フリップ・フロップ

タツチキ

プロローグ

 キャンパス中央の坂道を上る真波(まなみ)は、目の前を行くトレンチコートの後ろ姿がふらふらと揺れているのに気づいた。よく見ると若干かかとまで浮いている。

 間違いない。カオルだ。人であふれかえる並木道を、あんなに危なっかしい足取りで歩いていけるのはカオルしかいない。

 新入生を歓迎するように空はよく晴れて、心地よいそよ風とともに桜の花びらが舞っていた。もともと高い背が、立てた爪先のせいでよけいに伸びてみえるカオルは、坂を行くたくさんの学生のなかでもひときわよく目立つ。

 久しぶりに会う友だちに声をかけようと、真波は少しずつ歩調を速めていく。むこうは歩みがゆっくりだし、普段ならすぐに追いつける距離だ。が、しかし、まずいことに今日は授業開始日。道の脇に列をなし、飢えた獣のように一年生を待ち構えるサークルの勧誘がそれを許してくれそうにない。真波はこれが大の苦手だった。

「新入生ですか? わたしたち——」

「違います!」

「キミ一年生? 和太鼓って興味——」

「違います!」

「あの——」

「違います! 違います! ちがいまーす!」

 次々と差し出されるチラシを払いのけながら、真波は学生たちの間を縫うようにして通り抜ける。もう三年生にもなるっていうのに、いまだに新入生に間違われるとはこれ如何に。そのうえ、カオルの方にはなぜか一度も声がかからず、二人の距離は縮まるどころかむしろ開いてしまっていた。

 まったく、いったいぜんたい自分とカオルの何がそんなに違って見えるのか。心の中だけでブツブツ文句を言いながら距離をつめていくと、まだ開店には早い食堂の手前、坂がいったん途切れる地点で、コートの長い裾があと数歩のところに迫る。やっと追いついたと思ったそのとき、カオルがついにバランスを崩した。

「わわっ!」

 いつかこうなるはずと身構えていた真波は、カオルの陰に体を滑り込ませると、倒れこむその背中を両腕でぐっと押し返す。つぶされてしまいそうな格好になりながらも、この重みがちょっとだけ羨ましい。

「あっぶな! あんたいったい何やってんの⁉」

 カオルは体重を真波に預けたまま首だけくるっと振り返り、

「マ、マナちゃん、ナイスキャッチ——‼」

 と大きな目を見開いて言った。やっぱり何か考え事をしながら歩いていたようで、今まさに再起動中です、といった感じの微妙な表情だった。

 カオルは長い髪を揺らしながら「よっ」と体勢を整えてこっちに向き直る。その一連の動きがなんだかおかしくて、つい笑ってしまった。

「さすが、学内一の危険人物はいつもヒヤヒヤサさせてくれるよね」

「ゴメンごめん。わたしがこうして無事に生きていられるのはマナちゃんのおかげです。ホントにありがと」

 どうやら注意力が散漫気味らしいカオルは、よくどこかに体をぶつけたり、物を落としたり、変なところでつまずいたりする。本人は慣れてしまっているみたいだけど、そのうち見ているこっちがその痛々しさに耐えられなくなってくる。

「いったいどうしてそんな歩き方になるわけ?」

「あ、うん、まぁ——ちょっとね」

 ちょっと、なんだっていうんだろう。意味不明だけどべつに深追いする気もない。

「いやあ、それにしても、こんなときに助けてくれる友人がいるなんて、わたしは幸せ者だなあ」

 と言いながら、カオルはごまかすように苦笑する。真波はふと、その姿を見上げてしまっている自分に気づき、さりげなく一歩さがって距離を取った。

 カオルは身長一七〇センチ以上と、女子としてはなかなかに背が高いので、一五〇センチない真波と近くで目線を合わせようとすると、けっこうな角度になってしまう。それをなるべく避けるため、カオルとは一定の間合いを保って接するべし、というのが真波のなかでのちょっとした掟だ。これは別に、見下ろされるのが癪だからだとか、首が疲れるからだとか、そういった理由だけで決めたわけではない。なんとなく、お互いにとってよい付き合いをしていくために重要なことのように思えるからだ。

