そらをとぶ鳥
めるば
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4月
年季の入った校舎の窓からは、海が見える。
グラウンドとは名ばかりの、広すぎる砂地を除けば、山と海と、木しかない。
春寅は、背後のざわめきを遠くに聞きながら、お行儀よく並んだ机と椅子におとなしく腰掛けて、頬杖をつきながら、することもなく、景色を眺めている。
もう長いことこの島に住んでいるのに、春寅は泳げない。
だから、海は嫌いだった。
誰かに言うと、いつも驚かれる。
人によっては憤りさえする。
こんなに綺麗なのに。
この島に住んでいるのに?
良さがわからないなんて!
言われるたびに、春寅はだからなんだと内心、鼻で笑い続けてきた。
海が、島が、そんなに良いか?
確かに午前も早いこの時間から眺める海は、透き通っていて、穏やかで、とても綺麗だった。
誰もが一度は見たいと願うという、幻のような色合いは、この世で一番美しいと言われても信じられるだろう。
だけど、それがなんだというのだろうか。
海で囲まれた狭い島は、いつも磯臭いし、潮風は外に置いたものを全て錆び付かせる。
台風は怖いし、津波だって危険だ。
波の音はどこへ行っても付き纏って聴こえてくるし、無慈悲なまでに季節と時間を守る潮の満ち引き、寄せては返す波は、永遠に繰り返され、春寅の心をどこか不安にさせる。
でもきっと、重ねて伝えれば返ってくる言葉は決まってる。
これだからよそ者は。
聞き飽きたその言葉は、幼い頃こそ傷ついたものの、今ではすっかり慣れた。
もう五年も住んでいるのに、いまだによそから来たと考える人がいることには、呆れるけれど。
それに、と春寅は思う。
よそ者は、土地に縛られることがない。
いつでもこの島を出て行く自由があるということだ。
この狭い場所しか知らずに生きて死ぬ人々とは違って、広い世界に羽ばたくことが許される。
真っ青に晴れた空を横切る鳥を目で追いながら、真新しい机の端を指でコツコツと叩く。
そう思えば、よそ者も悪くない、悪くない。
春寅は、海から目を離し、鬱陶しい飾りを胸から毟り取った。
これのせいで新しい制服に穴が開いた。
制服自体に、愛着も特にないけれども。
ピンク色をしたそれを、握ろうとして、思い留まってそっと机に落とす。
母親が見たら、さぞ喜んだことだろう。
彼女はこういう行事ごとの飾りを大切に取っておくタイプだったから。
入学おめでとう!
春寅は、その文字を忌々しいとさえ思った。
とうに見知った顔ぶれで、高校生にもなって、入学式だなんだとやる意味があるのかと考えながら、飾りを指で軽く弾くと、思いの外よく飛んだ。
大きなリボンのついたコサージュは、ピンを軸にして机の上をくるくると回転し、机の端から止める間もなく、勢いよく滑り落ちていく。
拾うことも億劫で、まあ良いかとそのまま放置していると、前の席の生徒がすぐに気がついて、わざわざ腰をかがめて拾ってくれた。
「これ、落ちたよ」
振り向いたその顔を見て、春寅はおや、と思う。
てっきり知った顔ばかりだと思っていたが、目の前の男はどうみても初対面だ。
一度見たら忘れられないほど整った顔立ちは、明らかに覚えがないし、どこか雰囲気も、島の住民とは違って見える。
春寅がしげしげとその顔を眺めていると、居心地悪そうにするものの、眉を下げた顔は、ただ困っているだけだった。
親切でお人好しなんだろうな、と斜に構えた思考で考えていると、一向に受け取らないことに痺れを切らしたようで、その生徒はもう一度口を開いた。
「これ、君のでしょ?」
「......ありがと」
首を傾げて尋ねられ、渋々受け取る。
やっと受け取ってもらえた、と、パッと笑った顔は、なんだか眩しいほど邪気がない。
思わず椅子を鳴らして身を引いた春寅に気が付かずに、そのまま続けて話しかけてくる。
「よろしくね、えっと、八嶋くん?」
「......」
新入生にわかりやすくする為に、机には堂々と持ち主の名前が書いた紙が貼ってある。
春寅は嫌いな苗字で呼ばれたことに苛ついたものの、目の前の男に毒気を抜かれて黙り込んだ。
「あれ?違う?」
「......合ってるよ」
こいつは空気が読めないのか、と思いつつ、反応を待たれるのも面倒で、ため息を吐きながら答えると、手を差し伸べられる。
同い年の人間に、握手を求められたのは、初めてで、面食らったものの、春寅は思わずその手を握ってしまった。
「よかった!俺の名前は本城はじめ。よろしく!」
「......よろしく」
「ありがとう!」
低い声で返すと、感じよく笑みを返される。
このまま話しかけられ続けたら鬱陶しいと思ったが、予想に反して本城はそのままパッと手を離して前を向いた。
おそらく、様子を伺っていたのだろう、すぐに前の席の生徒に話しかけられ、同じような自己紹介を始めている。
ふと見ると、教室中の生徒が、見慣れない新たなよそ者に密かに注目していることがわかった。
露骨に眺めている奴もいれば、女子のグループはチラチラと眺めては噂している。
もちろん気にしていない生徒もいたけれど、大多数は好奇の目で見ているようだった。
容姿が良いこともあり、周りに人当たりよく接していることから、皆話しかけるタイミングを見計らっているらしい。
アホらしくなり、春寅は室内から目を逸らし、また窓の外を見た。
相変わらず何一つ変わらない海を見ていると、眠くなってくる。
襲いくる睡魔に身を任せて目蓋を閉じながら、間延びしたチャイムの音を遠くに聞いた気がした。
5月
入学式から一か月が経った。
高校ともなると部活動に精を出す生徒も多く、春寅のように帰宅部でさっさと帰る生徒はあまりいない。
都会であればバイトに行くという選択肢もあるだろうが、この島ではせいぜいレストランやコンビニで働くしかなく、そこだってそれぞれ一軒ずつしかない上に、朝は遅く開店して夜は早く閉まるので、高校生のバイトはあまり必要とされない。
どちらかといえば、家業や親戚の手伝いで畑仕事や漁の手伝い、個人経営の店に立つ子供の方がずっと多く、その際に小遣いを稼ぐ方が効率が良い、とクラスメイトが話していた。
それに、島の中でそこまでお金を必要とすることもあまりなくて、派手な買い物をしようと島外に出るにはもっとたくさん費用がかかる。
ネットショップの送料だって馬鹿にならないし、やっぱり島の中は難儀だと、春寅はつくづく嫌になる。
元々の知り合いが多いせいでクラスメイトもほぼみんな顔見知りだし、そのおかげでいわゆるボッチにはならずに済むが、一人で静かに過ごしたいと願うには騒々しい。
まあ、春寅の事情を知っているから、そっとしておいてくれる人が多いことが救いではある。
それに、すぐに会話を切り上げてさっさとどこかへ行ってしまうようなつまらない生徒に関わっていられるほど、高校生は暇ではないらしく、一か月も経つと、話しかけてくる生徒も減って、春寅はのびのびと一人を満喫できるようになっていた。
だが一人だけ、ずっと変わらずに毎日話しかけてくる奴がいる。
前の席の、本城だ。
何が面白いのか毎朝欠かさずに挨拶することはもちろん、授業の合間や、時には授業中にさえ話しかけてくる。
その内容は他愛無いものだし、頻繁とまではいかないので、あまり邪険にするわけにもいかず、また初対面の時に感じた毒気のない雰囲気は健在で、さすがの春寅も話しかけられれば適当に返さざるを得ない。
たいした反応を返さないのに返事をすると殊更嬉しそうにされるので、鬱陶しいとは言えずにいる。
それに、春寅のことを気の毒がらずに普通に接してくる人間は本城くらいのものだから、気楽と言えなくもなく、このくらいのコミュニケーションならまあ良いか、と春寅も毎回返事をする。
そんなだから本城という奴も、余程の暇人か、春寅みたいに浮いた人間かと言えばそうでもなくて、きちんと部活動にも参加し、仲の良い生徒と連んでいる姿も見かけるし、誰にでも分け隔てなくにこやかに接している。
目立つ生徒だから噂話のネタにされていることも少なくないし、それは関わりのない春寅の耳にさえ入るほどだけれど、悪い話はまったく聞こえてこない。
よく出来た人格の持ち主らしい。
だから後ろの席のやや厭世気味な生徒に欠かさず話しかけることも、単なるボランティア精神のようなものだろうと話しかけられる当の本人は考えている。
その証拠に、それ以外の時間は目が合うことさえないのだし。
なんとなく今日はこれ以上話しかけられたくなくて、終業のチャイムが鳴ると同時に、春寅は帰り支度を済ませて席を立った。
窓際の席から戸口に向かうまでに、他の気の早い生徒たちに紛れてさっさと教室を後にする。
廊下に出るとひんやりとした空気が心地良かったが、一歩校外に出ると強い日差しが照りつける。
南に位置するこの島は、五月ともなると暑い日が多く、窓辺の席に座る春寅は午後が辛くて仕方がない。
何年島に住んでも夏が長く冬が短い気候に慣れることが出来ずにいた。
さっさと帰るに限る、と春寅は急ぎ足でグラウンドを横切り、辛うじて舗装されているような道を選び、歩いて帰る。
狭い道を選べば近いけれど、田舎道を走る車はバスだって容赦なくスピードを上げるから、避けられるようになるべく広い道を帰りなさいと母親に言われた言いつけを、高校生になっても守り続けている。
そのおかげで轢かれそうになったことはないし、幸いなことに他の生徒の姿もあまり見かけない。
両端は畑か田んぼ、遠くに海が見えるけれど、春寅はその全部から目を逸らし、前だけを見て黙々と歩き続ける。
時折吹く風は気持ちよく、木陰の続く道に踏み込んで、春寅はそっと息を吐いた。
自然が嫌いなわけではない。人混みよりは虫や動物相手のが気楽だし、花や植物を見て美しいとも思う。島で取れた野菜や果物はとても美味しいし。
立派な木の枝葉の下で日差しをやり過ごすこともあれば、晴れた空に浮かんだ雲を眺めることだってある。
ただ、馴染めないだけだ。
自分を取り巻く環境や、人間たちの特性に。
都会からこの島に引っ越してきた当時、小さい頃は自分だって、何も気にせずに遊び回っていたし、ずっとこの島で暮らしていくのだと信じて疑わなかった。
家に帰れば母がいて、今は忙しい父もいずれは家族と暮らすために島に来て、みんなで楽しく過ごすのだろうと能天気に考えていた。
そんな思考を今は持ち合わせてすらいない。
苦々しく思いながら俯いて歩いていた春寅は、考え込んでいたせいで、声をかけられていることにまったく気がつかなかった。
「八嶋!」
「うわっ!!」
だから、後ろから肩を叩かれたとき、ものすごく驚いて、声を上げてしまった。
思わず勢いよく足を止め、後ろを振り返る。
その勢いに驚いたのか、背後にいた相手はぶつかりそうな位置のまま、目を見開いた。
「ごめん、何度か声をかけたんだけど」
「本城......」
本城はわずかに息を弾ませ、自分から話しかけたというのに困ったような顔をして頬をかいている。
この暑いのにわざわざ走って追いかけてきたらしい。
何度か声をかけられた覚えは全くなかったが、聞こえていなかったと口にするのも面倒で、春寅は眉を上げた。
「何?何か用?」
「ただ前にいるのが見えたからさ」
「......」
この一か月で、春寅の強い物言いにもぶつ切りにされる会話にも慣れたらしい本城は、自然な動作で並んでくる。
歩き出すと、そのままついてきた。
5月−2
「家が近いって聞いてたけどいつも会わないから、どの道を使ってるの興味あったんだ」
気楽そうに呟きながら、キョロキョロと辺りを見渡している。ということは、普段は別の道から帰っているらしい。
道が逸れたならそのまま帰れば良いものを、酔狂にも一緒に帰るために追いかけてくるとは。
それにしてももう息が整っているあたり、春寅よりよほど島民に近い体力があるらしい。
その整った顔や爽やかな雰囲気は、相変わらず春寅とは違う意味で周囲から浮き上がって見えるほどだけれど。
確かに帰る時はまだ席にいたはずなのに、一体いつ追いつかれたのか。
仕方なく歩きながら、落ち着かない気分で春寅はカバンを肩に掛け直す。
無視をし続けるのも馬鹿らしく、まだ家にはつかないのに黙り続けるのも気まずくて、対した興味もなかったが、口を開いた。
「......本城、部活は?」
「今日は休みだよ。
俺が部活に入ってるの知ってた?」
「何に入ってるのかは知らない」
「園芸部!」
素っ気なく答える春寅に、何が嬉しいのか本城はニコニコと上機嫌に返してくる。
また個人情報が手に入ったが、まったく嬉しくない。
しかしこの背も高くて明るい男が、園芸部に入っていたことは少し意外だった。
うがった見方だが、てっきりもっと目立つ、スポーツ、それもチーム戦が主な、サッカーやバスケとか、そういう部活に入っているとばかり、思っていた。
その内心が表情にも出たのか、そんな反応は慣れているのか気にした風もなく、本城は笑った。
「俺、この島に来るまで畑なんか触ったこともなかったし、興味あってさ」
それに、お金かからないし。
と呟かれ、またしても春寅は意外に思った。
そういうことを気にして部活を選ぶタイプには見えなかったといえば偏見だろうか。
「八嶋は?部活入らないの?」
「別に、やりたいこともないし」
「園芸部入らない?」
「入らない」
「残念だなぁ」
冗談まじりに誘われる。
にべもなく断っても、本城は気にしない。
勧誘のために来たのか、と胡乱な顔をしたのがバレたらしく、本城は慌てて手を振った。
「違うよ!
そりゃ入ってくれたら嬉しいけど、一緒に帰りたくて話しかけただけだよ」
「......変なやつ」
入ってくれたら嬉しい、というのが社交辞令にしろ、走ってまで帰宅を合わせたのは本当らしいので、春寅は肩を竦めた。
「ずっともっと話してみたいと思ってたんだ」
「......俺と?」
「うん」
思わず顔を見ると、前を向いたまま歩く本城の目が、光を浴びてほのかに透ける。
それを眺めながら、はじめて、その瞳の色素が薄いことに気がついた。
よく見ると少し長めの細くて柔らかそうな髪の毛も、男にしては長めの睫毛も、全体的に薄茶色をしていて、日焼けとは違う、色合いだった。
「八嶋も、島外から来たって聞いてたから」
パッとこちらを向いた目と、目が合ってしまい、逸らすのも変な気がしてじっと見つめる。
「ああ、まあ......。小学生の時だけど」
「そうなんだ?」
猫のように負けん気で見返す春寅とは違って、相手は目があっても動じることなく柔和に微笑んだ。
その表情を見て、自分の意地を見透かされた気がして、改めてゆっくり目を逸らす。
同年代の子供より、自分が子供っぽいと感じたのははじめてで、面白くない。
やっと道祖神の祠が見えてきたとき、この三叉路から道が分かれるだろうと、春寅はほっとした。
だが、相手はそのままついてくる。
この先には自分と大家しか住民のいない古すぎるアパートと、お年寄りしか住んでいない昔ながらの家が一軒あるだけだ。
怪訝に思って見返すと、本城は首を傾げた。
「ん?俺の家もこっちなんだ」
その言葉に、嫌な予感がした。
たしかに、そんな話を聞いた覚えがある。
「トヨ婆さんの家に来た子供ってお前?」
「そう、そうだよ」
その昔ながらの一軒しかない家のお婆から嬉しそうに、孫が島に来るかもしれないと聞いたのは、今年の初めのことだ。
その孫がこの本城だったとは。
家が近いとは本当のことだったらしい。
離れてはいるものの、この島の中では隣と言ったっていいくらいの距離だ。
「お婆ちゃんからよく聞いてたんだ。
近くに春寅って名前の同い年の子が一人で住んでるって」
「トヨ婆さんにはお世話になってるから......」
いきなり自分の名前が出て内心驚いたものの、すぐに自分の孫のように可愛がってくれる老人の顔が浮かび、文句を飲み込む。
その当の孫は目の前で嬉しそうに笑っている。
「俺、この春からこっちに預けられてるんだ」
「ふぅん」
トヨ婆さんには、トラ、と呼ばれている。
小さい頃はトラ坊、中学に上がってからはトラ、とかトラ助とか好き勝手に呼ばれている。
最初こそ慣れなかったけど、勝手に、自分の祖母がいたらこんな感じかと、春寅は思っていた。
あけすけだけど優しくて、思いやりがある。
確かに、あの老人の孫ならば、こういう性格になるのもわかる気がした。
少しだけ、本城に対して警戒が緩む。
「八嶋は......」
「......名前でいい」
「え?」
トヨ婆さんの身内に、苗字で呼ばれるのもむず痒い。
春寅は、肩の力を抜きながら、首を振った。
不思議そうな本城の表情を、気恥ずかしい気持ちで、けれどほんの少し面白く思いながら呟いた。
「苗字で呼ばれるの、嫌いだから。名前でいい」
「......春寅?」
「なに」
おそるおそる呼ばれた名前に、ぶっきらぼうに返事をすると、本城は徐々に笑顔になった。
その表情は、この一か月でみた中で、一番生き生きとした笑い方で、驚く。
いつもはもう少し、控えめで気を使った笑い方をする男だった。
「じゃあ俺のことも名前で呼んで!」
「ええ......」
本城の名前なんて忘れた、と春寅が嘯くと、年相応に砕けた口調で本城が酷い、とこぼした。
本当は覚えている。
そもそもいつも他のクラスメイトに大声で呼ばれてるくせに、春寅にも名前で呼ばれたいらしい。
「嘘だよ」
「へ?」
つくづく変わっている、と思わず少し笑った。
「はじめ、でしょ?」
「うん、そうだよ」
春寅の笑った顔を見て、本城は驚いたように目を見開いたが、すぐにまた笑った。
「よろしく、春寅」
その眩しい表情が、ずっと目に焼き付いて離れなかった。
6月
「トラ!いっしょに帰ろう」
「おー」
ガヤガヤと賑わう教室の片隅でいつもどおり帰り支度をしていると、予想していた通り声をかけられる。
お互いに名前で呼びはじめたあの日から、本城は随分と話しかけてくるようになった。
トヨ婆さんの勧めで何度か家に遊びに行くうちに、最近では彼女に習って、春寅のことをトラ、と呼ぶ。
最初のうちはその気安さが少し恥ずかしかったけれど、いまではすっかり慣れた。
「いいけど、俺図書室に寄る」
「また?もうこの間の本は読み終わったのか」
「この間......?たぶんその本はとっくに」
「早いなぁ」
週に二日、本城の部活が休みの日、二人で帰ることが日常になりつつある。
春寅はといえば結局入りたい部活動は見つからなくて、何度か誘われたものの園芸部に入る気にも慣れず、最近ではもっぱら図書室で本を借りては読み漁るのにハマっていた。
一人の時間が、こんなに読書に適しているなんて、と気がついたのはついこの間のことだったが、それからというものジャンルやストーリーを問わず片っ端から興味のある本を読むうちに、だんだんと読書の面白さに目覚めつつある。
教室でも暇さえあれば本を読んでいることが多く、春寅の読書姿は本城や、ほかのクラスメイトたちにも馴染んだ光景となりつつあるらしい。
本城には毎回見るたびに違う本を読んでいる、と驚かれることがしばしばある。
「暇だから......」
「俺も何か読もうかなあ」
図書室に寄ると遠回りだし、玄関からも遠いのに、本城は毎回きちんと付き合ってくれる。
春寅が本を選んでいる間も特に急かしたり邪魔したりということもせず、ふらりと別の棚を見に行っては自分も気になる本を探していたりする。
彼は小説にはあまり興味がないようで、手に取っている本を見てみると園芸や植物に関する本をめくっていることが多い。
今日も、春寅が返却と貸出を終えて探しに行くと、旬の野菜の本を読んでいるところだった。
「終わった」
「ああ、ちょっと待ってて。
これ、借りてくる」
声をかけるとその本をそのまま持って貸し出しカウンターに向かっていく。
すっかり見慣れたその背中をぼんやりと眺めながら、待っていると、なんとなく落ち着かない気分になってくる。
一人が良いと思っていた割に、すんなりと友人と連れ立って図書室に来たり、話をしたり、帰宅したり、ときには放課後も家にのこのこと行くこともある。
最近、つくづく自分の身勝手さが嫌になる時があり、裏を返せばそれだけ本城といることが気楽だということを自覚してしまって、そういう時は、妙に落ち着かない気分になるのだった。
「トラ?お待たせ」
「......ああ、うん」
「帰るか」
本を抱えたままぼうっと立っていると、いつのまにか手続きを終えたらしい本城が声をかけてくる。
春寅の受け答えが鈍いのはよくあることなので特に気にした風もなく、本城はカバンに本を入れると先に立って歩きだした。
春寅も机の上に置いてあった鞄を手に取って、後ろ姿を追い、図書室を後にした。
「そろそろ新しい種を植えようかって話をしててさ」
「ふうん」
「できたらまたあげる」
「ありがと」
帰り道をぶらぶら歩きながら、借りた本の話になり、本城が植物の本を借りたのは、新しく育てる野菜のためだと説明してくれる。
たびたびお裾分けしてくれるし、本城の家に行くと彼が部活で育てて持ち帰ってきた野菜を、トヨ婆さんが料理して食べさせてくれる。
住んでいる祖母の家にも畑があり、休みの日はそこを手伝っているのに、部活動でも小規模といえど土いじりをするなんてよほど好きなんだな、と思っていたが、そのことを伝えると少し変な顔をされた。
「好きじゃないの?」
「ああ、もちろん好きでやってるよ。
でも、部活に入ったきっかけは、婆ちゃんの手伝いができるようにしなくちゃと思ってさ」
それだけじゃないけど、と肩をすくめた彼は大人びて見えて、春寅は曖昧に頷いた。
「まじめだね」
「だって全然やったことなかったからな。
俺だって気に入られたくて......って今のなし」
「は?」
足を止めて立ち止まってしまった本城を怪訝に思って振り返ると、困ったような顔で笑い返された。
「かっこ悪いから、聞かなかったことにしてくれ」
「......別にそんなこと思わないよ」
「そう?」
春寅が待っていると、のろのろとした足取りで追いついてくる。
本城が周囲に馴染もうとしていることには、早い段階から気がついていたし、そのために割と気を配っているのも知っていた。
高校から引っ越して、祖母の家に預けられている事情を鑑みると、それは当然のように思えたが、本城自身はあまりそのことを知られたくないらしいので、春寅は気がついても黙っていた。
「うん、普段からかっこよくないから」
「......トラってたまに辛辣だよな」
「ふふ、」
春寅が笑みを溢すと、本城も仕方なさそうに笑った。
そうして観察してみて分かったことだが、春寅といるときの彼は、あまり気を張っている様子がない。
クラスメイトたちに溶け込んでいるときの明るい社交的な雰囲気の高校生は身を潜めて、代わりに自然体の少年の表情が顔を覗かせる。
その瞬間が、春寅は好きだった。
これを、優越感というのかもしれない、と思いながら、頑張って島の生活に馴染もうとしている彼に失礼だろう、とそのたびに、慌てて感じたことを打ち消す。
誰かの特別になりたいと思うことはやめたはずだ、と春寅は自分を戒める。
だから、たまに一緒に帰るくらいの距離感がちょうどいいのだ。
「今日も家来る?
婆ちゃんがまた来いって言ってたけど」
「ううん、今日はやめとく」
「そっか、じゃあまた明日な」
「うん」
誘いを断っても、残念そうな顔はされるが、それ以上引き止められることはない。
春寅は手を振って別れると、そのまま振り返ることなく一人だけの空間である自分の家に向かって歩きだした。
7月
暑い。
暑すぎる。
テストになんて集中できるか。
春寅はため息を吐いて、容赦ない日差しを避けるために、カーテンを引っ張る。
直射日光が当たるこの席では、クーラーが効いていようが窓が開いていようがなんの意味もない。
だからといってカーテンを閉めたって、気休め以上にはならない。
埃っぽい薄緑色のカーテンは薄くて、閉めても少し薄暗くなるだけだ。
急に暗くなった視界に目を細めて辺りを見渡すと、みんなまじめにテストに取り組んでいる。
前の席に座る本城も、机の上にきちんと向かっているようで、春寅からはその俯いた首筋だけがよく見えた。
薄茶色の髪の毛はまた少し伸びたようだ。
畑によくいる割にはあまり日に焼けておらず、少し前衣替えをした半袖の制服から覗く腕も、細いままだ。
本人は筋肉も付きにくく、色素が薄いせいか日焼けにも弱くて綺麗に焼けない肌を気にしているらしいが、この整った顔のクラスメイトが筋肉をモリモリつけてこんがりと焼けたところは想像できない。
それに、そうなったら嘆く女子がたくさんいそうだ、と春寅は少しだけ愉快に思う。
八方美人のきらいのある本城は誰にでも好かれる性質だけれど、その中でも特に真剣になってしまう子たちがいることを、春寅でさえ知っている。
たかだか三ヶ月程度しか一緒におらず、たまに連む春寅よりも話す時間が少ないというのに、どうしてそこまで好きになれるのか、春寅には不思議だった。
告白されているのを目にしたこともある。
毎回律儀に断っていると風の噂で聞くが、本城本人はそういった話を何一つしたことはない。
春寅が興味のない話題だからなのか、本人も興味がないのか、それとも優しさからなのかはわからない。
わからないけれど、きっと本城が思っているよりも春寅は無関心というわけではないし、そのことは春寅自身にも気に食わない事実だから、春寅から話を振ることもまたないのだった。
ぼんやり眺めていると、すっきりとしたうなじに、汗が伝うのが見えた。
当たり前なのだが本城も汗をかくし、暑さを感じる人間なんだよな、と春寅は思う。
体育の授業だって一緒に受けるし、帰宅路で彼が暑すぎると呟いていたのも聞いているのだが、容姿のせいかなんとなく浮世離れして見えるのが本城という男だった。
ただ、その首筋を眺めているというのは、少々気持ち悪い構図ではないだろうか。
ふと我に返って春寅は目を逸らす。
手元のテスト用紙は、わかるところは全部埋めたし、空白が数個あるけど、これ以上頭を絞っても何一つ出てきやしない。
まだチャイムが鳴るまで時間がある。
汗でたわまないよう紙を脇に避けて、春寅は諦めて、机の上に突っ伏して目を瞑った。
相変わらず室内は暑かったが、カリカリと響くいくつもの音が、次第に心地よく意識を沈ませていった。
「トラ、起きて」
「う、......ん?」
「テスト終わりましたけど」
「んんー......」
揺り起こされて目を開ける。
伸びをしたついでにあくびをこぼすと、本城が苦笑していた。
テスト用紙もいつのまにか回収されたようで、クラスメイトたちはガヤガヤと騒ぎつつ帰り支度をしていたり、もう帰っていたりと様々だ。
テスト時間が終わったら自由解散、期間中は部活動はなし、速やかに下校するよう言付けられているのだ。
「余裕だな」
「いや......そんなことはない.....」
ふらふらと立ち上がると、本城がカバンを手渡してくれる。
どうやら一緒に帰るために待っていてくれたらしい。
そのまま起こさずに先に帰宅したって良かったのに、この風変わりなクラスメイトは隙あらば春寅と一緒に帰りたがる。
もっと他の生徒と仲良くしたらいいのに、と思うけれど、一緒に帰る時間が存外嫌いじゃないので、春寅は今日も何も言わずに連れ立って歩き出す。
「はじめは?」
「うん?」
「テスト、出来た?」
「いや、まあ......普通」
「ふぅん......」
普通といいつつ、本城の成績がとても良いことを知っている。
本人が努力をしている姿も見ているし、中学校までは都会でも有名な進学高に通っていたことも噂で聞いている。
成績に関して特に執着があるわけではないようで、決して本人からそういう自慢を聞いたことはないが、そんなにいい成績ならもっと堂々としていればいいのに、と春寅はいつも思う。
嫌いなら、もっと手をぬけばいいのに、と伝えたら、きっとこの友人はもっと困った顔をするのだろう。
肩を竦めると、本城はバツが悪そうな顔をした。
「何?」
「......なんか機嫌悪い?」
「別に。暑いのが嫌いなだけ」
「ああ、確かに今日も暑いよなぁ」
こんなに暑い日は、海が嫌いな春寅でさえ、飛び込んだら気持ちいいかもしれないと考える。
泳げないし、そのあとが一番面倒なことを知っているから絶対に実行に移したりはしないけれど。
「確かにトラは、暑いの苦手そう」
「嫌いだし、苦手」
「夏休みになったら外に出なさそうだな」
「出ないよ」
きっぱりと言い切ると、本城は何がおかしいのか笑っていた。しかし、急にふと真面目な顔をしたり、心配そうな顔をしたりと、忙しそうで、声をかける。
「何?」
「食事は?どうするつもりなの?」
「関係ないでしょ。.....適当に、済ませるよ」
「......」
本城は何も言わなかったが、絶対に嘘だとその顔は雄弁に語っていたし、春寅自身も適当という言葉がどこまでを指すのか、と思った。
一人だと、食事に執着はない。
いまでこそ給食があるが、夕飯を抜くこともしばしばなので、自分が夏休みに規則正しい生活を送るなんて春寅自身にも信じられなかった。
「......家に居たら?
