13人目の客
増田朋美
13人目の客
その日は雨が降って、梅雨というのにふさわしい空模様であった。その日も、片子さんは、水穂さんの小さなサインを入れてある額縁をしげしげと眺めていた。それを、大女将の瀧子さんが厳しく注意していた。
「今日は、初めてのお客さんが来るからね。ちゃんとお客さんの相手をするんだよ。」
瀧子さんにそう言われて、片子さんは小さな声でわかりましたよといった。
「それにしても、今日は、どんな人が来るのかしらねえ。」
片子さんは、番頭さんに言うと、
「はい。なんでも左腕に障害を持っている人が来るそうです。」
と、番頭さんは言った。それと同時に日乃出屋の玄関がガラッと開いて、
「こんにちは。前田です。」
と、一組の男女が日乃出屋へ入ってきた。女性は、洋服を着ているが、男性の方が着物を着ていて、なんとも、左腕がなかった。
「あの、ご予約でございますか?」
と、番頭さんが言うと、
「予約はしてないですけど、さっき電話したんですけどね。」
と、左腕のない男性が言った。
「そうですか、そうですか。お早いおつきでどうもお疲れさまでした。それではお部屋へご案内いたします。」
瀧子さんが二人を部屋へ案内する。
「こちら何も無い旅館ですが、いつも湧き出ている温泉が唯一の自慢です。ゆっくりしていってください。」
瀧子さんはそう言っている。片子さんはそうやって、何でも口に出してしまう母に対し、ちょっとつらい気持ちになる。本来なら私がそうやって接客してもいいはずなのに。母が何でもそうしてしまうのが、片子さんには辛いのである。
「そうですか。じゃあ、温泉に浸かって、今日はゆっくりしよう。あとは、美味しいご馳走が楽しみだわ。」
と、女性がそう言うと、
「食いしん坊だなあ恵子さんは。そうやってすぐに食べ物の話を口にするんだから。」
男性のほうがそういったため、女性が恵子さんだと言うことがわかった。瀧子さんが宿帳を書いてもらえないかというと、二人は、すぐに前田恵子、前田秀明と名前を書いた。
「はいありがとうございます。お客さんはお仕事でこちらへ?」
瀧子さんがそう言うと、
「ええ。仕事というか、仕事をする場所を探しに着たんです。静岡で、小濱くんの個展をすることが多いですけど、伊豆方面で展示会をすることになりましてね。それで、その場所を探しているのよね。どっか、入りやすい展示会場とか、そういうところ、ないですかね。」
恵子さんはすぐに答えると、片腕のない男性が、
「恵子さん仕事以外で小濱くんと呼ぶのはやめようよ。」
と苦笑いしていた。
「へえ、個展をしたいということですか。そうなりますと、伊豆長岡とか、そっちのほうが比較的人がたくさん来るのではないかしら。そこなら、伊豆箱根鉄道の駅も近くにあって、アクセスもしやすいのではないでしょうかね。失礼ですけど、なにか芸術的な活動をされているのですか?それで、別の名前を?」
瀧子さんがそう言うと、
「ええ、結婚後は、前田秀明なんですけどね。絵を描いて展示をするときには、小濱秀明と旧姓で活動しているんです。そのほうがいいって、恵子さんも言ってますし。」
秀明さんはそう答えたのであった。
「確かに、伊豆長岡や、修善寺のような、観光客が集まる場所も結構なんですが、そうじゃなくて、静かで自然の豊な場所で個展をしようと考えているんですけどね。それではだめでしょうか?」
それと同時に、手代の野田治郎ちゃんが、
「失礼いたします。お茶、持ってきました。」
と言いながらお茶の入った急須と湯呑を持って、二人の前に持ってきた。片子さんが治郎ちゃんお茶持ってくるのが遅いわよといった。
「ああ失礼しました。俺、いつも遅いんです。それに今回は、予約もなくて、電話がかかっただけですから。」
治郎ちゃんは正直であった。そういうふうにあったことをすべて言ってしまうのも、障害として扱うべきかもしれなかった。片子さんは、嫌そうなかおをするが、
「そういうことでしたら大丈夫。あたしたちが、予約しなかったのが悪いのよ。あたしたちも、思いっきり歓迎されるのも好きじゃないしさ。」
恵子さんがそう言ってくれた。
「そうですよね。絵を描いて活躍してるんじゃ、特別扱いされるのも嫌ですよね。確か、絵を展示する場所を探していると仰有ってましたね。聞いてしまったんですよ。」
治郎ちゃんがそう言うと、
