏み込む。

 ガクンと前のめりになりながらも、すかさずクラッチペダルを踏んでからセカンドに入れ、勢いよくクラッチペダルを放す!


 案の定、回転数が合っていないのか、ペダルを放すのが速いのか、ガクンと前後してクラッチがギアと噛みあうのがその身に伝わってくる。

 しかし、そのような動作をしている間に、エス字コーナーの入口に差し掛かっていたのは言うまでもない。

 ハンドルの三時四十五分を両手でしっかりと握りしめ、グイッと左に回し、前輪に荷重をかけて後輪の荷重を減らす。

 成功だ! キキッという音でタイヤを鋭く鳴かせつつも見事にエス字コーナーの最初のコーナーを曲がり切った! しかし、すぐさま切り返さなければこのままガードレールに突き刺さってしまう!

 迷っている暇はなかった、すぐさまハンドルを切り返すが、思いの外強く切りすぎたのだろうか? 路面からガタンという何か突起物を踏むような感覚が伝わってくるとともに、ハンドルを握る手にドスンという一瞬の衝撃を感じ、慌ててハンドルを左に戻す。

 無事にコーナーを抜けた時点で、それの正体が理解できた――キャッツアイだ! 奴らはこのように粗野なハンドルさばきを決して許してはくれないのだ。


『お前を見ているぞ』


 鋭い眼差しで監視の目を光らせている猫の爪による洗礼を受けたのだ。


 このようなコーナーがこの先に残り数百もあるという。

 生きてここから出ることはできるのだろうか――?


 ガラス越しに見える深淵に飲み込まれたメタルボディ、白色のケルビンは一寸先を照らすもその先は闇に覆われ、その身を絶望という名の受難で迎え入れる。

 計器類のやんわりとした光だけが今では乱れた心を落ち着かせるための鎮静剤となっていた。


 猛犬は、先ほどまでのけたたましさとは程遠い弱弱しい呼吸をする。

 時折、カクン、カクンと息をついたかと思えば、力なくその鳴き声を失う。

 弱り切った飼い犬を目前にして、ガタガタと震える指先のキーを回す力は失われつつあり、それどころかベダルに伸びた脚の感覚さえも感じとることができない。


 火照る身から流れ出る生ぬるい液体を拭い去り、確実に正確に、ペダル、シフト、サイドブレーキ、そして、キーを回す。

 飼い犬の鳴き声は悲鳴を上げ、それを撫でるかのようにして繊細にクラッチを繋いで重たい車体をゆっくりと発進させる。


 ――また一つ、また一つ、キャッツアイの洗礼を受けることなく慎重なハンドルさばきを心掛ける。

 コーナーの直前で、荷重を意識した軽いブレーキと、シフトでギアを落とすと衝撃を吸収してもらうかのようにクラッチをやんわりと繋ぐ。

 キャッツアイによる洗礼を受けたのち、闇の中で連続するコーナーとアップダウンの連続は精神をむしばむ受難、自身の未熟さを際立たせ、それによって背伸びすることになんの意味もないことを理解させたのだ。

 アクセルを煽ってブリッピングからの素早いギアチェンジも、ブレーキからの車体のも、アクセルオンからのも、軽快なハンドリングによるも、それらをきちんと理解するには初心者ニュービーには早々ファストだったのだ。


 不安と絶望とが交差する中で、鉄の塊を動かすことへの認識の欠如が重々しくのしかかってくる。


 ――鉄の棺桶アイアン・コフィン


 それが脳裏に浮かぶと、やがては、キョロキョロと視界を遠くに保ちながら、猛犬を吠えさせるようなこともせず、路面の熱を感じ取れるほどに丁寧なハンドリングを心掛ける。

 自身の未熟さを受け入れ、マシンパワーというおごりを捨てたとき、たるんだリードは調和の兆しとなり、おのずと飼い犬は頬ずりをしてくるのだった。

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