......もちろん、春寅が嫌でなければ」
「は?」
それきり黙り込んで何かを悩んでいた様子だった本城が、別れ際、急にパッと声を上げた。
「お婆ちゃんも心配してたし、トラならいいと思う」
「いや、迷惑だから......」
「迷惑なんかじゃないよ!」
「......」
勢いこんで言われ、うまい言い逃れも思いつかなくで、思わず黙る。
その沈黙を何と思ったのか、本城はいつになく真剣な顔で請け負った。
「大丈夫!頼んでみる」
「......えっと、いや、......考えておく......」
気圧されて頷くと、本城は任せておいてくれ、と破顔した。
「じゃあ、また明日!」
そのまま、手を振って、善は急げとばかりに早足で自分の家の方へ向かって行ってしまう。
春寅は、その背中を見送った。
しかし自分の中に確かに嬉しさを感じてしまい、自分の気持ちに戸惑いながら、いつまでも立ち尽くしていた。
7月-2
「トラー、」
コンコン、と扉がノックされたのは、その日の夜のことだった。
インターホンはあるけれど壊れて音が出ないので、それを知っている来客は皆扉を直接ノックする。
20時を過ぎても蒸し暑く、風呂上がりに窓を開けて涼んでいた春寅は、緩慢な動作で玄関へ向かった。
「なに」
「こんばんは、さっきぶり」
扉を開けると、古めかしい甚平姿の本城が飄々と笑って立っていた。
田舎者らしい格好も、本城の美形な顔立ちと白い手足では、似合っているが様になっていない。
それでも格好良いのだから、神様とは不公平なものだ。
外国人が遊びで着る浴衣みたいだな、と思いながら招き入れると、やけに静かについてくる。
「どうかした?」
「ごめん!」
窓を閉めて向き直ると、唐突に謝られ、春寅は面食らった。
「は?」
「俺、全然考えてなくて、
自分のことばっかりー......」
「なに」
「だから俺はダメなんだよ......」
そのままうなだれて呟いている本城は、春寅の方を向きもせず、なにがなにやらわからない様子にも気がついていない。
「落ち着け!何の話?」
「あ......、ごめん」
春寅がパンッと肩を叩くと、本城はようやく何一つ説明していないことに思い当たったようで、居住まいを正した。
「さっきは、ごめん。
トラの気持ちとか全然聞いてなくて。
簡単にずっと居たらいいのにとか」
「ああ、......そのこと」
やっと春寅にも、本城が何について話していたか理解出来た。
本城は、夏休みの間自分の家に春寅を滞在させる気で帰って行ったのだった。
「あのあとお婆ちゃんに叱られたよ。
トラにだって自分の時間が必要なんだからって」
「......」
「それに、俺の気持ちも説明したのかって言われて......確かに、何も言ってないなってさ」
本城は照れ臭そうに笑ったが、春寅はいまいち何がいいたいかわからず、首を傾げた。
「俺、前も行ったけどトラともっと仲良くなりたかったんだ。
だから、ずっと夏休みの間遊べたら楽しい位にしか考えてなくて......あ、もちろん心配だったのも本当なんだけど」
「......小学生かよ」
「酷いなぁ。
でも、俺よく言われるけど、見た目より何も考えてないんだ」
肩をすくめた本城に、そんなことはないだろうと思ったが、春寅に対して考えていることは本当に純粋な友達に対しての好奇心しか持ち得ていないらしく、それがわかって、春寅は思わず吹き出した。
「自分で言う?」
「はは、まあね。
えっとだから......夏休みも遊ぼうなって話なんだけど」
「やっぱり小学生じゃん!」
今度こそ声を上げて笑った春寅は、えーとそうでもなくて、と呟く本城を、面白い気持ちで眺めた。
確かに、小難しそうなことを考えていそうで、田舎の似合わない整った顔を持つこの男は、年相応で口下手な一面があるらしい。
「いいよ、遊んでやるよ。
はじめは、俺と仲良くなりたいんだもんな?」
「背負ってるなぁ。
でも、そうだよ!ありがとう、春寅」
照れ臭くて、わざと尊大に言ったのに、それすら嬉しそうに笑われて、いつも通り春寅は毒気が抜けてしまう。
「お婆ちゃんもね、トラのご飯をいつも心配してるんだ。だからどっちにしろ食べに来いって言ってたよ!」
「俺はそんなに適当に見えるのか......」
誰からもなぜかご飯の心配をされる。
春寅がぼやくと、本城は座ったまま顔を覗き込んできた。
「だって春寅、細すぎる」
「......同じようなもんだろ」
「いや、俺も筋肉つきにくいけど、俺よりもっと細いし白いよ」
不意に腕を取られ、ほら、と言われる。
「折れそうだ。折れるんじゃない?」
「折れないって......」
ぎゅ、と力を込められ、まさか折られるわけじゃないだろうが、なぜか握られた場所が気になって、目を逸らした。
「変わらないよ。はじめだって白いし細いじゃん」
「そうでもないって、......あ、ごめん痛かった?」
「......痛くはない」
「そう?」
春寅が鈍い反応しか返さずにいると、本城がパッと腕を離した。
触られたところをさすると、痛かったかと心配されてしまい、そこまでの力を込めていないことは自分でもわかっているだろうに、眉を下げたその顔は情けない。
「大丈夫だってば。それより、近い。暑苦しい」
「え?そっか?」
確かに、本城は少しの間に力がついたようで、握られた時に感じた動揺を隠したくて、春寅は悪態を吐いた。
だけど、自分で言ったくせに離れていく体温に寂しいとさえ思ってしまい、慌てて首を振った。
きっと、ここが自分の家だからよくわからない感情ばかり芽生えるのだろう。
かつて、母親と二人で住んでいた場所に、いまは春寅が一人きりで住んでいる。
その場所に久しぶりに自分以外の人がいるから、慣れなくて、動揺したりするのだろう、と春寅は思うことにした。
誤魔化したくて、話題を探す。
「はじめ、夏休み何するの?」
「え?うーん、とりあえず部活と、お婆ちゃんの畑を手伝って......」
どっちも畑じゃん、と突っ込むと、そうだね、と穏やかに笑われた。
その様子におかしいところはなくて、自分の揺れ動く気持ちも気がつかれていないようだと春寅は安堵した。
「春寅は?」
「俺?......読書、宿題......終わり」
指を折って数えるまでもなくやることがない。
休みでも変わらないのは自分も同じか、と春寅は思ったが、本城はふらふらと挙手した。
「あ、はじめと遊ぶも入れておいて」
「考えておく」
「さっき約束したのに!」
くだらないやりとりをしながら、笑い合っていると、この部屋にいつも漂っている思い出が薄れていくようで、明日も学校だから早く別れなくてはいけないのに、本城が帰ると言い出さず、いつまでもこの時間が続けばいいと、春寅は思った。
8月
夏休みになった。
日中の日差しはとても強くて、春寅は一歩も外へ出ず過ごす日も多かった。
今日も、開け放った窓のそばに扇風機と飲み物を持参して、読みかけの本を読み続けている。
クーラーはあるけれど冷たい風が当たることが嫌いだし、古くて変な音がするし、たまに水漏れしたりするから滅多につけない。
扇風機は暑い空気をかき混ぜるだけだけど、ないよりはマシだ。
本に汗が垂れないように拭った拍子に、集中が途切れて、春寅は窓の外を見た。
遠くに、輝く海が見える。
観光客もあまり来ないこの島では、海水浴客はまばらだった。あまりにも暑すぎる日差しを浴びてまで、ぬるい海水に浸かろうという人もあまりいないのだ。
手付かずの自然が残っていて、浅瀬で潜ればかなり綺麗に水中を眺めることができるらしいが、岩場も多くて流れも早い場所がごろごろとあり、子供だけで海で遊ぶのはあまり推奨されていないせいもある。
それでも活発な子供たちは大人の目を盗んでは穏やかで危険のない海域で潜ったり、時には度胸試しとして危ない場所で泳いだりしているらしいが、そのどれも春寅には関係ないのだった。
山のほうに行けば奥沢と言われている水の綺麗な川や、冷たくて深い水遊びができる場所もあるが、自転車でも遠いそこは向かうまででかなり体力を消耗するので、春寅はいまだに訪れたことがない。
同い年の子供と遊ぶことも多かったが、それよりも母親のそばにいることを選ぶ子供だった。
それは母親が病弱だったこともあるし、島の環境に馴染めなかったせいもある。
そんな母親も春寅が高校生になるのを待たずに病死してしまった。
飾ってある遺影にちらりと視線をやれば、いつも通り優しげな表情に見つめられる。
薄暗い室内に放置してあるのが申し訳なくて、春寅は心の中で母親に詫びた。
都会に一人住む父親は、母親の死に目に間に合わなかった。
高校からは都会へ引っ越し、学校もそちらへ通うようにと言われたのを、拒否したのは春寅だった。
別に島が好きなわけでもないのに、何故だか母の愛したこの土地を離れてしまうことが嫌だった。
母を、ビルと住宅しかない墓地の真ん中に眠らせることも嫌で、父親が連れて行こうとするのを頑なに拒否したのも春寅で、だからまだこの部屋には骨壺が置かれたままになっている。
本当は良くないことなのだろうけれど、自分が島にいる間はそばにいて欲しいと、春寅は母を手放すことができないでいた。
大学からは、島に残ることは許されないだろうし、春寅も、高校を卒業したあとは島を出るだろうと思っている。
島に大学はないから、大学に通いたければ誰でもここを離れる他はないのだ。
だから、仕方がないのだと、春寅はたびたび自分に言い聞かせる。
これ以上読む気になれなくて、春寅は読みかけの本にしおりを挟んで床の上に置く。
扇風機の風も煩わしくて、でも止めると暑いので、窓辺にもたれかかって外に身を乗り出すと、途端に汗が吹き出した。
寂しさも、だいぶ薄れてしまった。
母親は、春寅が小さい頃から、それこそ物心つく頃から、病弱で、死と隣り合っているような人だった。
大した設備もない病院しかない場所、というのが父の島に対するイメージで、それは何も間違って無かったけれど、何もわかっていない人の意見だ、と春寅は思っていた。
物腰柔らかで大人しくて、父に逆らったことのない母が、死を意識してはじめてわがままを言った。
余生を穏やかな島で暮らすことを願ったのだ。
本当は、春寅は置いていかれるはずだった。
小学生になったばかりで、環境を変えさせてまで引っ越して、そばで弱っていく母を見せるのがどれほど残酷かと、しかし子供に説明することはできなかったと母は言っていた。
絶対についていく、と言われ、どれほど嬉しかったか、と言われるたび、春寅は小さい頃の自分の決断を誇りたくなる。
仲の良い子供もいただろうに、母と離れてはいけないと、大事なことを理解していた幼い自分を褒めてやりたくなる。
父は、ついてこなかった。
いつか一緒に暮らすと、約束したのは口だけだったのか、それとも果たすつもりだったのか、今となってはわからない。
春寅も、恨んでいるわけではない。
母の葬儀で春寅より声を上げて泣いていた父を、責める心も今はもうない。
父も、弱かったのだろう。
だんだんと病気に侵されていく母を、正視するほど強くもなれなかったのだろう。
唯一の家族である父のそばに居なければいけないのだろうとも、それが母の望みかもしれないとも思うが、ここに残りたがったのはせめてもの反抗心だったのかもしれないし、母親離れできない幼い自分の心がそうさせたのかもわからない。
母が好きだった真夏の風を頬に浴びて、春寅は目を瞑った。
母が死んでからいままで、まだ泣けないでいる。
病院のベッドで死にゆく人の手を握りしめたまま、春寅の心は、一部をどこか遠くに置いていかれたように動かなくなった。
それでいいと思っていたし、それを望んでもいた。
そうしないと、母を忘れていく気がした。
だけど。
最近、母を思い出すことが少しずつ減ってきた。
前はいつでも想っていたのに。
原因は、春先に知り合った男だとわかっている。
本城はじめ。
本城のことを思うと、一緒にいると、無邪気だった頃の自分に戻ってしまう。
何も憂いなく、笑えてしまう瞬間がある。
本城の家は、ここからは見えない。
目を閉じれば、いつも浮かべることができた母の顔と共に、最近よく話をする本城や、本城の家族であるトヨ婆さんの優しげな顔が浮かぶ。
母は、きっと春寅が一人でいても喜びはしないだろう。
だけど、忘れないで欲しいともまた、願っているのではないのだろうか。
亡くなった人の気持ちを推し量ることはできないのに、春寅はいつもそれを思う。
その家がある方角を眺めながら、春寅は揺れ動く自分の心が息を吹き返す音を、耳をそば立てて聴いていた。
8月-2
窓の外をぼんやりと眺めていると、カンカン、と鉄錆びたアパートの階段を上がってくる足音がする。
大家は年老いていて足が悪く、滅多に登ってこないし、用があるときは下から呼びつけてくる。
ここの住人は春寅だけなので来客も限られている。
十中八九、本城だろう。
熱のこもった体をふらふらとさせながら立ち上がって、春寅は僅かな距離をモタモタと歩いていく。
鍵も閉めていなかった玄関扉を開け放つと、ちょうどノックをしようとしていたのか握り拳を中途半端に掲げたままの本城が、驚いた様子で廊下に立っていた。
「おつかれ」
「びっくりした......よくわかったな」
「足音、聞こえた」
「ああ.....なるほど。
でも、誰か確かめずに開けたら危ないよ、トラ」
「お前くらいしか来ないよ」
母親のような注意をする本城に苦笑しながら背を向け、部屋の中に戻る。
夏休みと言えど、毎週決まった曜日の決まった時間に、部活のために学校へ行く本城は、いつもどおりパリッとした白い半袖シャツの制服姿だった。
「暑いよー......」
「ああ、ごめん。クーラーつける」
「うん?いや、別にいいよ」
言いつつも本城は、先ほどまで春虎が座っていた扇風機の前に座り込む。
たしかにこの日差しの中、外で畑仕事なんてして、なおかつ歩いて帰ってくるなんて、相当暑いだろう。
自分ならごめんだと、春寅はしみじみ思う。
冷蔵庫から取り出した麦茶を渡してやると、本城は一気に飲み干した。
「ありがとー」
「うん。
なぁ、こんな暑いのにみんな真面目に部活来てるの?」
「ん?あはは。そうでもないよ」
「えっ」
常々、よくやっているなあと思いつつ、疑問に思っていたことを聞いてみると、予想外の返事が返ってきた。
よくよく聞いてみると、園芸部の部員たちは本城ほど熱心に部活動に励まないようで、たまに顧問の先生と本城しかいない時もあるという。
その先生だって、もう定年近い歳だから、本城が気を遣って室内にいてもらうようにしている時もあるらしい。
聞くと、先生の方も本城が熱心だから付き合ってくれているだけで、部活動に対してそこまで強制させようという気もないと本城は言う。
この島で暮らしていたら自分の家や親族の家に少なからず畑がある生徒が大半なので、園芸部をわざわざ選択して入る奴なんて、サボり目的か、本城みたいに風変わりな生徒しかいないだろうと考えていた春寅は、やっぱりな、と思った。
それでも、誰かが世話をしなければ植物は枯れるし、とても少なくても本城のように真面目に世話をする生徒がいるから、なんとかなっているようだ。
「もう、学校に個人の畑作った方が早そうだけど」
「トラはなんかそういうとこあるよね」
「はあ?」
「褒めてるよ、かっこいいよ!」
「どこが褒めてるんだよ」
なんで他の世話をしない奴らが、できた野菜だけちゃっかり持って返ったり、園芸部全体の成果物になるんだろう、と不公平じゃないか、と考えて言ったのに、本城に笑われて、春寅は首を傾げた。
まあ、肥料も土地も最初からあるのだから、その点では部活動はいいのかもしれないけど、とこぼすと、本城はしみじみとトラはトラだな、と頷いた。
「よく言えば、合理的」
「悪く言えば?」
「悪く?わかんないよ」
「嘘をつけ」
肩を竦める本城は、何度促しても決して春寅のことを悪く言わない。
今日に限った話じゃなくて、この男の口から誰かの悪口を聞いたことがないことを、春寅はいつも感心していた。
意識してそうしている部分もあるのだろうが、大半は持ち前の性格から来ているらしい、とだんだん春寅にもわかってきて、自分の口の悪さとは大違いだと思う。
この暑い中歩いて行って、誰も来ない畑の面倒を見たり、それでも文句一つ言わないあたり、根が優しいのだろう。
春寅のことをいつも気にかけるのも、そうした根底のお人好しが原因なのかもしれない。
「まあ、おつかれさま」
「はは、ありがとう。
トラは、何してた?」
「いつもと同じ。読書」
「そっか」
本城が、すぐ近くに無造作に放られた本を見つけ、手に取る。
今読んでいるのは男が突然虫になる話だったけれど、描写が細かくて、ちょっと気持ちが悪い。
春寅が差し込んだままのしおりを落とさないように慎重な手つきでページをめくる本城の俯いた横顔に、髪が影を落とす。
その姿が妙に似合っていて、古いアパートの錆びた窓枠でさえ、退廃的な雰囲気を出すのに一役買っているように見えた。
見惚れている春寅には気がつがず、パラパラと内容を確かめていた本城は、唐突に顔を上げた。
目があってドキッとしたのは春寅の方だけで、本城はなんの背負いもない顔で、困ったように笑った。
「トラ、相変わらず難しい本読んでるな」
「別に、難しくないよ」
実を言えば春寅も、今読んでいる本はよくわからなかったのだけれど、さっき感じた感情を誤魔化したくて、わざとぶっきらぼうな返事をしてしまった。
本城には小説を読む習慣はあまりないようで、春寅が読んでいる本に興味は示すし、感想とかもよく聞いてくるが、本人が読もうとはしない。
あんなに本が似合うのに、もったいない、と思ってしまい、春寅はその変な思考を首を振って切り捨てた。
「そうかなあ」
「はじめも、読めばいいのに」
「んー......」
本を元に戻す手つきは無機物相手なのに優しいが、生返事である。
春寅と違って忙しそうだから、活字を読むことに時間を割こうと思わないのかもしれない。
「今度、トラのオススメの本を読んでみようかな」
「えっ、ほんと?」
だから、呟かれた言葉を聞いて、春寅は柄にもなく素直に喜んでしまった。
そんな反応が意外だったのか、ちょっと驚いたような顔をしたあとで、本城は嬉しそうに笑った。
「うん。だから、今度何か教えて」
「わかった」
読みやすそうな本を考えておこう、と春寅が頷くと、約束な、と本城も頷いた。
8月-3
せっかくの夏休みだというのに、通い慣れた通学路を、学校に向かって歩いていると、何だか妙な気分になる。
背中を伝う汗を不快に感じながら、春寅は一刻も早く目的を果たして帰ろうと、歩くことに集中していたせいで、閑散とした道なのに、しばらく声をかけられていることに気がつかなかった。
「春寅!」
「わ!」
「おはよう」
「はじめ......おはよ」
夏休みなのに通学路に春寅がいるとは、珍しいものをみた、という表情を隠しもしない本城にあくびと共に挨拶を返すと、苦笑された。
「どうした?用事?」
「図書室」
「そっか」
「はじめは、部活でしょ」
自然な動作で並んで歩き出す本城を見上げれば、うんうん、と頷かれた。
まさか、春寅が、本城の部活がある日を選んで図書室に行こうと思ったとは考えないらしい。
春寅だって朝起きて図書室に行こうかとぼんやり考えていて、そういえば今日はあいつの部活の日だったから、時間を合わせてみようかと、軽く思っただけなのだけれども。
しかしながら、この男は、整った顔をしていて明るくて、人気があって、いつも人に囲まれているくせに、そういう自分に向けられる感情に鈍いところがある。
何度告白されたって、誰かと付き合う噂も聞こえてこないのだから、その手のことに疎いのか、それとも単に苦手なだけなのか。
もっとも、春寅は本城に恋をしているわけじゃないから、時間を合わせたと気がつかれなくても、一向に構わないのだが。
「そうだよ。トラ、すぐ帰る?」
「さあ」
それがわかっているのに、一緒に登校しようとか、待っているから、と伝えられない自分も大概捻くれているし、友達甲斐はないだろうな、と春寅は苦々しく思う。
「じゃあ、図書室で待ってて!
すぐ終わらせて、帰るから」
「......いいよ、待ってるから」
相手の方が、よほど素直になんでも口に出す。
あえて伝える方を選んでいるのだろうな、と春寅はいつもながら感心した。
本城に限ってそんなことはないだろうけど、自分なんかのために急いで世話をされるなんて、コイツを待ちわびているだろう植物たちが気の毒で、つい待っている、と春寅は口にした。
それでも本城は、校舎についた途端急いだ様子で園芸部の畑がある方向へ走っていってしまった。
「また、あとでー!」
背中に明るい声がかけられたが、振り向いた時にはもう本城の姿はなくて、一瞬、一緒に登校したことも声をかけられたことも幻だったかと春寅はアホなことを考える。
だけど、校舎内に入り、階段を上がって、三階の廊下の窓から覗くと、ちゃんとホースを持って水を撒く本城と、顧問の先生と、あと二、三人の部員の姿があって、皆楽しそうに畑の手入れをしている。
畑、畑と本城が言うので、てっきり野菜ばかりのその辺で見かける畝が続く光景を予想していたのに、畑はほんの一角で、あとは綺麗な花に囲まれた洒落た空間になっていて、思わず春寅は足を止めた。
入学した当初は普通だった気がするのに、いつのまに手を入れたのか、レンガや柵も新調されていて、園芸部に対して抱いていたイメージが覆された。
学校内に作るには少々不釣り合いではあるが、それだけ完成度が高いということだろう。
同時に、周りに自然や畑があるのにわざわざ部活として活動する風変わりな連中だと思っていた自分を春寅は恥じた。
とても丁寧に力を込めて作られていて、適当に手入れをしただけではこんなに立派にはならないと、門外漢でさえ理解できたから。
じっと眺めていてもちっとも飽きない。
その美しい空間を、大きな蝶が舞う。
島の虫は総じて大きいから苦手だったけれど、咲き誇った濃い色の花にとまる姿は、出来すぎた写真みたいだった。
きっと、新学期になれば人気の憩いの場になるだろう。
園芸部員たちもまた、称賛の眼差しを浴びることだろう。
外に散らばる部員たちの中にも、一際目立つ男がいて、薄茶色の髪の毛を風に靡かせた本城は、さっきの蝶みたく自然に光景に馴染んでいる。
畑と本城、というイメージが何度聞いてもどうも想像できなかったが、そこに立っている本城は、たしかに園芸部員として、きちんと仕事をこなしている。
無意識にその姿を探したのか、それとも本城が目立ちすぎるだけなのか、春寅は目が離せずにいた。
「......!」
「おーい!」
不意に、こちらを見上げた本城と目があった。
声をかけたわけでもなく、三階の窓辺にいるというのに的確に見つけられ、春寅は思わずドキッとしてしまう。
言葉を交わす距離でもないのに屈託なく手を振る本城に倣って、ほかの生徒がこちらを見上げる気配がして、春寅は急いでその場を離れた。
すぐ近くの図書室に入ると、ひんやりとした空気と静けさが体を包む。
返却する本をカウンターに渡して、人気のない本棚の間をゆっくりと歩く。
落ち着きを取り戻してひと息吐くと、今度は別に逃げる必要はなかったのでは、と我に返った。
見ていたし、目もあっていたのだからちゃんと手を振り返してやればよかった、と思いつつ、だけど春寅の性格を知っているくせに、あんなに大きなリアクションをとることもないじゃないか、と理不尽な不満も抱く。
しかし、じゃあそっと手を振ってくれれば自分も応えたのか、と言われると、多分同じように無視しただろう、と春寅は自分のことながら、ひねくれているから、と自覚していた。
きっと本城がそれとわからないように春寅を見つけて反応してくれたって、気恥ずかしくてにっこり笑って手を振るなんて、出来るわけない。
それならやっぱり悩むだけ無駄だ、と本の背表紙を撫でながら考え込んでいた春寅は、気を取り直して、読みたい本を探しはじめた。
9月
秋になってもこの島は暑い。
でも確実に季節は移ろっていくのだ。
その証拠に、体育祭などという学校行事をさせられているのだから。
まだ暑いのに、と思いながら、春寅は垂れてきた汗を拭った。
さっき全力で走ったリレーで、自分の担当種目は終わりだから、あとほんの一時間後の閉会式まで、サボっていたって咎められまい。
そもそも昼飯のあとにリレーなんて、盛り上がるかもしれないけれど、走る当人たちは溜まったもんじゃない。
水道水はぬるいし、胃は痛いし、春寅はひんやりと冷たい花壇に寄り掛かった。
あれだけ園芸部員たちが苦心して作った畑、もとい花壇はやはり新学期になったら生徒たちの間で話題になって、いつも誰かしらが居る。
だけど、さすがに今日は人気がないようなので、春寅はひっそりと片隅に座りながら、ちょうど良い木陰で体を休めた。
「トラ、」
声をかけられて、内心面倒くさいと思いつつ目を開ける。
自分と同じように汗を垂らした本城が、覗き込んでいた。
いつも涼しい顔をしているくせに、こいつも汗をかくんだな、と春寅は当たり前のことを考えながら、横になっていた体を起こした。
「おつかれ」
「ん、」
「リレー、早かったな」
「お前のが、」
さっき走ったリレーで、春寅はアンカーの本城に直接バトンを手渡した。
いまだにその時の熱が掌に残っている気がして、無意識に手を握ったり開いたりしていると、本城も同じだったのか、真似をされた。
「あんなに真剣な春寅の顔、見たことないよ」
「そんなことない......だろ?」
走っている時の顔なんて、みんな同じだ。
そう思うのに、本城に間近で見られていたと分かった途端、春寅はなぜか恥ずかしくなった。
顔を背けた拍子に、背後の花壇が目についた。
「そういえば、ココ、すごいな」
「ああ、そうでしょ?
みんなで、頑張ったから。
そう言ってもらえて嬉しい」
みんなで、と強調した男が、毎日誰よりも尽力していたことを知っていたけれど、春寅は黙って肩を竦めた。
どうせ指摘したって、この本城という奴は、遠慮がちに否定するだけだから。
博愛精神というのか、八方美人というのか、春寅にはまだ掴みかねていたけれど、いい奴であることに変わりはないし、その顔を曇らせたいわけじゃない。
「お前が畑、畑っていうからもっとその辺にあるようなのだと思ってたけど、花壇じゃん」
「畑でもあるんだよ。
ポタジェ......って言うんだったかな?」
「ふぅん」
確かによく見ると、石で区切られた境を隔てて、花と、野菜が同じ土に植わっている。
それに、ここから取れた野菜を何度か目の前の男から貰っているから、野菜があることは知っていた。
女子部員の提案で、みんなで調べたり、材料を調達したり、デザインしたのだと聞いて、熱心なことだな、と春寅は思った。
「すげえな」
「はは、綺麗にできたよね」
「お前、頑張ってたもんな」
「......そうかな?普通だよ」
最近気が付いたのだが、本城は、手放しに褒められると途端に萎縮する。
照れているところもあるのだろうが、全然褒められ慣れていないらしく、その反応は少し面白くて、春寅は最近、からかい半分で本城をよく褒めていた。
本人も気がついているだろうに、決して怒らないのだから、お人好しというかなんというか。
この容姿で、この物腰で褒められることに慣れていないとは、と春寅は訝しく思ったのだが、その暮らしぶりを見ていると、なんとなくわかる。
要は、気を使いすぎなのだ。
丁寧で、物腰穏やかで、それでいてそっと隅に居る男。
半年近くそばで見ていて、春寅はぼんやりとそんな印象を本城に抱いていた。
「いいや、すごい。一番頑張ってたよ。
だから、お前はもっと褒められるべきなんだよ」
「うーん、」
「もっとみんなに自慢したらいいのに。
俺が作ったんだ!って」
「ふふ、」
主張してみせると、本城はおかしそうに笑ったが、春寅はいたって真面目に常々そう思っていた。
サボっている部員だっているのに、この畑が園芸部員全員の力作として褒め称えられていることが気に食わないのだ。
それは他の頑張っていた部員だって同じだろうけれど、春寅が直接面識があるのは本城だけだから、どうしても贔屓目で見てしまうのは仕方がない。
それに、やっぱりそういう印象を差し引いたって、一番力を注いでいたのは本城だと胸を張って言える自信がある。
不満げにしている春寅に気がついたのか、本城は困ったように視線を彷徨わせた。
「えっと......じゃあ、代わりにトラが褒めてよ」
「はあ?......そんなのでいいのかよ。
てか褒めてるじゃん」
「確かに、そうだね」
「んー、......頑張ったな、はじめー。
お前が一番頑張ってた。俺は見てた。
だから、お前が一番偉い、偉いなー」
薄茶色の髪の毛が柔らかそうで、春寅は褒めながら手を伸ばして、猫にするみたいによしよし、と撫でてみた。
「......ッ」
「あ、ごめん。嫌だった?」
「......ち、違うよ!ただ......慣れて、なくて」
本城がかすかに息を呑んだので、嫌だったか、と手を離すと、焦ったような、困惑したような顔をした本城と目があって、なんとなく春寅も照れ臭くなった。
確かに、本城は他の生徒と身体接触をしているところはあまり見ないかもしれない。
ふざけて肩を抱いたり、背中を叩いたり、春寅もそういうスキンシップは苦手なのに、何故だか本城の髪の毛は思わず触ってしまった。
春寅と居ると、少しだけ彼の気が緩んでいるような気がするからかもしれない。
けれど、嫌じゃなかったのなら、と息を吐いた。
「はは......なんか俺まで照れた」
「うん......ありがとう、春寅」
褒めてくれて、と照れ笑いを浮かべたその表情が、あんまり無防備だったから、春寅は目を細めた。
もう一度その髪の毛に触りたいと、口に出したらこいつはどんな顔をするだろう、とぼんやりと考える。
体育祭の終わりを告げる放送が、すぐそばのスピーカーから、華々しく流れていた。
10月
中間テストが終わった翌日から、春寅は三日間、学校を休んだ。
母親の、命日。
一周忌、と春寅は指折り数える。
親戚も居ないし、父はこの島に来たがらないから、何か特別なことをやるわけではないのだけれど、こんな日ばかりは、一人で静かに過ごしていたかった。
ついでにちょっとサボりたい気持ちもあったから、三日も休む、と先生には伝えたが、春寅の状況を考慮しているのか、なにも言われることはなく、むしろかえって気の毒そうな、労る顔をされてしまっては、なんとなくやるせない。
まあ、気が楽だからいいか、と春寅はそのまま休んだのだった。
母を、思い出すことはよくあるけれど、寂しくなるから、最近はしみじみと思い出すこともできないでいた。
だけど今日ばかりは、振り返らないと母がかわいそう、だと春寅は思った。
自分まで忘れてしまったら、母の痕跡が消えてしまうような気がして、そんなはずはないのに、心細くて、立てた膝に顔を埋めた。
さすがにこの時期になると、肌寒い日も多くて、今日も窓を開けたはいいものの、入ってくる風は冷たくて、春寅は身震いした。
トンボが、ヒューと滑るように飛んでいく。
夏が長くて暑い分、秋になるとめっきり寒くて物悲しい気分になるのは、やっぱり母が亡くなったことが関係あるのだろうか。
子供の時は寒くても、温かい料理と母親が家で春寅を待っていたから、寂しいとは感じなかった。
それでも、母に忍び寄る病気の気配が恐ろしくて、春寅は目を瞑って過ごしてきた。
だからなのだろうか、いまだに母が死んでしまったことに、まだ心の始末がつかない。
いつか、この寂しさも薄まるのだろうか。
春寅は、薄暗くなっていく部屋の中で、母の遺影を見つめたまま、じっと身を潜めていた。
暫くして、カンカン、と甲高い音が聞こえてきた。
あれからどのくらい時間が経ったのか、部屋の中も窓の外もすっかり暗く、遠くに見えるはずの海も、闇に沈んでいた。
リー、リー、と裏の空き地から、虫が鳴く声がする。
コンコン、と控えめにノックされ、春寅は少し迷ってから立ち上がって、扉を開けた。
本城は、廊下の裸電球の下で、ほんのちょっと心細そうな顔つきで立っていて、それを迎える春寅も、きっと同じような顔をしているに違いなかった。
「......お婆ちゃんがさ、コレ、」
「......ん、ありがと」
差し出された袋を受け取ると、まだ温かい料理がたくさん、タッパーに詰められて入っていた。
おそらくトヨ婆さんから、母のことを聞いたのだろう、本城は、かける言葉を失ったように首を傾げた。
「トラ、入っていい?」
「......いいよ」
体をずらすと、本城は暗がりの中に躊躇いなく体を滑り込ませてくる。
春寅が電気をつけると、靴を履いたまま、玄関に突っ立って、眩しそうに振り返った。
「よかった。ソレ、俺の分も入ってるからさ。
一緒に食べよう」
「わかったよ」
きっと、トヨ婆さんには手渡すだけでは春寅が食べないかもしれないと思われたのだろう。
そういうわけで、孫が派遣されてきたとわかり、春寅は肩の力を抜いた。
下手な同情や気遣いは、有り難いがどうしていいかわからず、この一年で貰いすぎて、少し疲れて持て余していたから、この友人からもそういう言葉をかけられたら、今日の自分は締め出して拒絶してしまいそうだと、春寅は思っていたから。
「その前にお線香......」
「いいよ。うち、ライターとかないんだ」
「......?
わかった。じゃあ、手だけ合わせる」
母は、最後に入院するとなったとき、なんとなく自分のこれからを悟っていたのか、家にあったマッチやライターを全て処分してしまった。
春寅が一人でいるときに、火事になると危ないから、それにタバコもだめよ、と言っていた。
そのときは思わず笑ってしまった。
タバコも酒も未成年で嗜むつもりはなかったが、春寅は料理だってするし、花火だって母と遊んだこともある。
何も今更、俺もう高校生になるんだよ、と言ったと思う。
しかし、母は真剣だった。
だから、わかったよ、と頷いたし、春寅は、母が亡くなった後でも、なんとなく部屋の中で料理をするとき以外に火を使う気になれない。
線香くらい焚きたかったが、母は春寅がどこかから火種を持ってくることを喜ばない気がしたのだ。
本城は、不思議そうな顔をしただけで、何も聞かずに居てくれたし、すぐに遺影に向き合い、真剣な顔で手を合わせてくれた。
この男の、こういうところが好ましいのだと、春寅は常々思う。
余計なことは聞かない。
最初は空気を読めないのかと思ったが、誰よりも敏感に察知して、先回りして、相手が本当に踏み込まれたくないところには決して入ろうとしない。
賢くて、世渡り上手なのかと思いきや、それでいて生きるのに不器用そうで。
そういうところが、春寅には、ちょうど良かった。
「トラは、お母さん似なんだなぁ」
「そう?」
ぼうっと部屋の真ん中で立ちすくんでいる自分を見上げるその顔が、あんまり優しくて、友人に対する労わりと思いやりに満ちていたから、春寅はなにもかも吐き出して、その胸に取り縋って泣きたい気分になった。
だけど、そんなことはせずに、大丈夫だという代わりに、へらりと笑って見せた。
少し失敗したかもしれないけど、彼はそれを指摘したりはしないだろう。
「ご飯、食べよう。はじめ」
「うん、そうしよう。俺、腹減ったよ」
お前が持ってきてくれたやつだけど、と呟くと、やっぱり本城は春寅の下手くそな笑い顔を見てもなにも聞かずに、頷いて、微笑んでくれた。
11月
「トラ、ここにいたんだ!」
「んん?はじめか......」
急に肩を揺さぶられ春寅が目を覚ますと、本城が顔を覗き込んでいた。
文化祭の準備などという面倒なことから逃げているうち、人気のない離れた棟の、空き教室の隅に陣取り眠っていたのだが、なぜかこのクラスメイトには居場所がバレたらしい。
起き上がると、枕がわりにしていた鞄がペシャンコになっていて、本城が苦笑した。
「もう、下校していいって」
「ああ、もうそんな時間?
