第8章「夏の終わり」
第43話「夏休みの始まり」
第8章「夏の終わり」
夏が終わる頃、シジュウカラは気づく。自分の歌声が、春とは違う豊かな音色に変わっていることに。
◇
夏祭りから一週間後、学校は夏休みに入った。
みずきは朝早く目を覚まして、縁側で万年筆を手に取った。ガラスのインク壺の隣に置かれた万年筆は、朝の光を受けて美しく輝いている。この数ヶ月で、みずきと万年筆の関係は大きく変わった。
最初は戸惑いと驚きだった。次に頼りすぎる不安があった。そして今は、静かな信頼関係がある。万年筆は確かに特別な力を持っているが、それよりも大切なのは、この力をどう使うかを学んだことだった。
「おはよう」
みずきが万年筆に向かって小さくつぶやいた。万年筆は答えない。でも、いつものように温かく感じられる。
庭では、父の
「お父さん、おはようございます」
みずきが縁側から声をかけた。
「おはよう、みずき」
父が振り返って微笑んだ。
「夏休みの初日だね。何か計画はあるのかい?」
「
みずきが答えた。夏祭りの片付けが終わってから、三人はより親密になった。一緒に過ごす時間が自然と増えている。
「良い友達ができて、お父さんも嬉しいよ」
父がじょうろで花壇に水をかけながら言った。
「特に小瑠璃ちゃんは、みずきのことをとても大切にしてくれているね」
みずきの頬が少し赤くなった。父は小瑠璃とみずきの関係を、どこまで理解しているのだろう。二人の友情が、普通の友達以上の特別なものになっていることを、大人の目にはどう映っているのか。
「そうですね」
みずきが曖昧に答えた時、家の中から弟のがくが現れた。
「お姉ちゃん、今日は図書館に行かない?」
がくが期待に満ちた顔で聞いた。
「夏休みの自由研究で、野鳥の本を借りたいんだ」
「野鳥?」
みずきが興味深そうに聞き返した。
「どんな野鳥を調べるの?」
「シジュウカラって鳥なんだけど」
がくが目を輝かせて答えた。
「この前、田辺先生が話してくれたんだ。シジュウカラには特別な言語能力があるって」
みずきの心臓が強く跳ねた。シジュウカラ。
「どんな言語能力?」
みずきが努めて平静を装って聞いた。
「人間と同じように、文法があるんだって」
がくが興奮気味に説明した。
「単語を組み合わせて、複雑な意味を伝えることができるの。他の鳥にはない特別な能力なんだ」
みずきの手の中で、万年筆が微かに温かくなったような気がした。やはり、シジュウカラと万年筆には何かの関係があるのかもしれない。
「それは面白そうね」
みずきが言った。
「わたしも一緒に図書館に行きましょうか」
「本当?」
がくが嬉しそうに飛び跳ねた。
「お姉ちゃんと一緒だと、きっと良い本が見つかる」
午前中、みずきとがくは町の図書館に向かった。小さな木造の建物だが、
がくは動物の本が並ぶ棚に直行した。みずきも一緒について行くと、確かにシジュウカラに関する記述がいくつかの本に載っていた。
「お姉ちゃん、見て」
がくが興奮して本を開いた。
「シジュウカラは『ツツピー』『ヂヂヂヂ』『ピーツピ』っていう基本的な鳴き声を組み合わせて、複雑な情報を伝えるんだって」
みずきは本の挿絵を見つめた。美しい小鳥の絵が描かれている。黒い頭に白い頬、胸から腹にかけての黒いネクタイ模様。最近見かけることの多い鳥だ。
「例えば」
がくが続けて読み上げた。
「『ピーツピ、ヂヂヂヂ』って鳴くと、『警戒しながら集まれ』という意味になるんだって。『ツツピー、ツツピー』だと『縄張りを宣言する』という意味」
みずきの心に、ふと思い出がよみがえった。万年筆を使う時、時々聞こえてくるシジュウカラの鳴き声。あれは偶然ではなかったのかもしれない。