「ええ、先程言いました通り、あまり人が集まるような駅の近くでも困ります。今回の展示会は、そういうものじゃないと思ってるんです。もちろん絵を見に来てくれるのは嬉しいのですが、それだけではありませんよ。絵を見てくれることで、誰かの心を癒やしてくれればいいなと思っているので、静かで落ち着いている場所が良いと思っているのですけどね。」
と、秀明さんはそういったのであった。
「そうですか。それならいっそのこと、ここで展示会をしたらどうでしょう。ここに集会室っていう部屋があるから、そこで展示会をすれば良いと思うんですね。日乃出屋といえば、名の知られている、湯治旅館です。」
「何を言ってるの治郎ちゃん。旅館はあくまでも泊まるためのもので、展示会するものじゃないわよ。」
と、瀧子さんがそういうのであるが、
「そういうことなら、そうやってあたしたちの旅館も、PRしていけば良いと思うし。最近では旅館で展示会とか、イベントを開催するということもあるって聞いたことあるわ。」
と片子さんはすぐに言った。
「そうですか。そういうことならぜひ、やらせてもらいましょうよ。確かに、駅からは遠いし、バスででなくちゃならないけど、それが逆に他の世界への入口になっていることだって十分あり得るわよ。」
恵子さんがそう言ったので、秀明さんも、にこやかに笑ってそれに賛同してくれた。話は決まった。そういうわけで、展示会を日乃出屋で行うことに決まった。誰も、それに反発するものは出なかった。瀧子さんも、搬入されてきた風景画を見て、こんなきれいな絵を描かれるのならと、喜んで彼の絵を受け入れてくれた。
そういうわけで、小濱秀明個展が、日乃出屋で開催された。片子さんたちは、お客さんが入らないのではと心配していたけれど、お客さんは来てくれた。なぜそうだったかというと、SNSにチラシをアップしていたため、興味を持ってきてくれたお客さんが多かったのである。
その日も、お客さんは来てくれた。秀明さんの描いた絵を眺めて、すごくきれいだとか、上手だとか、みんな褒めていた。中には風景画ばかり描いていてつまらないと、批評した女性客もいたけれど、秀明さんはそういうことはしないんですと交わしていたのであった。
その日のお客さんは、十二人であった。大規模な展示会ではないけれど、そのくらい来てくれれば良いのだった。皆絵が綺麗だなとか、癒やされるとか、そういう言葉を交わしていた。
すると、どこからか、一人の若い女性がやってきて、秀明さんの前で刺身包丁を取り出した。13人目の客であった彼女は、刺身包丁を振り上げて、こういったのであった。
「このひとは、同じような絵ばかり描いて、やがて呪われることになる!」
いきなり、恐ろしい顔をした女性が入ってきたので、個展に来ている客も驚いているようであった。女性は、秀明さんの前で刺身包丁を振り下ろそうとしたが、秀明さんの左腕がないのに気がついて、包丁を落としてしまった。
「なんで。」
女性はそう言っている。
「はあ、左腕がないというのは、それほど、珍しいことだったんですかね?」
と、秀明さんはそういった。
「そういうことじゃないわ。」
女性は、つらそうに言った。
「それならなんですか?」
秀明さんがいうと、
「いえ、そういう理由だった事を、知らなかったんです。」
女性は、そういうのであった。
「知らなかったってどういうことでしょうか?」
恵子さんがそう言うと、
「もし、ちゃんと知りたいということであれば、変な暴力ではなくて、しっかり説明してもらえないでしょうか?」
と秀明がしっかりと言った。
「あたしは、絵を描いて、こういうところで展示会をしているとなると、本当ににくくて仕方なかったんです。あたしは、絵を描いても、そういう事を、認めてもらえなかったんですから。」
と女性は言ったのであった。
「そういうことを言うんだったら、どうしてこんな事をしでかしたんです?なんでなんにも面識のない小濱くんのことを呪ったのよ?」
恵子さんがそう言うと、
「本当は、あたしだけではなかったんです。」
と、女性は答えた。
「それだけじゃなかった。あたしが、もっときちんと育ててあげていれば、あの子は、そうならずに済んだのです。あたしがみんな悪かった。あの子がそれだけ絵を好きだったと、認識しないでいたのが間違いでした。せめて、あの子に見せてやりたかったんですけど、それもできなかったから、もうそうするしかないと思ってしまったんです。」
