第22話「人の心は変えられない」

 桜祭りの翌日、学校では祭りの話題で持ちきりだった。


 雨にもかかわらず素晴らしい祭りになったと、みんな口々に話している。みずきも昨日の楽しい思い出を振り返りながら、教室に向かった。


 ところが、教室に入ると、いつもと様子が違っていた。


 鶫沢つぐみざわという男子生徒が、一人で隅の方に座って、暗い顔をしている。他の生徒たちは、なんとなく鶫沢から距離を置いているようだった。


「どうしたのかしら」


 みずきが小瑠璃こるりに小声で聞いた。


「鶫沢さんのことですの?」


 小瑠璃も心配そうに振り返った。


「昨日の祭りで、何かあったようですわ」


 休み時間になって、みずきは詳しい話を聞いた。


 昨日の祭りで、鶫沢が屋台の手伝いをしていた時、うっかりお客さんの着物を汚してしまったのだという。相手はよその町から来た上品な女性で、とても怒って帰ってしまった。


 鶫沢は何度も謝ったが、許してもらえなかった。


 それ以来、鶫沢は落ち込んでいて、クラスの雰囲気も重くなってしまっている。


「可哀想に」


 小瑠璃がつぶやいた。


「わざとやったわけではないのに」


「でも、相手の方も大切な着物だったのでしょうし…」


 恵奈えなが複雑そうな顔をした。


 みずきは鶫沢を見つめていた。彼の肩は小さく震えていて、とても辛そうだった。


 昼休みになっても、鶫沢は一人でいた。お弁当にも手をつけていない。


 みずきは万年筆のことを考えた。


 もしかすると、あの女性の怒りを鎮めることができるかもしれない。「いかり しずまりて」とか「こころ やわらかに」とか書けば…。


 でも、前回の天気のことを思い出した。万年筆は自然の摂理に反することを拒否した。人の心を変えることも、同じように問題があるのかもしれない。


 それでも、鶫沢の辛そうな様子を見ていると、何かしてあげたくなった。


 放課後、みずきは人のいない教室で万年筆を取り出した。小瑠璃も一緒にいる。


「みずきさん、本当に大丈夫ですの?」


 小瑠璃が心配そうに聞いた。


「人の気持ちを変えるなんて…」


「わからないけれど、試してみたいの」


 みずきが答えた。


「鶫沢さんがあんなに苦しんでいるのを見ていられない」


 みずきは紙に向かって、慎重に文字を書いた。


「あやまちを ゆるす こころに」


 書き終えた瞬間、万年筆が熱くなった。いつもの温かさとは違う、焼けるような熱さだった。


「あっ」


 みずきが手を離すと、万年筆が机に落ちた。青い光は全く現れなかった。


 それどころか、みずきの体に激しい疲労が襲った。昨日の天気を変えようとした時よりも、さらにひどい疲れだった。


 頭痛もして、立っていられなくなった。


「みずきさん!」


 小瑠璃が駆け寄ってきた。


「大丈夫ですか?」


 みずきは椅子にもたれかかった。万年筆を見ると、いつもの美しい輝きが少し曇っているような気がした。


「万年筆が…怒っているみたい」


 みずきがつぶやいた。


「人の心を変えようとしたから」


 小瑠璃がみずきの手を握った。


「そうですわね。人の気持ちは、その人のものですもの」


 しばらく休んでいると、体調は少しずつ回復してきた。でも、心の中に重いものが残っていた。


 人の心を変えることは、やってはいけないことなのかもしれない。たとえ良い方向に変えようとしても、それはその人の自由意志を奪うことになるのかもしれない。


 翌日、学校に行くと、意外なことが起きていた。


 鶫沢が、いつものように明るい顔で席に座っているのだ。


「おはよう、みんな」


 鶫沢が元気よく挨拶をした。


「鶫沢さん、元気になったのね」


 恵奈が嬉しそうに言った。


「昨日、どうしたの?」


「実は」


 鶫沢が照れくさそうに笑った。


「家で母に相談したんだ。そうしたら、母が言ったんだよ。『失敗は誰にでもある。大切なのは、そこから何を学ぶかよ』って」


「お母様、素晴らしい方ですのね」


 小瑠璃が感心した。


「それで、今度同じことが起きないように、もっと注意深くなろうって決めたんだ」


 鶫沢の表情は清々しかった。


「あの女性には申し訳なかったけど、僕は成長できたと思う」


 みずきの胸に、温かいものがこみ上げてきた。


 鶫沢は自分の力で立ち直ったのだ。家族の愛情と、自分自身の強さで。


 万年筆の力なんて必要なかった。いや、使ってはいけなかったのだ。


 人の心は、その人自身のもの。他の誰かが勝手に変えていいものではない。たとえ良い意図があったとしても。


 昼休み、みずきは万年筆を取り出して、そっと触れた。いつもの温かさが戻っていた。


「ごめんなさい」


 みずきが小さく謝った。


「あなたが教えてくれたのに、理解するのが遅くて」


 万年筆は静かに光って、許してくれているような気がした。


 人を助けるということは、その人の代わりに問題を解決することではない。その人が自分で解決できるように、支えることなのかもしれない。


 みずきは、また一つ大切なことを学んだ。

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