 カオルは、この微妙なコントロールに気づいているだろうか。

「あ、そうだ。マナちゃん一緒にコーヒー飲まない? いまのお礼に一杯奢るからさ」

 ——いや、それはないな。

「じゃ、甘くないやつでよろしく」

 二人は食堂脇の自販機でホットの缶コーヒーを買い、散っていく桜を眺めながらそれを飲んだ。賑わう坂道を前にこうしてカオルと並んで立っていると、自分たちが少しズレた次元に立っているような気がしてくるから不思議だ。

「カオル、今日いくつ授業とってる?」

 と真波は聞いてみる。コーヒーはまだ半分以上残っているのに、もうすっかり全身があたたまっていた。

「実は一限だけなんだよね。学食が開き次第、早めのお昼を食べて帰る予定」

 こくり、こくり、と一定のリズムで飲むカオルは、なんだか水飲み鳥を思わせる。

「なーんだ、それだけか。わたしは三コマ終わったあとゼミもあるから日が暮れるまで帰れないパターンだよ」

「おー、お疲れさんです」と言うと、カオルは思い出したようにつけくわえる。「あ、でも、あれだよね。ゼミってことは、会えるんでしょ。例の気になってる人に」

 危うくコーヒーが気管に入りそうになる。こいつめ、このあいだ話したこと覚えてやがったか。不覚にも頬が緩んでしまった真波は、「うん。まあね」と適当に返事をしてカオルから目を逸らした。

 二人が上ってきたときから坂道の人通りはさらに増え、川のような流れができあがっていた。そのなかで小さなよどみをつくる数人のグループに、ふと真波の目が留まる。えーどこだよ、とか言いながらスマホの画面をにらんでいるあたり、どうやら迷える新入生らしい。

 隣にちらっと目をやると、カオルも彼らを見ているようだった。

「二年前はわたしたちもあんなだったのに、なんだか子どもみたいに見えちゃうよね」

 と真波は言った。仲間の一人が構内図の掲示をみつけたらしく、期待と不安を抱えたフレッシュマンたちは現在地を確かめにぞろぞろと移動をはじめた。

「ってことはさ、マナちゃんは自分のこと大人だと思ってるの?」

 カオルはそう問いかけながら、悪戯っぽい笑みを浮かべて真波の顔をのぞき込んだ。

「そりゃあ、大人としてはまだまだ未熟かもしれないけど、もう大学生なわけだし、子どもだって言ってもいられないでしょ?」

 と真波は答えた。カオルは「まあ確かに」と、ちょっと苦々しく笑う。

「逆に聞くけど、子どもっていつから大人になるんだと思う?」

 真波が軽くたずねると、カオルは顎に手を当てて、そうだなぁ、と考え込む。この大学生は何を聞かれても適当に返すということをしないし、たぶんできないんだと思う。

 のどから絞り出すような唸り声しばらくして、カオルは口を開く。

「寂しさをごまかさなくても生きていけるのが、本当の大人、かな」

 年齢とか、時期とか、そういうものがくると思っていた真波は、斜め横からの回答にどう反応していいかわからなかった。

「ごまかさなくても……って、どういう意味?」

 まずはそうたずねてみる。

「ほら、ヤケ酒とかヤケ食いとかっていうでしょ? ヤケ仕事とかヤケ恋とかもあるかな? ……とにかく、そういうものに頼らなくても、なんとなくルンルンでいられる人こそ真の大人ってことだよ」

 カオルは一人で勝手に頷く。

「でも、ヤケになってるうちに忘れられるものなんじゃない?」

「それでなんとかならない寂しさもあると思うけどな」

 そう言うと、カオルは少し目を伏せる。

「だからわたし、死ぬときまでには大人になっておきたいんだよね」

 コイツって、そんなこと考えてたんだ……真波はちょっと意外に思う。いつも呆れるほどのんびりしたやつなのに。いや、だからこそ頭の中はぐるぐるしてるのかもしれないけど。

