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 図書館へ向かう前に、ナイティスは、凝然として文箱の中を見つめた。何かが違う気がする。ほんのわずかな位置の差なのだろうが、自分の置き方とは異なっているように見える。違和感を感じるのは、白い革表紙の日記帖の位置だ。

 ――誰かが文箱を開けた? そして私の日記帖に触れた?

 ナイティスは日中は王宮図書館での勤務のため、部屋を空けていることが多い。その間に侍女たちが立ち入って掃除をするのが毎日のことである。当然、机の上を布で清めたりしているだろう。

 自分の勘や印象だけで侍女を疑い、問いただすことはしたくない。ナイティスは自分なりのやり方で確かめることにした。

 日記のページの続きを書くところに、一枚の木の葉を置いた。できるだけ無造作に置き、自分だけが位置を確かめられるように、葉の周囲の数カ所を針で差し、紙に目に見えないほど小さな針穴を穿った。

 そのまま葉を動かさないようにそっと本を閉じた。それを文箱に収め、ナイティスは図書館へ向かった。

 帰ってからナイティスは、すぐさま文箱のところへ行った。慎重に日記帖を開く。葉の置いてあるところが、明らかに針穴の位置とずれている。ナイティスは心臓がどきどきと脈うった。

 ――やはり誰かが私の日記を開いているようだ。

 青宮に仕える者の誰かなのだろうか。何の目的で? 青宮内で文字の読める人間は限られる。侍従や従僕の中でも上級の者、侍女でも育ちがよく教育を受けた者しか読めないだろう。

 一瞬、ナイティスの脳裏にはアレッサの姿がよぎった。しかし慌てて否定した。すぐさま彼女の顔が浮かべてしまったことに気が咎める。

 今まで書いてある内容をざっと読んで確かめる。シグレスと結婚して以来の日々の出来事が綴られている。記述は淡々としていて、図書館での日誌を書くときと文章はあまり変わらない。御前会議で知りえたような、国の内密の事項については、この日記帖に書くことはしていない。

 ――それほど内面に立ち入ったことも書いていないし、ましてや国の機密に関わるようなことは書いていない。たぶん読まれたところで、大丈夫なはず。

 それでも気持ちの悪さは残った。この大切にしている白い本ということは、まるで自分の心の中に土足で踏み込まれているような思いがするのだ。


 しばらくして、ナイティスが青宮妃レイユスを訪問したとき、飾り書棚には今までの日記がずらりと並んでいた。白から少しずつ色を変えて青が深くなる本の背を眺めながら、ナイティスは質問した。

『レイユス様は、日記をこのようなところに置いて、誰かに読まれる心配はないのでしょうか?』

 レイユスは目を丸くして聞いていたが、やがて微笑みながら一冊を手にとって開いてみせた。ナイティスは遠慮しながら覗きこみ、驚いて声をもらした。日記はすべて見たことのない文字で書かれていた。

『オーランの文字でしょうか?』

 急いで手帖に書いて、レイユスに確認する。

『そう、オーランの文字。それも古典文字なので、オーランの中でも僧侶や学者しか読める者がいないのです』

 なるほど、とナイティスは深く納得した。それならば、このように机に並べていても、ソディアの国の者から盗み読まれる恐れはないわけだ。ナイティスは自分の日記帖もアレト教の神聖文字で書いてみようかと考えて、思い直した。

 ――いや、今、急に文字を変えると、盗み読みに私が気づいたことが明らかになってしまう。誰が何の目的でそうしているか、私が知りたいのはそれなのに。

 結局、ナイティスは文字を変えることもなく、日々の記述を続けた。その代わり、誰かが日記を読んでいるか、その痕跡を探すことを続けている。木の葉を何日か挟んでみて、毎日読まれているわけではないと知った。

 ――さて、この先、どう調べを進めていこう。

 そう考えて、ひとり苦笑した。

 ――私はどうして、調べることがこうも好きなのだろう。

 分からないことを明らかにしていく、このことが自分を惹きつけてやまない。図書館での調べものならともかく、日記帖の盗み読みなど、いちいち調べるより、侍女を集めて注意をするか、鍵のかかる戸棚を用意して入れた方が早いだろうに。

