餓狼の赤

跡部佐知

餓狼の赤

 満月の夜、山から遠吠えが聴こえる。

 岩手と秋田の境界にある農村部ではよくあることだとおばあちゃんは言う。里山は、獣との距離が近く、白黒はっきりしない現象も多いそうだ。

 遠吠えが聴こえると、オオカミが鳴いているんだよと、昔、おばあちゃんにからかわれたことがある。正直なところ、わたしは信じていない。もうとっくに絶滅しているというのを小さいころに図鑑で読んだことがあったし、近所の秋田犬が鳴いているだけだと思っている。

 おばあちゃんの家は、築百年はあるような古い日本家屋。内装はリフォームされて小ぎれいになってはいるが、外観は趣きがあった。庭はだだっ広く、テニスやサッカーができそうなくらい。庭の外れには、小さいながらも鶏小屋があって、採卵用に十羽程度の地鶏が飼育されている。風向きによっては、家禽の独特な臭いが香ってくる。おばあちゃんの家に滞在して三日もすればその臭いには慣れてくる。鶏の他にも、玄関のすぐそばには小さい牛くらいに大きい秋田犬のタロがいて、わたしのことを覚えているのか、近寄るとすぐに尻尾を振ってくれる。鳥のにおいとタロの揺れるしっぽは、わたしにとって田舎の挨拶のようなものだった。

 明治に入ったばかりのころ、岩手県では、オオカミを捕獲すると手当金が貰えた。現代の貨幣価値でいうところの数十万円が支払われたらしい。

 昔から岩手は馬所で、いい馬がたくさん産まれてきた。だから、馬を襲うオオカミは厄介な存在だった。オオカミによる害を「狼害」と呼び、人々はそれを忌み嫌った。

 オオカミを駆除すれば狼害も減り、馬と安心して暮らすことができる。それにお金も手に入る。だから、オオカミを駆除しない理由なんてなかったという話を民俗学の講義で学んだ。

 冬休み。喧騒から離れたくて、八年ぶりにおばあちゃんの家を訪ねていた。同じ東北のはずなのに、大学のある南東北と、おばあちゃんの家のある北東北ではずいぶんと寒さが違っていた。耳に当たる風が鋭かった。

 山間ということもあり、大学のある街とは比べ物にならないくらいの豪雪で、除雪されていないところは、腰の高さくらいまで積雪があった。周りが真っ白で景色に味が感じられなかった。新幹線と電車とバスを乗り継いで、さらにそこから数キロ歩いて、ようやくおばあちゃんの家に着いた。

 ウォーン、ウォーンと、山のほうから悲しげな遠吠えが鳴る。

 窓辺から夜空を見上げると、星々も瞬く満月だった。夜の空には、手を伸ばせば届きそうなくらいの情緒があった。

「オオカミが鳴いてるね。わたしのおばあちゃんが子供のころは、狩ったりもしたんだけどねえ」

「おばあちゃん、オオカミはいないんだって。オオカミの歴史についても大学で習ったよ」

「昔はいたんだし、いまもいる」

 昔も昔、おばあちゃんのおばあちゃんはオオカミを見たことがあるらしい。

 まだ集落にも活気があったころ、ご近所さんでは馬のいる柵の前に、オオカミの罠を仕掛けていたそうだ。仕組みは簡単で、馬のいる柵の近くに鎗と弓を設置して、オオカミが近づくとそれが発射されるという古典的なものだ。

 それにね、とおばあちゃんが長い話をし始めた。

「昔の人は動物と喋れたの。いまなんかよりずっと、人間は動物と近かったの。わたしのおばあちゃんなんかはね、動物と喋れた」

「そんなわけないでしょう」

 動物と喋れるなんて話、耳にしたことがない。でも、おばあちゃんが嘘をつく利点は思い浮かばなかった。

「信じなくてもいい。でもね、お金とか、機械とかそういうものを得るにつれて、人間に備わっていた本能っていうのかしら。そういう能力が失われていったの」

 たしかに、スマホ世代のわたしにガラケーの早打ちはできないし、まあ一理あるかもな、と思った。何かを得るには何かを失わなければいけないというのは、寿命の短い人間の適応と取捨選択だ。