 どこか別人みたいなカオルの横顔をながめていると、ふいに遠くから、葉がこすれる、囁くような音が耳に入る。音は坂道を駆けあがり、どんどんこっちへ近づいてくる。

「お、くるね」

 カオルが呟いた次の瞬間、風が大きな波となって、どっと二人に押し寄せる。とっさに腕で身をかばう真波。その隣で、どうした事か、カオルは強風の中に上半身を投げ出して、何かに向かって力いっぱい手を伸ばす。今度こそ倒れる、と真波は本気で覚悟したけど、カオルは両脚を踏ん張ってなんとか持ちこたえた。二人がほっと息をつくころ、風はとっくに乱舞する花びらをつれて過ぎ去っていた。

 カオルはコーヒーの缶をおき、つかまえた何かをじっと見つめる。真波がその手のなかをのぞき込むと、桜の花が一輪、そっと握られていた。薄紅色をした五枚の花弁がそよそよと微かに震える。カオルは繊細な手つきでその茎をつまみ、触れてしまいそうなほど顔に近寄せると、目を閉じてすんすんと鼻を鳴らした。

「やっぱりわかんないな。桜の香りって」

 花粉症のせいかな、と言いながら、カオルは花をふわっとハンカチに包み、肩にかけたバッグのポケットにしまった。その様子は絵本の一ページみたいで、なんだか胸の奥に懐かしさみたいなものがにじんだ。

 うっかりぼーっとしてしまった真波は、カオルがスマホで時間を確認するのを見てようやく現実に引きもどされる。そういえば、自分は授業の開始を待っていたのだった。気づけば、道は人通りもまばらになっていて、ついさっきまでガヤガヤとうるさかった勧誘部隊もすでに撤退をはじめていた。そろそろ行かなくちゃならない。

「もう時間だね。わたしはすぐ下の教室だけど、カオルはどっち?」

 真波がたずねるとカオルは青ざめた表情で、

「——文学棟」

 と言った。それはまずい。文学棟はここからさらに坂や階段をいくつも上ったところにある。たぶんもう走らないと間に合わない距離だ。

「やばいじゃん。いそげいそげ!」

 それ捨てといてあげるからさ、とコーヒーの缶を手に取ろうとすると、あ、待って、と言ってカオルは残りをぐいと飲み干した。まだとってあったんかい、と心のなかでツッコミを入れる。

「うん。ありがと。急ぎます」

 カオルは空になった缶を真波に渡し、じゃあね、と手を振りながら走り出す。足元には気をつけなよ、と声をかけようとすると、むこうが先に歩みを止めてこっちを振り返った。

「そうだ、マナちゃんに言うことあるんだった」

「なに、どうした?」

「最近、街の方で女子ばかり狙うひったくりが出るそうだから、買い物いくときとか気をつけなよ」

 なにもこんな時間がないときに直接言わなくてもいいのに。カオルは二重の意味で自分の心配をするべきだと思うけど、今そこには触れないでおく。

「大丈夫だよ。そんなやつ返り討ちにしてやるから」

 真波は拳をギュッと握ってみせる。

「おお、さすが柔道黒帯。わたし、マナちゃんにボディーガードやってもらおうかな~!」

 そう言いながら、カオルは再び走り出す。一歩踏み出すたび、バッグについたテディベアのストラップがぴょんと跳ねた。

「いいよ~! ちゃんと警護料はもらうけどね~!」

 坂を上る後ろ姿はどんどん小さくなっていき、すぐに図書館の陰に消えてしまう。それを見届けると、真波は小さく息をついた。

 ——紅林(くればやし)カオルという人間は、やっぱりよくわからない。

 一年の春、語学の授業で知り合ってからずいぶん経つけど、二人が大学の外で会ったり休みの日に遊んだりすることはいまだにないし、そうしようという話も出たことはない。学内でも待ち合せたりしないうえに、お互い学科も学部も違うから、顔を合わせない日も多かったりする。

 なのに、カオルの言葉や表情にはいつも、どこか不思議な親しみが込められているような気がして、真波のことをどんな存在だと思っているのか、正直言ってわからない。カオルと同じ生物科の友だちから聞いた話では、どうやら飲み会には新歓も含めて一切参加していないそうで、だれとも教室や食堂で会う以外の接点をもたないらしい。