ありがと。帰って、よかったのに」
「いや、絶対春寅、そのまま寝過ごすでしょう」
「んん......そうかもね」
肩をすくめて、ほら、と笑ったこの男は、いまではすっかり春寅の、存外のんびりしていて適当な一面もある気質をわかっているらしい。
わざわざ探しに来てくれるあたり、お人好し、というよりは、友人だと認められているようで、そういう対応をされるたび、くすぐったくなる。
「帰ろう、早くしないと暗くなるよ」
「はじめ、今日は部活はない日だっけ?」
「うん、そろそろ育たなくなってくるから、休み休みなんだよ。
まあ、それでも、冬支度はあるけどさ」
「本土に比べたら、全然暖かいらしいけど」
「そうだね。
でも、だからこそあんまり温度が下がると弱る植物も多いよ」
「ふぅん」
いつまでたっても植物や園芸に疎い春寅にもわかりやすく本城は説明してくれる。
本人はやりたくてやっているだけあって常々勉強しているようだから、畑や植物に関して言えば、何年も住んでいる春寅でも知らないことをよく知っている。
その繋がりで気象、季節ごとの変化にも詳しくなっていく本城は、春先より島に馴染んでいるようだし、本人も、前からそうであったように、早く馴染めるようにそうした努力をしているのだろう。
島民の家族を持ち、その家に住んで、畑を触り、島について知ろうとする姿勢は立派で、春寅としてはどうにも置いていかれたような気さえするが、それこそ本人の望む姿になっていっているのだから、友人としては喜ぶべきだろう。
それに、そうして本城の口から語られる、自分たちの住む土地についての話は、春寅にも面白く聞けて、自分も前よりはこの島のことがずっと好きになっていると感じている。
それでもこの島を離れようという気持ちに変わりはなかったけれど、その結果必然的に訪れるであろう、この友人との別れは、春寅を憂鬱な気分にさせた。
帰り道、連れ立って歩いていると、日が傾き始めていて、遠目に見える海に反射した光がキラキラと、波間に揺れる。
その光は、遠く離れた春寅の目に映り、染みるように光った。
「トラ?どうかした?」
「うん?いや、なんでもないよ」
「そうか?寒い?」
「ああ、ちょっと寒いかも」
「あんなところで寝てるからだよ!」
気遣わしげに見られることに慣れなくて、目を逸らすと、水路に沿うようにして、彼岸花がポツリポツリと咲いているのが見えた。
その名前と時期から不吉な花として疎まれることも多いけれど、春寅は、この可憐で美しい花が好きだった。
その細い花弁に似合わず茎の太く、案外辺鄙な場所でも土があればしっかりと根を張るところや、群生して咲いたときの圧倒される景色は、怖いという人もあるが、その赤や薄桃の花たちは堂々としていて、見るものを感動させる。
咲き誇る、という表現は、なるほど季節に咲く花らしく、とてもよく似合う。
「彼岸花......」
「ああ、あんなところにも咲いてるんだ」
だから、綺麗だね、と本城が笑ってくれて、ほっとした。
本城のような明るくて穏やかな人間でも、この花を綺麗だと思って笑ってくれるのだ、と。
「うちの裏によく咲くんだ」
「トラのアパート?
あそこ、空き地が広いもんなあ」
「大家が言うには、昔誰かが手入れしてて植えたものじゃないかって言うんだけど。
もう誰の所有地かわからないらしい」
「案外、大家さんの家の土地だったりして」
「俺はそう思うけど」
大家の婆さんは歳だから、足も悪くて、少しボケ始めているところがあるから、その可能性が高そうだ。
だけど、誰かが昔手入れをして彼岸花を植えて育てていたことは本当で、季節になると何十、いや、ひょっとしたら何百という株の彼岸花が一斉に咲く。
その景色を見た、当時住処を探していた母が、あのアパートに住みたがり、大家に頼み込んで、親子で住まわせて貰ったのだった。
そのときからもうアパートに住む人はまばらで、島の辺鄙な場所に建っているから民宿にもできず、大家の歳もあって取り壊そうかとしていたところだったのだと聞いている。
だから、急かされたことは一度もないけれど、春寅が出ていってしまったらやっぱり取り壊してしまうだろうね、と大家がよく寂しそうに笑っているのを、昔から春寅は聞いていた。
けれど彼女が近くに住む娘夫婦と一緒に暮らすことが決まっていて、それを老後の楽しみにしていることも知っていたから、いずれは自分もここを去っていくのだろう、と春寅は気負わずに居られる。
それでも住んでいるところに愛着はあるし、我が家と思い、帰る場所も今のところ母の写真のあるあのアパートの、あの部屋だけだと思っている。
小さい頃は不気味に思えた彼岸花畑も、歳を重ね、また母を亡くしてから、一層胸に迫る景色に思えて、春寅は彼岸花を愛しく思うようになった。
だから、本城が畑や植物を慈しむ気持ちを分からなくもない。
いつも世間話の体で聞かされる園芸部の話も、嫌じゃないから、それが嬉しくて本城は春寅とよく一緒にいるのかもしれないと思った。
しかし、それにしてはきっと聞かせ応えのない反応だろうから、もっと興味を持って面白そうに、気の利いた返事のできる人間に話したいと実は思われていても不思議ではないな、と考えている。
そんな女々しい話を、この男にしたことはないし話そうとも思わないけれども。
「......少し、見ていく?」
「いいの?
じゃあ、お邪魔するよ」
でもじゃあ当初のように鬱陶しいかと言うと、もはやそうとも思えなくて、友人として、そばにいて貰いたいとは思うようになったから、春寅も、今までより少しだけ、本城に優しくしたいと思い、普段はあまりしないのに、この日は珍しく部屋に誘った。
それになにより、春寅のこんな些細な一言にさえ嬉しそうに笑うこの友人の顔を、もっと見たかったから。
12月
寒い。とてつもなく寒い。
春寅は、気温の下がっていく窓辺の席で、制服の下に着た長袖を引っ張って、手を擦り合わせた。
教室の中はストーブで温められているけれど、この席にはその温風は来ないし、生徒が酸素不足にならないように窓が少し開いているから、すきま風が容赦なくビョオビョオと入ってきて、カーテンをはためかせている。
体育が終わった四限目は、汗は冷えるし、空腹のせいか余計に寒く、春寅は顔を顰めた。
この列のクラスメイトはさぞや寒かろう、と同じ思いを共有したくて前の席に座る本城の様子を伺うと、小憎たらしいことに、きちんと背を伸ばして座り、授業を受けている姿はいつも通りだった。
寒くないのか、と思ったけれど、伸びた薄茶色の柔らかい髪の毛は風に吹かれているし、時折白いうなじが見えるほどだから、寒いだろう。
それでも、自分のように縮こまるでもなく、また、他のクラスメイトたちのようにふざけたり、眠ったりするでもなく授業を受けている姿がなんとなく面白くなくて、でも格好良くて、春寅は真似をするように、机から体を起こした。
授業の残り時間は少ないが、なるほど背筋を伸ばしてシャンとしていると、案外寒さが気にならないものだった。
「あの席、寒くない?」
だから、帰り道、本城の方からそう聞かれた時は、とても驚いた。
「......寒い」
「あ、やっぱり?
ストーブ、当たらないよねぇ」
のほほんと笑った男は、今も平気そうな顔をしているが、やっぱり春寅や、他のクラスメイトと同じように寒さを感じているらしい。
当たり前といえばそうなのだけど。
「でもお前、平気そうだよな」
「うん?まあ、ね。
ほら、俺って北の方から来たんだよ。
開けたイメージがあるけど、
結構寒くなるし、雪も降るよ。
このくらいならまだ耐えられるよ」
「そうか」
ろくに尋ねたこともないが、引っ越す前のことを本城が話題にすることを珍しく思いながら、春寅は頷いた。
生まれ育った地域は寒くて、雪が降るという。
それはこの南国とも称される島よりは、よほど気温も下がるだろうから、この男が、今年は例年よりすでに寒いと言われる温度でも、普通にしているのも納得できる。
「でもなんか家とか学校とか、寒さ対策が微妙な気がするけど、これ以上寒くならないの?」
「いや、なるよ」
「ああ......、やっぱり」
苦笑した本城に首を傾げると、本格的に寒い地域は、寒さにもきちんと対策のなされた二重の窓だとか、厚手のカーテンだとか、性能の良いストーブだとかが教室にもあるらしい。
関心しつつ、確かにこの島の学校に、そういう物は必要ないから置かれていない、と春寅は思った。
「でも、雪は見たことない。
雪が降ると、寒いんでしょ?」
「それが、そうでもないよ。
そりゃあ気温は下がるけど、
雪が積もると案外暖かいよ」
「は?なんで?」
「なんでと言われても......」
春寅には不思議だったけれど、本城は当たり前のような顔で肩を竦めた。
なぜ雪が降るほど気温が低いのに、暖かいのか、春寅には意味がわからなかったが、生まれてから一度も目にしたことがない雪、というものは遠い存在だから、そういうものなのか、と考える。
そのほかにも、雪の結晶だとか、かまくら作りだとか、本でしか見たことのない雪、というものを知っている本城のことが、春寅はほんの少し羨ましい。
「雪、綺麗?」
「綺麗だよ。でも大変だよ」
「なにが?」
「溶けると水だから......
雪の中に入ると後で濡れたようになるよ」
「へえ」
「路面が凍ったりもするし」
特に住んでいたところは除雪が早くて、すぐに地面が露出して、凍結してしまうらしい。
春寅は、こちらでもとても寒い日は霜が下りたり、地面や川が少し凍ることを思い出した。
「ああ、それはこの辺でもたまに」
「えっ?そんなに気温が下がるの?」
密かにカルチャーショックを受けている本城は、春寅が真っ白な雪に憧れるように、南の島に夢を見ていたに違いない。
たとえ南だろうと北だろうと、地球全体で見ると距離は近いし、タイミングはズレているが四季もあるし、この島だって寒くなるのだ。
だけどたしかに自分も小さい頃、あんなに夏は暑いのに、なんでこんなに寒くもなるものなのか、と不公平なようにも考えていたような気がするな、と春寅は思った。
「じゃあ海にももう入れないんだね?
と言っても、今年は入らなかったけど」
「入ろうと思えば入れるよ。
ダイビングとかはやってるよ」
まだ着衣で入るアホみたいな人たちもいるし、サーフィンもダイビングもする人たちは一年中海に入るらしい、と教えてやると、そのどれにも縁がない本城は、不可解そうな顔をした。
「寒そうだけどなぁ」
「海の中のが暖かいらしい」
「うん?.....なんで?」
「そういうものだって。雪と同じなんでしょ」
「いや、なんか違うような」
高校生にもなって、科学だの自然だのの知識のない子供のような会話をしつつ、寒い寒いと言いながらも、特に急がずに帰路をのんびりと歩く。
何の身にもならないようなふわふわとした根拠も結論も討論もない話は、大人が見たら思わず苦笑してしまうほどの軽さでしかない。
学校で習うことは何だって言うのだろう、と思ったけれど、よくよく思い出してみたら、春寅の知識は小学生や中学生時分に授業で習ったことのような気がして、そのときにきちんと根拠となる説明がなされていたのだろうが、覚えていないで、話の突飛な部分だけ頭に残っているのだろう、と自分の脳味噌の不甲斐なさに、大人になりかけの春寅はやっぱり苦笑したのだった。
それをみて、似たような知識を披露しただけの本城も同じように苦笑する。
きっと自分たちが不思議に思っていることを、きちんと理解し説明し得る事実があるのだろうが、春寅も、そしておそらく横に並んで歩いているこの男も、寒いのにやけにのんびりとしたいつもの帰り道に、そこまでの真剣さを持ち合わせていないのだった。
1月
遠くに聞こえる除夜の鐘を聴きながら、蕎麦を啜る。
テレビなどないこの家には、静けさだけがあるけれど、炬燵に向かい合わせに座った男は、慣れているのだろう、黙々と蕎麦を食べている。
春寅は、どうして自分がここにいるのだろう、とぼんやりと考えていた。
日付が変われば新年を迎えるというこの年の瀬に、なぜか春寅は、本城の家の中で、年越し蕎麦を食べているのだった。
遡ること十二時間前、昼間のうちに、大掃除を済ませて部屋に寝転がっている春寅のところに、彼の祖母から派遣されてきた本城はじめが、たくさんの餅と蜜柑を両手に抱えてやってきた。
そして、話しているうちに、年越し蕎麦の用意もお節の用意も面倒でしていないことがバレて、あれよあれよという間に、春寅は拐われるようにして、本城の家に連れてこられた。
今思うと、トヨ婆さんには、春寅が、ギリギリ喪は開けるというのに新年を迎える準備を怠っているのが分かっていたのだろう。
だから、孫がいそいそと訪ねて来たのだろうし、突然来た孫の友達を嫌な顔もせず当然のように迎えてくれて、そいつの分まで蕎麦の準備や何やらがあったのだろう。
そのトヨ婆さんはというと、若者二人に年越し蕎麦をつけると、夜更かしは年寄りの身には応えると言いながら、年明けも待たずに床に入った。
いつも見かけない爺さんの方は、漁業組合の飲み会だそうで、これもいつも通りであった。
残された若者二人は何の縁か、血縁でもないというのに、そして、知り合って一年も経たないというのに、だからこうして同じ炬燵で新年を迎えることになっている。
もっとも不思議に思っているのは春寅だけで、本城はそれこそ彼の祖母と同じように当然のような顔をしている。
その表情を見ながら、温かい蕎麦を食べていると、悩んでいる自分がおかしいような気がしてきて、春寅は考えるのをやめることにした。
「トラ、足りた?
足りなかったら、もっと茹でられるよ」
「いや、充分。ありがとう」
「そう?俺はもっと食べようかなぁ」
のんびりと言いながら立ち上がった本城は、その美しい容姿に合わず、年寄りが好みそうな渋い柄の綿入りの半纏を着ていたけれど、古い家の中ではやけに似合っている。
そして、やっぱり顔に似合わずに、この男は割とよく食べる。
身長もあまり変わらず、力仕事で多少は筋肉がついたようだが春先から変わっていないように見える細身の体のどこに入るものか、春寅の倍以上に食べる。
今も、春寅が一杯目を食べるうちに二杯目を完食したらしく、なんと三杯目を作るべく、台所へ向かったらしい。
知り合ったばかりの頃、大きな弁当箱に詰められた昼飯を見て、よほどトヨ婆さんは孫がかわいくて仕方ないらしいと思ったものだけれど、単にこの男がよく食べるだけらしい。
むしろ祖母の方は呆れるほどよく食べる、と孫のことを称していて、老人だけだった時とは比べものにならないほど食べ物が必要なのだと、その割には嬉しそうに笑っているのをよく聞く。
孫の方も遠慮なく良く食べる、と言われても気を悪くするでもなく、むしろその話の最中に飯のおかわりに立つような馴染みようで、春寅は教室よりのびのびとしている本城の様子を見るたびに、お門違いにも密かに安堵したりするのだった。
春先に越してきた時、馴染もうと努力しなくてはならないと思っている旨をうっかり洩らした男であるから、気を使わずに居られる家になって良かったと、親でもないのにどうしても思ってしまうのだ。
春寅は片親を亡くし、本城は都合上だとはいえ、お互いに違う土地に家族がいるのに、帰省もせずに、友人と顔を合わせて年越しを待つこの時間を、春寅はとても貴重なものだと改めて気がつく。
いくら島の中では隣と言えるような距離に家があり、その家の住民同士が顔見知りといえど、教室内で仲良くならなければこのようなことにはならなかっただろうと思うと、こうして自分が寂しくない大晦日を過ごしているのも、ひとえにこの本城という男と、その祖母の気遣いの賜物であるから、感謝してもしきれないというものだ。
何度もお礼と恐縮はしたものの、照れ臭くて、面と向かって堂々とそういう深い感謝を告げる事はできないけれど、この家は不思議なもので、二人とも、むしろ話に上がるだけのこの家の主人である本城の祖父でさえ、春寅を懐に入れることに何の躊躇いもなく、また同情心をひけらかしたり、本人の居心地が悪いように悟られるでもなく、ごく自然に春寅のことを受け入れていて、招かれた本人は内心舌を巻く。
老人夫婦は孫のいい話し相手が出来たと喜んでさえいるようだから、お人好しと一口に言い表せないほどの親切を、春寅はありがたく受け取ることにしたのだった。
「そういえば、春寅は初詣とか行くのか?」
「んー、別にいい。寒いし」
春寅は興味がなくて他の人に誘われても悉く断ったけれど、本城もたくさんのクラスメイトに誘われていることを知っていたから、行ってきたら、と声をかけると、不思議そうに首を傾げられた。
「トラが行かないなら、俺も行かないよ」
「行けばいいじゃん。
俺はここで寝てるよ」
「俺も寒いから、いいや」
そう言って苦笑した本城は、本当に初詣に未練も興味もないようで、あんなに誘いがあるのに、無愛想な一人を選ぶだなんて変なやつ、と春寅は失礼なことを思いながらも、正直なところ、本城が自分だけを選んでくれたことに優越感を感じていた。
そんな自分を持て余しつつ、友人が一緒にいてくれるのを喜んで何が悪いのだ、と開き直ったり、だけどこいつにだって他の付き合いがあるだろうに、と心配したりと、忙しく考えて、けれど結局は、本人が行きたくないと言っているのだから、と諦めた。
「そっか。じゃあ二人で除夜の鐘でも聞こうぜ」
「く、暗い......!でも、いいな」
「途中で寝そうだけどな」
「炬燵で寝たら、風邪をひくよ」
そう言いながら笑う本城の顔はわかりやすくはしゃいでいて、その表情を見ながら、春寅はどうしてかとても幸せな気分になった。
それは母がいた頃の大晦日と似ている気持ちだったから、春寅も心から笑いながら、くだらない話をしながら大晦日の夜が更けていくのをのんびりと待つのだった。
1月-2
「トラや、悪いけど寝坊助な孫を起こして来てくれや」
「ん?うん、手伝いはもう平気?」
「なんの、手が足りんかったら爺さんにやらせるけ」
「そっか」
まるで猫の子のように呼ばれながら、トヨ婆さんに孫を起こしてほしいと頼まれる。
本城と二人で年越しを待ちつつうとうとしていたが、事切れるように同時に眠ったのは年明けてすぐだった。
それでも、春寅は慣れない布団で明け方に目が覚め、お節やお雑煮の支度をするトヨ婆さんを手伝っていたのだが、当の孫は起きてくる気配がない。
普段は老夫婦と一緒に、日の出と共に起き、日の入りと共に眠るような生活をしているようだから、昨日は夜更かししすぎたのかもしれない。
先程まで自分が寝ていた部屋に行くと、部屋の主人である本城は、やはりまだ眠っていた。
春寅は、自分が畳んだ布団に座りながら、しばらくその様子を眺める。
畳の部屋は、かつて本城の母親が使っていたという場所で、長年経って私物はすっかり片付けられて、代わりに子供であるはじめの物が置かれているが、驚くべきほど少ない。
備え付けの文机や座卓、本棚とタンスを布団を除けば、学校用品と鞄くらいしか目立った物はなくて、田舎特有のやけに広い部屋の中で生活圏も少ないらしく、私物が集まった場所がチマチマとしている。
広すぎて落ち着かないし、夜更かしもしないからやることもないのだと、以前本人から聞いた。
この家には、テレビもラジオもない。
しかしこの島では、テレビもチャンネルは三つしかないし、ラジオの電波もローカル番組が放送されているくらいだから、娯楽といえばみんな子供は外で遊ぶのだろう。
春寅はずっと本を読んでいたからよく知らないけれど、ビデオゲームも流行りつつあるらしいし、暑いか寒いか極端な日も少なくないこの島では、案外室内で遊ぶ子供達も多いのかもしれない。
ただ、本城はこれといった娯楽もなく、部活や学校のなく、暇な時分には敷地内の畑に行くか、本を読んでいる、勉強をしているかのどれからしい。
若年寄のような暮らしぶりだが、春寅とて大差ない。
昨夜はお互いに最近読んだ本について語りながら眠ってしまった。
嬉しいことに、春寅がお勧めするに従って読んでいくうちに、本城もよく読書をするようになった。
本について話ができることは嬉しくて、春寅は自分でも喋りすぎたと思うくらい、本についてはよく話をする。
それも、本城が嫌な顔一つせずに、マメにおすすめの本を読んでくれて、その感想も逐一報告してくれるからなのだった。
本城の方も、春寅と共通の話題ができて嬉しいと言っていたから、余計に春寅は話過ぎてしまうのだった。
「んん......」
ぼーっとしていると、本城が寝返りを打つ。
呻き声が聞こえるのでようやく起きたのかと顔を覗きこむと、そのまぶたはしっかりと閉じられていた。
長い睫毛は髪の毛と同じ薄茶色で、窓から差し込む光にキラキラと輝く。
柔らかな髪の毛は波打って布団の上に散らばっていて、猫毛でクセがよくつくのだと、本城がぼやいていたことを思い出す。
黙ってこうしていると本当に顔が整っていることがよくわかる、と春寅は思わず凝視した。
やがてゆっくりと開かれた瞳も、とても薄い茶色の中に、光彩が散っているのが見て取れて、目を逸らすことも忘れて見入る。
「トラ......?なんで、ココに......ああ、そっか」
泊まる時、いつも彼の方が断然早起きな為、ぼんやりと寝ぼけたまま呟く本城は珍しくて、春寅が眺めていると、不意に手が伸びてきた。
彼とは違って真っ黒でストレートな髪の毛が物珍しいのか、一房、僅かな力で引っ張られる。
自分でも伸びてきたと思っていた長さだっただけに容易に掴まれたが、戸惑ってされるがままになっていると、サラサラと指で感触を楽しむように弄ばれる。
「うわっ!」
まだ寝ぼけてるんだろうな、と思っていたら、そのまま伸びてきた腕が、思わぬ力で首にかけられて、中腰のまま、抵抗する間も無く布団に倒れ込む。
「痛ッ!」
「ふふ、」
ずるずると温かい布団の中に引き摺り込まれると、悪い気はしなかったけれど、拍子に打った膝と肩が痛い。
「はじめ!」
「ごめん、ごめん」
「おい、......ッ!」
誠意の感じられない謝罪に顔を上げると、思ったよりも至近距離に相手の顔があって、春寅は驚いた。
「近い......」
「起きろよ、はじめ」
本城にしても同じだったようで、本人がしたことなのに目を見開くものだから、なんだかこっちが勝手に潜り込んだようで、春寅はバツが悪い。
しかし起き上がろうとして気がついたが、しっかりと腹に腕が回っていて離れない。
先程倒れ込んだときに支えてくれたのかもしれないけれど、なんとなく気恥ずかしいから、やめてほしい。
「うん、うん......もうすこし......」
「おい、おい!寝るなよ......」
そのまま力尽きるようにふらふらと本城が、春寅の肩口に顔を押し当てて、何か呟いている。
逃げようにも腕がしっかりと回されて、なんとなく長い足も絡みついている気がするし、今の態勢を自覚して、春寅は頭が痛くなった。
押しつけられた髪の毛からはなにやらいい匂いがする気がするし、腕の力は思ったよりずっと力強い。
もがいてみても全然動けないし、本城を殴ってしまいそうなので諦めてみるものの、首筋にかかる吐息がやけに生々しくて、春寅は焦りながらも、脱力せざるを得なかった。
このままもう一度眠る気なのだろうか、と温もりのある布団の中で途方に暮れていると、突然本城がガバリと起き上がった。
「ご、ごめん!」
「あ、起きた?」
「ごめん、すぐ、起き!」
「痛ッ!」
「痛い!ごめん!」
しきりに謝って焦って、お互いの体の方向を考えずに起き上がろうとするものだから、春寅の体のどこかが引っ張られて思わず声を上げた。
それに驚いて動いた本城も、絡まった足を取られて悲鳴を上げた。そして、また謝った。
「落ち着けよ!」
「......うん、ごめんね」
「いいよ、早く起きてよ」
打って変わって静まった本城に気まずい思いを感じながら、二人で今度は静かに起き上がる。
別に冷静にそれぞれ起き上がろうとすればなんてことないのに、なぜあんなに複雑に痛かったのか、春寅は疑問に思った。
ふと、本城の顔を見ると真っ赤である。
暑かったのか、と思うが、多分そうではなくて、照れているのだ。
「なんでお前が照れるんだよ」
「えと.....ごめん」
「もういいよ、こっちまで恥ずかしくなる!」
なぜ、抱き込んだ本人が恥ずかしがってるのか疑問に思いつつ、自分の頬がつられて熱を持っていくのがわかった。
それでも、しきりに謝る本城に悪気はなかったようだから、もういいと首を振る。
元々別に、怒ってはいない。戸惑っただけだ。
「ごめんね、トラ」
「もういいってば」
「痛かった?」
「いや、もう大丈夫」
お前は?と聞こうとして、本城の目が真剣味を帯びていることに気がついて思わず飲み込む。
「嫌だった?」
「は?」
だから、震えるような声で言われた言葉に、一瞬訳が分からなくて、素っ頓狂な声を出してしまい、本城がその音にびくりと肩を揺らした。
彼のそんな様子は見たことがなくて、その怯えた猫のような仕草に驚いた。
端正な顔が、先程まで赤かったのに、かわいそうなくらい青くなっていたので、仕方なく、春寅は正直に答える事にした。
「あー、別に......嫌じゃないよ」
びっくりしたけど、と頬をかきながら伝えると、本城は目に見えて体の力を抜き、安堵を示した。
「......よかった」
消え入りそうな声でポツリと言われた言葉の中に滲んだ儚い音に、再び驚いたものの、春寅の方も、まだ先程回された腕の感触の残る腹を気にしたままだったから、返す言葉を見つけられずに、春寅は咄嗟に誤魔化してしまった。
「ほら、早く起きないと。
トヨ婆さんが待ってる」
「うん......あ、そうだ。
あけましておめでとう、トラ」
「おー、あけましておめでとう!はじめ」
昨日も言ったけど、と照れ笑いをする本城は、もういつも通りの表情だったから、春寅も安心して笑い返した。
2月
この時期の、この日、島に限られた数しかないコンビニやスーパー、商店からは、こぞってチョコレートが消える。
市販品の綺麗なものや、子供用のチャチなロリポップ型のもの、果ては板チョコや一口チョコレートまで売れる。
もちろん、その分母の絶対数が少ないのもあるけれど、この島の女性たちにもそういう文化を気にする心が浸透しているのだと、春寅は毎年少し失礼にも驚く。
けれど思い起こすと、母親が生きていた頃は、確かにイベントごとに張り切っていたから、楽しみの少ない島で、イベントに精を出すのは、誰しも必然なのかもしれない。
今日は、バレンタインデー。
春寅には対して興味も関わりもある日ではないが、前の席に座る男前は、朝からひっきりなしに声をかけられていて、どうやら人気者らしい。
包装紙に包まれていても甘い匂いがする気がして、春寅は細く開けた窓から、冷たい風を肺に吸い込んだ。
それを目ざとく見咎めた本城が、助けを求めるようにこちらを見たが、女子に話しかけられている最中だった為、無視を決め込む。
どうやってあの量を持ち帰るのだろう、と思っていると、親切な別の女子が紙袋を渡していたから、なるほど気が利くやら、抜かりないやら。
春寅は他人事なので面白く眺めていたものの、遂に放課後になって、呼び出しから帰ってきた本人から、恨み言を言い渡された。
「何度も助けて!って目線を送ったのに、
ひどいよ、トラ」
「知らねーよ。
それに、その場合、非難されるのは俺なんだけど」
「うっ.....まあね」
「それに、もう終わっただろ?
あとは、帰るだけ。よかったな」
さっさと席を立つ春寅に、本城は力なく首を振った。
「今日は、部活があるんだ......」
「あれ?今日はない曜日じゃなかったっけ」
「臨時で......ミーティングだけなんだけど」
「ん?もしかして、そのために......」
春寅はちらりとチョコレートの山を見る。
女子が多い園芸部の中で、この友人が少なからず好意を集めていることは、もはや校内の誰もが知っているはずだ。
軽い、アイドルに対する好意のようなものから、結構本気そうな好意まで、色々な人間に好かれているのは本人の人柄ゆえなのだろうが、そのせいで今日は特に引っ張りだこなのだろう。
お人好しで優しくて、ちょっと八方美人で気の使いすぎな本城という男は、そういう呼び出しや贈り物を断れない性質なのだった。
流石に哀れになって、春寅は席にもう一度座り直した。
「トラ?」
「待っててやるよ。
だから早く行ってきなよ」
「ありがとう......でも、」
「いいから!」
変なところで遠慮を発揮する本城を、半ば追い出すように急き立てる。
春寅が文庫本片手にひらひらと手を振ると、頷いて、振り返りつつ、部室の方へ歩いて行った。
本城の席にはカバンと、山のようなチョコレートが置いたままにしてあり、それを眺めていると、トヨ婆さんが驚く姿を想像して、春寅は少しおかしくなった。
きっと孫が可愛い婆さんのことだから、学校で孫は、こんなに人気者なのだと、驚きながらも誇らしい気持ちになるだろう。
ただし、あの家に本人以外にチョコレートを食べそうな人間がいないところは、考えない事にした。
なんら関係のない春寅は、山積みのチョコレートの賞味期限が、すこしでも長いことを祈るばかりである。
チョコレートを眺めるのにも飽きてしばらく文庫本を静かに読んでいたものの、思ったより本城が戻ってくるのが遅くて、無意味に戸締りをしたり、立ち上がってうろうろと歩き回る。
じっとしていると寒いからだったが、側から見たら挙動不審だろうという自覚はあったから、不意に扉が開いたときは、飛び上がって驚いた。
放課後と言えども部活動の活動時間だから、生徒が教室に入ってきても別に不思議はない。
その証拠に、入ってきたのも、文芸部に所属するクラスメイトの女子だった。
「あれ?春寅?なにやってんの」
「俺?俺ははじめを待ってるんだ。
チカちゃんこそ」
「わたしは、ねー......」
クラスメイトの高山千佳子は、ゴソゴソと自分の机を探っている。
小さい頃から小学校も中学校も高校も一つきりしかないこの島で育った子供たちは、昔から名前で呼び合うのが普通だった。
自分の苗字が嫌いな春寅はありがたかったし、今さほどの関わりもないとはいえお互いに口をついたのは相手の下の名前だったことも、他意なく嬉しかった。
「忘れ物!あった!」
「あっそう......」
クラスメイトの忘れ物に全く興味がないため、あくびまじりに返すと、ノートを手にしたまま、高山が何か言いたげな顔でこちらを見る。
「なに?」
「うーん。春寅、チョコレート貰えた?」
「は?貰わないよ、そんなもの」
「そんなものってあんたね」
ため息を吐いて、スタスタと近寄ってくる。
首を傾げた春寅に、ハイ、と板チョコが差し出された。
「そんなかわいそうな春寅に、これをあげようね」
「いや、いらないけど」
「いいからあげる!