そう言って女性は、また包丁を取って、自らの首を切った。秀明さんが待ってといったけれど、それは叶わなかった。恵子さんも秀明さんも彼女が、眼の前で倒れるのを見てしまったのであった。すぐに、番頭さんが警察に通報してくれて、事件の処理はしてもらえたのであるが、恵子さんも秀明さんも、乗り込んできた女性の名前も所番地もわからなかったので、何も情報提供にはなれなかった。ただ、彼女の言ったことから判断すると、美術を心がけていた娘がいて、それが果たせなかったということで、女性が乗り込んできたということだけわかったのであった。
「一体、どういうことだったんでしょうね。あたしもよくわからないまま、女の人が、小濱くんの個展に乗り込んできて、勝手になにかしでかして、そのまま自ら逝って終わってしまったようだけど?」
旅館を出ることになった秀明さんと恵子さんは、そう瀧子さんに言った。
「ええ、あたしも、よくわからないまま、今日まで来てしまいました。あの時の女性は、何だったんでしょうか。まあ、いきなり入ってきたので、びっくりしましたよ。」
瀧子さんもそう言って、秀明さんたちを送り出したのであった。二人は、とりあえずバスに乗って、修善寺駅に帰ろうとしたのであるが、
「大変だったねえ。女性が、展示会に乗り込んで来たんだってね。」
と、年老いた運転手がそう言ってくれた。一時間に一本しか無いバスだけど、他の乗客はいなかった。恵子さんがなんで知ってるんですかと聞くと、
「ああ、左腕がないって聞いたからですよ。そういう人って、なかなかいないでしょ。だからそうかなと思ったんですよ。」
と運転手は言った。
「そうですか。それでは、腕がないってことは、そんなに有名なんですかね?」
秀明さんが言うと、
「ええ、あの日乃出屋の手代さんがそう言ってたんです。まあ、彼も、ちょっと障害のあることは知ってますのでね。それで、話さずにはいられなかったんでしょう。勘弁してやってくださいね。」
と運転手は苦笑いしてそういったのであった。
「そうなんですねえ。まあ障害があるからと言って、何でもいいというわけではないと思うけど、でも、まあそれができない人もいますよね。」
秀明さんはそういって話を交わした。
「でも、ふたりとも怪我なくて良かったですよ。これからも、一生懸命がんばってくださいね。ずっと応援してますよ。手代さんが言ってました。すごくきれいな絵を描かれるって。私はその絵を見てはいませんが、きっとあの手代さんがそう言われるんだから、そうなんだろうと思いましたよ。あの手代さんは、答えを捏造することはできませんからな。」
運転手がそう言ってしばらくすると、バスは、修善寺駅のバス乗り場に止まった。二人は、ありがとうございましたと言って、運賃を払ってバスを降りた。その後は、駿豆線で三島駅に戻る。三島駅に帰ると、なんだか現世に戻ってきたような、そんな感じがする、大都市の匂いがした。
一方、天城湯ヶ島の日乃出屋では、客足は遠のくのではないかと思われていたが、意外にそうでもなく、あの事件があったということで好奇心からやってくる、女性たちの応対で困っていた。なんで、そういう事件のことは考えずに、好奇心だけでこんなにお客が来るんだろうなと、番頭さんと治郎ちゃんは困ってしまった。
「それにしてもあの女性は何者だったんですかねえ。なんか秀明さんたちに、相当恨みでもあったのかな?なにかあったのかなって感じだったけど。」
「まあねえ治郎ちゃん。世の中では、変なことで拘る人もいるようですからねえ。」
と、番頭さんはそういった。
「いずれにしても、被疑者死亡ということで警察もそれ以上動くことはないんでしょうけどね。まあ、ただ女性がそういう事をしていただけということですかねえ?」
「そうですか。俺、納得できないなあ。俺、なんでその人が、小濱さんのところに乗り込んできたんだろうか、なんか重大な理由があると思うんですよ。」
治郎ちゃんは、そう考え込んでしまった。
「だって、あんなふうに、上手に絵を描く人ですからねえ。なんで、ああいうふうに、呪われるなんて言うことは、俺は考えられないなあ。」
「まあ治郎ちゃん。細かいことは考えずに、仕事に戻ろうや。」
番頭さんに言われて、治郎ちゃんは大きなため息を付いたのであるが、細かいことを考えずに仕事に戻るということはできなかった。
その日は、とりあえず手代として、お客さんの話を聞くなどしたのであるが、どの客も事件の詳細を知っているということはなく、ただ好奇心で来ているという人ばかりだった。でも、例の事件から、数日が経って、もう事件のことは忘れ去られたように、客も来なくなったその日。日乃出屋の電話がなった。