 カオルにとって、「友だち」とはいったい……そう考えながら踏み出すと、足元いっぱいに散らばる桜の花びらが目に入った。

 ——ああ、さっきあいつは、これを避けようとして変な歩き方してたんだ、と真波は気づく。

 そりゃあここまで路面を覆った花びらを踏まないためには爪先立ちでもしないと無理だわ。下手すると、そのために転倒して救急車——なんてことになってた可能性も。

「ホントにあきれたやつ」

 何考えてるかさっぱり分かんないカオルだけど、そばにいればこうやって少しずつ、見えてくるモノもあるのかもしれない。

 大風が過ぎ去ったキャンパスはすっかり静けさに包まれている。真波はゆっくり伸びをすると、二本の空き缶を手に坂道を下りた。

 ……ちょっとだけ、足元を気にしながら。


***


 夕方になり、授業を一通り終えた真波は食堂でコロッケを食べてからゼミに向かった。

 最近建て替えられたばかりの文学棟は、やけに白くてピカピカで、学生たちの息遣いが消えてしまうと一気に病院みたいになる。青白い光にぼうっと包まれた階段を上りながら、真波は早くみんなに会いたいと思った。

 節電で薄暗いままにされている三階の廊下、一番奥の扉から少しだけ明かりが漏れていた。「堤(つつみ)哲学研究室」とプレートに書かれたその部屋に入ろうとすると、

「そうそう。オレもそんな感じで読んできたんだけどさ——」

 と話す声が中から聞こえた。

 鈴木くんだ。ドアノブにかけた手が止まり、心拍数が一気に上がる。今日ここで会うことになるのはもちろんわかっていたけど、いつもは開始ぎりぎりで来る鈴木くんが先に着いていたのは意外だった。

 緊張する必要なんかない。自然な表情、自然な声で、ただ「こんにちは」と言えばいいだけだ。そう自分に言い聞かせて呼吸を落ち着ける。

「マナミちゃんどうしたの?」

「うわっ!」

 背後から急に名前を呼ばれて思わず叫び声が漏れる。振り返るとショートボブの女性が一人、首を傾げて立っていた。

「せ、芹沢さん⁉」

 春休み前から髪型が大きく変わっていて一瞬別人みたいに見えたけど、よく見るとまぎれもなく五回生の芹沢さんだった。ゆったりとしたブラウスとワイドパンツを組み合わせてるのにシャープな印象にまとまってるのはスタイルの良さゆえか。立ち居振る舞いは隅々まで洗練されていて、真波とこの人との間には、たった二年の差では説明できない何か決定的な違いがあるような気がする。

「もう、やめてくださいよ。心臓止まっちゃうじゃないですか」

「ごめんね。驚かすつもりはなかったんだけど」

 そうこうしているうち、研究室の中から足音が近づいてきてドアが開いた。あふれてくる光に少し眼が眩む。

「おー、中川だったのか」

 いきなり鈴木くんが目の前にあらわれて、ちょっと呼吸が止まった。日に焼けた肌と茶色っぽい髪が逆光のなかから浮かび上る。

「いま何か、わーって聞こえたけど大丈夫か?」

「う、うん。問題ないかな」

 そうか、と鈴木くんは頷く。そのむこうでは白崎(しらさき)くんが、

「こんにちはー、お二人とも。どうもお久しぶりです」

 と手を振っていた。机の上にはゼミで読み進めることになっているテキストが二冊。どうやら今回鈴木くんが発表するところを二人で一緒に確認していたらしい。

 こんにちは、と返す声が芹沢さんとハモる。けっこういい感じの和音になった。

「先輩、髪短くしたんですね」

 と白崎くん。

「うん。思い切ってバッサリと」芹沢さんはニコッと笑う。「変じゃないかな?」

「いえ、とってもお似合いですよ。爽やかで素敵です」

 こういうことを軽く言えちゃうあたり、白崎くんはおとなしそうに見えてけっこう侮れないと思う。

 頭の上で話されるのもあまりいい気分がしないので一足先に部屋に入ろうとすると、口ひげをはやした堤先生が本を片手に奥から出てきた。

「ずいぶん印象が変わるもんだな」

 と言って、四角いメガネの奥から芹沢さんを見ている。気がつくと、鈴木くんも含めたみんなの視線が芹沢さんに集まっていた。こんなことならわたしも髪切ってくればよかったかな、なんて考えてる自分がバカみたいでムカつく。