どうせ部活で食べるおやつだったのよ」
「お前のそういう強引なところ、お前の母親にそっくりだよ」
「褒め言葉?ありがと!」
いや、違う......と呟くも、聞こえないふりしてさっさと高山は扉まで遠ざかってしまう。
口に出してからふと気がついたが、このクラスメイトも、狭い島の中の住民だから、当然春寅の母親が亡くなった事も知っている。
そして春寅の母親とも面識があった彼女は、毎年春寅にあげるチョコレートを、張り切って用意していた母親のことも見ていたはずだ。
気を遣われたのか、と春寅は苦笑した。
もっとも、居合わせたのも、チョコレートを持ち合わせたのも偶然だろうし、返ってその軽さがありがたかった。
「ありがと!チカ!」
「どういたしましてー!」
言いながらも軽やかに走って行く音がする。
春寅が貰った板チョコを文庫本と一緒に鞄に入れたところで、ちょうどよく本城が戻ってきた。
両手には、これまた沢山のチョコレートを持っている。
部員の少ない園芸部内で、よくもあれだけ、もはや全員から貰っていないか?と春寅はひと目見て考えた。
「おまたせ、トラ」
「うん、大漁だな」
「ははは......あれ?トラも貰ったの?」
「ああ、義理......ですらないな、アレは」
本城のもらったチョコレートには愛情も遠く及ばないだろう、と苦笑すると、その本人は表情のやめない顔で首を傾げた。
「誰から?」
「チカ。高山千佳子」
「仲いいの?」
「バカ言え。幼なじみなだけだよ」
もっとも、この島の子供は、本城みたいに転校でもしてこない限りほぼ幼なじみみたいなものだ。
それだから、小学生で転入した春寅はなじむのに苦労したものだけど、今でも名前をお互いに覚えているし、挨拶を交わすくらいの交流はある。
「告白されたの?」
「だから義理以下だって。
それに俺とチカが話すところなんて見たことある?」
「わからないでしょう」
「んん......、なんか怖いんだけど」
いつのまにか本城が、詰め寄るように、目の前にいる。
彼の机はすぐそこだから近くてもおかしくはないけど、妙な威圧感を感じて、春寅は椅子ごと一歩下がる。
その音にハッとしたのか、本城が体を引いた。
「ごめん、トラにも彼女とかいるのかと思ったらつい......」
「いないよ、そんなもん。
見てればわかるだろって」
そういう本城こそ、見た感じでは付き合ってる人などはいなさそうだが、どうなのだろうか。
思っていることが表情に出たのか、本城は苦笑しながら紙袋に持っていたチョコレートをしまった。
「俺は誰とも付き合う気はないよ」
「そんなに貰っておいて?」
「うん、申し訳ないけどね」
誰かに告白されたって、それを受けるかどうかは自由だし、友人に彼女ができて遊んでくれなくなるのは寂しい。
そう思っているにもかかわらず、誰とも付き合わないと言い切る本城に、春寅はなぜかモヤモヤしたものを感じた。
周囲になじもうと努力して、人に気を使う割には、誰とも深く関わろうとはしない。
彼はそういう男なのだと、もうわかっているのに。
友人である自分は、本城の中でどういう位置付けなのだろう、と春寅はぼんやりと思った。
「帰ろう、はじめ」
「うん、待っててくれてありがとう」
「どういたしまして」
笑いかけてくるこの顔は、友人の中でも特別なのではないかと、密かに自惚れる自分自身の気持ちに気がつかないふりをして、春寅は席を立った。
3月
桜が咲いている。
南に位置するこの島では、日本で一番早く桜が咲く。
その分早く散るかと思いきや、温かくて風の少ない日が多いから、桜は案外長く咲き誇る。
丁寧に植えられて保護された学校の敷地内は特に長持ちだが、それでも入学式には散り切ってしまうのは、本土の桜と一緒だ。
おそらく大体の人がそう思うように、春寅も桜は美しいと思う。
特に、通学路に選んでいる道は、遮蔽物がないから、登校中でも学校の桜が咲いている様子が遠目からでもよく見える。
薄桃色に彩られた空気はほんのり甘いような気がして、春寅はのんびりと和やかな日差しを浴びて、ことさらゆっくりと歩いていた。
後ろから、いつものように声をかけられる。
「トラ!おはよう」
「おはよう、はじめ」
春先から、通学路を合わせるようになった本城とは、帰宅こそバラバラの日もあるけれど、登校は、毎朝一緒にしている。
時間を示し合わせたわけではないが、春寅が家を出る時間は決まっているため、本城の方がそれとなく合わせているのだろう。
今日は少し早めに出たというのに、何故か追いつかれた。
「なんか、ゆっくりだね。遅刻するよ?」
「ああ、俺が遅いのか......」
急ぐ気力もなく、ぼんやりと歩いていると、怪訝そうに顔を覗き込まれた。
「大丈夫?具合悪いのか?」
「うん?いや、大丈夫だよ。
眠いだけ」
言いながらあくびをこぼす春寅に苦笑しつつ、本城はふと真面目な顔になった。
「何か、悩みごと?」
「いや......まあ、そうかな」
この友人は、普段穏やかでのほほんとして見えるのに、たまにとても鋭い。
いつも気配りをしている人間特有の観察眼とでも言うのだろうか、と春寅は、内心、わざとふざけて考えた。
そうしていないと、自分まで真面目くさい顔になってしまいそうだったし、事はそう深刻でもない。
「俺でよかったら、聞くよ?」
「ありがと。
ああ、まあ、......父さんから連絡が来たんだ」
それだけ、と呟くと、大事な部分が抜けている事に気がついた本城が、首を傾げた。
茶化したところで彼が怒ることはないのがわかっているのに、試し行動のような子供じみた自分の行いを恥じて、春寅は一息吐いた。
「あっちの高校に転校した方がいいんじゃないかって言われてさあ」
「えっ。転校、するの?」
「いや、うーん......」
いままで放っておいたというのに、父は昨晩、急に電話を寄越して来て、進路はどうするのだ、大学はいくのか、その高校で大丈夫なのか、と春寅に聞いて来た。
「悩んでるの?」
「悩む.......ことかな」
「そりゃ、そうだよ。大事なことだよ」
すぐに頷かれて、本城が、こんな道端なのにきちんと話を聞いてくれていることに安堵した。
父の言い分も一理あるけれど、いまさら、という気持ちと、この島を離れがたい気持ちを、改めて春寅は自覚した。
春先に考えていた、ネガティブな方向とはまた違った意味で、この島を、ともすれば、この友人と離れがたいと考えている自分がいる。
母親が望んだ場所にいたいという気持ちも忘れていなかったけれど、いつの間にか自分でも望んでこの場所にいるのだった。
だけど、島自体を好きにはなれない。
馴染むことのできない、自分はよそ者だという考えは、拭うことのできないシミみたいに心の中にずっと存在している。
この狭い島という世界から、飛び出してやろうという本音もずっと根本にあったものだから、渡りに船のはずなのだけれど、諸手を振って行く気分にもなれない。
父への反発心だけではないその感情を、どう言い表したらいいかわからず、春寅は口を噤んだ。
「行きたくないの?
でも、春寅は進学希望だったよね」
「行きたくないわけじゃないけど。
進学したら、どうせ島は出るし」
「転校、しないと受験は確かに大変かもね」
「ああ、そうか......」
「でも、トラの成績なら充分だと思うよ。
こっちだって対策授業はあるみたいだし」
肩をすくめる本城は、さすがに進学校に通っていただけあり、現実的に考える頭を持っている。
それだけで、相談してよかったと春寅は思った。
この島にいると、競争率なんて言葉とはほぼ無縁だから、受験戦争なんて聞いただけで逃げてしまいそうだ。
「はじめは、進学、しないの?」
「うーん、考えたことはあったけど......」
彼は言葉を濁してはいるが、もともと暮らしていた場所では、それが当たり前の日々だったと以前こぼしていた気がするが、そんな気配は微塵もない。
「俺、いますごく居心地がいいから......。
島を出ることなんて、考えられないな」
甘えているのかな、と笑う本城が眩しくて、思わず春寅は口を開いた。
「一緒に行こうよ」
「え?」
「......今のなし。ごめん」
発してからでは言葉は戻らない。
わかってはいるが、春寅は咄嗟に出た自分の言葉を取り消したくて、目を逸らした。
桜の花びらが届くほど、学校が近寄って来ている。
こうして話ができるのも、もうわずかだ。
別に、転校するにしても今日明日ではないというのに、春寅は無性に寂しくなった。
だからつい、変なことを口走ってしまったのだ。
目を丸くして驚いた本城は、それでもやっぱり優しかった。
「嬉しいけど、それはダメだよ」
「うん、」
「一緒に行ってあげたいけど......」
「子供扱いするなよ」
春寅が気恥ずかしくなってそれこそ小さな子供のように鼻を鳴らすと、本城は朗らかに笑った。
内心、ほんのわずかに、こいつなら自分を選んでくれるかもしれないと、一瞬でも思ってしまったことに気が付きたくなかった。
それこそ、幼子じゃあるまいし。
けれど、どこかで寂しいから行くなと言われたい気持ちも否定できず、この男はそういうことは言わないだろうな、とも理解していた。
どう考えているかはともかくとして、春寅を縛るような言葉は口に出さないだろう。
それを魅力だと感じるのに、物足りなく思うのは、贅沢な悩みだろうし、友人の範疇を超えている気がして、春寅は渋面を作る。
「してないさ。
......本当言うと、俺、ずっとここで暮らしたい。
婆ちゃんと爺ちゃんのところで、こうやって」
「はじめ?」
「なんてね」
内緒だ、と人差し指を立てた本城は、大人びた、それでいてどこか寂しそうな、初めて見る表情をしていて、春寅は驚く。
それだけ心安らげる場所を見つけたというのに、寂しそうなその顔は、その暮らしの終わりを見つめているようで。
それは儚い表情だった。
「ずっと、居たらいい」
「うん?」
「居たいなら、居れば。
トヨ婆さんは喜ぶよ」
「うん、そうだね」
その表情を見ていたくなくて、けれどその美しさに目が離せなくなった。
そんな表情をさせている一端は自分にあるのかもしれないと思うと、どこか歪んだ優越感がヒタヒタと押し寄せてくるようで、自身の自惚れを嘲笑う。
そして、わざと春寅は、ぶっきらぼうに呟いた。
別れが寂しかったせいもあるけれど、この気の優しい友人が、少しでも楽しく暮らせるように、と初めて知り合った頃から、春寅は思ってきたのだ。
「畑手伝って、居たらいいよ」
「ありがとう、トラ」
本城も、春寅と同じようにきっと、たくさんの人に、島に居ることを問われたのだろう。
たしかにこの顔の整った友人は、ずっと島の中で暮らしていくには、洗練されすぎて浮いているようだけれど、本人はそれを頑張って馴染もうとしてきたのだし、そのおかげで居場所が出来て、そこに居たいと思うのなら、周りがとやかく言うことではない。
なぜ島に居るのか、拘るのか、それは春寅にも上手く説明できないし、本城にだってわからないかもしれないけれど、二人とも、居たい所に居るだけだ。
「大丈夫だよ、お前なら」
「そうかなぁ」
強く繰り返すと、ようやく本城は力の抜けた顔に戻った。
「トラも、行きたいところに行くといいよ」
「俺は......」
「うん?」
本城と離れることが寂しいのだと、なぜか喉が詰まって、言えなかった。
首を傾げて穏やかな微笑みを浮かべた友人は、春の幻のように美しくて、薄茶色の髪の毛が風に靡いている。
別れを意識して、はじめて、自分が育んできた気持ちに気がついた。
進路のこともあるけれど、春寅が眠れなくなったのは、主にその感情のせいだった。
友人に抱く想いではないことは、薄々わかっていた。
その髪の毛に触れたいと、また抱きしめてほしいと、考えるだけで、胸が苦しくなる。
離れたくないと伝えたら、隠しておきたい気持ちまで聡明な友人には暴かれてしまいそうで、春寅はどうしても、伝えることができなかった。
困らせるだけなのはわかっていたし、彼にようやく出来た居場所まで、奪う事になりかねないのだ。
それに、この優しい男に拒絶させることは、想像するだけで、春寅には耐えられそうになかった。
そう思ったら、口に出すことなんて出来るわけがない。
いつしか感じたみたいに、その胸になりふり構わず縋って、声を上げて泣きたい気持ちが湧き上がったが、やっぱり今度も春寅は、その気持ちを深いところへ見ないふりをして押し込んだ。
もう自分たちの通う学校は、すぐそこまで迫っていて、だから、春寅は、返事を待つ本城に背を向けて、遠く間延びしたチャイムの音を聞きながら、振り切るように早足で歩き出す。
追いかけてくる本城の声は、相変わらず低くて優しい声音だった。
そして、とうとう、本城の側に居たいと、特別な感情を抱いていると言えないまま、春寅は二年生の途中から、転校のために、母と過ごした島を去る事になったのだった。
10年後-1
あれから、十年が経とうとしている。
春寅は、まさかまたこの島に来ることになろうとは、考えても見なかった。
フェリー乗り場は記憶より、とても綺麗に建て替えされていて、広々としている。
利用客も、驚くべきほど増えていて、近頃人気の観光スポットになりつつあると言うのは噂ではなかったのだと、春寅は道中驚いていた。
フェリーを降りた客たちは、早々に散って行ってしまい、行く宛のない春寅は、一人ベンチに腰掛けて、行き交う船を見るともなしに眺めた。
春先といえど、日差しは強い。
ワイシャツにスラックス、革靴、そしてビジネスバッグを抱えた春寅は、どう見ても場違いだった。
引きずってきたキャリーケースに上着をねじ込んで、これからどうするべきか途方に暮れた。
それはかつて、春寅がこの島を出た時と、まったく同じ感情だった。
小学生から六年と少し暮らした島を出たのは、春寅が高校二年生の時だ。
父に言われるがまま編入試験を受け、転校したものの、知らされるまでその学校が全寮制であることを知らなかった。
てっきり父と一緒に暮らすものだと思っていた春寅は、拍子抜けなような、怒りのような、なんとも言えない感情を抱えたまま、脇目も降らず勉学に打ち込んで、付属の大学へは好成績で進学した。
父は、もはや春寅には興味がないようだった。
新しい女性の影もあったし、春寅が成人した時に、引き合わされ、そのすぐあとに再婚した。
春寅は、父が母を忘れられずに辛い思いをしているのだろうと思っていて、それは間違いではなかったのだけど、春寅が思うよりずっと父は強かで現実的なのだと、時が止まったような島の外に出て、初めてわかった。
子供のままでいられる島を、出てきた春寅は、ずっと内心自分が恐れていたことが本当になりつつあるのだと理解し、勉強に熱心になることでそれを忘れるようにした。
母を、忘れるのが怖かった。
それは父も同じだと思って、だから父を今度は支えようと、考えていた自分は、なんで幸せな子供だったのだろうといまは苦々しく思う。
人間は、忘れていく生き物だ。
それが、どんなに愛した人でさえ。
父を責める気持ちはないが、再婚して以来、お互いに干渉しないことが自然だった。
そもそも長年そうだったのだから、何らおかしなことはないのだ。
そう自分に言い聞かせ、大事に抱えていた母の骨壺を手放して、きちんと収めることが出来ただけでも、自分が島を出た意味はあるのだと思うことにした。
それなのに、何故だか片時も島で暮らした日々を忘れることは出来なくて、墓前に手を合わせている間は、島にいるような気さえした。
ずっと離れたくて、自分の意思で出てきた島を未練がましく思い出すことは滑稽な気もしたけれど、そうしているうちは母が側にいるようだった。
母と、もうずっと会っていない、友人。
春寅は、次第に、恋しいという感情に蓋をするようになった。
だが、長い時間をかけて自分との折り合いをつけた春寅を待ち受けていたのは、それよりも過酷な現実だった。
四年間の大学も、周りが遊ぶのを無視して、春寅はストイックにあろうと努めた。
そのおかげで有名企業に就職できたのも束の間、あれよあれよという間にわけがわからないまま、トラブルに巻き込まれて、春寅はたった三年足らずで退職することになった。
その後、再就職した会社で、またしてもトラブルに巻き込まれて、退職したのがつい先日。
ずっと前から春寅は、よく眠れず、食事も疎かで、日に日に弱っていった。
そんなとき、皮肉にも、一番心配してくれたのは父親だった。
春寅がどんどん衰弱していくのを見ていられないと、父は強引に病院へ連れていったり、食事を取らせたりしたが、一向に良くならなかった。
別にどこか体が悪いわけでもないのに、疲弊しているのは心だと、気がつくのに春寅も父もとても時間がかかった。
父は、決して責めたり見捨てたりしなかったが、もはや別家庭の一員でもある父を煩わせたくなくて、春寅はだんだんと距離を取るようになった。
そして一人で考え込む時間が多くなって、自分の疲れ切った精神を自覚してからというもの、なぜか忘れかけていた場所が恋しくて仕方なくて、気がついたら電車や飛行機を乗り継いで、この島に行くフェリーに乗っていた。
そしてどうしたらいいかわからないまま、フェリーはあっという間に乗り場に到着してしまった。
春寅の住んでいたアパートはとうに取り壊されているし、大家も内地に越して久しい。
本城は......。
一番の友人だったであろう本城はじめとは、何年も年賀状のやり取りをしていたものの、大学寮を出てから転居して、それきり途絶えて久しい。
あの頃は携帯電話なんて持っていなかったし、連絡する手段を持たずに、春寅はそのまま島や母親の思い出ごと、大切に頭の片隅に仕舞い込んだ。
十年も経つというのに、あの友人のことを思い出すときだけ、春寅は、高校生の頃の自分に返る。
大事に温めてしまった想いは誰にも告げられないまま、美しい思い出として変わらず胸の中にある。
いくら離れて考えてみても、その恋愛に似た感情が変わることはなくて、戸惑いは切ない後悔にも似た色で思い出を飾る。
一番心が疲弊した時に真っ先に思い出したのは、本城の、あの柔らかくて穏やかな声だった。
母を亡くして寂しかった時に、寄り添ってくれた友人の自分を呼ぶ、春寅、と言う静かな声音。
まだ、彼はこの島に住んでいるのだろうか。
彼の祖父母は健在だろうか。
すぐ側にいるかも知れないと思うと、会いたいのか会いたくないのか自分でもわからない。
ただただ、忘れかけていたあの恋愛感情を呼び起こすのが怖いと思った。
どうしてここまで来てしまったのか、と後悔のような、自己嫌悪のような気持ちさえ浮かんでくる。
十年という月日がどんどん巻き戻っていくような気がして、ベンチに座ったまま動けずに、春寅は、随分と広い空を眺めて、雲を数える。
観光客が来るくらいだから、泊まる場所はあるだろうけれど、飛び込みだから探さなくてはならない。
フェリー乗り場の観光案内で聞いてみたらどうだろう。
一方で大人の春寅は、冷静に考えているものの、いつまで経っても立ち上がる気にはなれなかった。
2
「あの......大丈夫ですか?」
「えっ?ああ、大丈夫です」
不意に声をかけられ、春寅は振り返る。
こうやって通りがかりの人に心配されることも近頃はよくあって、咄嗟に大丈夫だと返す言葉も、最近身につけた。
だから、春寅は相手の顔をよく見もしていなくて、名前を呼ばれて、驚いて顔を上げた。
「......春、寅......?」
「ッ?......はじめ?」
春寅は最初、あまりにびっくりして、先程からずっと脳内にいた男が、そのまま現れたのかと思った。けれどよく見れば相手も自分と同じように、記憶よりもずっと歳をとっていたし、痩身ではあるものの筋肉がしっかりついた体は幾分か逞しくなっていて、背も覚えているより少し伸びたようだった。
だけど、すらりと伸びた手足も、柔らかそうな薄茶色の髪の毛も、その柔和な表情を浮かべる整った顔立ちも、一目で本城だとわかるほどの面影を残していた。
「えっ、本当に、春寅?
どうしたの?観光?いや、里帰り?」
「お、おう......えっと、久しぶり。
里帰りではないけど、旅行......?でもないような」
「どういう......いや、えぇと」
驚いたのは相手も同じようで、けれど随分くたびれたし自分も歳をとったというのに、一目でわかってくれたことに、春寅はふつふつと嬉しさを感じた。
久しぶりに、感情がすぐに湧き上がる。
言葉も心なしかスムーズに口に出るが、長年のブランクはお互いを遠慮がちにした。
驚きから我に返るのは、本城の方が早かった。
「誰か待ってるの?」
「いや、ぼーっとしてただけ......」
「え?......行くところは、決まってる?」
「いや、」
力なく首を振る春寅に、本城は少し怪訝そうな顔をした。
その表情は、やっぱり大人の男のもので、見たことがないリアクションに、弱り切った春寅はちょっとだけ怖気付いた。
だけど、そんな春寅を知ってか知らずか、本城はよし、と頷いた。
「とりあえず、ここ暑いから、ウチに行こうよ」
「えっと......いいの?」
「当たり前!」
なんとなく様子がおかしいことに気がついているだろうに、おくびにも出さずに、本城は春寅のスーツケースを持ってスタスタと歩き出してしまう。
慌てて後を追うと、駐車スペースに止まった軽トラックに乗り込むのが見えて、春寅は勢いのまま、手で示された助手席のドアを開けて乗り込んだ。
軽トラックと本城は激しく似合わなかったけれど、慣れた手つきからして、なるほど彼の車らしい。
春寅にも見覚えがあるから、彼の祖父から譲り受けたものかもしれないが、そうするとこの車はよほど年季が入っている気がするし、その証拠に所々凹んでいるし、本城がアクセルを踏んでも、とてもゆったりとしたスピードしか出なかった。
パワーウィンドウもエアコンも壊れているらしいが、元々窓は全開だし、鍵も刺さったままだった。
颯爽と乗り込んで、迷うことなくハンドルを捌く本城は、なるほど、さすがに馴染みきっていた。
なんとなく新鮮で、運転する姿を眺めていると、チラリと本城の自然がこちらに向いた。
「春寅、暑くない?」
「暑......くない」
「はは、暑いよね」
屈託なく笑う声も、名前を呼ぶ低い滑らかさも、変わっておらず、春寅の心がコトン、と動く。
急に、忘れていたはずの想いの相手が成長して目の前にいる事実が迫ってきて、春寅は無意識に胸の辺りを抑えた。
「大丈夫?気分悪い?」
「いや......船酔いかも」
「今日はねぇ、ちょっと波が高いよね」
「うん、結構揺れた」
取り繕う春寅に調子を合わせてくれる優しさは変わっていなくて、むしろ十年経って、穏やかさに磨きがかかった気がする。
のんびりとした話し方は、島民ならではのなまりが少しだけ入っているような。
「俺はね、荷物を受け取ってきたんだよ」
「荷物?」
「そう。後ろの荷台にね、乗ってるでしょう」
たしかに言われて振り向くと、荷台にいっぱい段ボールが積まれていた。
これを受け取りに、フェリー乗り場へ来ていたらしい。
航空便の届かないこの島は、十年前と変わらずに船便でまとめて本土からの荷物が届くらしい。
それにしても多くないか、と思っていると、本城が笑った。
「これを、各家に配達するんだ」
「えっ?仕事中か?」
「ああ、まあ......でも大丈夫。
自営業?だからさ」
「は?」
詳しく聞くと、車もなく、配達員が配達しきれない荷物を老人の住む家に届けたり、誰かに頼まれて修理をしたり掃除をしたり、多岐に渡る、いわゆる何でも屋のようなことをしているらしい。
畑仕事の片手間に始めたことだが、高齢化の進むこの島では、副業といえど、案外忙しいのだと、本城は全然忙しそうではない顔で説明してくれた。
「はぁ、すごいな」
「いや、できることをやってるだけさ。
俺がこうしていられるのは、春寅のおかげだよ」
「えっ、俺?」
いきなり自分の名前が出てきて、驚いてそちらを見ると、前を向いたまま、本城は頷いた。
「高校生のとき、島に居たいなら居たらいいって言ってくれたでしょう」
「ああ、うん」
「ああ居てもいいんだ、って思ったんだよ。
それからは、どうやってここで暮らしていくかを、ずっと考えてたんだ」
「......」
春寅が、自分勝手に父に失望したり、粋がっていたのに職を辞めて体を壊したりしているとき、この男は前向きにこの島で生きてきたのだと思うと、眩しくて仕方がなかった。
春寅が狭くて嫌で仕方がなかったこの島で、生きがいを見つけて、しっかりと島民として生きている。
それを思うと、本城に一端のアドバイスをした自分が恥ずかしいような気がした。
「......はじめは、えらいな」
「俺なんかより、春寅の方が偉いよ。
行きたい場所に行って、大学まで出たんだから」
「大学......」
それは、遠い言葉に思えた。
あの頃は、進学をするのに精一杯で、その先を見ていなかった。
高校生の春寅が、未来の自分を見たら、どう思うのかと思うと、考えただけで気が滅入りそうだった。
「はい、着いたよ!」
「ああ、ありがと......」
それきり沈黙してしまったものの、すぐに車は目的地へと着いた。
あれから十年も経ったのに、当たり前だが、本城の家はそのままの姿でそこに存在していた。
昔から古かったが、不思議なことにそれよりも古くなっている感じがしない、と本城に伝えると、中は結構老朽化していると苦笑して返された。
3
「あれ、まあ。トラ坊、大きくなって」
「久しぶり。トヨ婆さん!」
孫と一緒に帰ってきた春寅を見て、トヨ婆さんは驚いたものの、やはりすぐに春寅を見分けてくれた。
そんなに大きくはなっていないだろう、と思いつつ、春寅は笑った。
記憶より、やっぱり一回りも二回りも小さくなって歳を取っていたが、トヨ婆さんは元気そうで、安心した。
「はいよ、また会えて嬉しいなぁ」
「俺もだよ」
「何の、婆はいつ死ぬかわからんで」
「いやすごい元気そうだよ」
「ごめん、トラ。
最近の婆ちゃんの冗談なんだ」
老人のブラックジョークに何と返していいかわからずにいると、すかさず本城が横から口を挟んだ。
相変わらず、気を配る性格らしい。
そんな孫に、トヨ婆さんは悪戯っぽく笑った。
「ほれ、はじめ。
トラとゆっくり喋りたいけん、
早よ配達して来ンさいよ」
「わかってるよ、行ってくるね。
すぐ戻るからー」
「えっ?いってらっしゃい......」
見送る間もなく、颯爽と身を翻して、本城は軽トラックに戻って行ってしまった。
配達をしなくてはならないらしいから、トヨ婆さんの勧めに従って、春寅は、家に上がらせてもらうことにした。
「本当に、久しぶりさね」
「うん、そうだね。
爺さんも元気?」
「何の、元気よ。
漁はもうしとらんけどね」
「そっか......」
「毎日暇そうさ」
はは、と笑うと、トヨ婆さんも安心したように笑った。
もしかしたら春寅は、自分で思っているよりずっと憔悴して見えるのだろうか、とぼんやりと思った。
「トラ、何で急に帰ったと?