「はい、もしもし、日乃出屋です。」
と、片子さんがいうと、
「あの、そちらにお泊りしたいと思いまして、お電話かけているんですけど。」
高齢の女性の声であった。
「ああありがとうございます。それでは、何名様なのか、お伝え願いますか?」
片子さんがそう言うと、
「私一人で行きますよ。」
と女性は言った。
「はいわかりました。それでは、希望日をお伝え下さい。」
「ええと、明日って開いてます?急で申し訳ないんですけど?」
と女性の声はそう言っている。
「はい。そうですか。明日なら開いていますのでぜひお越しください。お待ちしております。じゃあ、お名前をお伺いさせてください。」
片子さんが若女将らしくそう言うと、
「ええ、杉浦と申します。」
と電話の女性は答えた。
「わかりました。杉浦様。明日お待ちしていますので、お伺いください。お待ちしています。」
片子さんがそう言って、電話を切った。すぐに大女将の瀧子さんに、明日杉浦という女性がやってくると言った。瀧子さんも、わかりましたと言って、納得してくれた。
それから翌日。14時のチェックインする時間になると、お客が何人かやってきた。その中に、一人のカバンを持った老女がやってきて、
「あの、こちらが、日乃出屋という旅館なんでしょうか?」
と、玄関先を掃除していた治郎ちゃんに聞いた。
「ああ、あの、そういえば、杉浦さんとかいう?」
と治郎ちゃんが言うと、
「はい。その杉浦です。」
と、老女は答えた。
「じゃあこちらにお入りください。今お部屋にお入りさせますので。」
と治郎ちゃんが言うと、
「ありがとうございます。」
と女性は、そう言って部屋の中に入った。
「あの、失礼ですが、今日はどちらからお見えになりましたか?」
と、治郎ちゃんが聞くと、
「はい。静岡の富士からです。」
彼女はにこやかに答える。
「そうですか。じゃあ比較的近いんですね。そういうことなら、電車かなんかで見えましたかね。俺あんまり電車は乗ったことないんですけど、それでは、東海道線か何かでいらっしゃいましたかね?」
と治郎ちゃんが言うと、
「ええ、そうでしたね。娘も、これで来たのかな?」
と、老女は答えた。
「娘も?それ誰ですか?」
治郎ちゃんはそう言ってしまう。
「いいえ、そういうことではありません。いまのは、ちょっと。」
そういう老女に、治郎ちゃんは、
「それなら、娘さんというのは、誰なんですかねえ?」
と、すぐに言った。
「俺、気になってしまって、申し訳ないんですけど、知りたいと思いまして。あ、別に悪気はないんですよ。ただ、俺それを知りたいと思っているだけです。」
「知りたいというのは誰なんですか?」
そう老女はすぐに言い返す。
「いや、ただ、ただ娘がどうのっていったじゃないですか?」
治郎ちゃんはそういったのであるが、
「いいえ、あたしは何も言ってません。ただ、ここに来たのも観光のためで。そんなに大したことではありません。」
という老女に、治郎ちゃんはそれ以上追求しなくてもいいのではないかと思った。
「じゃあ、お入りください、今女将さんが見えると思います。その人に、案内してもらってください。女将さん来ましたよ、えーとお名前は。」
治郎ちゃんは、若女将の片子さんを呼んだ。
「ああようこそいらしてくださいました。杉浦様ですね。それではご案内いたしますので、どうぞお上がりくださいませ。」
治郎ちゃんは片子さんが、そういう金儲けしか考えない人であるのが、今回は好都合であると思った。そういう人がいてくれれば、また変わってくるのではないかと思う。あの事件は絶対忘れられない事件だけど、大体の人はそんなことなど考えないで生きている。それをしないでいられるのはなぜなのだろうかと言うのはわからないが、でも考えないで生きていける。それがきっと治郎ちゃんの様な障害のある人と普通の人の違いなのだろう。治郎ちゃんは、そう思いながら、そう事件を忘れようと思って、彼は、旅館日乃出屋に戻っていった。彼らは、旅館という商売は、こういうことなんだろうなとわかっているのであった。事件を忘れようと考えながら、治郎ちゃんも、他の人達も、旅館の中で生きているんだなと思った。もう季節が夏に変わろうとしている。日がジリジリ照って、暑い日が続いているのであった。
13人目の客 増田朋美 @masubuchi4996
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