 ——でもたしかに、芹沢さんはきれいだ。

 メンバー四人プラス先生が全員揃ったので、まだ開始には早いけど真波たちはそれぞれ席について準備をはじめる。ここまで真面目な雰囲気がゼミを包んでいるのは、他学部から参加している芹沢さんと白崎くんのおかげなのかもしれない。二人は哲学科の学生よりもずっと積極的で、そのうえ数学とか化学とかの専門科目もちゃんとこなしているっていうんだから恐ろしい。

「なあ、ここってさっき言った読みで合ってるよな?」

 斜め向かいに座る鈴木くんは、テキストの一文を指さして白崎くんに見せる。真波たちが来る前にしていた相談の続きらしい。

「それでいいんじゃないかな。まあ、あとで先生につっこまれるかもしれないけど」

 と白崎くんは小声で言った。

「お前なぁ……。自分の発表じゃないからってぜったいテキトーに答えてるだろ」

「いやいや、そんなことないって。一応マジメに考えてるつもりだよ?」

「どうだかな」

 鈴木くんは怪訝そうな目をしてみせるけど、その口元には小さな笑みが浮かんでいた。

 二人は中学時代からの友達で、高校も一緒だったらしい。アクティブな感じの鈴木くんと、どこかマイペースな白崎くん。性格が割と対照的なせいか、たまに何かがずれているような気もするけど、けっこう仲が良くて不思議だ。

 慣れ親しんだ間柄に独特のゆるい雰囲気は見ているだけでなごむ。けれど、このあいだに割り込んで鈴木くんの目をこっちに向けさせるというのは、真波にとってけっこう勇気がいることだったりするのだ。

 うう……四人だけのゼミなのにライバル強すぎ。机に視線を落として小さくため息をついていると、

「マナミちゃん大丈夫? なんだか元気なさそうに見えるけど」

 と芹沢さんが鞄からファイルを取り出しながらたずねてきた。

「あ、ああ。ちょっと寝不足気味かもです。昨日バイト終わって家ついたら日付変わってましたし……」

「おー、遅くまでお疲れさまだね。帰り道は気を付けなよ。女性をねらったひったくりが最近多いらしいから」

「あ、それ聞いたことあります」

 まさに今朝カオルが言っていたことだ。ローカルな噂に疎そうなあいつが真波より先に知っていたのは意外だけど、もしかすると学内では相当広まっている話なのかもしれない。

「でも、まあ、そんなやつがわたしの前にあらわれたら——」

 逆にぶっ飛ばしてやりますけどね。そう言おうとした瞬間、鈴木くんが近くにいることに気づき、真波は半分握りかけた拳をひらく。

「——って思うと、もう怖くて出かけられなくなっちゃいますよねー。あー、早く捕まってくれないかなぁー」

 そのとき、誰かがフッと鼻で笑うのが聞こえた。

「そうだよね。捕まらないと安心できないよね」

 きっと気のせいじゃない。真波を小馬鹿にするようなニュアンスの笑いが、確かに聞こえた。でもいったい誰が——? 目の前にいた芹沢さんではなさそうだし、なら白崎くん、じゃなかったら先生、いやまさか——鈴木くんが?

 真波がきょろきょろとみんなの表情をみていると、先生が「うん」と言って読んでいたテキストを机に置いた。

「もう四人とも準備できているようだし、早めに始めてしまってもいいかな」

 全員が頷く。二年の後半からプレで何度かやってきたけど、いつもこんな感じに前倒しで始まる。でも大抵早く終わることはない。

「んじゃ、今回はオレの方から発表させてもらいたいと思いまーす」

 鈴木くんは用意してきたレジュメを配り始める。真波がそれを受け取ろうと手を伸ばすと、開いていた窓から強風が吹き込んできた。

「おっと」

 舞い上がったレジュメを背の高い白崎くんがキャッチしてくれる。

「おー、ありがとね」

「ハイどうぞ」

 差し出された手を見つめる。繊細そうな細くて長い指がちょっとだけ羨ましい。

「……どうしました?」

「ううん、手が大きくていいなーって」

「中川さんの手もかわいらしいじゃないですか。楓(かえで)の葉っぱみたいで」

 白崎くんは朗らかに微笑む。楓の由来はカエルの手。わたしの前世は両生類か。ならせめてウーパールーパーとかだといいな。

 ごうごうという大気の唸りが部屋中に響き、「今日はやたら風が強いな」と言って先生が急いで窓を閉めに向かう。暗くなっていく空のかなた、沈みかけた夕日が最後の光で雲をピンク色に染めているのがその背後に見えた。


