第8話 夜会は戦場


春の宵、ピローネ山脈の稜線が空の余光に浮かび上がり、あたりは幻想的な気配に包まれていた。

橋を行き交う人々は、一日の疲れを癒すべく、灯火の滲む帳の中へと吸い込まれていく。

その傍らで、静かな水面に映る白亜の城へと続く灯の列は、まるで夜空をゆるやかにたゆたう黄金の龍のように、脈打つような輝きを放っていた。


山脈から吹き下ろす冷たい北風は、運河沿いに漂う若葉の香りと混じり合い、夜道を行く者から外套をさらっていく。

だが、龍の顎もと──その白亜の巨城に足を踏み入れる支配者たちにとって、それは些末なことにすぎない。

権威という外套をまとう彼らが向かう先は、盟友の眠る安息の地か、それとも魑魅魍魎うごめく戦場か。


今宵、その扉がまたひとつ開かれる。

若き雛たちは、黄金のようにまばゆく輝くその世界へと足を踏み入れてゆく。

自らが立つ場所が、か細い篩の網の上だとも知らずに──。



「ウィードル男爵家の三男、ノッディでございます。お初にお目にかかります、キース・ハーベルバーグ閣下。不肖ながら、小生を家臣にお加えいただきたく、参上つかまつりました」

「デーヴだす。よ、よろしくお願いだす。でへへっ」


ロココ様式のスーツに身を包んだ、細身で長身の少年と、同じくロココ調ながら生地が悲鳴を上げて変形してしまった骨太ぽっちゃり系男子が、次々と声をかけてくる。


春のはじめから続いていた大人たちの政務会議もようやく終わりを迎え、夏に向けて社交界は本格的な幕開けを迎える。

本日のこのパーティーは、今年12歳を迎える子女たちの社交界デビューを祝うお披露目の場。

主催はハーベルバーグ侯爵、すなわち僕の父であり、派閥全体を一堂に集めた公式な顔合わせでもある。


ハーベルバーグ侯爵領は、ピローネ山脈からの吹きおろしこそあるものの、四季の移ろいが明瞭で気候はおおむね安定している。

肥沃な大地に支えられ、村々の多くは豊穣を期待される農村地帯だ。


そして、これら村々を管理するのは、侯爵家から領地を分け与えられた寄子にあたる男爵や子爵たちである。

侯爵家は彼らに統治権と責任を委ねる代わりに、忠誠と税を求める。

国への本家と一体扱いになる納税を怠れば、反意ありと見なされ、派閥全体に過酷な処分が下される。

つまり、侯爵家とその寄子たちは運命共同体──利害を共有する同志なのだ。


人材の確保も、基本的にはこの派閥の内部で行われる。

貴族の嫡男ならいざ知らず、多くの次男三男、いわゆるスペアやスペアのスペアたちは、実家では肩身が狭い。

家臣として官職に就けるなら御の字、というわけで、こうして僕のもとに声をかけてくるのも当然だろう。


彼らはゲームには登場しない。同年齢であるため学園にいれば一緒になるだろうが、いわゆる“モブ”──無個性の量産貴族。

ゲームのシナリオに名を連ねない以上、彼らが未来に影響を与えることはない……そう思っていた。


しかし──

ちらりと横目で、たくさんの令嬢に囲まれるエマミールの姿を盗み見る。


「まあ、とても素敵ですわ」

「わたくしも探しておりますのに、どこにも売っておりませんの」

「うふふ、婚約者様が特別なルートで購入してくださいましたの」


令嬢たちの言葉に頷きながら、少し俯いて事実を騙る


「私としましては、このような高価なものは頂けないと申し上げたのですが……」


嘘ではない嘘。だが、切り取られた言葉は刃のように鋭く、周囲に印象を刻む。


巷で流行のネックレスを慎ましく身に着けたその姿は、さすがとしか言いようがなかった。

それでも、目ざとい令嬢たちの目は誤魔化せない。

ご婦人方も興味津々といった様子で、視線は自然と彼女に集まっていく。まるで舞台の主役のように。


彼女は派閥外の同盟貴族からの輿入れ。存在を印象付けるという点では完璧な登場だ。


ゲームのような博愛的なヒロインではなく、貴族令嬢としてふさわしい、計算高くしたたかな性格。

貴族同士の婚約ともなれば、先ほどのジョーカスの店で見せた程度の駆け引きは、むしろ日常茶飯事だ。彼女の振る舞いは、どちらかと言えば穏やかなほうだろう。


隙を見せればやられる。隙を見せていた僕が悪いのだ。

気を抜けば後ろから刺される──いや、ゲームでは実際に刺された。


世界はゲームのように単純ではない。

だが、複雑で難解なはずの現実が、なぜかゲームと同じ運命をなぞっている。


だから、彼らモブも、実は何らかの形でこの世界に影響を与えているのではないか。


いや、そんなことを考える必要はない。

危ない、危ない。またゲームのフィルター越しに人を見てしまうところだった。

まずはしっかり観察して、人となりを見極めないと。少なくとも、あと三年は付き合うことになるのだから。


……とはいえ、まずは挨拶だ。

リュシアーナじょ……教授──あの人もよく言っていた。


『キース君、第一印象は大事だよ。人の印象は、出会った瞬間でほとんど決まるのさ』


思えば彼女は、最初から自然に寄り添ってくれていた。まるで姉や母のように。


『親しみやすささえあれば、有能さなんて二の次さ。だいたい、有能さをやたらとアピールする奴に限って──#&$%……』


……何か喚いていた気がするけれど、要点は分かった。


彼らとは「主家と寄子」という立場にある。でも、僕が望む関係は──


「ノッディ、デーヴ。初めまして。君たちも知っていると思うけど、僕はキース・ハーベルバーグだ」


僕は壇上の高砂から一段降りて、彼らと同じ目線に立つ。

ノッディのほうが僕より頭一つ分は高く、見上げる形になる。近づいたせいか、唇がわずかに震えているのが見えた。緊張しているのかもしれない。


「ノッディ、君の家のチーズは本当に絶品だ。いつも美味しくいただいているよ」


デーヴは僕と同じくらいの背丈なので、目線は自然と合いやすい。だが、彼の視線は泳いでいた。こちらも緊張しているのだろう。


「デーヴはバーランチ家の人だね。たしか、トタタカ村を任されてたはず。あそこのジャムはパンによく合って、とても気に入ってる」


デーヴは家名を名乗らなかったけれど、バーランチ家の面々は皆、似た顔立ちに似た体格だ。たぶん当たりだろう。

案の定、特に否定されなかった。どうやら間違っていなかったようだ。良かった、もし違っていたら少し気まずい。


侯爵家の嫡男たる僕が、自領の特産品や経済状況を把握しておくのは当然のこと。これくらいの感想は言えて然るべきだ。


「君たちの家は、侯爵家に長らく尽くしてくれている。その忠誠には、僕としても応えたいと思っている。……でも、僕の噂は耳にしているだろう? スキルも、大したものじゃないらしいしね」


スキルの話をした瞬間、ふたりがわずかに反応した。何かを言おうとして喉元で止めた、そんなしぐさだ。


……そういえば、彼らのスキルって何だろう。

もし有能なら、家に引き留められて僕に接触することもなかったはずだ。


「僕には、君たちを偉い役職に就けてあげられるような力は、たぶん僕にはないけど、それでも──それでも僕に仕えてくれるというのなら……」


そう言って、僕は彼らに右手を差し出した。


「僕と、“友だち”になってくれないか?」


その瞬間、ふたりは完全に固まった。


……あれ? この右手、どうしたらいいんだろう?


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