第6話 自分が見たものを疑うものはいない


ハーベルバーグ侯爵領の城下町、マ・ルトロンの起源を辿ると、一軒の川渡し小屋に行き着く。

大陸でも屈指の長さを誇るリリーレイス河は、かつて複数の国境をまたぐ緩衝地帯だった。

アルセタリフ王国の初代国王は、この河を挟んで争っていた諸国を平定し、運河の利権を独占した。

結果、北方諸国との関係は悪化したが、物流の主導権を握ったアルセタリフ王国は急速な発展を遂げる。


その中でも、マ・ルトロンは陸路と水運の両方を持つ地の利から、今や王都に次ぐ大都市として栄えている。

むしろ商業の活気においては、王都すら凌ぐと評されるほどだ。


整然と区分された商業区には数多の商業ギルドが軒を連ね、それらを統括する国際商業ギルド連盟の王国支部が、1等地に堂々と居を構えている。

メインストリートには、商人、観光客、冒険者、様々な人種が行き交い、都市の活気を象徴している。


そんな喧騒の中、侯爵家の紋章を掲げた一台の馬車が通る。

周囲の歩行者たちは我先にと道を譲る。

たとえここが商人が権勢を誇るエリアであろうと、侯爵家に表立って敵意を向ける者はいない。――少なくとも、表向きには。


現実には、莫大な税収を納めている商業ギルドの意向に逆らえる領主など存在しない。

今や侯爵家ですら、商業ギルドの“得意客”として扱われているにすぎないのだ。


馬車が止まったのは、巨大運河にかかるアータリアブリッジの近く。

そこに面した通りの一等地に立つ、洒落たジュエリーショップの前だった。


馬車から降りたのは、上品に着飾った若いカップル。

この時期にドレスデビューしたばかりの12歳ほどの少女と見えれば、彼らが初々しい社交界の一組であることは容易に想像がつく。

恐らく今宵の夜会に向けて、商業ギルド連盟支部主席――オーザラック商会の天才児ジョーカス・オーザラックが手がける人気店で、買い物を楽しもうというのだろう。


しかし、その様子は予想と異なっていた。

少女はハンカチを手に涙を浮かべて俯き、少年はエスコートをしながらも、どこか不自然でぎこちない。

そもそも、涙ぐむ令嬢を人前に出す時点で、貴族の男としては配慮に欠ける行動と言えるだろう。


民衆はすぐに、彼がハーベルバーグ侯爵家嫡男キース・ハーベルバーグであり、隣にいるのがトリスティン伯爵令嬢エマミールであると気付く。

それは、ほんの一瞬の出来事だった。


だが、人々の記憶に刻まれたその“瞬間”は、やがて噂として尾ひれをつけながら独り歩きを始める。

たとえ真実がどうであろうと、目撃された“絵”こそが人々にとっての真実となるのだ。


意図なきバタフライエフェクトは、作為的に生まれた波にいとも容易く呑み込まれていくのだった。




「突然泣いてしまって……恥ずかしいところをお見せしましたわ」


商人ジョーカスの店へ足を踏み入れた途端、エマミールは少し照れたように微笑みながら、先ほどの涙に触れた。


「せっかくいただいたネックレスのチェーンを壊してしまったことを思い出して……つい」


今日は、僕たちの社交界デビューを祝う披露宴が城の広間で催される予定だった。

その準備のため、主役の一人である彼女には早めに来てもらっていたのだ。

ところがドレスに着替えるためにネックレスを一度外した際、どうやらチェーンが切れてしまったらしい。

壊れた瞬間、彼女は涙を見せなかったが、思い出が込み上げたのだろう。

今になって、ふと涙がこぼれてしまったのだ。


店に入る頃にはすっかり落ち着きを取り戻し、普段通りの様子で応対してくれているが、馬車を降りた直後は本当に大変だった。

あまりに突然のことで、僕の対応も相当ぎこちなくなっていたはずだ。

とにかく急いで店の中へと誘導したものの、あの様子を見た通行人は多かった。

間違いなく噂になるだろう。


「気にすることはないよ、エマミール。今日の夜会には間に合わないけれど、チェーンの修理なら明日には済むさ。代わりの品を選ぼう」


僕だって、気にしても仕方がない。そんな気持ちを込めて声をかけると、店の奥から人懐こい笑顔を浮かべた優男が近づいてきた。


「キース様、エマミール嬢。ようこそ、わが店へお越しくださいました」


恭しく一礼したその男は、ジョーカス・オーザラック。

スキル《鑑定》を持ち、商売の世界では“天才”とまで称される人物だ。

金髪の甘いマスクに、鍛えられた体躯。さらにオーザラック商会の御曹司ともなれば、その存在感は完璧すぎて現実味さえ薄れる。


欠点があるとすれば、彼があくまで“商人”であるということだろう。

必要とあらば、切り捨てを選べる冷徹さを持っている。

それは上に立つ者として重要な資質だが、誰もが快く思うとは限らない。

彼はまだ二十八歳と若いが、あのスペックで未婚なのは、それが理由かもしれない。

……いや、恐らく彼は「結婚しない」タイプの人間だ。


「本来であれば、私がキース様のもとへ伺うべきでしたが……ご足労いただき恐縮です。どうぞ、立ち話も何ですのでこちらへ」


そう言って僕たちを、店内の豪華な応接室へと案内してくれる。


この街の多くの商人は、貴族を“金づる”としか見ておらず、表面だけ取り繕った態度を取ることが多い。

今回のような急な訪問なら、なおさら冷たくあしらわれてもおかしくなかった。

だが、ジョーカスの対応は実に丁寧だった――それは、彼と僕の間に昔馴染みとしての関係があるからだろう。


かつて彼が侯爵家の御用商人の見習いとして、幼い僕に付き従っていた時期がある。

何を話したかまでは覚えていないが、彼が見習いを卒業した頃から、めきめきと頭角を現していったのは今でも鮮明に覚えている。


いまや彼は父の商会を商業ギルド連盟の王国支部主席にまで押し上げ、自らの手で複数の店舗を経営している。

商会会長の座も間もなく彼のものになると噂されているが、それでも彼は変わらず僕の御用商人として自ら足を運ぶことをやめない。


「まあ! 噂のジョーカス・オーザラック様にエスコートしていただけるなんて……とても嬉しいわ」


さすがは貴族夫人相手に場数を踏んでいるだけあって、ジョーカスは女性の扱いに長けている。

エマミールとの距離感は絶妙で、パートナーである僕を刺激するギリギリのラインを巧みに保っている。

……正直、僕と一緒にいるときより、彼女の楽しげな表情が多いのは気になるところだ。今度、軽く釘を刺しておこう。


ジョーカスは“信用”には足るが、“信頼”できるかと言われると、少し悩む。

なにせ彼は、時折こちらにだけ分かるようにウインクをしてきたりする――まるで「わざとだ」と言わんばかりに。


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