***


 今年度になって初のゼミはいつも通りつつがなく終わった。真波自身はあまり良い発言ができなくて何度か空ぶってしまったけど、そんなことをいちいち気にしていても仕方がない。そう思えるようになったことは、ゼミに参加して得られた一番重要な成果なのかもしれない。

 ただ一つ、バイトに間に合わないとかで鈴木くんがすぐに帰ってしまってほとんど話せなかったことが、やっぱりどうしても悔やまれる。春休み何してたの、とか、いろいろ話題を用意していただけに落ち込みも大きい。

 大学からの帰り道、スーパーによって夕食の材料を買った真波は、信号が変わるのを待ちながら夜空を見上げて月をさがした。確か満月のはずだけど、今はどうやら厚い雲の向こうに隠れてしまっているらしい。

 やれやれ、と思いながら道に視線を戻すと、交差点の斜め向かいに白崎くんが立っているのに気づく。一応、手を振ってみるけど、むこうはバッグの中から何かを取り出すのに夢中でこっちを見る気配がない。

 そういえば、あの黒いバッグはたぶん、カオルが持ってるのとまったく同じものだ。通販の人気商品みたいだから被ってしまうのは仕方がない。カオルのテディベアみたいに、白崎くんも何か、これは自分のだってすぐにわかるような目印をつければいいのに——そう思って見ていると、白崎くんのバッグから何かがこぼれ落ちる。よく見えなかったそれが小さなテディベアのストラップだとわかった途端、真波は胸騒ぎを覚えた。

 頭の中にふと、カオルや芹沢さんから聞いたひったくりの話が思い浮かぶ。これは偶然の一致と考えるよりも、一連の事件の犯人もしくは模倣犯あたりという説の方がずっと有力なのでは……? いやしかし、そんなちょっとしたことで人に疑いをかけるのは褒められたことじゃないし——真波が脳内会議をはじめた直後、白崎くんがストラップを慌てて拾い、周囲をきょろきょろ伺ってから歩き出したのを見て、満場一致の判決が下る。

 ——こ、こいつはクロだ!

 気がつくと、身体が勝手に尾行をはじめていた。距離をあけながら容疑者の背中を追いつつ、裏を取るためカオルに電話をかける。すると白崎くんは立ち止まってまたバッグを開けると、中からスマホを取り出して路地裏へと姿を消した。あれはきっと、カオルのスマホだ。コールが切れたらすぐ通報できるよう準備しつつ、真波はその後を追う。

 ビルの間に挟まれた真っ暗な空間には、スマホの小さな明かりだけが揺らめいていた。白崎くんの表情は見えないけど、通話を切るよう操作すれば遠くてもちゃんとわかる。真波が息をころしてその瞬間を待っていると、突然コールが終わり、微かな雑音が響く。

「…………⁉」

 通話は切れたんじゃなく、つながっていた。他人のスマホに出たら自分が盗んだことはすぐにばれてしまうのに、いったい白崎くんは何をするつもりなんだろう。路地の奥から目を離さず、スマホに注意深く耳を傾けていたそのとき——。