 ――しばらく様子をみよう。

 ナイティスはひとりうなずいて、白い日記帖を文箱の中の同じ位置にしまった。その後、何気なく侍女頭のデイラにアレッサの様子を訊いてみた。

「あの娘が何か粗相そそうをしましたでしょうか?」

 ナイティスは首を横に振りながら、デイラの顔がわずかに曇っていることに気が付いた。

「アレッサが何かしでかしたわけではなく……遠いところから来て、暮らしに馴染んでいるか気になったのです」

「青宮の暮らしには慣れてきたとは思いますが、そば仕えにはまだまだです」

「……」

「領主の娘御であるせいか、自分から動くということをいたしません。新参者であるのに仕事をえり好みするようです。私の前ではそのような素振りは見せませんが」

「えり好みとは?」

「貴族階級や騎士の客人の前に出るような案内や給仕は喜んでやっているのですが、掃除や片付けはやりたがらないのです。シグレス様やナイティス様のお部屋の掃除は進んでやるようですが――何かお部屋から無くなったものなどはございますか?」

 デイラは慌てて訊ねてきたが、ナイティスはかぶりを振った。今のところはまだ推定でしかない、自分の日記に触れた者については言わなかった。

「美しい騎士を見ると、娘心が騒ぐのでしょう」

 ナイティスの言葉に、デイラは眉を顰めて苦笑した。

「ケディン殿にまとわりついては、いつも追い払われてしまっています」 

 ナイティスとケディンが王宮図書館から帰って来ると、アレッサはナイティスに形ばかりの一礼をして、すぐさまケディンの方へ駆け寄る。しかしケディンは彼女を一顧だにもせず、大股で自室へ引き上げてしまうのだ。

 ケディンに顧みられないアレッサの想いが、どす黒い形で自分に向かっているのではないか……日記に何か見えない影がこびりついているような気がして、ナイティスは布を取り出して大事な白い革の表紙を丁寧に拭った。


   ***


 王宮図書館にいるナイティスの元に、中年のヒラス派僧が尋ねてきた。イクシの僧院長からの紹介状を持っている。ナイティスは手紙を一読して、思わず声を上げた。

「王立薬種院にお勤めで、ニメイの栽培の研究を行われているのですね!」

「はい。私はイクシの僧院までニメイに関する文献を探しに行き、僧院長様に王立図書館のナイティス様にお目にかかるよう勧められたのです」

 タリスと名乗る僧は王立の薬種院に勤め、薬になる動植物について調べていると語った。中でもニメイの栽培に熱を入れており、その栽培方法についてイクシの僧院に調べものに赴き、僧院長から示唆を受けたのだった。

 その直前にナイティスは、ニメイについての文献がイクシ僧院にあったことを目録で調べ、写しを送るように依頼していた。

「ナイティス様は、なぜニメイについてお調べになっているのでしょうか」

 タリスは篤実そうな顔を、好奇心に輝かせながら尋ねてきた。ナイティスは種器の者の暮らしを支えるために、ニメイを増産する手立てを調べていることを話した。またそれはソディアの産業や交易を盛んにする上でも役に立つのではということも、文献を示して説明した。

「私の調べものがまとまりましたら、薬種院へご相談に上がろうと思っていました。同じ目的のタリス殿に、王宮図書館にお越しいただけてよかった」

 タリスの方も今までナイティスが調べてきた、ソディア国でのニメイの産出量や交易についての記録、これまでの栽培方法についての文献の目録を見て、興奮した声を上げた。

「なんと素晴らしい! 調べようとしたことが、すでにこんなに網羅されているとは」

「薬種院の方が文献はあるのではと思いましたが、タリス殿のご存じでない本もあるのですね」

「文献はあるにはあるが、ニメイについてはまとまったものがなく、代々の栽培者たちの書き付けがほとんどなのです。今はめいめいの覚え書きを読み解きながらやっております。このようにまとめられた文献を調べれば、一層役に立つでしょう」