「おばあちゃんは、明治生まれだったかな。当時でも動物と話せるのは物珍しくて重宝されたみたい」

「動物と話せる人がいたのは信じるけどさ。おばあちゃんは、どうしてオオカミがいまもいると思うの?」

「そりゃあ、声がするもの」

「見たことないのに?」

「見たことなくても、聴いたことがあるから。それに、昔は妖怪もいたからね」

「妖怪?」

「そう。昔はいまほど科学が発展していなかったから、解明できない謎も多かったし、人の生活も自然と近かった。とくにうちの周辺は電気が通るのも遅かったし」

「自然と近いところには、妖怪がいたの?」

「そういうことよ。科学で賄えないところを、本能で補ってた」

「妖怪は見たことあるの?」

 おばあちゃんは頷いた。

「じゃあどんな妖怪だったの?」

「どんなって、妖怪は妖怪よ。黒いもやみたいなのから、火の玉とか。漫画に出てくるようなやつは面白おかしく書いているだけで、実際は現象に近かったな」

 それは科学的に説明できないことを、妖怪という言い回しで片付けていただけなのではないだろうか。

 しかし、思っていたことをいなすようにして言った。

「おばあちゃん、妖怪はさ、いまはもういないの?」

「いないね。これはいない。科学が発展したからね」

「じゃあなんでオオカミはいると思うの」

「それは、オオカミを殺したのは科学ではないもの」

 オオカミを殺したのは歴史的な視点から観ても政治経済の影響であることがわかっている。科学とは別の引力が働いたせいだ。

「人間の欲がオオカミを殺したの。馬鹿な話よね。いくらお金を積んでも、オオカミの命は買えないのにね」

 おばあちゃんも、オオカミが絶滅するまでの歴史について知っているようだった。

 二つの眼の先には、遠く遠くのもう戻れない過去の記憶が映っているのだろうか。儚い造形を見ているときの色をしていた。


 翌朝、目を覚ますとおばあちゃんの様子に何やら落ち着きがなかった。卵焼きには殻が入っていたし、味噌汁の味もものすごくしょっぱい。ここまでだったら、おばあちゃんも歳をとって手先が動かしづらくなったりしただけだと思うが、滅多に鳴かないタロがギャン、ギャンと何度も鳴いている。ただ事ではない、と街で鈍っていた本能のような感性が働いた。

「おばあちゃん、なんかあったの?」

 寝間着のまま、味の乱れた朝ごはんを口に運ぶ。

「まあ、隠しても仕方ないかな。鶏小屋の鶏がやられた」

 ひゅうと背筋が冷たくなった。

「やられたって、誰に」

「そりゃ、狐狸かイタチだろう」

「オオカミのせいとは言わないんだ」

「それもあるかもしれないね。でもうちにはタロがいる。オオカミは賢いから、強い犬のいるところには来ない」

 しばらく押し黙ってしまった。いま食べている卵焼きを恵んでくれた鶏も、既に死んだのだと思うとそれを口に運ぶのが憚られた。しょっぱいはずの焼き鮭の味はしなかった。

「ねえ、おばあちゃん。こういうことってよくあるの?」

「稀にね。冬にはときたまあることよ」

 おばあちゃんの表情は、誰にでもわかる作り笑いだった。

 結局、卵焼きは残してしまった。皿の上に残った黄色いそれを、おばあちゃんは何も言わずに食べた。じわじわと罪悪感が込み上げてきて、謝らなくてはならないと感じる。しかし、誰に向かって、どこで謝ればいいのかがわからずじまいだった。

 おばあちゃんに鶏はどうしたのかと問うと、無言で鶏小屋のほうを指さされた。雪靴を履いて外に出ると、鶏小屋からぽつぽつと血痕が続いている。白い雪の上に、赤い血痕が目印になっていた。

 背を屈め、金網の隙間からおそるおそる鶏小屋を覗く。十羽くらいいたはずの、鶏小屋の中の鶏たちは、九羽だけになっている。てっきりすべて食われてしまったのかと思っていたが、そうではないらしい。ただ、何羽かの鶏は返り血を浴びていたり、暴れて翼を傷めたような動きを見せていたりした。