『マナちゃん? もしもーし。聞こえてる?』

 スマホの向こうの声が沈黙を破った。カオルの声だ。声真似とかではない、カオル本人の声だと真波にはわかった。

「カオル……だよね?」

『うん。そうだけど、急に電話してきてどうしたの? 何かあった?』

 声を聴く限り、カオルはいたって通常運転らしい。

「今、いつものバッグ、ちゃんと持ってる?」

『うん。持ってるよ』

「ストラップも、ちゃんと付けてる?」

『う、うん。付けてるけど……いったいそれがどうしたの?』

 確認したところで、真波はほっと大きく息をつく。どうやら探偵ごっこはここで終わりみたいだ。

「いや、ほら、わたしたちの友情の証? ちゃんと大切にしてくれてるかなーって急に気になっちゃってさ」

『あ……ああ! 証ね。もちろん大切にはしてますけど、こういう目に見えるものがなくたって、マナちゃんはわたしの大切な友だちだってこと、忘れないでね』

 友だち。大切な友だち。カオルにそんなことを言われたのは初めてだった。普通ならさらっと流してしまうような言葉だけど、カオルが言うとなんだか特別の重みがある。こんな、なんのひねりもないストレートな言葉をそのままの意味で受け取ってしまうのは、たぶん、いつも「証」を求めている自分がどこかにいるからだ。目に見えようと見えなかろうと、本当はそんなもの必要ないはずなのに。

「ありがとね、カオル。急に電話しちゃってごめん」

『いーえー。またいつでもどうぞ』

 おやすみ、と言い合って通話を切ると、あたりが急に明るくなっていく。月がやっと雲の隙間から顔を出したらしい。これにて一件落着、とその場を去ろうとしたとき、真波は路地の奥を見つめて言葉を失う。そこにぼんやりと浮かび上がってきたのは白崎くんではなく、カオルの姿だった。

「え、なんで——」

 ここまで追いかけてきたのが白崎くんではなくてカオルだったと考えれば全部筋は通る。でも、性別が違ううえに顔立ちも似てない二人を見まちがえるなんて、ありえない。あれは確かに白崎くんだったはずだ。……じゃあいったい、自分は今まで何を見ていたんだろう。

 建物の陰で呆然とする真波には気づく様子もなく、カオルはゆっくりと目を閉じる。その様子をよく見ていると、何かおかしなことが起きているのがわかる。カオルの髪はどんどん短くなっていき、目や鼻や口は形と位置を微妙に変化させていた。そして数秒も経たないうちに、カオル自身の面影は完全に消えてなくなり、白崎くんにその姿を変えてしまった。

 あまりにも信じられない光景に、真波はただただ絶句していた。きっと見てはいけないものを見てしまったんだ。ここから一刻も早く逃げなくちゃならない。そう思って路地から離れようとするけど、脚がうまく動いてくれず、真波はしりもちをついてしまう。

「あれ……?」

 気づかれた。白崎くんの姿をした何かと目が合う。

「マナちゃ——中川さん。もしかして今の、見てました?」

 変な調子の声で何かが言った。

「み、見てないよ! なーんにも見てない!」

 真波はぶんぶんと首を振って否定する。

「いや、それ、見ちゃったとき言う系のやつですよね」

「ちがうの!」ビルの合間に声が吸い込まれていく。「ホンっトに何も見てないし、見てたとしても誰にも言わないから! だから——」

「あ、あの……!」

 真波の瞳をまっすぐに見据えて何かが言う。

「今まで隠してて、ごめん」

 すべてが静止した路地に、遠くを走る車の音だけが微かに響く。真波は立ち上がることも忘れたまま、ゆれる月明かりのなかに立つ何者かと目を合わせていた。

「だれ、なの……?」

 真波はか細い声で問いかけた。

「カオル、だよ」

 そう言うと、何かは鞄の中からあのストラップを取り出してみせる。

「マナちゃんの友達の紅林カオル、そして、中川さんのゼミ仲間の白崎カオル」

「白崎……カオル……? どういうこと……?」

 それがどんな意味を持つのか、頭ではわかりかけているのに心が追いつかない。

「あ、ああ。下の名前は知らなかったんだね。ゼミ始まるとき自己紹介してなかったか……」

「いや、そんな話、してるんじゃなくて——」

「あ、うん。ごめん。その——」

 カオル——と名乗る何者かは真波を制すように両手を挙げると、俯いて小さく首を振った。

「いい? よく、見ててね……?」

 真波に視線を戻すと、「カオル」は肩にかけた鞄を下ろして再び目を閉じる。すると、その身体にさっきと正反対の変化がはじまった。短かった髪はするすると伸びて肩をつたい、背丈は確かに少し縮んでシルエットが丸ごと別人のものになっていく。

「マナちゃん」

 やがて「カオル」はゆっくりと目を開き、カオルの——紅林カオルの瞳で真波を見つめ返した。

「これが僕であり、わたしだよ」

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