あのアパートも、もうないよ」
「知ってるよ。
なんでかな......なんか急に来たくなったんだ」
「そうか、そうか。
そういうもんさね、故郷なんてさ」
「故郷......」
トヨ婆さんがうんうん、と頷いて、当たり前のような故郷と口にして、思わず復唱してしまう。
そう思ったことはなかったけれど、たしかにこの島は、春寅が子供時代を過ごした故郷と言えるのかもしれない。
「帰る家はさ、ここにあるね?」
「トヨ婆ちゃん......」
「ずっと居たらいいさ、気の済むまで」
「いや、ずっとは......」
トヨ婆さんは昔から、春寅に対しても孫のように接してくれていた。
十年も音信不通なのにいきなり来て、それでも受け入れてくれる優しさに、春寅はうっかり泣きそうになり、頭を振った。
「居たらいいさ。
はじめも喜んでるよー」
「喜んでた?本当に?」
「そりゃそうさ。どうした?」
「いや、......そうだよな」
あまりにも普通に接されてほぼ忘れていたが、連絡を絶った古い友人がいきなり来て、果たして嬉しいものなのか、春寅にはわからない。
春寅自身は会えてよかったと思うのも本当だが、蓋をして埋めたままの恋情が、ふとした弾みにまた思い起こされるのではないかと気が気ではない部分もある。
本城の方にそんな葛藤はないだろうから、喜んでくれているなら嬉しいと春寅は思った。
腹は減らないか、眠くはないが、疲れたろう、と世話を焼くトヨ婆さんに甘えて、春寅は本城の部屋に上がらせてもらった。
トヨ婆さんの中では孫も、十年ぶりだというのにその友人も変わらずに子供の時のままのようで、当然のように同じ部屋に通されて、泊まるように促される。
「ありがと......でも、良いのかな」
「なんの、良いに決まってるさ、ね?」
宿が決まっていなかった為ありがたい申し出だが、部屋の住人もいないのに決めていいのだろうか。
トヨ婆さんに聞いても暖簾に腕押しなので、本人が帰ってきたら聞いてみようと、開き直って、春寅は体を休める事にした。
トヨ婆さんは何かあったら居間にいる、と言い残して、春寅を一人にしてくれた。
ここまで、勢いで来たとはいえ長旅で、自覚していなかった疲れが、一人になった途端、どっと出る。
最近は特に、仕事を辞めてから暫く外に出ることもなくなっていたというのに、いきなり大移動で、体も驚いたのだろう。
いっそ清々しいような心持ちで、春寅は窓を開けて、遠くに見える海を眺めた。
昔はあんなに嫌いだったというのに、今は穏やかな海を見ると落ち着いた。
離れてからというもの、しばらくは海のない生活に慣れなくて、あんなに煩わしいと思っていた波の音が聞こえないことに戸惑ったことを思い出す。
こうして海のそばに戻ると、体が自然にその細波に馴染む。
いくら頭で拒んだところで、春寅の体は、育った環境を覚えていると思うと、なぜか嫌な気分はせず、むしろ、故郷だというトヨ婆さんの言葉を裏付けるようで、少しだけ嬉しいとさえ思った。
あんなに見慣れて、早く出たいと思った島が美しいと思い出すのに、結構な時間がかかった。
大人になった今は、楽園だと称する人々の気持ちがわかるような気がして、春寅は飽きもせずにずっとキラキラと光る海を眺めていた。
4
海に入ったことはないのに、海の中で漂う夢を見た。
明るいエメラルドグリーンの水は透き通って、水底まで太陽の光が届く。
海の中から見上げた太陽は、白くて眩しい。
まっさらな白い砂が波模様を滑らかに作り出していて、その上を小さな、けれど鮮やかな色の熱帯魚が群れをなして泳いでいく。
海底は暖かくて、春寅はゆっくりとした揺れに身を任せながら、心地よくて目を閉じた。
「トラ、トラ。帰ったよ」
「んん、......はじめ......?」
「うん、寝ぼけてるね?おはよう」
いつのまにか座ったまま眠ってしまっていたらしい。
春寅がゆっくりと体を起こすと、文机の跡が頬についていると、本城が笑った。
開け放したままだった窓の外を見ると、もう夕方のようで、西日は空から海まで、一面を茜色に染めていた。
ヒヤリと寒い風が入ってきて、慌てて窓を閉める。
「おかえり、お疲れさま」
「うん、ただいま。
海、見てたのか?」
「うん、......なんか、懐かしくて」
「あんなに嫌いだったのに?」
「......言ったことあったっけ」
「見てれば、わかったよ」
首を傾げる本城は、なんでもわかっているような目をしていて、春寅は本当に、高校生に戻ったような気分でその薄い色彩の瞳を見上げた。
「トラ。
明日もね、配達とか用聞きで島中周るから、
元気があったら一緒に行こうよ」
「うん......」
「奥沢の方とか、山の方とか色んなところに行くよ。だいぶ様子も変わったから、面白いと思うよ」
食事の席で、トヨ婆さん手製のおかずを頬張りながら、本城は終始ニコニコと楽しそうだった。
高校生の頃、ちょっとだけ遊びに来たつもりの春寅を、夕飯を囲む時間まで引き留めるのに成功した時と同じような表情だった。
本城だけではなく彼の祖父母も、何の連絡も寄越さず突然訪問して来た春寅を歓迎してくれていることが伝わり、春寅はようやく肩の力を抜いた。
事情にはさして突っ込みたくなくとも、島を離れたあとの春寅のこれまでのことに少なからず興味があるだろうに、誰も何も聞いてこないが、それは自分の様子がそうさせていたのかも知れないと、周りを気遣うことのできる余裕のない自分を、春寅は少しだけきまり悪く恥じた。
そして、本城の提案を聞いて、まず最初に、ああやっぱり本城もあの方面を奥沢と言うのだ、と思った。
奥沢も、山の方も、春寅の住んでいたところより北西部に位置していて、昔はそのあたりに住む人もあまりいないような、奥まった印象の地域だった。
買い物をするところも、フェリー乗り場も、役所も、学校や何かも全て島の南側に集まっているから、島民は、自然に親しむ目的か、畑や牧場を持つ人たちしか用がない場所だった。
そこを、近年開発しているらしいことくらいは、春寅でも知っているが、何があるのかまでは詳しくない。
島に住んでいた頃は子供だったし、誰かに乗せてもらったりということもなく、車に乗ることのなかった春寅は、その六年の間に、結局一度もそちらの方面に足を踏み入れたことはなかった。
自転車で無理をすれば奥沢にも、山のふもとにも行けると聞いたが、田舎道は車がとてもスピードを出すから危ないと幼い頃に母に言い含められていて、その言いつけを守ったまま、高校生になってしまい、当時の春寅はさして興味もなかった。
だから、テレビでこの島の、注目アウトドアスポーツと称して、その場所が紹介されると、毎回不思議な心地がしたものだった。
山にも川にも、むしろ子供たちが単に海辺と呼んでいた場所にさえ、きちんとした名称がついていることに、島を離れて初めて知り、かすかに衝撃を受けた。
もちろん、学校の地図で開けば〇〇岳、〇〇川、〇〇海岸、と続く名前が確認できたろうが、昔から住んでいる島民たちにとっては、そんなものが無くても通じるのだった。
山は、山。
川は川で、その支流の穏やかなところに奥沢。
海は海。
それで通じてしまうので、逆に正式名称を持ち出して尋ねても、首を傾げられてしまうことも多い。
他を知らない土地柄ゆえか、それとも本人たちにとって大切なものはそこにあるものだけだからということなのか、と春寅はテレビを見ながら考えたものだった。
だから、本城が自然に、奥沢、山、と口にしたことにも、それを都会から戻ってきた春寅にも通じるだろうとして使っているところが、些細なことなのに、なんとなく嬉しかった。
そんな男ではないとわかっているが、観光客のように案内されたり、お客様として扱われたらどうしたらいいのかわからなかったことだろう。
それに、春寅を同乗させるのも、彼の仕事のついでだ。
もちろん、戻ったばかりの見るからに体力のなさそうな春寅が役に立つことはないだろうし、むしろ邪魔になりそうなのに、朗らかに、そして良いことを思いついた、という顔で提案してくるあたりは、流石である。
尊重されすぎず、かといって邪険にするでもない、優しくて絶妙に気を使う本城の性格は今も健在のようで、むしろ島民同士や観光客とのやりとりさえあるのか、昔よりもずっと人同士の会話に慣れているような感じがした。
かつての高校生のときの不器用そうな少年は形を潜めていたけれど、それは向こうから見た、春寅の方とて同じだろう。
何の予定も持たずに帰ってきたので、断る理由のない春寅はもちろん、二つ返事で、明日の同行を買って出た。
その夜、春寅は、久しぶりに安心して深く眠ることができたのだった。
5
翌朝、鳥の声を遠くに聴きながら春寅が目を覚ますと、横に眠っていた筈の本城の姿はなく、綺麗に畳まれた布団が、積み重なって置いてあるだけだった。
寝返りを打って、天井の木目を眺めていると、だんだんと頭がはっきりとしてくる。
目を開けたとき、自分が何歳なのか、どこにいるのか、わからなくなる時があって、昨夜は特に懐かしい部屋の懐かしい布団で眠ったものだから、春寅は一瞬、自身が未だに高校生であるような気がしたのだった。
だが、起き上がった時にはすでに脳が覚醒していて、自分があの頃ほど、夢も希望も、この島から出て行くという確たる目標すら失った大人であることを思い出す。
それでも、今日も自分が目を覚まして、手足を動かしていることに安堵する。
そんなことを思うこと自体おかしな話かもしれないけれど、ゆっくり眠ったあとなので、万全とは行かずとも、体も思考も回復している気がして、昨日のあの絶望にも近い空虚感から、まあなるようになるか、位にまで、気分が良くなっていた。
それも、美味しい手料理と、温かい人情のおかげだろう。
それなのに、自分ばかり寝ているわけにはいかない。
布団をきちんと畳んでから、机の向こう側の窓を開ける。
朝靄に霞む海に反射する太陽の光から、そこまで寝坊したわけではないと気がついた。
漁に出る船はもうそろそろ帰る頃かもしれないが、まだポツポツと浮かんでいたし、開け放たれた窓の外から流れ込んでくる空気はひんやりと冷気を帯びている。
きっと今日もこれからどんどん暑くなるだろうが、春先の、まだ太陽の上りきらない束の間のこの時間は、長袖が必要なほど寒い。
春寅は、椅子の背に無造作にかけてあった、本城の物と思われる上着を手にとり、勝手に借りた。
体格も背もそこまで変わらない気がするのに、少し自分には余るのは、気にかけないことにする。
温かくなってから改めて窓の外に身を乗り出すと、
少し離れたところにある畑の中に、見知った薄茶色の頭が見えた。
半袖に長靴、タオルを首に巻いた姿はどう見ても農家の人だったが、向こう側を向いたその顔が、実は都会の芸能人もかくやというほどに美しいことを知っているので、春寅はなんともいえない気分でその姿を眺めた。
忙しく立ちはたらいてはいるものの、まだ収穫の時期ではないらしく、水に濡れた植物の中を、雑草を取ったり、様子を見たり、手製の水のような薬を撒いている。
昔よりその規模が減って、植えられている種類も減ったように見えるが、もともと漁業の片手間に、自給自足の足しと、近隣住民との付き合いのためにトヨ婆さんと、孫が来てからは二人で取り仕切っていたような畑だったから、本城が外周りに行ったり、老夫婦が歳を取ったりした分、育てる分も少なくしていても不思議はない。
窓の外から目を離し、部屋の外に出る。
用を足し、顔を洗うと、ようやく気持ちがシャッキリとした。
廊下の向こう側からは、トヨ婆さんが立ち働く音が聞こえてきて、一仕事終えて帰ってくる爺さんや、畑の世話をして来た孫のために、朝食を準備しているのだろう。
その場に、何食わぬ顔で寝起きのまま座りタダ飯ぐらいを貫くのは流石に居心地が悪いので、春寅は足早に台所へ向かう。
普段から自炊をしない、しかも家人ですらない春寅が手伝ったところで足手まといなのだが、高校生の頃から、トヨ婆さんは迷惑そうなそぶりなどひとつもせずに、あれこれと簡単なことを申し付けてくるから、気楽なのだ。
玉暖簾をくぐると、鍋をかき混ぜていたトヨ婆さんは、やはり高校生の頃、むしろ、知り合ったばかりの、小学生の時分から変わらない笑顔をこちらに向けた。
「おはようさん、トラ坊。よく眠れたけ?」
「おはよう、トヨ婆ちゃん。寝過ぎた。ごめん」
「なんの、いいさね。
食事時になっても寝てたら困るけど、ちゃんと慌てて起きてから、手伝いに来たんじゃろ?」
顔洗ったか?と聞かれ、うなずいて答えると、よしよし、とまるで本当に幼い子供にするように大袈裟に褒められて、気恥ずかしくなる。
だが、春寅のそんな気持ちなど意に介さず、トヨ婆さんは手を止めずに料理を続けているので、春寅も手を洗ってから、その横に並び立った。
「ん。こっちの煮物、取り分ければいい?」
「そうさね。ああ、さきにこっちの味を見ような」
「うん、貸して」
最初こそ方言に戸惑ったものだったが、いまではスムーズに意思疎通できる。
トヨ婆さんはそれでも元々内地に住んでいた人で、若い時に結婚して嫁に来てから島入りした人だから、話す言葉には郷里訛りも混じっているし、子供たちはもういい歳で都会や地方各地に住んでいてその言葉も混ざっているから、純粋な島方言ではない分、わかりやすい方である。
昔はそんな人でも島外から来たということで随分余所者扱いされたものだよ、と以前軽く話して苦笑していたが、その中で結婚し、子供を持ち、自分の生活をしていく苦労を慮ると、トヨ婆さんがどうして笑って話せるのか、年の功だよ、という言葉を春寅は眩しく思う。
トヨ婆さんの時代では、島内で結婚し、血を濃くして、密接していくのが良いことだとされたから、外から嫁を取るのは結構なことだったらしい。
それでもトヨ婆さんでさえすごく疎遠とはいえ遠縁に当たる家だったから許されたと聞いたときは脱帽した。
春寅が住んでいた頃なんかは、他所からお嫁さんが農家などの代々続く大きなお家のところへ来てくれると、それは盛大にお迎えが来ていたり、分家の子供達まで呼ばれたり、それこそ関係のない余所者である春寅の家にさえ、紅白饅頭くらいのものだったがお祝い品が配られるほどだった。
それでさえ、もう十年も経ち、観光産業に栄えつつある島として確立してきた最近では、時代遅れと言われてしまうのだろうな、と春寅は、味噌汁に味噌を溶かし入れながらぼんやり思った。
お玉の中の味噌を菜箸で解していくと、お湯にスルスルと混ざり合っていく。
こういうふうに、外部から来たものを、どんどん取り込んで行ったら、この島はあとまた十年、二十年したら、どんな風になっていくのだろう。
春寅の心中には、新しい風を感じる喜びより、懐かしい場所が変わっていく不安の方が大きかった。
だけど、この穏やかな老夫婦や、その孫は、何のことはないと言うのだろう。
味噌が溶けた方が美味しい味噌汁になるのだから、と、笑ってしまうほどに、生活に根付いた考え方で、春寅を安心させてくれることだろう。
想像して、春寅は、少し笑った。
台所は狭くて温かい湯気が体に当たる。
借りていた長袖を着ていると、暑いくらいだった。
6
「今日はねぇ、最初に荷物を載せて、海沿いから山の麓まで登るルートだよ。もちろん車だけどね。
そのあと奥沢の方を抜けて戻ってこようね」
「奥沢の方から戻ると遠回りじゃないのか?」
「いや、いまは海沿いルートは結構観光客で混むからね。中道の方が空いてるよ。
それに、そのあと学校でも見に行こうかと思って」
「学校?高校?」
「全部、全部。小中高にね配達があるよ」
朝飯を食べ終えて、フェリーの着く時間まで軽トラックを二人で適当に洗いながら、予定とも言えないほどのルートを決める。
普段は本城一人でこなしていることなのだから、彼に任せきりにするのが一番確実なのだろう、とたまに口を挟みながらも、春寅は一々頷いた。
それに、こうして誘ってくれたのも、沈み込んだ様子で久しぶりに会った春寅に対する気遣いなのだろうから、なるべく仕事の邪魔にはなりたくないところだった。
しかし、そんな春寅の思いとは裏腹に、本城は終始のんびりとしていて、ずっと以前から二人でやってきた仕事であるかのように自然に振る舞った。
「そんなに丁寧にやってもらっても、もう傷だらけだからマシにすらならないんだけど、ごめんね」
「ああ.....ねぇ、だってこの車、俺、高校の時から見てる気がするんだけど」
「そりゃそうだ。爺ちゃんの車貰っただけだからさ」
「ボロボロだけど、いつもそんな遠くまで配達してるんだな。偉いな」
「だからねー。もうコイツに頭上がらない人はたくさん居ると思うよ」
それは本城にも頭が上がらない人が島中にいるということでは?と思い、春寅は、のんびりしているようで、けれど確実に地域に根差す方向で仕事をしている友人の楽しそうな横顔を、尊敬のような、羨望のような気分で見た。
「あんた、大層な仕事始めたね」
「そんなことあったら良かったんだけどな。
成り行きみたいなもんさ、要は何でも屋の使いパシリだし。少し前までは、余所者が馴染むにはなんでもやらなくちゃと思っていたからさ」
現職の配達員や修理工だって島内で営業しているし、商店もある。最近では宅配サービスで通販からスーパーのおかずや惣菜まで届くのだから、案外競合者はたくさんいるということだろう。
それでも、細かいところに手の届かない配達や、修理工に頼むほどでもないような雨樋の掃除とか、日々の細やかな困りごととかを相談されたり、話し相手になったりして安否を確認したりと、本城の仕事はそういう多岐に渡る、本当になんでも屋なのだそうだ。
最初は近所の頼まれごと程度だったのに、最近は畑仕事にまで駆り出されて少し困る、と苦笑する本城は、確かに昔より日焼けして、薄茶色の髪の毛はざっくばらんに伸ばしてあって髪量こそ多いが、さらに色素が薄くなっている。
それでもふとしたときに髪の隙間から垣間見る、無邪気な瞳は変わっていなくて、目が合うたびに、春寅の心臓は不整脈のようにザワザワと波打つのだった。
「さて、そろそろ行こうかね」
「ああ、あのフェリーかな」
「そうそう、大きい方ね。
観光フェリーは小さい方、迂闊に近寄ると乗り降りのお客さんの波に巻き込まれるから気をつけてね」「ラジャー」
玄関から声をかけて、車に乗り込むと、程なくしてフェリー乗り場へ到着する。
この時間はまだ道も混んでいないから、すぐに着けるし、ギリギリまで桟橋に近寄せて車を入れられるから楽だと本城が、案外雑な運転で港へ侵入していく。
車を降りて歩きだすと、程なくして繋がれた小さい方のフェリーから、踏み板を我先にと、人が次々に降りてきた。
都会でたくさん人混みに紛れ、満員電車で潰されてきた春寅には、離島に着く観光フェリーの客たちの群れなどかわいいものだったが、それを掻い潜る本城の足はそれよりもっと淀みなくて早い。
春寅が慌てて、置いていかれないようについていくと、もうすでに荷下ろしが始まっては終わってという有様で、それをチェックしていく業者同士も早業のように何かを話している。
本城は、自分の分の荷物が全て手元に来たか確認しつつ、今日の配達先毎に纏めて積みなおしているようだった。
魚河岸のように怒号が飛び交うわけでなく、また、業者がそこまでたくさんいることもなく、重機の類すら動かさないのに、観光フェリーの真横で醸されるには熱気の密度が濃い。働くものたちの雰囲気が、素早く移動していく。
ここは手伝えなさそうだと早々に悟った春寅は、本城の許可の出た荷物をトラックの荷台に詰む作業に徹した。
それだけでも、日用品や農業用品、道具や書物など、ずっと持ち続けていると重い荷物ばかりである。
荷台に無造作に干されていた軍手を借りてはめておいて正解だった。
そう多くはない量とはいえ、本城も合流して、全て積み込む頃には二人とも汗だくだった。
普段からこれを一人でこなしている本城に、ますます春寅は尊敬の眼差しを送った。
久しぶりに軽微といえど肉体労働をした自分は息がなかなか整わないのに比べ、本城は一息吐いただけでもう次の仕事に移れそうなほど涼しい顔をしている。
本城が買ってくれた缶コーヒーを飲みながら、車内に戻っても、エアコンは壊れているし、パワーウィンドウは半開きで、春寅は面白くなってきてしまって、笑って、冷たいコーヒーを一気に飲み干した。
「ごめんね、最初から疲れたよね」
「いや、......すまん。
実を言うともっと舐めてたわ。大変なんだな」
「いやぁ、今日は特に多かったよ。
もう大変なのはこの作業だけだから、あとはどんどんおろしていくだけさ。楽だよー」
「本当だといいな」
「嘘じゃないよ!」
若干くたびれた様子の春寅に気を使ってか、本城は伝票をバインダーに閉じながら励ましてくれる。
その二の腕の筋肉を見て、ああなるほどな、と春寅はこの荷積み作業で納得した。
聞けばほぼ毎日毎朝、場合により昼・夕便もあるのだというから、フェリー乗り場で春寅が拾われたのも、偶然というより当然のことだったのかもしれない。
「これでも本職の人たちよりは少ないからねぇ。
この車にも限度があるしさ」
「そうだよなぁ。途中で止まったりしないよな?」
島では晴れていても山の方などに行くと突然、雨に降られることがあるから、荷物に雨除けの布を覆いかぶせておく。
この布一枚だってそれなりの重さがあって、春寅は一人で持ち上げられない自信がある。
二人がかりでなんとか荷台を覆うと、漸く見慣れた配達用の車、という風体になった。
「お疲れ様、トラ。
まだまだこれからだけど。行こうか!」
「おう、よろしくな」
車に乗り込み、ノロノロと港を後にすると、山の方面から来たトンビが、スーッと空を横切っていくのが見えた。
オンボロな車の中で、友人のやけにうまい低音の、だけど選曲が、顔に似合わず古くて渋すぎる演歌を聴きながら、海辺のドライブというのも、悪くない、悪くない。
春寅は、クッション性の薄い助手席で、無意識のうちに、始まった今日という日を、楽しみ始めていたのだった。
7
「ねえ、トラ」
臨場感あふれる演歌を歌っていた声のトーンをフッと下げて、本城は神妙顔をした。
ペットボトルの緑茶を飲みながら、これはとうとう来たのか、と春寅はこっそり唾を飲んだ。
「向こうでは何をしてたの?」
「うん?」
だから、本城のあんまり遠回しな質問に、張り詰めていた緊張も置いて、間抜けな声が口から出た。
「何って.....ほぼ勉強だよ。
そのあと就職して。辞めて、戻ってきた」
それだけだよ、とかなり端折って説明すると、本城は微かに悲しそうに目尻を下げた。
そうすると、確かに年相応のシワが寄るのだけれど、コイツの場合笑い皺だろうな、と春寅は、眉間のシワを指でほぐしながら思った。
「大学では?何を勉強してたの?」
「んん......勉強することに意味があったから、いまはもう語れるほど覚えてねえよ」
「それは嘘でしょう。ね?何かないの」
この男は昔から、話しやすくさせるのがうまいところがあった。春寅が単純なだけかも知れなかったけれど、聞き上手なのだろう、と色々な人間を見てきた後では思う。
聞き上手で、穏やか。
場所が場所ならばカウンセリングや心理士に向いていそうな男だ。
「大体は文化系のことを学んでて......、民俗学とか文化史とか、あとはまあ資格取るのに忙しかったよ」
「じゃあ帰ってきたのもフィールドワークとかだったりするの?」
「そんなわけねぇよ。もう学問からは遠ざかってるって」
「遠ざかるものなの?学問って」
言って、本城はおかしそうに笑った。
確かに学びの場からは離れて久しいが、考え方や根本に教えられたことが残っている事も多く、習った民俗学を通して、この島の過去から未来を垣間見る考え方も無意識にする。
そう考えると、学問は理解し、体得していさえすれば、いつも身近にあるものなのかも知れなかった。
それこそ、生活に密接してきた知恵や知識を学ぶという、自分の選んだ学問の真髄とも言える。
外から見ないと分からないものもある。
この気の優しい友人に、これだからインテリジェントは、などと間違っても思われないように気を付けよう、と春寅は自分を戒めた。
「資格は何を取ったの?
俺なんか運転免許だけだよ、未だに。
いっそフラワーアレンジメントとか取ろうかなとか考えたりするよ」
「似合いそうだが、この辺では店にならないかもな?」
「巨大冷蔵庫が必要かもなー。
でもイベント専門なら出来ないこともないのかも。
って、俺の話は良いんだよ。トラ!」
それとなく逸らした話題を元に戻される。
確かにこの友人ならどこで何の仕事についてもうまくやっていけそうだから、春寅はこれ以上先を語るのに、自分の間抜けさが露呈しそうで躊躇するのだ。
「資格はー......図書館司書、と一応教員免許」
「えっ?!トラ、先生になるの?」
「ならないよ」
「ならないのになんで?」
ごく一般的な反応をする本城が面白くて、春寅は片頬だけ持ち上げて笑った。
確かに、ついでに取るような簡単な免許ではない。単位だって授業だって、一人前の先生に仕立て上げるためのカリキュラムがたくさん詰め込まれていた。
春寅が辟易したのは教育実習だったけれど、春寅が行った学校は、この島と同じくらいに生徒数が少なくて、先生も数少ない仲間を大切にする環境だったからなんとかなった。
都会の進学高で大勢の中に行く実習であれば、いまごろ春寅は免許を諦めていただろう。
それほどまでに、教育免許に関してはさほど興味もないのに、何故か間違った方向に努力した結果、取得できてしまったもので、必死に頑張っている人たちがいる中で、春寅はいつも居心地の悪い思いをしながら勉強した。
「まあ、そっちは置いておいて、司書ね。
そっちの方が確かに、トラっぽいよ」
「ああ、俺もそう思う。
だけど、司書にはなれなくて、
結局卒業したあと、違う仕事に就いたんだ」
「そうなのか」
本城は、だんだん真面目な顔になって、春寅の話を聞いてくれる。
本人としては、もう少し軽く聞き流してくれても良いのだけれど、この友人はそういうタイプではないし、それが分かってて春寅も相談を始めた。
図書館司書の資格は、春寅がよく行っていた大学の図書室で知り合ったベテランの受付の人から薦められて取った。
確かに本が好きで図書室に入り浸るような自分にはうってつけな仕事だと思って、頑張って資格を取ったものの、この仕事は何と言っても倍率が高い。
特に、古い学校などではいまだに女性優位の採用率ということも少なくない。
狭き門を目指し続ける根気はだんだんとなくなり、卒業も近づいて焦った春寅は、並行していた就職活動中、いくつか内定を貰って、結局、その中から一番良い条件をくれた会社に就職したのだった。
そこからのことは、思い出すのもまだ辛い。
「最初に入った会社は、条件が良かった時点で怪しめばよかったんだけど、いわゆるブラックでさ」
有名な名前の知れた会社で、名前を聞いて安心してしまったのがいけなかったのか。出版社や本屋に営業をかける仕事、と聞いていたが、新しい分野の雑誌を立ち上げたり、記事を書いたり、という仕事をしていた頃はまだ良かった。
本や雑誌を売り込んだり、次に発掘されそうな無名の人をスカウトしたり。まだ本に携わることは楽しくて、しかしその頃からすでに深夜早朝の残業は手当てとろくにつかず、休みもどんどん減っていった。
一応自分では頑張っていたつもりだったのだが、何か違ったのか、それより張り切りすぎたのか。
そして、気がついたとき、春寅はどこで目をつけられたのか、全然うだつの上がらない、次々に送られる什器や何だかよく分からない物を売り込む営業職へと異動させられてしまっていたのだった。
それは、異動とすら呼べなかった。
春寅には拒否権もなく、また事前承諾も、引き継ぎすらファイル一冊手渡されただけだったのだから。
持ち前の負けん気を発揮して、そのよく分からない商品たちと悪戦苦闘する日々を送っていた春寅は、それでもなんとか毎月の売り上げが上がるようになっていった。
春寅は昔から本屋などによく出向くから、どこにどんな什器があればもっと魅力的な店にできるか、なんとなくわかることもあって、店員さん達と相談しながら、いかに商品の什器を使い、より良い店を作るかという方向へと変えていった。
出版社にも細やかな場所を整理するために惜しげもなく自社什器を試しに設置してもらって、使いやすいと声を貰えば追加し、運搬から設置まで何もかも手を尽くした。
なにしろ一人しかいないのだから、文句を言う人もおらず、春寅はむしろ無理難題をこなしていく心地よさを感じるようにさえなった。
その頃のことは、取引先の誰彼と楽しく、ときに険悪な時もあったが相談しながらことを進めて、まるで文化祭のような思い出でもあったので、自然顔には笑みが浮かんだし、語り口もぽんぽんとしていた。
それを聞いていた本城も、自分がその場にいたかのように笑ったり、困ったり相槌を打ってくれた。
8
だが、やはり当初の異動こそが罠だったと、気がついたのはそれより一年もすぎた頃で、そんなに遅くなって発覚したのは、春寅がなんとか事業を立て直してしまったからなのだが、それこそ笑えない冗談だった。
元々は、少し調子の良さそうな、つまり先輩からみて気に食わないとか、調子に乗っているとか、そういう下らない理由だった。
毎年彼らはたくさんいる新入社員から、そういう条件に当てはまる新人を、売れない商品の担当にするらしい。
大概は根を上げるか、失敗して損を出し、それを会社が責任を取るという形で、追い込むらしい。
だがまれに春寅のように成功する社員も居て、そうした場合はそのままその事業を任せれば、新しい売り部門と、その道に精通した営業ができるというわけだ。
春寅は一応そのくだらない試験に引っ掛かったが、合格したため、出世とは名ばかりに、少しだけ肩書きを変えて、雀の涙ほどの給与アップを与えられ、元々は在庫の動かない什器を延々と担当させられるようになっただけだった。
しかし、出世と大々的に褒めそやされては、同期からはやっかまれ、むしろ逆だというのに取り入って担当に優遇してもらっただとか、様々なことを言われた。
自分をはめる気で、そして他の新入社員をこれまでにたくさん、それとは分からない姑息な手口で嬲ってきたのであろう上司たちが一様に自分を褒めたり、いきなり友好的になるようになった。
春寅は、ついにとうとう街中を歩いていても、店先に置いてある陳列棚の中にみたことがない変な形の什器が組み合わさっている様子にしか目が行かなくなり、出版の機械が少しでも変な音がすると部品を新しくしてみたくなったり、解体したくなったり、四六時中売るべきもののことを考えるようになった。
店は什器をそう頻繁に新調することはないし、機械もそう簡単に壊れたりしない。
いつも新規開拓と売り上げに怯え、いつでも売り込めそうな場所を目星つける癖がついた。
紛れもなくノイローゼだった。
明くる朝、社の駐車場内で、出勤のために乗り込んだバンの中で気を失っているところを発見され、医務室へ運ばれた。
久しぶりに感じる布団の感触を味わっていると、産業医と部長の静かな会話の聞こえてきた。
「過度の疲労とストレスだと思いますよ」
「だが彼には頑張って貰っていて、
今日だってこれから売り込みに行くんだったのだろう」
わたしは全く知らないけど。
「休ませてあげないと、限界ですよ」
「休めとは言ってますよ。体調管理がなってないね」
休めたら休めとはね。実際に休めるスケジュールじゃないのは知ってるけどね。
部長の訳知り顔が目に浮かぶようで、布団の中で春寅は、むろん心の中で、副音声をつけたした。
それにも飽きると、自分はどうなるんだろう、とぼんやり思った。
ここで、自分から会社に見切りをつけていたならまだマシだったかもしれないが、あのときはそんな気力は一ミリもなく、このまま眠ってもいいのかどうかを真剣に考えていたのだから笑える。
そして春寅は、久しぶりにゆっくり横になれる幸運に感謝して、一切の音を遮断して眠った。
眠って、眠りすぎて、起きたときには彼には辞表が出されていた。
私物や何かも全て纏められていて、産業医と一緒に茫然としながら、退職の書類を眺めていると、部長が、不快感を隠しもしない表情で保健室に戻ってきた。
「君は、異動だよ」
「はあ、またですか?」
「クビの予定だったのだから、もっと感謝したまえよ」
そのクビの理由が、倒れたことなのか、体調を崩したからなのか、それとも何も言われなかったが今まで寝ていたことなのか、分からなくて、間抜けな声を上げると、ギロリと睨まれた。
用意されている書類から見ると確かについ先ほどまでは退職予定だったらしく、早まってサインをせずにいてよかった、と春寅は胸を撫で下ろした。
「かわりにこちらだ」
「......どこですか?これ」
「支社があるところくらい知っておけ!
明日からはそこで働くように」
「明日からは......」
「体が弱いものは退職して欲しいというのがあくまで我が社の意向だからな。どうしてもいい。
君の自由だ」
止めようとする産業医を遮り、言葉ばかりの自由を仄めかし、この男はすごすご春寅が辞めるのを待っているのだ、と思うと、全身の疲れが、むしろ怒りに変わるような気がした。
後で振り返ると、春寅自身も意地になっていたのかもしれないし、ここまでやってきたのだから、やり遂げなくてはという気負いもあったのだろう。
対して迷いもなく、差し出された書面の、一枚にサインしていた。
異動、と書かれた、薄っぺらな紙に。
9
春寅が体を壊しながら異動してきた部署は、都会の本社オフィスからかなり遠く離れた駅の、さらに駅から距離のある寂れたビルのワンフロアにあった。
本社のビルが全部自社内の管轄になっているのに比べ、天と地ほども差がある。
ついでに言えば超高層の本社の最上階から見たら、このせいぜい五階建ての古いオフィスなんて、豆粒ほどにも見えないだろう。
それほどまでにかけ離れた部署だった。
しかし、その部署がかなり悪い環境だったかというと案外そうでもなく、少人数の和気藹々とした職場だった。
部長は他役員を連れてほぼ外出しており、
営業はその辺を流すように、新規はほぼ狙わず、のんびりと日がな固定客を回る。
事務の子たちは二、三人必要なのかというほどの少ない仕事を、キャッキャと楽しそうに分担していた。
本社から送られてきた余り在庫を、他のところへ回したり、たまに自分のところで捌いてみたり。
春寅が親しんだ変な什器も変な部品も一緒にこの会社に来ていて、懐かしいような悔しいような気持ちで春寅は荷ほどきをした。
確かに出世街道からは外されたのだろうが、ゆったりとした会社はむしろ春寅の望むべくところで、だからこの異動も、さしたる障害にはなるまいと考えていた。
しかし、それが間違っているとわかったのは、わずか半年後の事だった。
まず、仕事量が少ないので、仕事をする人と手を抜く人が出てくること。
これはどの職場でもあることだから、個々の心がけや、上の調整でなんとかなる。
だが、仕事の空き時間のおしゃべりだけは、上司も、春寅も、他の人たちも、どうしようもなかった。
暇なとき、少人数の人たちが顔を合わせて無言と言うわけにも行かない。
次第にお茶を飲む、挨拶をする、お土産を配る、など交流が生まれるのは仕方なく、むしろ円滑な業務のためには推奨すべきことだ。
だが、事務の女の子たちが揃って春寅に目をつけはじめるとは、誰が予測できただろう。
いや、ここに彼を送り込んだ元の部署の部長には予測できていたのかもしれないが、それにしてもトラブルが起きてから、展開が早かったのは確かだ。
それで、鎮火も早いかとすこし耐えては見たものの、なかなかどうして治らないのだった。
いっそ、誰か一人決めて仕舞えばいいのにと言われたとて、春寅にはとてもそんな気はなかったし、毎日春寅を褒めるならまだしも、別の女性を、牽制し、罵る彼女らは着飾っているのに醜くて、どうしたってその気にならない。
それに、春寅は、自分でも未練がましいと思いながらも、無意識に心のどこかで本城の面影を追っているところがあって、穏やかで、優しく、争いを好まない彼とは正反対な彼女らに心惹かれないのも、仕方のないことだった。
女性というのは、ライバルを持って、競争心を高めるものだからねぇ、というのは、相談に乗ってもらった、営業の先輩の鶴さんというおじさんの言葉だったが、彼は妻子持ちで、小娘に翻弄される若造の図を、困ったように眺めるだけだった。
恋愛ごとは仕事に関係ないから、仕事の人が牽制することはできないし、だからといって仕事上にまで持ち込まれると支障が出る。
三人の事務の女の子たちが全員、事務所内で春寅に惜しげもなく好意を伝えるならまだしも、だんだん口喧嘩になっていくのだから、春寅はうんざりした。
むしろ自分よりその三人の方が息が合い、付き合いも長くて仲がいいのだから、勝手にやってろ、と毎回思った。
というかそんなことで職場の仲や雰囲気を壊すことに躊躇を感じないのか、と問い詰めたいが、男から女には、昨今そう簡単にできやしない。
いつも逆のことをされているのに、と思って、春寅はおかしくなってきて、事務所内だというのに、とうとう大笑いしてしまった。
効果は抜群で、室内の誰もが、気でも狂ったのか、という表情で春寅ただ一人を不気味そうにみていた光景を、いまだに思い出して、スッとする。
そしてそのまま何も話さずに、用意してあった辞表を部長の机の上に置いて、春寅は会社を後にしたのだった。
それ以来、あの会社には行っていない。
そこまで話し終えると、車はだいぶ山道に近づいてきていた。
もちろん、春寅の拗らせた恋心のことは慎重に伏せていたけれど、事の顛末は大体伝わったことだろう。
海は少し離れて、空を隠すほどの大きな木々が、道路に沿って生えている。
だいぶ整備されたようだが、道は凸凹としていて、たまに陥没していたり、大きな岩が落ちていたりするから、あまり快適とは言い難い。
「それで、どうしたらいいか分からなくて、
気がついたら船に乗ってた」
これもとても本人には言えないが、きっと心のどこかでずっと、本城のことを考えていたせいだろう。
一番春寅が安らげた、楽しかった、純粋に笑った最後の場所が、きっと高校生のころ過ごした島であり、本城の隣だったのだろう。
揺れる椅子の振動に耐えながら、春寅が後ろの荷物が心配で半開きのパワーウィンドウから身を乗り出して振り返ると、伸びてきた手が肩を押さえ、そのまま元のように座らせられた。
危ないと言いたいらしい。
たしかに、振動のまま投げ出されないとも限らない。
春寅がもう一度シートベルトを確認していると、本城が少しだけ掠れた声を出した。
「それだけ......って、トラ、なんか、労災とかにはならないのかな、それ?」
「考えたこともあったけど。
最後辞表自分から出してきちゃったし、
疲れたし、これ以上関わりたくないから逃げた」
「それは逃げたとは言わないよ」
「そう?」
肩を竦めると、本城がこちらを向いた。
薄い色素の瞳には存外真剣な視線が宿っていて射竦められて少しだけドキドキしたけれど、それよりもまず安全運転のために前を向いてもらうよう促した。
「いや、逃げたっていいんだよ。
そんなところ。
春寅のことを、大切にしてくれない会社なんてさ」
「いや......でももうすこしうまいやり方もあったのかなってさ、考えるよ」
「それはそうかもしれない。みんな考える。
でも、うまくやっていけたとしても、その会社だとまた別のトラブルが起きるよ、きっと」
「それはありそうだよなあ」
「そう、だからいいよ。
働くところないなら俺の手伝いすればいいし」
さらりと本城がこぼした言葉に驚いて顔を上げると、本人は慌てて手を振った。
「賃金は期待しないで欲しいけど」
春寅のことを雇う前提で話が進むことに嬉しくなって、春寅もやっと肩の力を抜いて笑った。
シートに背を預けると、振動もだいぶマシに感じる。
「それも、いいかもなぁ」
「そうそう、そうだよ。畑もあるし」
食べるものも住むところもあるよ、と歌うように言った本城を、はじめて春寅は羨ましいと純粋に思った。
本城と暮らし、日々慎ましやかに生きることがしたいと本心から思うのに、自分がそうすることを、自分自身が許さないだろう、と春寅は、思う。
心のどこかで、田舎の島に定住することを決めてしまった本城を、下に見ていたような気がする。
もったいない、と。
その根底には、自分と一緒に来て欲しかったという子供のような失望と寂しさがあるのかもしれなくて。
広くて自由な都会で、いい大学、いい会社。
それが一番いいのだと思ってきた。
母が亡くなってから、島には居場所がなくて、春寅の行くべきところは島の外で、それが目標だった。
なのに、この現状はどうだろう。
この手には何も残っておらず、望んだ場所が思ったのと違ったからと言って、逃げてきた自分。
自由を望んだばかりに、誤った選択をし続けた自分。
何もない島が嫌いで、そこに住む人々をバカにさえしていたかもしれない。
父の言葉でいえば、ろくに病院設備のない寂れた田舎、が、ずっと胸の中にイメージとしてあったのかもしれない。
だけど、そんな雲を掴むような夢に裏切られて、すごすごと逃げ帰った春寅にだって、一度は島を捨てた人間にだって、島は、そこに住む人々は、昔と変わらない態度で接してくれて、優しかった。
春寅は、自分の汚くて浅ましい部分が嫌で、黒く澱んだ心が苦しくて、隣に座る、純粋で綺麗で、真っ直ぐな友人を、心の底から尊敬した。
真実が見えていなかったのは、自分の方だと気がついた。
本城は最初から、この島にきたときから、この島を愛し、この島に居つくと決めていた。
春寅は、その実を成した夢の延長線で救われたのだ。
高校生のころ、春寅は本城のことが淡く好きだった。想いを告げられず、大事に胸にしまったままだった心は、そのまま大切に忘れた。
だけどいま、自分にはこの男を好きになる資格などないのだと、思い知らされた。
澱んだ都会の空気に慣れた生き物は、澄んだ島の空気の中ではもがき苦しむことしかできない。
所詮、よそ者なのだ、という誰かの声が耳に蘇る。
これ以上、自分の浅ましいところを知られたくない。
嫌われたくない。軽蔑されたくない。
春寅は、山道を登りつつある車の窓の外から、低く遠く藍色に見える海を眺めながら、少しだけ泣いた。声も嗚咽も、出ず、ただ目尻にたまった水分が、時折頬の上を伝って、顎を冷たくする。
きっと、本城は、ストレスや仕事のショックで泣いているのだと思ってくれていて。
何も聞かなくても、言わなくても、優しさが横から滲んでくるようだった。
時折控えめに肩や背中を摩られながら、十年ぶりに再開したばかりの、この友人の前で、初めて春寅は涙を流した。
10
すっかり泣いたあと、春寅は子供のように少しうとうとしてしまっていたらしく、本城の控えめな声で起こされるまで、眠っている自覚すらなかった。
「大丈夫?疲れてるよね。
車の中で待ってるといいよ」
「いや、手伝うよ。寝ててごめん」
仕事中の人の横で眠っていたことが気恥ずかしくて頬をかくと、本城はますます慈悲深い顔で微笑むから、ますますいたたまれない。
車が駐車場に止まったのを確認して、春寅はすぐに外に出た。
凝り固まった身体を解しながら辺りを見渡すと、だだっ広い砂利敷きの駐車場の向こう側に、山の中の斜面に沿うようにしてひっそりと、大きな薄緑色の建物が見えた。
ザクザクと砂利を踏みながら、木々の中に埋もれてみえるほどひっそりとした車寄せと、一応入り口として開けてあるガラス戸があった。
その横には、旅館のような、自然の木を使った大きい板看板に、景陽山荘、と書いてあった。
「......保養所か?」
宿にしては趣なく、病院にしてはやや古びていて静かすぎる建物を前に、春寅は首を捻った。
おそらく、この山の名前を冠しているのだろうが、元島民の春寅は、景陽山という名前を知らなかった。
「ここはね、老人ホームだよ」
「へえ、......こんな山奥に?」
途中眠っていた為、完璧な場所はわからないが、山の傾斜や、この先へ続く道の細さからこれ以上は車も侵入出来ず、この建物は、ほぼてっぺんに建っているはずだ。
山登り以外の人間が向かうとしたらここくらいしか用はない、くらいの位置だ。
送迎だって大変だろう、と思うが、本城によると住んでいる人しか入らない場所だから、面会の家族以外の出入りは、あまりないという。
働く医師、看護師、介護士たちも裏手に寮があるというのだから、島で生活していてもこの建物のことを聞かないのも無理はないのかもしれない。
そう春寅は勝手に結論付けたのだが。
「五年くらい前まではホテルみたいなホスピスだったらしいんだけど、元々島には老人が多いでしょう。
ここ数年でその傾向ももっと顕著になったから、麓の老人ホームと合併したんだよ」
「ああ、そうなのか......」
それでこの景観なのか、と春寅は納得しつつ、ホスピス、という言葉に一瞬胸が詰まった。
母は島に来る前、ホスピスに入るか、アパートに暮らすかで悩んでいて、春寅との生活を選んでくれたのだった。
病を患い、死期すら悟っていた母の体には、それが負担だったろう、と大人になってから春寅はよく思う。
自然、建物に対しても、第一印象で不気味だと思ったことを打ち消し、なんとなく親しみの湧く心持ちになった。
「合併前のホスピスは俺もあんまり知らないけど、老人ホームには配達してたから、ここに移転しても頼まれてるんだ」
「へえ、確かにこんなところじゃ、物資が大変そうだものな」
「毎日、ちゃんとした配達業者を頼むのも結構かかるからねぇ」
今日の朝積み込んだ大半の荷物はここに届けるものだと聞いて、納得した。
大勢の生活用品や食料品ともなれば、かなりの量になるだろう。
「俺は台車を借りて、入館手続きをしてくるから、春寅は覆いを外しておいてくれる?」
「うん」
本城が言いながら、なれた様子で入り口のガラス戸を押して中に入っていった。
春寅は、言われた通り、重たい覆いを外し、トラックの荷台の開いた場所へ畳んでおく。
ついでに、ダンボールにマジックで書かれた文字で配達場所毎に並んでいることと、この景陽山荘宛のものはきちんと手前に纏められているのを確認して、荷台の後方を開いておいた。
そうしているうちにガラゴロと重たい台車の音と、砂利を踏む音がして、本城が戻ってきた。
「ありがとう!