 鶏小屋の土色の地面には、数百枚以上の鶏の薄茶色の羽根が散らばっていて、肉食獣による動きがあったのは火を見るよりも明らかだった。

 惨たらしくも自然的な残虐は、街にはない。俗世よりも自然との距離が近いここは、街よりもずっと、生と死の駆け引きを痛感する機会が多いのだ。食物連鎖による洗礼を浴びせられた気分だった。

「食べられたの、一羽だけだったんだね」

「不幸中の幸いかしら」

「でもどうして、食べられちゃったの」

「鍵を閉め忘れたんだ。最近物忘れが多くてね」

 おばあちゃんにとって、鶏の卵は貴重な食料のはず。どうして獣害対策をしないのだろうと、半ば憤りにも近いような感情が湧いた。

「動物用の忌避剤は使わないの?」

 おばあちゃんは首を横に振った。

「ちょっとこれを読んでみなさい」

 手渡された古めかしい本は、糸で冊子のようにまとめられている手記だった。

「これって」

 表紙にはわたしと、わたしのおばあちゃんと同じ名字があった。下の名前はカタカナで、書体からも古い時代に書いたのがわかる。

「そう。わたしのおばあちゃんの手記。動物との会話のこととか、この地域での暮らしのことが書いてあるの」

 手渡されたノートをぱらぱらとめくる。

 遺言めいた内容のものが多かったけれど、一際目立ったのは、オオカミとの出会いについてだった。その部分だけ、見開き一ページに渡って文字がびっしりと書かれている。


 わたしがまだ子供だったころ、集落でオオカミ狩りが流行った。オオカミを捕獲して役所に届けると報労金が貰えた。ひとたび報労金が入れば、その季節は生活に困らない。だから、農業の厳しくなる冬なんかは、皆こぞってオオカミを狩った。集落で飼っている馬の前に罠があって、あるとき、わたしは罠にかかっているオオカミの子どもを見つけた。

 誰にも見られていなかったから、鎗のかすり傷から血の出ているオオカミを家まで連れ帰った。包帯を巻き、鶏肉を食べさせる。はじめは警戒していたが、次第に活力を取り戻し、回復したあとは山に逃がした。