「面白いわね」
みずきがつぶやいた時、図書館の入り口から馴染みのある声が聞こえた。
「みずきちゃん!」
恵奈の明るい声だった。小瑠璃と一緒に図書館に入ってくる。
「あら、恵奈ちゃん、小瑠璃ちゃん」
みずきが手を振った。
「こんなところで会うなんて偶然ね」
「わたくしたち、裁縫の本を探しに来ましたの」
小瑠璃が説明した。
「夏休みの間に、新しい技法を覚えたくて」
恵奈とがくも初対面ではない。学校で何度か会ったことがある。
「がく君、自由研究?」
恵奈が優しく聞いた。
「うん、シジュウカラっていう鳥を調べているんだ」
がくが誇らしげに本を見せた。
「僕たちの苗字と同じ響きの鳥なんだよ」
小瑠璃とみずきが視線を交わした。シジュウカラという言葉に、二人とも特別な感情を抱いている。万年筆の秘密と関わりがあるかもしれない鳥。
「素敵な自由研究ですわね」
小瑠璃ががくに微笑みかけた。
「シジュウカラは美しい鳥ですもの」
「小瑠璃お姉ちゃんも知ってるの?」
がくが目を輝かせた。
「少しだけですけれど」
小瑠璃が上品に答えた。
「鳴き声がとても美しいと聞いています」
四人は一緒に本を選んで、図書館の閲覧室で過ごした。がくは野鳥の本に夢中になり、小瑠璃は裁縫の技法書を熱心に読んでいる。恵奈は子供向けの物語を手に取って、楽しそうにページをめくっていた。
みずきは時々、がくの読んでいるシジュウカラの本を覗き込んだ。読めば読むほど、この鳥と万年筆の関係が気になってくる。
昼頃、四人は図書館を出た。
「お昼を食べてから、川原に遊びに行きましょう」
恵奈が提案した。
「夏休みの最初の日だもの、特別なことをしたいわ」
「それは良いアイデアですわ」
小瑠璃が賛成した。
「お弁当を作って持って行きましょうか」
みずきは二人の提案を聞きながら、胸の奥で温かい幸福感を感じていた。夏祭りを通じて、三人の絆はさらに深くなった。これからの夏休み、どんな思い出を作れるだろう。
「がくも一緒に来る?」
みずきが弟に聞いた。
「本当?」
がくが嬉しそうに答えた。
「でも、お姉ちゃんたちの邪魔にならない?」
「そんなことないわよ」
恵奈が優しく言った。
「みんなで遊んだ方が楽しいもの」
午後、五人は桜川の河原に向かった。夏の日差しは強いが、川の近くは涼しい風が吹いている。柳の木陰にござを敷いて、手作りのお弁当を広げた。
「小瑠璃ちゃんの卵焼き、おいしい」
恵奈が感嘆した。
「どうやって作るの?」
「母に教わったんですの」
小瑠璃が嬉しそうに答えた。
「秘訣は、火加減をゆっくりにすることですわ」
みずきは友達の笑顔を見ながら、万年筆のことを考えていた。万年筆の力は確かに素晴らしい。でも、こうして友達と過ごす何気ない時間の方が、もしかしたらもっと大切なのかもしれない。
川では、がくが水切りに夢中になっている。恵奈も一緒になって石を投げて、きゃあきゃあと笑い声を上げていた。
「みずきさん」
小瑠璃がみずきの隣に座った。
「何かお考えですの?」
「ううん、何でもないの」
みずきが微笑んだ。
「ただ、幸せだなって思って」
小瑠璃の頬が少し赤くなった。
「わたくしも同じ気持ちですわ」
二人は並んで川の流れを眺めた。どこかで、シジュウカラの鳴き声が聞こえてくる。
「ツツピー、ツツピー」
みずきは耳を澄ませた。がくの研究によれば、あれは縄張りの宣言の鳴き声だった。でも、みずきには何か別の意味があるように聞こえる。
まるで、幸せな時間を祝福してくれているかのような、優しい歌声だった。
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