あとはここに積んで、中に入れるまでで俺たちの仕事は終わりだからさ」
「手伝うよ」
重たくて大きい箱から順に、いくつもの箱を台車に乗せていく。
大きい台車はあっという間にいっぱいになってしまったが、なんとか今日の分の配達品は全て一度に収めることができた。
しかし、かなりの重さになってしまった為、今度は二人がかりで台車を押していく。
遠くから見たときは静かだとばかり思っていたものの、建物の中に入った瞬間、たくさんの人の話し声や気配、動き回る音がそこかしこから聞こえ、春寅は驚いた。
思ったよりも、たくさんの人が中に生活しているらしい。
キョロキョロしつつ、受付に向かった本城の横に並ぶと、唐突に声をかけられた。
「あれ?春寅⁉︎」
「へ?」
受付窓口の向こう側から、若い女性の声で名前を呼ばれ、春寅は、慌ててそちらを見る。
パッと見た感じ、知り合いとはわからなかったが、眺めているうちに、だんだんぼんやりと面影の浮かぶ顔に心当たりがあることに気がついた。
「......チカ?チカちゃん⁉︎」
「やっぱり!トラなんだ!どうしたの?
もしかして結構前から島に帰ってきてた?」
「チカさん、」
老人ホームの受付にいた女性は、島の学校に通っていた頃の同級生、ついでに小学生の頃からの幼なじみの、高山千佳子その人だった。
春寅も突然の再会に驚いて、思わず慣れ親しんだ名前で呼びかけてしまったが、相手もそうらしい。
しかし、声を高くした千佳子に、本城が控えめに声をかけて注意を促していて、春寅はもっと驚いた。
春寅が島の高校に通っていた頃は二人に面識はなくて、名前で呼ぶところも見たことがなかったからだが、落ち着いて考えれば十年という月日はそれだけ長いということだろう。
配達先に元同級生がいたら、親しくなるのも当然かもしれない。
一瞬感じた蟠りを胸の奥に追いやって、春寅は自分を納得させた。
当の千佳子はというと名前を呼ばれて、いけない、という風に口を押さえ、悪戯っぽく笑った。
その表情は年相応の美しさも兼ね備えていたものの、春寅がよく知る子供の頃の彼女のままだった。
しかし、彼女も春寅を帰ってきたと言ってくれたので、春寅はすんなりと返事ができた。
「つい昨日、帰ってきたんだ。
それで、はじめの仕事を手伝ってみたり」
「そうなんだね。しばらくいるの?
というかいきなり働かせられてるのか」
「俺が手伝うって言ったんだよ。
島の様子もだいぶ変わったし、少し居るつもりだよ」
「そっか。それならまた話せるね」
聞きたいことだけ聞いて、千佳子はあっさりと頷くと、乗り出していた身体を引いた。
「また配達にくっついて来ると思うし、その時に会えるよ」
「うん、私も降りる日があったら教えるわ」
昔と変わらないサバサバとした対応で、千佳子はそのままひらひらと手を振って仕事へ戻っていった。
本城以外の同級生との再会に、春寅は驚いたものの、覚えられていたことが、自分で思った以上に嬉しかったらしい。
話が終わるのをみて、荷物と台車を他の人に預けた本城が、ゆっくりと側に寄ってきた。
「話終わった?」
「うん。ありがと!待たせた」
「いいんだよ。
チカさんに会わせようと思っていたしね」
「なんで?」
「だって親しかったでしょう?」
ニコニコと笑う本城にそう言われて、春寅は再び蟠りを感じつつ、疑問に思って首を傾げた。
千佳子とは普通の幼なじみや同級生と同じくらいにしか付き合いはなかったし、それは島である程度育った人間なら大概は持ってる人脈で、別段特別というわけでもない。
それに、高校に入ってからはあまり話していなかったのに、本城の前で親しく話したことなんてあっただろうか?と春寅は考えた。
「バレンタインのチョコレート、貰ってたよね?」
だから、本城が困ったように言うまで、むしろ言われてからも、思い出すのに時間がかかった。
「ああ!一回ね!確かにお前も居たかも......?
しかしあれは義理ですらなかったような」
「そうだっけ?
じゃあそんなに仲良しでもなかったの?
あのとき、すごく仲が良いんだなって思ったんだけど」
「ないない。
むしろ今、再会してる時点でわかるだろ?」
「ああ、それは確かに......」
二人でぐだぐだと話しながらもう一度軽トラックに戻る。
突然の再会にも驚いたけれど、それよりも、本城と、こうしてまた思い出話が出来るとは、島に来る前、つい先日までは思っていなくて、考えていたよりも、心が穏やかなことに安堵しつつ、春寅は笑った。
来た時は気がつかなかったが、駐車場の端から、山の向こうに青い海がキラキラと光っているのを眺めることができて、ほんの少しだけ、春寅はその光に見惚れて、目を眇めた。
11
そのまま迂回しながら来た道とは別の方向に山を降りる道を走ると、麓にほぼ近いところに奥沢と呼ばれる場所があると言って、本城は車を走らせた。
「奥沢なぁ。子供の頃、人気だったよな?
俺は一度も行ったことないけど」
「そうだね。俺も大人になってから初めて行って、奥沢が正式名称じゃないことに驚いたよ」
「そうなんだよな。観光客はちゃんと呼ぶのかな?」
でも身近な島民はみんな奥沢と呼ぶから、正式な名前はすぐに忘れてしまう、と本城は笑った。
窓の外の山道に沿って、たまに川のような湧水のような水流が見えることがあるから、この水が奥沢に続くのかもしれない。
「小さい頃、自転車で転んだことがあるから、母さんには遠くまで行っちゃダメだと言われてて。
誘われても行ったことなかったんだよなぁ」
一度、小学生の頃、春寅は自転車に乗って山道を行くという子供たちに誘われて、みんなで無謀に走ったことがあった。
生まれた時から島にいる子たちは、登り方も転び方も心得ていたし、危ない斜面を見分けるのも得意だったのだが、都会から来たばかりの春寅は、舗装された道以外を自転車で走ることにさえ不慣れで、案の定転んだ。
そのとき、結構大怪我をして、縫痕が額と腕と、足に、未だに残っている。
自分よりよほど痛そうで、今にも倒れそうな母親の顔面蒼白な顔を見たら、それ以降、自転車で遠出はしないという約束を、春寅は守らざるを得なかった。
奥沢の方は特に砂利道が続くから、怪我をしなくても自転車に傷がついたり傷んだりする、と母親同士が嘆いていたのをチラッと聞いて、転びそうだから行けないな、と思ったことを覚えている。
それに春寅は泳げないから、きっと奥沢に行ったところで遊びについて行けずに悔しい思いをしそうだから、自然、誘われても毎回断った。
その話をすると、本城もわかるなあ、と頷いた。
「俺もさ、高校生にもなって沢遊びなんてと思ったけど、結構みんな行ってたからさ、誘われたよー」
しかし肩をすくめる本城が、今時分ならいざ知らず、高校生の頃、沢遊びをする姿は春寅には想像できなかった。
いまでさえ、馴染んでいるように見えるとはいえ、その整った顔立ちは島の田舎に住んで、農作業もする人間には見えない。
「だけどさ、婆ちゃんのイメージだと都会の子は自然に慣れてないだろう、って危ないからダメだって言われてた」
「ははは。どんなイメージ?
でも確かに慣れないと、過激な遊びに戸惑うこともあるからな」
「どういうこと?」
「深い海に躊躇なく服のまま潜ったり、蛇を素手で取ってきたり、島の子供の遊びは結構激しいぞ」
「なるほどねぇ。確かに。
でも、奥沢はいまはレジャースポットとして人気なんだけど、大人が率先してそう言う遊びをするところになってるかもね?」
「そっかぁ、変わるもんだな」
春寅と本城がしみじみと会話をしていると、外から悲鳴のような高い声が聞こえてきて、一瞬ギョッとしたものの、よくよく聞けばアクティビティを楽しむ人たちの歓声なのだった。
木々が途切れて視界が開ける場所に差し掛かると、思ったよりも深そうな深緑色をした沢の中で、遊んでいるカラフルなボートやライフジャケットの人々を見ることができた。
アクティビティの案内看板も道案内程度に立てられており、本当に観光スポットになったのだな、と春寅は妙に感心してしまった。
昔、小さい頃住んでいたときは、連絡船も少なくて、島を出入りする人間なんて毎日限られていたと言うのに、たった十年でこうも変わるとは、高校生の頃は想像もしていなかった。
自然を壊すほどの、島民の生活が揺らぐような大きな工事をしたり空港を作ったりという計画などがないことは幸いだったが、それもあと数年したらわからないのかもしれないな、と春寅は初めて、故郷の行く末を考えて漠然とした、切ないような、不安なような気持ちになった。
かつては子供たちが遊んでいたであろう沢のすぐそばに建つログハウスに、手分けして荷物を運びながら、見知らぬ若い男女が自然の中を行き交う光景を、春寅は、不思議な気持ちで眺めた。
「トラ、向こうのほう、少し静かだから行こう?」
「あ、うん」
もうこの光景には慣れているのであろう本城は、ログハウスのスタッフといくつか会話したあと、クーラーボックスを肩にかけて、春寅を促した。
確かに、少し歩いて、離れた場所の岩陰に腰を下ろすと、先ほどの賑わいが嘘のように静かになる。
本城が、さりげなく簡易式蚊遣りを近くに置いていることに気がついて、よく来るのだな、と手慣れた様子に、春寅は少しだけ笑った。
「たくさん人がいるように見えるけど、案外少ないんだよ。遊んだらすぐ帰る人が多いしね」
「そうなの?」
「もっと暑いときはもう少し多いけど。
いまはまだ水から上がると涼しいからねぇ」
どうやら考え込んでいた春寅の様子を、人酔いしたと思ったらしい本城が、気遣ってくれたようだった。
都会から来て人酔いも何もしないだろう、と思ったものの、島に来てこんなに人がたくさんいる光景は見たことがなかったから、戸惑ったのも確かに事実だった。
お礼を言おうか悩んでいるうちに、本城がいそいそとクーラーボックスを手元に引き寄せた。
「これね、お昼ご飯だよ。
婆ちゃんのおにぎりしかないけど」
「ああ、確かにそんな時間か。
お腹すいたかも」
「食べて、食べて。こっちはお茶」
「ありがと、......お母さんみたいだな!」
おしぼり、お茶、おにぎり、と次々用意周到に勧められ、春寅は慌てて受け取りながら、世話焼きな友人が面白くて笑い声をあげる。
本城は、揶揄されても特に何も言わずに、自分もニコニコと笑っていて、春寅の様子が戻っているのをホッとしたように見てから、自分も昼飯を食べ始めた。
その表情が、またしても穏やかで、春寅はなんとなく気恥ずかしくなって、塩気の強いおにぎりを慌てて頬張った。
沢の表面を、トンボが気持ちよさそうに横切って行った。
12
二人は、昼食を食べ終えてから、暫くダラダラと岩の上に座ったり、足先を水につけたり、少しだけだったが、それこそ子供のように遊んだ。
こんなにたくさん人間が出入りするのに、水の中には生き物が案外沢山いて、春寅はその強かさに純粋に驚いた。
日差しが強くなる頃には、二人とも遊び疲れて、早々に車に戻ったのだった。
「後は、学校に寄って終わりだよ。
おつかれさま、春寅」
「いや、俺、ほぼついてきただけだろ。
はじめこそ、お疲れ様」
「そんなことないよ。すごく助かった」
「ならいいけど。......で、学校?」
聞くところによると、島内にある小、中、高校と全てに少しずつ配達して終わりらしい。
全ての校舎はほぼ隣接して建っているが、それでも全てとなると、荷台に残っている荷物がそこそこ多い事にも納得がいく。
組織的には外部の配達業者を頼むのが主だが、先生などから授業のため個人的に、もしくはイベントなどで急なときなど、島内では入手が難しい教材や素材などを頼まれることが多く、その場合は発注から本城が担当することもあるという。
高校だけとはいえ卒業生のよしみで良いように使われてないか?と春寅が指摘すると、本城は珍しく声を上げて笑った。
「俺も、手数料貰うしさ。
それにまたって思うかもしれないけど、学校で働いている同級生も結構いるよ」
「ああ、そう......」
ならいいが、全員思い出せる自信がないな、と春寅が考えていると、思っていたことが表情に出たらしく、本城がまたしてもおかしそうな顔をした。
「大丈夫だよ、
俺も、配達で再会した時、もう一回名前聞いた人も多いから」
「ははは.....」
本城の顔を相手が忘れるとも思えないから、聞かれた方はショックだったかもしれないな、と思うと笑うに笑えなかった。
しかし、そもそも会った人が春寅の顔を思い出せるかどうかもわからないわけで、そう思ったら少し変な話だが安堵した。
本城の車が走り出すと、景色はまもなく木々を抜けて、眼下にこじんまりとした街並みや、大きめの建物、畑が見えるようになった。
遠くに海と、港らしきひらけた場所も見えた。
近くの頭上には、まだ山の中だから鳶が飛んでいるけれど、港の方には白っぽい鳥が飛んでいるから、あれは多分かもめだろう、と春寅はぼんやりと思った。
対向車もあまりないような蛇行した道を走る軽トラックはガタガタと激しい音を立てていたが、それを操る本城はといえば涼しい顔で結構なスピードを出してハンドルを握っているから、慣れているのだろう。
つくづくこちらに来てから、イメージを覆される、と思ったけれど、もう十年も経つのだから当たり前か。
それに、園芸部に精を出したり暇な時に家の畑を手伝ったりと、一緒にいたときから案外田舎暮らしに向く性格だったのだろうと、春寅は見慣れないようでいて、面影の色濃く残る友人の整った横顔を盗み見ていた。
けれど、自分の方はどう思われているのだろうと考えると落ち着かなくなるから、それとなく目を逸らして、再び外の景色を見ることに集中する振りをした。
だんだんと道がなだらかになり、すっかり平らになる頃には、周りにも住宅が増え、街中を歩く人もポツポツと見るようになった。
個人商店や八百屋などが連なる通りは、港の方とは違い、島民向けの古くからある店ばかりで、春寅も住んでいた頃、幾度となく通った道だと気がついた。
メイン通りというには少し寂しいが、住民ならば毎日通る人も少なくない。
この通りの先に、学校校舎が固まって建っている筈だ。
大概の生徒はこの道を通学路にしていたから、春寅はわざと逸れる道を選んで通っていたことを思い出し、それを追いかけてきた本城と友人になったことも続けて思い出して、懐かしくなった。
本城も同じことを考えていたようで、助手席に座る春寅をまじまじと見つめ、目が合うと破顔した。
「懐かしいよね。
あとで、帰るときはあっちの道で行こう」
指差す方には、二人の通学路があって、本当に全く同じようなことを考えていたのだと、春寅も嬉しくなり、笑って頷いた。
「こっちの道はこんなに賑わってたんだな」
「よくまあ、何もない方を選んで帰ってたよね。
あっちの方が少し近道な気もするけど」
「そうか?
どちらにしても、車だとすぐだけど、
歩くと結構距離があるな」
「そうだね。暑いときは大変だよねぇ」
あえて静かな道を選んでいたとは言わずに、春寅は窓から道を振り返る。
何も口から出まかせではなく、本当に、似たような距離を歩いて毎日通っていたのかと思うと、気が遠くなるようだった。
元々頑強な生徒ではなかったけれど、日々体育の授業などもあったし、少なくともいまよりは、高校生の頃の方が体力があるだろう。
現在大人になった春寅はといえば、少し運動しただけで息が切れる体力の無さだ。
本城はといえば、見た目からして、引っ越してきたばかりの高校生の頃よりもずっと今の方が体力も腕力もあるだろうけれど、なんとなく春寅は悔しくて、本人に伝えることはないが。
13
そのまま走っていくと、車はすぐに小学校の敷地に着いた。
先の話が後を引いていたから、荷物も少ないからと言う本城に甘えて、春寅は中へは入らずに、玄関口で待つことにした。
まだ授業中の時間だから、校庭にも靴箱にも人影はなくて、壁際に置かれた金魚の水槽だけが、微かな音を立てていた。
本城は事務員と一緒に二階の倉庫に行ったようだ。
彼にとっては母校ではないから、気楽なものだと嘯きながら、春寅はなんとなく埃の匂いのする玄関で、所在なく立ち尽くした。
不審者に間違われたらどうしようかと思ったものの、まず人気がない。
なんとか週間、集会のお知らせ、給食献立表、掃除当番、学校行事予定......掲示物を眺めながら、十年の間に変わったようでいて、内容はあまり変わっていないらしい、などと春寅は思った。
小学校と中学校の校舎は並んで立てられていて、靴箱も玄関も同じところは相変わらずだし、年季の入った校舎も、流石に金魚はそう長生きではないだろうが、水槽自体は春寅が通っていた頃もあった。
この金魚は自分が一時期世話をしていた金魚だろうか、そんなに長生きだろうか、だとするとすごいなとよくよく観察していると、水槽のガラス越しに背後に人が立っていることに気がついて、春寅は驚いた。
「......!」
「うわ、びっくりした。
終わったから声かけたんだけど......」
熱心に見てたね、などと全然驚いた風でもなく、本城が笑って首を傾げた。
驚いたのはこっちだと思ったけれど、どうやら気が付かなかったのは自分の方らしいので、春寅は文句は飲み込んで向き直った。
「......通っていた頃、世話をしてたなって」
「金魚?」
「そう。
そのときと同じ金魚かと思って見てたんだ」
「ああ、金魚って結構長生きするよねぇ」
忘れ去られたように置いてある水槽を熱心に眺めていたことが少し気恥ずかしくて、口籠ったものの、本城は気にしていないどころか、興味深そうに、横から水槽を覗き込んだ。
「......そうなの?」
「いやあ、さすがにこの金魚がそんな歳かどうかまではわからないけど」
「いや、俺もわからないから」
あまりにも真剣に答えられて、春寅は思わず笑った。
そうだったらいいな、と思いながら、本城を相手にしていると、穏やかな気持ちになっている自分に気がつく。
昔から、そういうところがある男だった、そんなところが好きだったのだと、そんな余計なことまで思い出して、春寅は慌てて首を振った。
「ほら、まだ高校に行くんだろ」
「うん、まあ近いけどね」
確かに彼が言うように、小中学校から高校までは、車を走らせるまでもないような距離しか離れていない。
島の中には他に学校もないから、島の子供たちは義務教育が終わって高校になってからも同じ場所に通うことになる。
春寅は小学校の途中から転校してきたから他の子供よりは何年か少ないが、それでも敷地内にいると懐かしい。
高校の校舎もあまり変わっておらず、小学校や中学校と比べるとまだ足が向きそうだと思い、春寅が今度は手伝うから、と伝えると、なぜか本城はほんの少し困ったように頷いた。
「待ってた方がいい?」
「そんなことないよ!運ぶ荷物は少ないけどね」
微かな表情の変化をすぐに覆い隠されてしまって、春寅は一瞬の見間違いだったかと思いながら、あまり気にせず荷物を持った。
確かにもう段ボールが三つくらいしか荷物はないものの、それでも持ってみたら重たいし、何もしないで待っているのは気が咎めるし、さっき退屈だったので、今度は手伝いたい、と春寅は思ったのだった。
仕事をしている人に遊びのような手伝いしかできず少し申し訳ないとも思うが、本人が至って気にしてなさそうなので、春寅も荷物運びに専念することにした。
先程と同じように、事務室を介して入校の手続きを取ってから、指定されている場所へ荷物を運ぶ。
校舎内の廊下や階段を通っていると、自分が通っていた頃がほんの少し前に感じられて、春寅はキョロキョロと辺りを見回した。
首から関係者の札をぶら下げて、借り物の来客用スリッパを履いていることに違和感さえ覚えるけれど、途中で転校してしまって、この学校で卒業式をしていないせいかもしれなかった。
転校先できちんと卒業し、大学にも行って就職して何年も経つというのに、なんとなく春寅にとって一番思い出深いのは、この高校で過ごした日々なのか。
原因として思い当たる、隣を歩く男を横目で見ながら、春寅は荷物を抱え直した。
高校生の頃、春寅は本城のことが好きだった。
十年も経って忘れたとばかり思っていたのに、こうしてここに並び立つと、当時の胸の内がありありと蘇り、忘れていたわけではなくて、ただ蓋をしていたのだと気がつく。
その気持ちは淡くて、伝えることさえ考え付かないほどの幼稚なものだったが、いまだにこうして心を乱すことに、春寅自身が一番驚かされていた。
だからといってどうすることもできなくて、再び盗み見た本城の方はと言えば、なんとなく楽しそうにさえ見える顔で飄々としているものだから、春寅は自分ばかり過去の感情に振り回されているのが面白くなくて、倉庫に段ボールを置く手つきが少し乱暴になってしまった。
重かった?と気遣ってくる声にさえ、お門違いにもちょっとだけ春寅はイラついた。
14
「はじめー、と、......あれ、八嶋?」
廊下を歩いている時、後ろから声をかけられた。
デジャヴを感じつつ振り返ると、同じ歳くらいの男が立っていた。
どうにも同級生のようで、向こうは本城のことも、春寅のことも知っているらしく、けれどその顔を見ても、春寅には思い出せなかった。
本城が困ったように見ていることに気がついて、先程手伝うと言った時に言い淀んだのは、同級生がいるかもしれないと言いたかったのだろう、と春寅は合点した。
「んん、えっと.....」
「オレ、三好。三好幸助、覚えてない?」
「......ごめん」
「あれ?お前と中学生の時、委員会一緒だったこともあるんだけど」
酷いな!という責めるような言葉とは裏腹に、あけすけに笑う声と、短く刈られた黒髪に、こんな知り合いはいただろうかと思い出せずにいた春寅は、中学、委員会、という言葉に引っ掛かりを感じて、ぼんやりとした記憶を手繰り寄せた。
「......委員会、......あっ、ミヨシ!
俺にいつも当番を押し付けてた、ミヨシ......!!」
「ん?余計なことまで思い出したな?」
「委員会の集まりを毎回忘れてたミヨシ......!」
「悪かったなー」
悪びれずに謝るその姿を見て、春寅はようやくはっきりとかつてのクラスメイトの顔を思い出した。
中学生の頃、転校してきた生徒の、ミヨシという苗字が物珍しくて、最初どういう字を書くのかわからず、興味があったこと。
小学生からの知り合いではないから、互いに苗字で呼び合うことが新鮮に感じたこと。
その後、図書委員会で一緒になり、放課後や昼休みの貸し出しカウンターの当番や、書架整理の当番をなんやかやと体良く押し付けられたこと。
何度も伝達される上に、春寅も知らせていたにも関わらず、毎回委員会の集会を忘れて帰ろうとして、捕まえるのが大変だったことまで思い出した。
しかしこの憎めない軽いノリで謝られたり、春寅が本当に外せない用がある時は当番を代わってくれたりと、悪いばかりではなかったイメージがある。
高校も一緒だったはずだが、委員会という関わりが無くなり、春寅も塞ぎ込んでからは、すっかり疎遠になっていたので、思い出すのに時間がかかったが、やっぱりミヨシは相変わらずの飄々とした雰囲気で、しかし大人になった今、学校校舎の中にいるには不真面目な感じが否めなくて、春寅は首を傾げた。
「思い出したけどさ、何でここに?」
「それはこっちのセリフじゃないかー?
てっきり島にはいないと思ってたけど」
「ああ、昨日、戻ったんだ」
再びデジャヴを感じる質問にたじろぎつつ、春寅は正直に答える。
理由を聞かれても困ると思ったものの、ミヨシも対して気にせずに、同級生が久々に戻っていることを受け入れたようだった。
「昨日?急だなー。
それより、八嶋、今でも本は好きか?」
「えっ?ああ、好きだよ。
司書資格取るくらいにはね」
「そうか!それは良いことだ!」
「はあ?」
急な話の転換と、会話の途中でいきなりテンションの上がった男についていけず、春寅は久々ということも忘れて遠慮なく怪訝な声を出してしまった。
気にした風もないが、このミヨシという奴は昔からこうだったような気がするし、嫌な予感がする。
「この学校の図書室に、人手がいるんだが」
「うん」
「八嶋、司書の仕事はどうだ?」
「うん?」
「幸助。話が急すぎてトラが困ってるよ」
一向に見えてこない話の内容に春寅が首を捻っていると、いままでやんわりと話の流れを見守っていた本城が、ミヨシを止めた。
「はじめ、居たのか。
わかりにくいって言ったって何から話せばいいんだ?」
「そもそも幸助が探してるのは長期の人でしょう?」
「短期でも良い、この際」
「適当だなぁ」
テンポよく交わされる会話に、彼らの仲がいいことがわかる。
本城とミヨシがお互いを名前で呼んでいることに、春寅は静かに衝撃を受けた。
高校生の頃、本城には仲が良い生徒がたくさん居たが、その誰もが彼を名前で呼ぶことはなく、春寅は自分だけが本城と名前で呼び合うことに、微かな優越感を感じていたこともあった。
やはり、変わっていないようで十年という月日は長いものなのだと、改めて春寅は実感し、自分とだけ秘密を共有していた本城はもういないのだと、少しだけ寂しくなった。
もっとも、相手にとっては秘密などという大それた自覚はなかったのだろうけれど。
会話についていけずに目を白黒させていたものの、なんとなく春寅は相槌を打った。
「司書を探してるって......なんでミヨシが?」
「オレもここの司書だからさ!」
「へえ⁉︎」
「おっ、露骨な反応!皆同じ反応するけどなー」
驚いて二度見した春寅を、ミヨシは面白そうに笑ったものの、かつて図書委員会をサボりまくっていた男が司書になっているとは、春寅でなくとも驚くだろう。
「オレだって本が好きだから委員会に入ってたんだけど」
「初耳!本を読んでるところ見たことないような」
「まあ読書に目覚めたのは成人してからだからな!」
「意味がわからない!」
すっかり相手のペースに巻き込まれている春寅の肩を、本城が控えめに叩いた。
「あのね、あんまり真剣に相手しなくて良いよ。
幸助、トラだって帰ってきたばかりなんだから、いきなりそんなこと言われても答えられるわけないでしょう」
「聞こえてるぞー。
まあな、そうだよな?