 筆脈の美しい達筆な字だった。オオカミとの出会いに関する記述のあとに少しだけ、オオカミとの会話が書かれている。

 オオカミは、わたしたち家族と数週間を共にしたが、口数が少なかった。野生の生き物は寡黙だ。唯一つ、山にオオカミを返しに行ったとき。

「なぜ殺そうとする」

 という心の嘆きだけが聴こえた。


 ここで、オオカミに関する記録は終わっている。

「本当にオオカミと会話できてたのかな」

 手記を閉じて、おばあちゃんのほうを見た。

「どうだろうね。野生の生き物は寡黙らしいから。でも、もしオオカミがいたとしたら、もう人間のせいで嫌な思いはさせたくないでしょう。だから忌避剤は使わないの」

 おばあちゃんは、今朝の鶏の惨状を狐狸かイタチのせいだと言った。なぜなら、オオカミは賢く、タロのような体躯のいい秋田犬のいる家の家畜を襲わないからと。

 きっと、あの血痕の先に答えが横たわっている。でも、それを辿るほどわたしは無謀ではなかったし、冒険家でもない。

 途端に、タロがギャン、ギャンと大きな声で何回も何回も吠えだした。

 おばあちゃんと一緒に外へ出ると、そこには、口元を赤く染めた、小さな薄茶色の犬がいた。

「おばあちゃん、あれ!」

 わたしの声とタロの威嚇によって、鶏小屋に近づこうとしていた小さな犬はさっと逃げて行った。わたしは追いかけようとしたが、おばあちゃんに手を引っ張られた。

「ちょっと」

「追いかけちゃだめ。子がいるということは」

 口をつぐんだと思うと、眼前に犬の親がいた。親犬の陰に隠れるようにして、仔犬がこちらの様子を伺っている。

 剝き出しの牙、鋭い目つき、薄汚れた体毛。

 温室育ちの犬とは違う、おどろおどろしい雰囲気と獣の臭い。鶏小屋からは、ばさばさと羽を震わせる音がして不安になってくる。

 冬の晴れた朝の空気には似つかわしくない白い吐息が、その犬から漏れていた。

 この目つきは犬じゃない。

 オオカミだ。

 わたしは慎重に後ずさった。しかし、タロは吠えるのを止めない。

 おばあちゃんだけが前にいた。

 タロを繋いでいたリードがばっととれた瞬間、オオカミに飛びかかった。タロのほうがオオカミより体躯が良く、闘えばタロが勝つだろうことは予想できた。

 一方で、野生の雰囲気と生と死の駆け引きで生きているオオカミには、飼い慣らされている犬にはない眼光があった。それは、武道の達人から感じる気風によく似ていた。

 一触即発のそのとき、おばあちゃんが叫んだ。

「タロ!」

 その声で、タロはしゅんと委縮した。

 オオカミはまだ警戒しているが、おばあちゃんは一歩ずつ歩みを進める。

「おばあちゃん、危ないよ」

 そっと近づくおばあちゃんに叫んだが、何ら反応がない。おばあちゃんの顔をオオカミが見上げると、唸り声が止み、襲い掛かろうとしていた体勢が崩れた。

 オオカミは、そのまま向きを変えて庭を出て行った。仔オオカミは鶏小屋に行こうとしていたが、親オオカミがバウ、と鳴いてそれを制止した。

 オオカミが去り、緊張の糸がほぐれてからおばあちゃんのほうに向かった。

「怪我はない?大丈夫?」

「うん、大丈夫」

 わたしたちと、まだ少し警戒しているタロも家に入った。タロはストーブの前で暖をとり、わたしとおばあちゃんは椅子に腰かけてお茶を飲んでいた。

「さっきの、オオカミ、だよね」

「そうね」

「どうして近づいたの?」

「タロにもあのオオカミたちにも、傷ついたり、傷つけたりしてほしくなかったからね。落ち着かせたかったの」

「でもなんでおばあちゃんのことは襲わなかったんだろう」

「そりゃ、オオカミは賢い動物だからね。自分より大きな獲物は狙わないのよ」

 合理的だけれど、だとしたら馬のように大きな動物を襲うことはないはず。

「わたしは、あのオオカミが、おばあちゃんのおばあちゃんに助けられたオオカミの子孫だったから、おばあちゃんのことを襲わなかったんだと思う」

「まあ、そういう考えも素敵じゃない」

 おばあちゃんは微笑んだ。このとき初めて、おばあちゃんの心の底からの笑顔を見たような気がする。

「それと、あの赤ちゃんオオカミは、去り際にもうちの鶏を狙ってたよね。オオカミは、賢い生き物なんでしょ。だったら、普通タロのいる鶏なんて狙わない。たぶん、狩りの練習がしたかったんじゃないかな」

 残酷なことだけど、と付け加えた。

「オオカミが一人前になるのは大変らしいからね。これまでも、鶏小屋が開けっ放しになっていたときは、気づかぬうちに狩り場にされていたのかもしれないね」

 口にはしなかったけれど、もう一つの理由として、おばあちゃんのおばあちゃんがオオカミの子どもを助けたときに、鶏の味を覚えてしまったのだろうと思った。この近辺で鶏を飼っているのはうちくらいだから、タロがいてもわざわざ鶏を狙いに来るとしても合点がいく。

 鶏のことを想うと心苦しいけれども、経済に染まった人間のせいでオオカミが絶滅したのならば、自然に近い人間によってオオカミが生かされてもいいと思う、とおばあちゃんは言った。

 オオカミはまだ生きている。

 理不尽な殺しのあとに、理不尽な捜索をされながら、強かに生きている。

 あの仔は冬を越して一人前の大人になれるのだろうかと、氷柱を垂れる雫を見ていた。

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餓狼の赤 跡部佐知 @atobesachi

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