「少しでもタリス殿のお力になればと思います」

 ナイティスはタリスを図書館の書架のところに案内した。

「さすがに王宮図書館は蔵書の量が違います」

 書架の立ち並ぶ部屋に入ったタリスは感嘆の声を上げた。本草学の本の並ぶ辺りに立ち止まると、夢中になって背文字を眺めている。ナイティスは彼のために小さな籠車を用意し、座って読める場所も案内した。

「もし本日のお宿を用意されていなければ、今宵、青宮にご招待したいのですが」

 ナイティスの誘いに、タリスは大きく目を見張って驚いた。

「そんな、恐れ多いことを」

「いえ、シグレス様にタリス殿の話をぜひお聞かせしたいのです」

 幾度か遠慮した後、タリスは青宮へ滞在することを承諾した。ナイティスは図書館が閉まる時間になったら迎えに来る約束をした。部屋へ戻るときに振り返ると、タリスはすでに籠車に次々と本を積み込んでいた。

 青宮の晩餐の席についたタリスは、研究対象を見つめるような熱心さで大きなテーブルに飾られた花々や果物を眺めていた。向かいに座ったシグレスは興味深げに彼を見つめている。ナイティスは自分の席に座り、シグレスにタリスを紹介した。

 王子の姿に初めて気がついたタリスはおずおずとつっかえながら自己紹介したが、シグレスが話題をニメイに移すと、人が変わったかのように流暢になり、満面の笑みを浮かべてニメイの特徴やその栽培方法について語りだした。

「ニメイの薬効はその種子を煮出すことによって抽出できるのですが、種子が採れるまで生育させるのが至難のわざです。まず発芽、その後も種子をつけるまで生育するまでが時間がかかる。どうやったら早く生育するか、種子を多く採ることができるか、ずっと私は調べております。今日、さっそく図書館の本草学の本で見つけた接ぎ木をするという方法を実験したいと思いました。ニメイの接ぎ木の台になりそうな植物を見つけることもできました」

「接ぎ木とは?」

 自分の知らないことを聞くときのシグレスの瞳は、いつも怜悧な輝きを帯びる。ナイティスはその碧いきらめきを眺めるのが好きだった。

 早速、タリスは接ぎ木の方法について語り出す。ニメイの生育に適合する丈夫な植物を根を残して切り、その株にニメイの芽を継いでいく。生育が早く丈夫な根と茎から育ったニメイが、多くの種子をつけることができる。

「ナイティス様と同じく、私も以前からニメイの種子をもっと安価に流通させることができないかと思っておりました。この方法を実験することができればよいのですが」

 タリスの話は理路整然として納得がいくものだった。後は――とタリスは口をつぐんだ。

「後の問題は何かあるのか?」

 シグレスの問いにタリスは苦笑いした。

「薬種院の予算の問題でしょうか。ニメイを入手し栽培し、世話をする者を雇うためにかかる費用を工面しなければ。薬種院は決して予算が潤沢にあるとは申せません」

 ナイティスはシグレスをちらりと見た。ちょうどこちらを見たシグレスは小さくうなずいた。

「その費用は青宮で出そう」

 タリスが目をまん丸にして立ち上がった。

「本当でございますか!」

「ああ、その計画を俺たちが後押ししたい」

 シグレスはタリスに言ってから、ナイティスを見て微笑んだ。ナイティスも笑顔を返した。タリスが調べた方法によって、ニメイが増産できるようになれば、少しでもこの状態が改善できるかもしれない。

「私はほかの文献を探してお送りいたします」

 ナイティスの言葉に、タリスは感極まったような顔でうなずいた。

「王都に来てよかったです。こんなに一気に、願ったとおりにものごとが動くことになるとは」

 シグレスは食後も茶を飲みながら、タリスとさらに薬種院で実施する計画を検討していた。今、ようやくニメイの栽培に適した方法を見つけたところだ。まずは種を蒔くところから始めなければならない。

 ――すぐに種器の問題が解決するとは思わない。けれど、種を蒔き、育て、実ができるまで、私も私にできることをしよう。

 ナイティスはふたりを見つめながらそう思った。

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