考えておいてくれればいいから!」
「あっ、ミヨシ!」
「図書室の位置は変わってないから、気が向いたらまた来てくれー!」
ミヨシは、本城にもはや叱られるような口調で諌められても全くペースを崩さず、しかし颯爽と、唐突に春寅に言い残して、去っていった。
本城と春寅がポカンとその後ろ姿を見送ると同時に学校のチャイムが鳴り響いて、二人はハッとして、顔を見合わせた。
本城はなんとも言えない表情だったが、春寅の方も似たようなものだ。
今のは、放課後を知らせるチャイムだろう。
おそらく、ミヨシには放課後、図書室内で仕事があるに違いない。
到底信じられなかったが、司書をしているという話は本当らしく、本城に確認しても、嘘ではないらしい。
「うん、でも、あんまり気にしなくていいよ」
「なんで?司書なら......」
「だって、春寅、ずっと居るつもりはないんでしょう?」
「え、」
穏やかな口調で告げられたはずの言葉が、思いの外突き放すような響きを持っていたことに驚いて、弾かれたように春寅は顔を上げた。
ショックを受けたのもあるが、先ほど、ずっと島にいたらいいと言ってくれた本城が、そんな事を口にしたことに驚いたし、春寅の返事が、本心ではないことに気が付かれていたことにも、また、驚いたからだった。
本城はといえば、自分自身、口にした言葉に驚いたような顔をして、慌ててへにゃりと笑った。
「ごめん、少し間違えた。
決めるのは、春寅だしね?」
「んっと、......」
本城は謝ってくれたけれど、何に対して謝ったのか、何を少し間違えたのか、春寅にはよくわからなかった。
「俺はね、トラが帰ってきてくれて嬉しいよ。
ずっといてほしい。それは本当だよ」
「うん、」
「だけど、よく考えて......って、帰ったばかりの人に言うことじゃないね」
再びごめん、と謝った本城は、いつもの見慣れた表情に戻って、けれど、全然知らない人のように、春寅には思えた。
15
自分は、どうするべきなのか。
春寅には、全然わからなかった。
そもそも、島に戻ったこと自体、深く考えての行動ではなかったのだから、ずっと居るか、島からまた外に行くかなんて、いきなり考えられない、と思った。
だけれども、このまま本城の家に世話になり続けることが正しいとは思っていなかったし、今日一日行動を共にしただけでも、彼に対する自分の感情が揺れ動くのを自覚していたから、これ以上近くにいることはとても辛いことだとも思った。
それでも、本城の部屋から眺める静かな海を見ていると、春寅の心は、もうどこにも行きたくないような、もうずっとこうしていたいような、懐かしくて泣きたい気持ちになるのだった。
学校への配達を終えてその日の仕事は終わりだと本城は告げ、そのまま二人は車で本城の家に帰った。
暮れかけた空の下で、畑の傍らに置いた籠の中から、トヨ婆さんは夕餉に使う為の野菜の収穫したものや、干したものを取り込んでいるところだった。
先に車から降りた春寅が手伝いを申し出ると、家に戻り料理を続けながらトヨ婆さんは今日のことを聞いてきて、それにポツリポツリと話しながら春寅も支度をそのまま手伝った。
居間に支度を揃えているうち、本城も祖父と連れ立って顔を出し、春寅は都会に暮らして働いていた頃とは比べものにならないくらい早い時間に食べる、いかにも田舎の素朴な、けれど手の込んだ夕食を、その日もありがたく味わった。
トヨ婆さんの食事には小さい頃から島を出る高校生の頃までよくお世話になっていたから、少し薄味だけれど肩肘を張らなくて、作った人のなりを表しているようなその味はとても懐かしくて、春寅は日頃よりもよく食べて、そんな自分を見て、本城も、彼の祖父母も優しく笑うから、自分だけ小さな子供になったみたいに思えて、気恥ずかしい気がした。
物心ついた時から、母と二人で囲む食事が多くて、母の具合が悪い時は春寅一人きりで食べる事もあった。
母が亡くなってからはたまに本城家にお邪魔したり、本城が春寅の部屋に来てくれたりしたが、都会に移り住んでからは父と食事をすることなんてほとんどなくて、こんな人数で普段食事をすることなんて春寅には久しぶりすぎて、大皿料理ひとつ取るのだっておっかなびっくりだったが、本城が実にタイミングよく春寅の皿に次々食べ物を入れるものだから、つい食べすぎる。
先程までの若干の気まずさを食事時ばかりは忘れて、春寅も談笑しながら舌鼓を打った。
風呂に入り、部屋に戻ると、部屋の主人である本城は、布団の上にあぐらをかいて本を読んでいた。
物音に気がついてふと上げた顔には見慣れぬ眼鏡がかけられていて、春寅は思わず動揺して、大きな音を立てて襖を閉めた。
幸い、春寅の動揺に気がつかなかったらしい本城は、目を細めた。
「髪、濡れてるよ」
「え?ああ......いいよ。どうせ、すぐ乾く」
「ダメでしょう」
「えっ」
腰を下ろした春寅に近寄り、本城が手を伸ばしてくる。
肩にかけたままだったタオルを取られ、そのまま髪の毛を優しく拭われた。
「な、何してんのっ」
「だって、トラがちゃんと乾かさないからさ」
「だからって......」
喉元まで出かかった言葉を、春寅は飲み込んだ。
向かい合った本城の顔が思ったより近かったのと、見慣れぬ眼鏡姿がよく似合っていて、黙らざるを得なかった。
きっと自分でやるから、といえば彼はすぐに手を離すだろうし、春寅もそうしようとしたものの、結局出来ずに数分間、されるがままになっていた。
春寅には随分長いような、短いような落ち着かない時間だったけれど、本城の方はといえば平然としているものだから、なんとなく釈然としない。
解放された髪の毛を自分でも拭きながら、春寅はようやく口を開いた。
「メガネ、かけるんだ?」
「ああ、最近少し視力がね、落ちたからさ。
自然ばっかり見てるんだけどなぁ」
「どういう理屈だよ」
春寅が突っ込むと、本城はあれ?そういう風に言わない?と首を傾げて、聞いたこともない、と春寅も首をひねった。
「あとね、大きなメガネ屋さんがやっとこっちにも出来たから、気になってさ」
「ああ、前はフェリーに乗らないとなかったものな」
「そうだよー。
まぁ、そうそう需要もない......、
いや、老眼鏡で結構儲けてるって聞いたなぁ」
「はははッ」
確かに島には老人が多いから、老眼鏡もよく売れるだろう、と春寅が思わず笑うと、本城も綻ぶように笑った。
「よかった。やっと笑ったね」
「え?笑ってただろ?」
「部屋に戻ってからはなんか難しい顔してたよ」
それはお前の見慣れない眼鏡のせいだ、とも言えず、春寅はまたしても口を噤んだ。
「トラ?どうかした?」
「えいッ」
「わっ!」
顔を覗き込んでくる本城の距離の近さが悔しくて、春寅は思わず彼の眼鏡を摘んで奪い取った。
不意を突かれた本城は、驚いて目を丸くしていて、春寅はなんとなく得意な気持ちで、奪った眼鏡を自分でかけた。
「ん?思ったより弱い」
「......春寅、目、悪いの?」
「いや?良いよ」
「じゃあ、あんまり良くないよ」
ぼやけた視界で見上げた本城の表情はよくわからなくて、穏やかな声と共に、目元を、触れるか触れないかの距離で指先が掠めていく。
春寅は思わず目を瞑ってしまい、再び目を開けたときには、簡単に眼鏡を持っていかれてしまっていた。
もう一度そのままかけ直す本城はもう全然動揺した様子もなくて、春寅はつい拗ねたような口調で本音を溢してしまった。
「それ、似合うね」
「そうかな?ありがとう」
本城の方にそのつもりはないのだろうが、自分ばかり振り回されて、照れさせることも上手くいかない、と春寅は舌打ちしたが、本城が春寅の言葉に、あまりに素直に、嬉しそうに笑うものだから、結局は春寅ももう一度笑ってしまった。
16
「なあ、俺、ミヨシの話を受けようかと思う」
春寅がそう本城に告げたのは、島に戻ってから一週間が過ぎた、晴れた日のことだった。
いつものように本城の仕事を手伝って、車に乗って配達をして、最後の高校に寄れば終わり、という時だった。
今日、春寅は三好に会うことが出来れば了承を告げるつもりで、その前に本城には言っておこうと思ったのだが、なかなか言うタイミングが掴めず、直前になってしまった。
あれから顔を合わせるたびに三好にはその話をされており、そのたびに考えておく、と返していたものの、都会に帰る気が一向に起きないでいた春寅は、それならばやってみようか、という気になり、短期でも良い、とまで言われては、断るのも悪いという気もして、受けることにした。
「えっと、司書の話......かな?」
「うん、そう。
まあ、とりあえず、短期なんだけど」
「そっかぁ。
春寅が決めたことなら応援するよ」
本城の朗らかな返事を聞いて、想像通りの答えを言われた春寅は、頷きつつ、内心笑った。
だが、横を窺って、その表情がいつものような笑顔じゃなく、なんとなく面白くなさそうな、どちらかといえば見たことのない顔をしていて、意外に思った。
「はじめ?何、
俺が島にいるの......反対?」
「えっ?そんなことないよ!
前も言ったけど、俺はずっといてほしいよ!」
恐る恐る尋ねた言葉は食い気味に返されて、ほっと胸を撫で下ろしたが、それならば先程の表情はどういう意味だろうか。
春寅が怪訝そうな顔をしたことに気がついた本城は、ほんの少しだけバツが悪そうな顔をして、ハンドルを握り直した。
「えっと、あのね......、引かない?」
「うん?いや聞かないとなんとも......」
引かないと思うけど、と春寅が気軽に返すと、本城はどこか拗ねたように頬をかいた。
「そうしたら、こうやってずっと一緒にいるのは幸助になるのか、と......思って......」
段々しりすぼみになる言葉を聞いて、春寅は、自分の頬が赤くなるのを感じた。
「んっと......、でもはじめだって、配達に来るだろ?」
「それでもさ、今よりは......、
いや、ごめん!忘れて、ね?」
さらに言い募ろうとした本城は、自分の発言に我に返ったような顔をして、急に続きを言うのをやめてしまう。
だが春寅は、いまさっき言われたことを反芻しながら、確かに自分が司書として学校に在中するようになれば、こうして日中ゆっくりと話す時間も減るのだな、と思い、寂しく思った。
同時に、相手が真っ先にそのことを考えてくれていたと知って、面映いながら嬉しいと感じる。
「俺、も寂しい......」
「へ?」
「けど!
まだ、しばらくは島に居るつもりだから!」
「あ、ああ、うん、春寅?」
「何!」
「いや、えっと、うん」
自分も素直に伝えてみようと思ったものの、声は小さくて、しかも途中から駄目になり、春寅は誤魔化しきれなくて、思い切りそっぽを向いた。
本城もその勢いに呑まれ、頷きつつ、返ってきた声は笑っているから、春寅の呟きはしっかり聞こえてしまったようだった。
「よかった。
それに、ウチにも居てくれるでしょう?」
「あー、それは......うん。
しばらくは、お願いすると思う」
嬉しそうにする本城に対する春寅の返事が歯切れ悪くなったのは、三好の話を思い出したからだった。
曰く、一応高校の教員用宿舎というものがあるらしく、臨時の司書でもそこを使用することが出来るから、住む場所にも困っていたら、と事前に紹介された。
年季の入った平家は安普請だが高校からは目と鼻の先に建っていて、しかも余った土地をそのまま使いましたと言わんばかりに広い。
広いだけで裏は雑草まみれの空き地だから虫は凄いし、一応家電は揃っているがどれも古いから、良い物件とはとても言えないが、その分タダ同然の価格で貸してくれるという。
更に、いまでは人気の観光地となったこの土地に来る教員は、異動が決まると移住覚悟で家族連れでくる人や、そのまま移り住んでしまう人も多いらしく、ファミリー向けの社宅は新しくて綺麗なところが別にあるから、長いこと単身者向けの宿舎には三好が一人で住んでいたらしい。
その三好も島の中でいい物件を見つけたので先日宿舎を出たと言っていたので、もし住むならば、広々と暮らせるぞ、と笑って言われたのだった。
その代わりに色々なところに目を瞑らなくてはならないが、そうするうちに気が変わって、きっと八嶋もずっと島に暮らしたくなるから、とまで言われてしまえば、すぐに島を出る気も無くなっている春寅は、そこに住むのもいいかもな、と考えていたのだが、もちろん本城にはそのこともまだ伝えていない。
だが、あまりにも本城の家が居心地が良すぎるのもまた事実なので、春寅は何気なく言葉を濁してしまい、それに気がついた本城は、眉を潜めた。
「ずっと居ていいんだよ?
もし、俺の部屋が嫌なら、部屋も他に掃除すれば開けられるしさ」
「はじめの部屋が嫌とかじゃない。
むしろ、あの家は居心地がいいから、困る」
「それは、よかったけど」
司書の件も含めて、決まったら改めて、と春寅が言うと、本城も納得していなさそうだったものの、それ以上は聞いてこず、待ってるよ、とだけ呟いて、いつも通りの調子を取り戻して、前に向き直ってくれたのだった。
17
司書の件を短期だけど勤めたい、と伝えると、三好は目を輝かせて踊り出さんばかりに喜んだ。
「そうか、そうか!
ありがたい!よろしくなー八嶋!」
「うん、よろしく。ミヨシ」
良くも悪くも裏表がないやつだから、純粋に歓迎されているのを感じて、春寅は本城と顔を見合わせて、肩をすくめる。
「よかったねぇ、トラ
幸助はきっと一緒に働くには、悪くない奴だよ。
良くもないと思うけどさ」
「ありがと。ちょっとうるさそうだけど」
「半分は、聞き流したら良いよ」
本城が三好を指差して、にこやかに雑な発言を繰り返すのを物珍しく思いつつ春寅も一緒になって笑う。
「そうそう、オレは結構適当だしなー。
関係ない話も多いって昔から良く言われるし」
「だれに?」
春寅の問いに、本城と三好から同時に答えが返る。
「誰にでも?」
「俺からも」
やはり前から春寅が感じていたとおり、結構仲が良いらしい。
もっとも、島内に留まる同級生同士は顔を合わせることも多いから、仲が良くなるのも必然のようなものだと本城からも前に聞いた。
栄えてきたとはいえ島外に行った同級生の方が多いし、そのまま帰ってこない人や、春寅のように帰る場所を島内に残して行かない人も多いという。
そのかわりに島内に長年残る者たちが仲良くなっていくのも、やはり当たり前の流れなのだろう。
そうは思いつつ、春寅は、やっぱり本城と仲良く会話する三好を見ると、反射的に羨ましいと感じてしまうのだけれども。
「はじめからは特になー?」
「ごめんね?」
「思ってないな!」
「そりゃそうさ」
そんな風に粗雑に扱われても、当の本人は同意までして頷いているのだから、慣れていると言うか、心が強いというのか。
漫才のような果てしないやりとりを眺めていた春寅は、自分と居る時とは違って、本城はこうも若者らしく、テンポ良く話すこともできるのだと感心しつつ、自分と話すときは言葉を選んでくれているのか、それともただ距離が遠いのか、少しだけ気にかかった。
昔から、本城は春寅と話すときは特にゆったりとした様子で話していたからそれが素なのだと思ってきたけれど、この間港で話していた時といい、三好と話している時といい、どうもそうでもないらしい。
ただ、彼の祖父母と話すときは春寅がよく知る穏やかな調子だから、相手に合わせていると言った方が正しいのかも知れず、そのどちらが彼にとって楽なのか、という考えはは流石に気にしすぎというべきか。
「あ!ごめんね、トラ。
幸助の調子には俺もよく引っ張られちゃうんだよ」
「漫才みたいだった」
置いていかれて考え込んでいる春寅の様子に気がついた本城が、慌てて三好との会話を切り上げてきてくれる。
あんなに良く話す本城は珍しい、と考えていたのが伝わったのか、言い訳めいた調子で本城が弁解するものだから、やはり相手に合わせる傾向があるのかもしれない。
「漫才!コンビ組むか?はじめ!」
「組まないよ。幸助は司書だろう?」
幾分調子を取り戻した本城が微笑むと、それよりも上手らしい三好が春寅の肩に腕を回した。
「今日からは、八嶋もなー」
「あ?俺?」
「うう......」
いきなり引き合いに出されて春寅は変な声を上げると、本城も顔をしかめて呻いた。
先ほどの会話が尾を引いているのか、心配気にされると、もうとっくに成人している、というか同い年の春寅は情け無い。
だが、本城の反応には、ただ単に友達をとられて面白くない、という子供じみた意味合いもどうやら含まれているらしい、とわかって、これまで感じたことがないような、少しだけ愉快な気持ちになった。
そこで、春寅は、三好と一緒になって笑った。
「俺と、コンビ組むか?ミヨシ」
「おっ、いいかもなー!」
「だめだよ!」
もちろんほんの冗談のつもりで、三好の方も面白そうな目をしただけだったのだが、思いがけず本機の制止の声を受けて、二人ともキョトンとした。
「春寅は、だめ」
「いや、冗談だけど......」
「あ、えっと、うん。そうだよね......」
春寅が組んでいた肩を外すと、三好がまだ悪ノリして、遊びだったのね!とかなんとか叫んだが、それを叩いて黙らせる。
本城はといえばハッとしたような顔で我に返り、春寅はその顔をさっきも見たな、とぼんやりと眺めた。
どうしたというのだろう、と思っていると、本城の顔がだんだんと赤くなり、俯いてしまったものだから、さらに驚いた。
「子供みたいだ、俺......。
ごめんね、二人とも」
「いや、」
「今日のはじめ、なんか面白いなー」
首が落ちるのでは、というほど項垂れた本城から申し訳なさそうに謝罪され、春寅は慌てたのだが、三好はまたしてものほほんとマイペースに返していた。
「俺、配達に戻るから!」
「えっ」
「ああ、おつかれさーん」
もう今日の分の配達は高校に降ろした分で最後だったはずだが、耐えきれなくなったように踵を返して早足で去ってしまった本城を追いかけようとした春寅は、一応今日の自分は司書の仕事を受けるという用件で来ているのだと思い出して、踏みとどまった。
ニコニコと本城を見送った三好に助けを求める目線を送ると、ポン、と肩を叩かれた。
「きっと、少ししたら頭が冷えて迎えに来ると思うぞー。
だからそれまで、ちょっとだけ仕事を教えような?」
「うん......、じゃあ、頼む」
「おう!」
高校の頃徒歩で通っていたのだから帰れないこともないのだが、確かに本城の性格ならば、このまま春寅のことを置いて帰ったりしないだろう。
気持ちを切り替えて頷いた春寅に、三好は嬉しそうに笑った。
もう二人とも見知ったはずの校内を案内しようとしたりするのを止めつつ、そのまま仕事内容や時間帯などをざっくり教えてもらっていると、暫くしてから気恥ずかしそうな様子の本城が図書室に訪れて、春寅と三好は顔を見合わせてから、声を上げて笑ったのだった。
18
「さっきは本当にごめん」
「いや、気にしてないって」
本城家に戻り、夕飯を食べて、風呂も済ませ、布団を並べるまで、本城はずっと謝り通しだった。
こういうことは気にするだろうな、と思ってはいたものの、気にしすぎではないだろうか。少しだけ様子がおかしい気もするが、ずっとこの調子で、いいと言っても聞いていない。
最初はちゃんと宥めていた春寅も、だんだんと面倒になってきて、窓の外を眺めながら、おざなりに頷く。
もちろん、もう日が暮れて暫く経っているから窓の外は真っ暗で、古い外灯が数本立っているのが見える以外は、畑も木々も、海も、すべて等しく闇に沈んで見える。
今日は風が強くて雲が少しあるけれど、晴れているから、月がよく見える。
空気が澄んでいるせいか、この島にいると月の光でさえも違って見えるのだな、と春寅はぼんやりと考えていたが、冷気が鼻を擽って、くしゃみを一つした。
「もう結構冷えるから、閉めようね」
「俺、もう少し見てたかったんだけど」
横から腕が伸び、窓を閉められる。
春寅が文句を言うと、本城は淡く微笑んだ。
思ったより振り向くと距離が近かったせいもあり、拗ねた子供のような口調になってしまったせいか、諭すような顔である。
「だめだよ。風邪をひくから......、
それでなくても春寅は、いつも髪の毛をよく乾かさないんだからさ」
「すぐ、乾くって」
そばに立っているせいで、声が近い。
返した声は掠れていなかっただろうか、と春寅は俯いた。
雫の付いた髪の毛を一房摘む本城の仕草には、何の躊躇いもないくせに、口調だけはやけに優しくて、甘い。
素直に接近を喜んでいいのか、それとも友達としての距離感を悲しめばいいのか、そのどれもが相応しくないと分かっていて、春寅は微かに胸が軋んだ。
例えば春寅の方から、こうして本城に気軽に触れることは、あまり出来ないから、そう思うと余計に切ないような気がした。
「春寅?......まだ、怒ってる?」
「怒ってないって!」
「でも、......」
「ちゃんと迎えにきてくれたし、ッ」
うなじに掛かる髪の毛をそっと触れられ、首筋がぞくりとして、春寅は勢いよく体ごと振り向いた。
パッと手でその場所を押さえると、本城は手を離した。
至近距離にある顔が、みるみる蒼白になるのを見て、春寅は出かけていた文句を飲み込む。
「......」
「ごめん、嫌だった?」
「......くすぐったい」
「あ、そっか......あはは、ごめん」
「笑うのかよ!あんた、謝ってたんじゃないの?」
「ご、ごめん、」
なんだか気が抜けて、といいながら本城は、たしかにホッとした表情をして笑っていたから、本気で春寅がまだ怒っていると思っていたのだろうか。
それならば随分と狭量に思われたものだな、と憤慨しかけ、いや、日頃の行いか、と春寅の方は勝手に考えて、少し傷付いた。
自然に、項垂れてしまう。
「春寅?
ごめんね、やっぱり嫌な気持ちにさせたかな」
「もういいよ。
置いてかれたって帰れる距離なんだし」
「いや、それだけじゃなくて......、」
「?」
何かを言いかけた本城が、急に黙り込むものだから、春寅は言葉の続きが気になって、顔を上げ、覗き込んでいた相手と目があってしまったものの、こんな距離でこの色素の薄い瞳を眺めるのは初めてかもしれない、と場違いにも、見惚れてしまう。
近くで見ると、琥珀色の濃淡さえもわかる。
自分のものとは全然違う色合いの中に、虹彩が細かく散って、思わずよく見ようと目を凝らして。
それは、夜の空の中で、星を探すのに似た気分だったから、唇の感触に気がつくのが遅れた。
柔らかいものが当たって、綺麗な瞳が先ほどよりも随分近くにある、と思って、春寅はようやく状況に気がついて、目を見開いた。
「ん、......⁉︎」
「手が、冷えてる......」
「ぅ、......ん、ーッ」
本城はそういったけれど、絡められる指が熱くて、春寅には自分の手が冷たいのか、本城の指先が触れたところが熱を持っているのか、わからない。
ただ無意識に離れようとして身動ぐと、繋いだ手を強く引かれたので、春寅は反射的に抵抗を止めてしまった。
その隙に、離されたばかりの唇がもう一度合わせられる。
「......ッん、ん......、」
「ん、......」
薄茶色の長い睫毛に縁取られた瞼が今度は閉じられていて、春寅も釣られるように目を閉じた。
触れるだけの口づけに体の力を抜くと、少ししてゆっくりと離された。
思わず吐息を漏らしたのはどちらが先だったのかは、わからない。
「......はッ、......なに、.......?」
「ごめんね、」
混乱する春寅に、眉を下げて弱々しく謝るくせに、困ったように笑うくせに、本城は決して繋いだ手を離さない。
それどころか、動こうとするたびに、握られる。
いつのまにか自分が窓辺に追い詰められるような格好で立っていることに、咄嗟に逃げることも出来ないまま、春寅は動揺した。
「なんで、......」
「俺にも、わかんない」
だから、ごめん、と繰り返す本城の顔は、言葉とは裏腹に、どうしてか泣きそうで、泣きたいのはこっちの方だ、と思いながら、動きを封じられて、どうすることも出来ずに、ため息を吐きながら、春寅はその肩口に額を付けた。
逃げようと、拒絶して、きっと強く振り払えばこの男はすぐさま手を離すだろうが、ずっと温めてきた好意がある春寅には、そんなこと出来なかった。
それに、そうしたら、もう本城は二度と、戯れでも春寅に触れることはないだろうと確信していたから。
額をグリグリと押し付けようと、本城は微かに肩を揺らしただけだったが、本人も混乱しているのかもしれない。
だけれども、ただひたすらに謝られることにいい加減嫌気がさして、顔を上げ、その瞳を睨みつけた。
相手が怯んだその隙に、今度は自分から唇を合わせる。
勢いが良すぎて歯がぶつかりそうだったが、自分から仕掛けてきたくせに本城が咄嗟に身を引いたから、軽く触れただけだった。
「トラ、......ッ」
「......ん、」
すぐに離すと、本城は心底驚いた表情をしていて、こんな状況なのに、少しだけ笑えた。
「謝んじゃねえよ。
......頼むから、謝んないで」
本城が謝るたびに、春寅の気持ちまで否定されているような気がしてしまう。
自分の表情を見られたくなくて、俯くと、躊躇いがちに抱き寄せられた。
どうしても相手の背に腕を回すことができなくて、春寅は、縋るように本城の服の裾を握る。
ぎこちない動きに身を任せて、服に顔を埋めると、慣れた匂いがして、ほんのちょっと安心した。
本城は幾度か口を開きかけたものの、謝罪の他に言葉を思いつかなかったのか、抱き寄せた春寅の髪や背を、ただ黙って撫でていて、その優しい動きに、春寅は息を吐いて、目を閉じた。
19
あの夜から三日後、春寅は本城の家を出て、宿舎に移り住んだ。
引越しといえど大した荷物もなかったけれど、本城は律儀に車で送り届けてくれた。
傍目から見れば、いままでとおなじだったけれど、お互いに不自然なほど、あの時の出来事に触れないまま、その後も数日経ってしまった。
本城は配達や畑仕事、春寅は司書の仕事で毎日忙しくなり、顔を合わせることもあるし、食事を共にすることもあるけれど、住むところが違うとこんなに接する時間が減るものか、と春寅は気分が塞いだ。
何日もかんがえるうちに、きっと、本城の方が、時間を減らしているのだろうと思ってしまったので、余計に落ち込んだ。
この宿舎に移ることを打ち明けた時も、本城は特に深く追求することもなく笑って賛同してくれたので、春寅は、いつのまにか自分の気持ちが彼にバレていて、それであんな態度で謝られたのかとまで勘繰ってしまい、だとすれば如何に春寅を傷つけないように配慮しようと心を砕いたのかと思うと、申し訳ない気もした。
だが、それでもまた島を離れる気にはどうしても慣れなくて、交友関係が今までと同じように続くことは叶わなくても、春寅のことも、島に住む同級生として接してくれたら、それだけで嬉しいとさえ思い、この宿舎に住むことにしたのだった。
もちろん、本城とずっと一緒に居ることが辛かったせいもあるのだけれども。
その日も、春寅はいつもと同じように校内の図書室で仕事をしていた。
そうは言っても毎日の作業はそう大したものじゃない。
利用者もそんなに多くないので、返却作業も書架整理も大抵はあっという間に終わってしまう。
カウンターで修繕作業を行いながら、春寅は無意識にため息を吐いた。
先程まで、本の納品があったので珍しく本城も図書室まで来ていたのだが、三好とばかり話していて、春寅とは二言、三言しか会話せず、早々に立ち去ってしまった。
その様子を見て、三好には喧嘩でもしているのか、と彼にしては真剣に心配されるし、春寅だって悩んでるとはいえ、顔を見られて嬉しかったのに、とさらに凹んだ。
別に本城がわざと素っ気なくしているとは思わないけれど、考え込んでいるような、どこか上の空で何かに気を取られているような感じもしたので、あんなことがあった後だが、もしかしたら彼女でもできてしまったのかもしれないと、そんなことを思ってしまうと、春寅は三好にロクな返事を返すことも出来なかった。
そのあと、最終下校時刻が過ぎて生徒も帰ってしまい、様子を気にする三好を先に帰らさせた後も、春寅は、余計なことを考えてしまうのが嫌で、一人の部屋に戻りたくなくて、なんとなく雑用をこなしながら、だんだんと暮れてゆく窓の外を眺めながら過ごした。
ようやく帰路に着いたのは、警備員が戸締りをするので、と声をかけてくれてからで、そのお爺さんにも、あまりにも沈んでいる顔を指摘され、心配されてしまったので、何でもないと誤魔化して、渋々帰ることにしたのだった。
敷地から出て少し歩けば、すぐに宿舎にたどり着く。
年季の入った木造とコンクリートが半々のその建物は逢魔ヶ時には寂しくてちょっとだけ不気味だが、それでも、引っ越して数日も経てば安心できる自分の空間という認識が出来てきた。
今日は早く寝てしまおうと春寅が玄関扉に向かうと、小さい裸電球のオレンジ色の光に照らされて、人が立っているのが見えた。
ギョッとして、思わず立ち止まる。
「......春寅、おかえり」
「は、はじめ?」
相手からは春寅の姿が見えたようで、声をかけられる。
春寅がその優しくて穏やかな声につられるようにして恐る恐る歩いていくと、先ほど帰って行ったばかりの本城が、扉の曇りガラスに寄りかかるようにして立っていた。
「遅かったね。おつかれさま」
「うん、ちょっと......、
どうしたの、何か用だった?」
さっきはあんなに、素っ気なくされたことに悶々としていたくせに、いざ二人きりになると言葉が出てこない。
本城はそういうわけじゃないけど、と首を傾げながら、手に持っていた袋を示した。
「婆ちゃんから、夕飯のお裾分け。
この頃、トラのことばかり話すんだ」
心配なんだね、と微笑まれ、ようやく春寅は、無意識に入っていた肩の力を抜く。
「ああ、ありがと......。
とりあえず、入ってよ。
暗くて顔もよく見えないから」
「うん、ありがとう」
鍵を差し込んで建て付けのやや悪い扉を開けると、大人しく本城も後についてくる。
一人しか住んでいないというのに宿舎はやけに広くて、古いせいか頻繁に軋む音を立てる共用玄関も、廊下も、最低限の明かりだけしかついていないので、端の方はやたらに暗い。
それでもなぜか春寅は、この建物の中が落ち着くのだけれど、三好は不気味で苦手だといってさっさと出たようだ。
本城はといえば、ちらりと様子を伺った限りでは特に気にした風でもなく、自分の家も古いから、慣れているのだろうか、と春寅はぼんやり思った。
自分の部屋の扉を開け、電気をつける。
この部屋は電球を変えたし、掃除もしたので、暗い雰囲気は払拭されている。
やたらに広いせいで持ち物はどれもポツンと置いてある印象があるし、春寅は未だにどこに腰を落ち着けたものか悩むこともあるけれど、とりあえず備え付けてあったちゃぶ台に近いテーブルの近くに、三好から譲り受けた座布団を敷いて、本城を座らせた。
春寅がお茶の用意をして戻ると、手際良くトヨ婆さん手製の食べ物が並べられており、机の上だけが本城の家の食卓の様相を呈していたから、春寅はほっとした気持ちになる。
自分の意思で移り住んで、あれから幾度か夕飯に招かれたりもしているというのに、何故だか懐かしい、とさえ思った。
「俺も少し食べていいかな?」
「もちろん、いいに決まってるだろ。
俺一人にこの量は多いし」
「やったね」
予め春寅が二人分用意した箸や取り皿を手に持ち、それぞれ手を合わせて食べる。
こうしていると高校生の頃を思い出す、と春寅が思っていると、本城も同じことを思ったのか、こちらを見て、ヘラリと笑った。
「はじめて料理を持って行った時、春寅は嬉しいけど面倒くさそうな顔をしたよね」
「そうだっけ?」
「うん。料理は嬉しいけど、こいつは嫌だな、って思ったんでしょう」
記憶をたぐり寄せてみても、あまり思い出せないけれど、本城がそう言うからにはそういう態度だったのだろう。
あのときは特に、母を亡くして間もなかったから、誰かと親しくするたびに、母を忘れるようなそんな気がしていたのだろう。
彼女がそんな彼を喜ばないと理解するには、高校生の頃の春寅は幼すぎた。
苦笑すると、本城は懐かしそうに目を細めた。
その顔があまりにも優しい表情だったから、春寅はさっきまで悩んでいた自分が下らないような、それでもやっぱり不安なような気持ちになった。
20
「トラ?」
名前を呼ばれて、春寅は自分がぼんやりしていたことに気がついた。
食事をする手も止まっていて、本城も箸を置いて心配そうにこちらを見ている。
「ああ、ごめん。なんでもない、」
「......やっぱり、......俺のこと、嫌だよね」
「え?」
無理に笑って誤魔化すと、不意に本城の表情に影がさして、話し声もトーンダウンした。
言われた言葉が理解できないでいると、何を思ったのか本城が居住まいを正した。
そのまま頭を下げられる。
「本当に、ごめん!」
「なんの話?」
何の話なのかは何となくわかっていたけれど、春寅は無意識に惚けてしまった。
「あの、急にあんなことして、」
「は?そっち?」
「え?」
「い、いや、なんでもない......」
だが、続いた言葉に思わず声を上げてしまった。
てっきり、春寅の気持ちに気がついていて、振られるとばかり思っていたのだ。
だからこんなに申し訳なさそうにするのだと。
それなのに、本城が謝った事はといえば、あの日の行為に関してだった。
「俺、自分でも無意識だったんだ。
春寅が目の前に居るって思ったら触りたくなって」
「......」
「相変わらず肌が白いとか、でも戻ってから少し焼けたかなとか、首のところを見て考えてて、」
「ちょっ、と......待って!」
形の良い唇から紡がれる言葉に耐えきれなくなって、春寅は手を伸ばして、本城の口を塞いで遮った。
前から思ったことを素直に口に出すタイプだとはわかっていたが、こうもストレートに言われると、恥ずかしい。
止められてから気がついたのか、本城の方もほのかに顔を赤らめて黙ってしまった。
「あのさ、えーと.....別に嫌とかじゃないから。
別にはじめにされて嫌なこととか無い......、
いや、違う。ちょっと間違えた」
困り果てて何か言わなければと思ったものの、春寅にも動揺が移ってしまい、呆気なく口を滑らせてしまい、気がついて口を噤む。
そうして二人して黙り込んでしまったが、その数瞬間の間を破ったのは本城の方が先だった。
「......嫌じゃなかったなら、
トラ、まだ島に居てくれる......?」
「は?なんでそんな話になる.......って、そっか。
俺、何も伝えてなかったっけ」
春寅が短期といえど司書の仕事につき、この宿舎に居を構えようと決心したのは、何も本城にお世話になることに後ろめたくなったからということだけではなくて、もっと島に長く住もうと、前々から考えていたからだった。
本城に依存して、頼り、いつまでも居候にお手伝いとして暮らすのでは、たとえ気持ちを伝えなくても利用しているみたいで嫌だったから。
だからと言って言い逃げみたいに気持ちを伝えて逃げることがこの優しい男を傷つける事はわかっていたし、そうまでしてこの島を出ていくことも、もう考えられないし、行きたい場所も他にない。
それで、自分の力で覚悟を決めて島の一員になったら、付き合うとかそんな事は考えていないけれど、本城を好きで居続けても許されるのではないかと、春寅は考えた末、結論を出して、この宿舎に住むことにしたのだった。
だけれども、その一端さえも本城には話したりしなかったものだから、極端にマイナスに考えれば、春寅は本城のことを嫌がって、宿舎に逃げて、ともすれば島からだって居なくなるかもしれないと、本城が考えたって無理はないことかもしれなかった。
どこからどこまで説明したものか悩みながら、春寅は若干、怒りを覚えた。
それは、失望だったのかもしれない。
嫌だ、なんて一言も言っていないのに。
自分は本城のことをこんなに好きなのに、逃げるほど嫌うと思われていることに。
本城のほうに非がないことなど分かっていたはずだが、本城が、自分が好かれているとは考えず、嫌われる方向に思考することに、もっと言えば自分の好きな男を本人が否定することに、憤りを覚えた。
曖昧なその感情は、普段ならば隠し通せる位のほんの僅かな揺れだったものの、不安定になっていた春寅は、半ばヤケクソ気味に口を開いた。
「俺、この島にずっといる」
「春寅......?」
前回弱った姿は見せてしまったけれど、春寅がここまで感情を剥き出しにすることは珍しくて、本城は声音に驚いたようだったが、そのまま続けた。
「この間のことは、本当に嫌じゃない。
そりゃあ動揺はするけど、逃げるとか、ましてや嫌いになったりとか、絶対しない!
だって、俺、十年前から本城のことが好きなんだから、......!」
「え?」
「......ッ、」
慌てて口を塞いだが、言い放った言葉は戻ることはなく、相手の耳にもしっかり届いてしまったようだった。
今さっき逃げないと宣言した手前、身動ぎ一つ出来なかったが、春寅は自分の顔が熱くなるのを感じて、驚いたようにこちらを見る本城の視線から少しでも隠したくて、手で覆った。
だけど、すぐに腕を取られ、まじまじと薄茶色の瞳に覗き込まれる。
透明な目に映った自分の顔を見たくなくて、目を伏せると、羞恥のためか、それとも気が高ぶったからか、目元にじわりと涙が浮かんだ。
その滴を見て、純粋な驚きに満ちていた本城の表情が、崩れて、心配そうなものに変わり、はじめて春寅は、自分が泣いていることに気がついた。
「なんで泣くの、」
「あれ、なんでだろ......」
「泣くな、春寅」
腕を引かれ、抱き寄せられて身を預けていると、あやすように背中を撫でられる。
まるで子供にするような仕草に、今度ははっきりと羞恥を覚えた。
「はじめ、」
「うん?」
「.......、」
「トラは案外、泣き虫だなぁ」
やめてほしいとも離してほしいとも言えずに春寅が沈黙すると、本城は優しい声で笑った。
「そんなこと、ねぇよ」
「説得力ないなー......」
ズズッと鼻を啜って言っても、確かに何の説得力も無い。
声が震えているから、尚更だ。
せめてもの抵抗と、密着していた腕に力を込めると、容易く体は離れたけれど、距離が近いことに変わりはなかったし、背中に回された腕はそのままだった。
本城の考えていることが分からなくて、見上げると、目元をそっと舐められる。
「は、⁉︎」
「ふふふ」
涙を舐めとったのだと、気がつく頃にはもはや春寅はパニックだった。
「な、何してんの!」
「泣かないで、トラ。
......ありがとう、嬉しい」
「......、」
泣きそうな顔で微笑まれて、その切なそうな表情に
、春寅は胸が痛くなる。
春寅が眉を寄せるのを見て、本城は困ったように首を傾げた。
今度はギュッと力一杯抱きしめられて、耳元で声が聞こえる。
「俺も、高校生の頃から春寅が好きだよ。
ずっと、ずっと好きだった。
だから、嬉しい」
囁かれた言葉は決して大きな声じゃなかったけれど、とても近くにいた春寅にはちゃんと聞こえて、その優しい声が、心の深いところに染み込むようで、暖かい春の雨のようだと、感じる。
この時、春寅は初めて、自分の腕を相手の背中に回すことが出来たのだった。
21
落ち着いてから、春寅が、絶対に言うつもりではなかったのに、とこぼすと、本城も俺もだよ、と言って、照れ臭そうに笑った。
その表情が見たくて体を話すと、ごく僅かな力で、額がコツリとぶつけられた。
顔が赤い。
どうやら本城は、本気で照れているらしい。
そんな彼は珍しい。
自分の顔も赤いだろうに、そんなことは棚に上げて、春寅は思わず声を立てて笑ってしまう。
それを、咎めるように唇を合わせられても、春寅は、もう抗うことはなかった。
自然に受け入れて、目を瞑る。
「ん、ん......ッふ、ふふ、」
「もう、トラってば......、」
だけど、啄むように何度も口付けられて、再び堪えきれなくて笑ってしまい、そのムードのかけらもない様子に、本城が呆れたような声を出した。
「ごめん......、いや何か何やってんだろう、って」
「うん、」
「さっきまで悩んでて、こっちに戻った時もまさかこんなことになるとは思ってなくて」
「まあ、そうだねぇ」
「だから、......ありがと。俺も、嬉しい」
一瞬迷ったけれど、素直にそう告げると、本城は困ったように笑った。
「なんかトラが素直だと、調子が狂う」
「どう言う意味だよ」
「ん、いや、ごめんね。
照れくさいだけだよ。......本音はちょっとだけさ」
春寅が抗議するより先に、髪の毛をかき上げられ、額に可愛らしいキスをされる。
同い年のくせに子供扱いするな、と思いつつ、春寅はその心地よさに目を瞑った。
されるがままになっていると、瞼や頬を伝い、再び唇に降りてくる。
また笑そうになるのを堪えながら春寅が動物のように鼻を擦り合わせると、髪の毛を撫でていた本城の手が、宥めるように耳に触れる。
くすぐったいような、背筋が震えるような感覚に、体が跳ねた。
耳朶をわずかに引っ張られ、軟骨を確かめるように指でなぞられる。
「ん、......ッ、」
「.....、」
「ん、ん......ンッ、」
思わず春寅が息を吐いた隙を見逃さず、舌を絡められた。
漏れる吐息さえ逃されず、口を閉じることも許されない。
脳味噌が甘くて痺れるようで、ただ舌が熱い、としか春寅にはわからない。
ただ抱きしめていた腕に縋るように力を込めると、口内を蹂躙していた感触が離れる。
口の端を舐め取られ、飲みきれなかった唾液が溢れていたのだと、春寅はぼんやり思った。
「大丈夫?ごめん、ちょっとやり過ぎたね」
「ん、......いや、」
濡れた感触が残る口元を自分の指で拭いながら、春寅はそっと首を振った。
余韻で働かない頭で考えながら、それでもこれだけは伝えなければ、と口を開く。
このままなんとなくで流すには、十年分の気持ちはお互いに重たいだろうから。
「......はじめ。
お前が許すなら、俺は、島にいる」
「トラ?」
「ずっと、......考えてたんだ、戻ってから。
......いや、島を出てから、忘れたことなんてない」
「......うん」
「どうしても、忘れられなかった。
......はじめの側に、居たい」
声が、震えているような気がして、春寅が息を吸い込むのと、本城が応えて話すために息を吐いたのは、ほぼ同時だった。
「忘れられてなくて、良かった。
だけど、良いの?」
「なにが?」
「春寅は知らないかもしれないけど、俺は独占欲が強いし、わがままなんだよ」
「へぇ?」
わがままで独占欲が強い本城が想像出来なくて首を傾げると、本城が可笑しそうに笑った。
「疲れた顔で帰ってきて、泣いていたのを見たときから、春寅のことを、島の外に出したくないって思った」
「えっ?」
「もちろん、春寅の意思は尊重するさ。
だけど、本当は、俺の部屋にずっと居てほしいくらいだったよ。他の誰も、見て欲しくない」
ああ、爺ちゃんと婆ちゃんは別だけど、とにこやかに告げたその顔がやけに爽やかで、春寅は顔を引きつらせた。
そんな風に言われても、引くどころか鼓動が早くなる自分に気が付きたくなかったけれど、本城がわざと言っているような気がしたから、その頬に手を伸ばした。
滑らかな肌を撫でれば、琥珀色の瞳が猫のように細められた。
「それでも、俺は、はじめが良い。
......なんだよ、まだ疑うの?」
「いや、男前だな、と思ってさ。
......そうだね。俺も、春寅が良いよ。
お願いだから、俺の側にずっと居て欲しい」
触れていた手を取られ、妙に様になった、けれどどこか胡散臭い芝居がかった仕草で手の甲にキスをされるものだから、キザな雰囲気に堪えきれずに春寅は吹き出した。
「はははッ、......うん、喜んで」
「いやぁ、照れるよねぇ。
ありがとう、春寅。これからも、よろしくね」
そう言いながら雰囲気を一変させ、眉を下げてへにゃりと笑った本城の顔は、見慣れたいつもの、春寅の大好きな表情だったから、春寅は安心して笑いかける。
「こちらこそ、よろしくな。はじめ」
本城の部屋から見える海の、潮の香りを、嗅いだ気がした。
本城 1
俺は、この島が好きだ。
行き場のない自分を受け入れてくれた人たちが暮らしているところだし、気風にもあっていると思う。
それに何より、春寅と出会えた場所だから。
春寅のことを最初に見たときは、なんだか寂しそうだな、と思った。
婆ちゃんから家がすぐ近くて、同い年の子供の話はよく聞いていて、名前も、彼の母親のことも事前に知っていた。
だから席が前後だと知って、とても嬉しかった。
本当は名前や素性に思い当たる前に、入学式の席が隣だったから、何度か話しかけようとしたのだけれど、春寅は人を寄せ付けない様子だったから、ようやく話しかけられたのは、教室についてからで、それだって春寅が飾りの花を落としたことをきっかけにしたにすぎない。
もともと、婆ちゃんが、実の孫のように思っていると話している男の子には興味があったけれど、それでなくても俺は春寅と友達になっていたと思う。
なんだか雰囲気が、放って置けない感じだったのだ。
嫌いな割にはいつ見てもぼんやりと海を眺めていて、その横顔がなんだか見てるこっちまで儚くて切ない気分になる表情だったから、何度も毎日話しかけて、やっとこっちを見てもらえたときには、きっと俺は春寅のことが好きだったのだと思う。
春寅は自分の方が好きになったのは先だというけれど、多分俺の方がずっと早い。
その証拠に、帰り道で初めて捕まえたとき、春寅は思い切り面倒そうな顔をしていたのだから。
今思い出してもあの頃の春寅の、野良猫のような警戒心は、まさに親猫とはぐれた子猫を彷彿とさせる。
彼の母親とは面識がないが、よほど大事に育てられて、とても好きだったのだろう、と思うと胸が痛んだ。
だからその後再会してから、穏やかな表情で母親との思い出を語れるようになった彼を見て、心底良かったと思う。
なんとなく家族と別離している自分と重ねて見ていたところもあったから、彼が母親に大事にされて、仲良く暮らしていたと話に聞くたびに、自分も母親に大事にされて育ったような気がして、嬉しくなるのだ。
もっとも春寅は、話終わった後にいつも子供のような表情で照れるので、その顔が見たくて話してもらうよう仕向けることもあるのだけれども。
当時、高校生の春寅が、島を出たがっていることには、知り合って、だいぶ早くから気がついていた。
それが春寅の一番の望みなら仕方ないと思いながら、それでも別離は寂しくて、俺は少しでも春寅に覚えていてもらえるように、島で暮らした日々は寂しかっただけじゃないと思ってもらえるように、彼に精一杯優しくすることに決めたのだ。
もちろん、好きな人には優しくしたいという純粋な気持ちの方が強かったし、それが動力源だったのだけれど、ほんの少し、春寅が俺を選んでくれるのではないかという子供みたいな願望もあって、そんなことは恥ずかしくて言えなかった。
伝えて、重荷になることはもってのほかだし、春寅が島を出る前に自分から離れていってしまうことは一番避けたかったから、その時まで笑っていようと高校生の頃の俺は考えていた気がする。
その想いは、春寅が島に戻ってきてからも変わらなかったけれど、憔悴し切った顔でハラハラと泣いている表情を見て、島の外で彼を取り巻いていた環境や、人々に怒りすら湧いた。
春寅は俺のことを温厚で滅多に怒らないというけれど、俺だって怒ることはある。
自分のことならいくらでも我慢できるけれど、親しい人が傷つけられることが、俺は一番嫌いだから。
そんなところに帰るくらいなら、今度こそこの島に引き止めようと、そのとき初めて考えた。
春寅がもし、また島の外に行く、と言ったらそう伝えようと思っていたのだけど、戻ってきた春寅は本当に疲れていて、あのときみたいに海を眺めることが多かったから、だんだんと憤りより心配に変わった。
港で立ち尽くしていた春寅を、見つけられて良かったと心底思う。
他の人でもなく、俺が声をかけることが出来て。
十年ぶりに見た春寅は、知っているときよりずっと大人っぽくなっていて、垢抜けていたけれど、どこか疲れ果てていて、俺の預かり知らない場所で、知らない人に傷つけられて、たくさんの重い気持ちに囚われていた。
俺なら大事にできるのに、と何度言いそうになったかわからない。
春寅はよほど俺を潔癖なように思っている節があるけれど、そんなことは全然無い。
むしろ、触れた時の反応を見ると、俺よりも春寅の方が純粋な気がする。
友人の距離感で無邪気に接してくる春寅に、自分が自然に振る舞えているか不安になったし、邪な気持ちの時は触れることを躊躇った。
毎晩横で眠る春寅の寝顔を眺めて、自分とは違う色をした柔らかい髪の毛をこっそり撫でたこともある。
絶対に、それ以上は考えることを自分に禁じていたけれど、時折考えそうになって、打ち消すこともあった。
みっともなく同級生にまで嫉妬する自分を知られたくなくて取り乱してしまったけれど、春寅をこの腕の中に抱きしめられたとき、本当に嬉しくて、高校生の頃に感じていた純粋な愛情だけが心の中にあって、俺だけはこの先何があっても、絶対に彼を傷付けまいと、再び決めた。
春寅は、思ったことを口に出すことを躊躇うことが多いから、先回りして考えなくてはいけない時もあるけれど、それはそれで楽しい。
なによりも、俺が愛するこの島に、俺の側に居たいと言ってくれた言葉だけで、現金な俺は春寅に惜しみない愛情を注ぐことが出来るのだった。
本城 2
お互いの気持ちが通じ合ってから、春寅はとみに可愛くなった。
欲目もあるだろうけれど、多分春寅が無意識に素直になっていることが多いせいで、そう感じることが増えたのだ。
春寅は、一見強くて芯がしっかりしているように見えるし、そういう面もあるものの、その実、寂しがりで案外甘えたい性格のようだ。
いつもはサバサバしていて一人で平気そうなだけに、たまにそっと寄り添ってくると、それはもう、なかなか懐かない猫が甘えてきた時のように可愛いと思ってしまう。
それに、意外にもあまり接触を嫌がらない。
髪の毛を撫でたり、手を繋いだり、キスをしたり。
いつでも嫌がるそぶりがないから、最初はただ優しくしたい気持ちの延長で甘やかすつもりでも、ついつい触れすぎてしまうので、俺は理性と闘う羽目になる。
だけど本人は一向に自覚しないし、なんで我慢するのか、とまで言うことさえあるのだから、嬉しいけれど、破壊力が強いのだ。
今日も、彼の暮らす古い宿舎の部屋で、風呂上がりの濡れた髪の毛を拭く。
前までは癖だったようだが、最近では半分くらい俺に乾かしてもらうためにそのままでいるような気がするので、毎回ちゃんと手を伸ばす。
最近では春寅が風呂に入ったら、ドライヤーを手元に用意しておくようになった。
風邪を引いてしまったら大変でしょう、と言っても聞かないし。
それに何より、こうしてされるがままになっている春寅は、子供のようにあどけない、気が抜けた表情をするから、ついつい甘やかしてしまうのだ。
「ほら、春寅?終わったよ」
「ん、んー......ありがと......」
「大丈夫?眠そうだけど」
「ん、大丈夫......」
頷きつつ、若干呂律が怪しい。
最近は学校で読書習慣なるものをやっていて、図書室を利用する生徒が増えたのだと言っていた。
新しい本も合わせてたくさん発注していたし、推薦図書のコーナーを作ったりしていて毎日忙しそう。
労う気持ちでサラサラの髪の毛を撫でると、無言でもっと、と言うように頭を押し付けられ、俺は苦笑しながら手を動かした。
いつのまにかもたれかかってきた体は暖かくて、こっちまで眠くなってきそうだと思う。
そのまま、撫でられるままうとうとしていたらしい春寅が、不意にピクリと身動いだ。
どうやら耳に指が触れたらしい。
少しだけ悪戯心が芽生えて耳の後ろを擽ると、今度は明確に体が跳ねた。
「......ン、ッ」
吐息を漏らしてこちらを見上げたその顔は困ったような、だけど恥ずかしそうな表情だったので、俺は何か言いたげなその唇に、素直に口付けた。
「ん、.......ッ、」
「......眠い?」
「眠く、ない」
頬を寄せて尋ねると、春寅は首を振った。
首に腕を絡めてくる。
言っていることは幼子のようなのに、表情が艶めかしくて、興奮を誤魔化すために、俺は笑ってその首筋に跡をつけた。
「ン、......そこ、見える......」
「どこなら良いの?」
「う、......」
「ふふ、」
露出する場所に跡をつけると、毎回抗議されるけれど、わかっていて吸い付いてしまう。
鎖骨のあたりに噛み付くと、春寅は赤い顔で言葉を飲み込んでしまった。
声を出して笑うと、恨みがましい表情で睨まれたが、外で誰かに指摘されたのかもしれないと考えると、自重してやらなければと思う気持ちと、自分のものだと主張して得意になる、子供のような独占欲が鬩ぎ合う。
結局、ギリギリ服に隠れる辺りに幾度も跡を付けても、もう春寅は何も言わなかった。
服の裾から手を差し込んで、腰から背骨を辿る。
少し力を込めるだけで骨の形がわかる。
微かに緊張した体を擽ると、春寅はくすぐったそうに身を捩った。
「......は、ははッ」
「トラ、くすぐったい?」
「うん、......ッん、ぁ!」
服を捲り上げられているというのに油断している春寅に笑いかけながら、剥き出しになった胸の飾りを摘むと、悲鳴のような嬌声が上がった。
「ここは?」
「ぁッ、......な、なんか、おっさんくさい、それ」
息が上がっているくせに冷静に言うものだから、少し面白いけれど、集中してほしいので、敷いてある布団に押し倒した。
断じて失礼なことを言われた仕返しなどではないのだけれど、首に回ったままだった腕に力が込められて、ちょっと苦しい。
ギュ、っと抱きしめてから背中に回していた腕をそっと抜き、触れるだけの口づけを額や、頬や口に落とすと、春寅は安心したのか、体の力を抜いてくれた。
そのまま首を辿り、平たい胸の真ん中に唇を落とすと、春寅は恥ずかしそうに顔を逸らした。
乾かしたばかりの髪の毛がシーツに散らばる。
ちう、と小さな粒を音を立てて吸い、舌で転がして、時折歯を立てる。
「ん、ン、......ッぁ、」
「痛い?」
問いかけると無言で首を振る。
無意識に胸を反らしていることに本人は気がついていないのだろうけれど、その動きで、春寅の微かに反応した下腹部が覆いかぶさる俺の腿に当たる。
まだそっちには触らずに、もう片方の乳首を強めの力で摘んだ。
「ひ、ぁッ、......ッぁ、」
くにくに、と指の腹で押しつぶしてやると、だんだんとハッキリとした形になる。
強い刺激を与えるたびに春寅の体が微かに跳ねた。
いつものように声を抑えようとしているけれど、体をつなげる度に愛撫したおかげで春寅はここが弱いから、普段より高い声が時折聞こえる。
この建物は壁が薄そうだが、他に誰も住んでいなくて良かったと思う。
「ん、ッ......ぁ、あッ!」
片方は手で、引っ掻いたり捻るほど力を加え、もう片方は舌で転がすように舐めると、さっきよりも春寅の腰が動く。
堪えきれないように眉根を寄せて目を瞑っているのを良いことに、少しの間、手は休めずにその痴態を眺める。
やっぱり無意識なのだろうけど、完全に立ち上がった性器に手を伸ばして、ズボンの上から引っ掻くと、自分の動きに気がついたのか、春寅の顔が赤くなった。
「......もどかしかった?」
「や、......ッ」
「ごめん。可愛くて、つい」
尋ねると、じわりと目元に涙が浮かぶ。
たとえ快楽の為だったとしても春寅に泣かれるのに弱いので、素直に謝りながら塩辛い涙を舐めとると、春寅は微かに首を振った。
「大丈夫、トラのこと見てただけなのに、
俺も、もう勃ってるよ」
「はじめ、」
囁きながら押し付けると、春寅は泣きそうな、困ったような顔で笑った。
いつのまにか外れていた腕がもう一度首に回されて、引き寄せられるままにキスをした。
本城 3
唇を合わせたまま、春寅のズボンと下着を脱がせる。
素直に腰を浮かせてくれることに愛しさを感じて、腰骨の辺りを擽っていた手を、素早く薄い下生えの先に触れる。
「ぁ、あ......ッ」
春寅の弱いところを重点的に攻めると、そのたびに鈴口からじわりと先走りが滲んだ。
「ぁ、ンッあ、......ぁ、ア、」
滑りが良くなり、指の腹でわざと濡れた音を立てて扱くと、春寅が一際喉引き絞る声を上げる。
「ひ、ァッ、......ッァ、あッー......ッ!」
疲れているのか、限界が早い。
腹に散った白い液体を拭って舐めると、思った通り濃い。
同じ男の精液を躊躇いもなく口に運ぶ俺を、下から春寅が、息を整えながら珍妙なものを見る目で眺めているものだから、思わず笑った。
自分だって止めても俺の性器を口に含むくせに。
なんとなく何度こういう行為をしても、春寅の中で俺のイメージが清廉潔白らしく、その矛盾がどう思われているのか知りたい。
少なくとも、嫌がられてはいないようなのだけど。
避けようとする唇に噛み付くようにキスをすると、思いっきり嫌な顔をされた。
「ん、.......ま、まずい」
「春寅のなんだけどねぇ」
「......何が嬉しくて自分の出したやつの味を知らなきゃいけないんだ」
「はははッ!」
「笑いごとかよ......ッ、」
本気で低い声を出した春寅に、堪えきれずに吹き出してしまった。
顔を引き締めつつ、濡れた指で窄まりに触れると、春寅が眉根を寄せ、息を詰めた。
いまだに良く慣らさないとキツイけれど、ようやく春寅の気持ちも、体も慣れたらしい。
お風呂上がりで体が温まっていたのか、今日は指を入れらるようになるのが早かった。
「ぅ、うう、......ッんー、.....」
初めのうちは内臓を直に触られている感触がすると未だに言う春寅は、それでもこうして身を任せてくれるのだから、愛おしい。
せめて早く良くなるところを刺激してあげよう、と指を動かすうちに、やっぱりいつもより柔らかい気がして、俺は指を抜いて顔を上げた。
「もしかして、トラ、自分で慣らした?」
「ッ、......お、まえ、分かっても言うなよ!
俺に聞くな!」
「ごめんね」
覗き込むと、たちまち顔が赤くなる。
どうやら当たりらしい。
お風呂上がりに眠そうだったのは、仕事の疲れのせいだけじゃなかったようだ。
甘えてきたのも、実は春寅なりに精一杯誘おうと頑張って悩んだのか、と思うと、いてもたってもいられなくなった。
無言でズボンと下着を下ろしてゴムを着ける間抜けな俺を、春寅は赤い顔で見上げる。
「......はじめ?」
「じゃあ、もう入れてもいい?」
「え、ちょっと、まだ......、ッ」
「ごめん、」
怯んだ表情の春寅に、謝りながら腰を押し付けると、ますます顔を赤らめられてしまった。
唾を飲んだのはどちらだったのか、わからない。
春寅の顔の横に置いた手に、頬が押しつけられ、指が絡められた。
「......いい、」
「え、」
「......いいって言ってんの。
もう入れていいよ、その、......」
俺の手を痛いほど握りながら、顔は赤いものの半ば投げやりに呟いた春寅に、俺は安心させたくて笑いかけたけれど、いつも通り、彼が好きだという柔らかい笑みを浮かべられていた自信はない。
「トラ、」
「ん、ぅ......ッんー、......ッぁ、」
やっぱりまだ少し痛そうだったけれど、思ったよりも滑りよく挿入できて、息を吐く。
ギュ、と繋いだ手に力を込めると、春寅が目を眇めた。その表情があんまり優しくて、俺は言葉を紡ぐより先に唇を寄せた。
「ん、んッー、......ん、ぅ」
「......ん、」
「は、......ッぁ、」
舌を絡めたまま全部収めると、圧迫されて少し息が苦しかったのか、春寅が大きく呼吸した。
その拍子に締め付けられた俺も、中の感触を確認してしまったのか春寅も、同時にピクリと身動ぐ。
腰を動かしたのは、どちらが先だったのか、そのままお互いに相手を貪る。
「ん、んッ、......ぁ、ッんン、......ぁ、ッ」
「トラ、痛い......、.......ッン、」
「ん.......ッァ、ア、.......ひぁッ、......あ、ぁあッ!」
声を出すのが嫌なのか、春寅が覆いかぶさる俺の肩口に噛み付く。
抗議の声は聞こえているのかいないのか、犬歯を突き立てるものだから、彼が良く感じるところをグリグリと腰で抉ると、掠れた喘ぎを上げながら離してくれた。
「ぁ、あッあ、ーッあ、.......ッあ、ぁ......!」
「はるとら、.......」
浅いところで抜き差ししながら胸の突起を指で弄ると、春寅の体が微かに痙攣して、先程より薄い精液が互いの間に飛ぶ。
薄くついた腹筋の筋に、手のひらで白いものを塗り込めるように撫でると、無言で蹴り飛ばされた。
本城 4
せっかく息が整うのを待っててあげようと思ったのに、と思いながら腰を動かすと、案の定春寅の腰が大きく跳ねた。
「ひ、ぁッあ、あッー、ッあ、ぁンーッ!」
「ッ、......」
達したときよりも締め付けられて、思わず普段はあまり入れない奥の方まで腰を打ち付けてしまった。
そのまま幾度か、ギリギリまで抜いて、最奥まで穿つ。
そのたびに、イッたばかりの春寅の体が反って、互いの下腹部が密着して、自分のものではない下生えの感触にまで興奮した。
細い春寅の骨盤が砕けそうで怖い。
互いの体で刺激されていた春寅の性器を握りつつ、手を伸ばして腰骨のあたりを掴むと、ギュッとしがみつかれた。
「ぁ、ッあ、あッぁ、ーッあ、ン......ッ、あ、
や、ッ.......ッはじ、め、......ッ、く」
「......うん、?」
「も、......また、......ぁ、あ.....ッ」
どうやら限界が近いらしい。
腰を動かしながら、もう一度、ぐちゃぐちゃになった春寅のものを勢いよく扱くと、抱いた体が大きく胴震いして、もはやサラサラとして勢いのない液体が出続けるだけだった。
止まらないソレを見ながら、強く春寅の腰を引き寄せる。
「春寅、......ッ、」
「や、ぁ、ッ.......も、.......ッひ、ぁッあ、ん......
......イッた、から、ァあッ.......」
「ごめん、......もう、少しだけ......ッ」
ずっと達しているような状態のまま、春寅が首を振る。
啜り泣きに近い声を聞きながら、律動を繰り返す。
彼の足を抱えて、また最奥まで割り開くと、中が激しく収縮した。
「ぁ、ッ!あ、ァアッ、ーぁ、ッぁあ、......ッ、
.......ーッぁあ、んぁ、あッぁ、......ッあ、ァ!」
「ぅ、ッン.......ん、」
「......ッ、」
ゴム越しにでも温かい感触があるのか、俺が達すると、春寅は泣きそうな顔をした。
入れたままその体を抱きしめると、首に腕が絡み、そのままの力で体を浮かせて抱きついてきた。
汗も気にせずに俺の肩口に額をつけ、グリグリと甘えてくる。
肌に直接触れる髪の毛が擽ったい。
「......ごめん、止まんなくて」
「......腰がすでに痛い......」
微かな声は拗ねているような声音だったから、背中を支えてやっていた腕に力を込めて抱きしめた。
昔は変わらないくらいの体型だったのに、俺は全体的に筋肉がついたし、春寅は痩せて華奢になった気がする。
戻ってきたばかりの時は、神経が衰弱していたせいもあって、今にも倒れるのではないかと思ったが、最近は前よりずっと顔色が良いから、安心する。
覆いかぶさる体勢で、身長のあまり変わらない男をずっと抱えていることは出来なくて、思い切り押しつぶして力を抜くと、春寅がくすくすと笑った。
汗のにじむ額にキスを落とすと、背中に爪を立てられる。
俺がどれほど春寅のことが大切かをもっとわかって貰えるように、今度はちゃんと唇を合わせた。
本城5
今日、春寅は休みだというのに俺の配達を手伝ってくれるつもりらしい。
一緒に寝ていたはずの相手が横にいなくて目を覚ましたら、なんとなく考え込んでいる様子の春寅からそう告げられた。
気持ちは嬉しいし、俺としても前のように一緒に仕事ができるのは願ってもいないことだけど、せっかくの休みだし、昨日の夜はもう無理だと嘆くのを聞きながらも散々付き合わせてしまったから、体を休めて欲しくて何度も止めたのだけれども、意外と頑固な面もある恋人は、もう決めてしまったらしい。
何度念押ししても意思が堅いようなので、あまり負担をかけるようなことはしないで貰えばいいか、と考えつつ、俺も頷かざるを得なかった。
そうと決まれば、まずは俺の家に一旦戻り、車を取りに戻らなければならない。
誰かに夜通し俺の車が止まっているところを見られたら気恥ずかしいのと、高校生の頃は普通に徒歩で通っていたほど距離が近いので、俺はいつも春寅の住む職員寮には歩いてくるようにしている。
春寅との関係を隠したいとは全く思わないし、誰が見ていようと友達が泊まりに来ているか仕事で使う車なのだとしか思わないだろうが、島の中は狭いから、どんな風に話のネタになってしまうかわからない。
春寅の方はあまり気にした風ではないから、これは島暮らしが長くなってしまった故の考え方なのかも知れない。
知り合ったばかりの頃と比べると、俺の方が遥かにこの島に住んで長いということにいまだに慣れない。
それは春寅も同じ考えのようで、島に馴染みきって、たまに訛りのある俺を面白そうな、眩しそうな複雑な表情で見ている時がある。
俺としてはこれから、春寅にもそうなって欲しいのだけれど、そこはそれ。重いから口に出したことはない。
ともあれ、車を取りに行って戻ってくるから待っていて、と伝えると、またしても春寅は一緒に行きたいと言う。
ずいぶんと歳を経て変わったとはいえ、根が面倒くさがりな春寅にしては珍しい。
おや?と思い首を傾げると、春寅は苦々しそうな顔で大義そうに首を振った。
「春寅?なんか......変じゃない?」
「別に、嫌ならいいよ」
「そんなことあるわけないよ!
ただ、別に楽しい道のりではない......
のは知ってると思うけど......」
もしや祖父母に会いたいのだろうか、と考えつつ、微妙に先程から視線が合わないことに気がついた。
目を合わせようとしても逸らされるし、絶妙なタイミングで顔を背けられている気がする。
さすがに嫌われているとは思わないし、多少自惚れるとするならば照れている......気がするけどなぜだろう。
よほど俺が困惑した顔をしていたのか、耐えきれないといった様子で春寅が口を開く。
「......もっと一緒にいたいし、離れたくないって言ってんの」
「.......」
「はじめ?......なんか言えよ」
「.......」
「.......おい、.......って、何!」
照れ臭そうに、いや、その表情は彼を知らない人からすれば無表情に近い上に、ともすれば眉根を寄せて不快そうにさえ見える顔だけれど、俺には紛れもなく春寅が照れていることがわかった。
それに、俺が何も言わないでいたら、背けて顔をこちらに向けて、反応を伺うような、心配そうに覗き込んでくるものだから、俺の選択肢としては言葉より先に抱きしめる他なかった。
春寅が驚いた声をあげる。
だけど、彼も慣れているからか特にさしたる抵抗もなくされるがままになっているし、背中に手を回してくれさえする。
その仕草に、疑っていたわけではないものの、離れたくないという言葉が紛れもなく彼の本心なのだと伝わってきて、さらに腕に力を込めた。
「ぐえ」
「あ、ごめん」
「いや......」
潰れたうめき声が聞こえたので、腕を緩めて正面から顔を覗き込むと、てっきり照れていると思ったのに、春寅は、何故だか可笑しそうな、嬉しそうな表情をしていた。
「春寅?」
「ん、......いや、お前も同じなのかなって思って」
「そりゃそうさー!
俺だってトラと一緒にいたいよ」
今日の配達は休みにするかな......と呟くと、腕の中で春寅が破顔した。
むしろ、笑い声さえ上げている。
俺としてはあまり冗談でもなかったのだが、もう一度背中をポンポン、と宥めるように軽く叩かれる。
「待ってる人がいるんだろ?
ほら、一緒に配達しに行こう」
そう言って朗らかに笑った春寅には、もう帰ってきたばかりの頃のような傷ついて、憔悴しきった雰囲気は無く、自分の居場所を得た人間の顔だ。
そのことに安堵しつつ、また、俺の配達仕事を、当然のように自分の仕事みたいに思っていてくれているようで、俺は嬉しさと愛しさが混ざって、またしても力一杯春寅を抱きしめる。
俺が貰い続けている幸せを、少しでも春寅に伝えられるように。
かつて春寅が俺にそうしてくれたように、ずっとこの島に居ていいのだと、彼に感じて貰えるように。
腕の中で、春寅は、くすぐったそうに俺に笑いかけた。
おまけ
本城と付き合って、はやくも一週間が経った。
春寅はそれなりに覚悟していたけれど、キス以上の進展は特に何もないままだ。
もっとも春寅は、男同士のやり方さえ知らなくて、調べて、調べただけで結構不可能では、と思ってそのままにしているから、覚悟をしているとは言い難いかもしれないけれど。
今日も、春寅の部屋に来て夕飯を一緒に食べている本城は、一向にそんなそぶりを見せず、むしろ気持ちが通じ合う前と余り変わらない様子だった。
そらをとぶ鳥 めるば @meltback
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