ケース1:すみれ 「傘をたたく雨の音(2)」
2
「どうぞ」
ドアノブを押さえて、彼はすみれを先に通した。
「わあ」
そこは広々としたアトリエだった。一階の半分以上を使っているこのアトリエは、もともとはリビングダイニングだったのだろう。食事テーブルはないが、立派な対面キッチンがある。
すみれはコートを脱ぐのも忘れてあたりを見回した。艶のあるフローリングに、イーゼルが一脚。そばにあるサイドテーブルには、閉じた絵具箱と、アルミ缶に差し込まれた絵筆がある。イーゼルの向かいにある漆喰で塗られた壁の前には、大きなソファと、ローテーブルが佇んでいた。
頭上から、ゆるやかな風を感じた。梁から吊り下げられたプロペラが、ゆっくりと回っている。斜めに切り出された天井に天窓がついていて、キャンバスのような白い空が見えた。
ベランダにつながる壁は、一面ガラス戸になっていて、先ほど通った庭が一望できる。コニファーやハーブや奥に、黒い板戸が垣間見えた。迷路のようだった隣家は、ここからはまったく見えない。ガラス戸に手を置いて、すみれは小雨の降る庭を、ぼんやりと眺めた。
「すみれさん」
背中から声がした。「コート、かけましょうか?」
彼はハンガーを持ち、もう片方の手を差し出していた。
「すみません。お願いします」
「道、迷いませんでした?」
「ええ、なんとか……」
本当に、途中までは単純な道のりだった。初めて降りたアトリエの最寄り駅は、駅前が結構栄えていて、目の前に高層マンションがいくつもそびえていた。駅を囲うように、大型スーパーが何種類も立ち並び、ひっきりなしに客が行きかっている。スーパーの2階の外壁には、子供の衣料品や習い事の看板がところせましと貼られていた。
駅からまっすぐに伸びた歩道は、幅が広くて、歩きやすかった。横に並んで傘をさす親子や、レインコートでファミリー自転車をこぐ母親とすれ違ったが、傘を傾ける必要もなかった。
しかし……高層マンションから離れると、年季の入った一戸建てばかりの住宅街になり……まあ、こうして細い路地を迷いながら来たわけだ。
「ここは、閑静なところですね。路地では誰にも会いませんでした」
「そうですね、特に雨の日は静かですよ。コート、お預かりしますね。どうぞソファにお座りください」
彼は微笑んで、アトリエから出て行った。すみれは、ふわふわのソファに腰かけ、おもむろにシャツの袖をまくった。
──いや、熱いんですが!
丁重に扱われるのは悪い気分じゃないんだけど、紳士的な対応に慣れないよ。
「お待たせしました」
ドアの音に、すみれは思わず姿勢を正した。彼はふっと笑い、キッチンに立った。ケトルに水を溜める音が響く。「──すみれさんは、和弘から説明を受けました?」
「カズヒロ?」
「え?」
「あ、もしかして店長のこと?」
「ああ、そうです。バーの店長」
「そういえば、店長の名前、知らなかった……」
「わかります。和弘は、自分からあまり名乗らないんですよね」
ははっと笑う彼に、そうなんですかー、と、つられて笑ってみる。
「えっと……あなたは、なんて言うんですか?」
話の流れとして、自然だったはずだ。気楽に名前を聞いただけなのに、彼は突然、真顔になった。しかしすぐ目を細めて、こう言った。
「ウィズローです」
返事に詰まって、すみれは何とか微笑み返した。背中にじわりと汗がにじんだ。ウィズローは目を細めたまま、キッチン奥のパントリーに姿を消した。
ああー、そっかー! こういう仕事だもんね。本名は出さないってやつですか。
しかし、外人の血が混じってるんじゃないかというくらい、堀の深い綺麗な顔だなぁ。ちょっとびっくりしたけど、実は本名だったりして……。
「すみれさんはどんなお茶が好きですか?」
「え? お茶?」
手招きされて、すみれは慌てて腰をあげた。キッチンカウンターに、紅茶やハーブの入った丸缶が、全部で5種類並べられた。ラベルは全部英語で書かれていて、すらすらとは読めない。
「うーん迷っちゃうな。香りがいいのって、どれかな?」
「これなんかどうでしょう」
彼は缶をひとつ開いた。すみれの顔まで持ってきて、手であおぐ。
「ほんとだ。普段コーヒーばっかりだから。こういうのも憧れる」
「コーヒーが好きなら、こっちのカカオマス入りの紅茶が飲みやすいかもしれませんね」
ウィズローはもうひとつ、茶葉の缶を開いて見せた。「ほら、すごく茶色いでしょう」
「わあ」
すみれは缶に顔を寄せた。紅茶とココアが混ざったような香りがする。「いいね」
と、顔をあげた瞬間、鼻先に彼の顔があった。輪ゴムが弾け飛ぶように、すみれは手を跳ね上げた。指先が勢いよく缶をはじいた。
「ああ! ごめん」
「おっと……」
ウィズローはうまくバランスをとったが、茶葉がいくらか床にこぼれてしまった。すみれは慌てて、床の茶葉をかき集めた。
「待って、すみれさん。そんなの俺が拾いますよ」
「ゴミ箱ある?」
「あ。ここです……」
ウィズローはぎこちない歩きで、ソファの下に手を入れた。
「ごめん、ここまで持ってきて」
すみれの両手の下に、ウィズローはゴミ箱を添えた。「もったいないけど……」すみれはてのひらを逆さにして、茶葉を捨てた。
「ごめんねー、私、いっつも、そそっかしくて」
手をはたきながら、すみれは我に返った。ごみ箱を見つめたまま、ウィズローは黙り込んでいる。
しまった。呆れられた?
「……すみれさんって、可愛いね」
ええ!
思わず顔をあげたら、ウィズローと目がかち合った。「すごく可愛い」
「……」すみれは思わず息を吸った。少し困ったように眉を下げて笑う癖。片方の目だけ細くなる笑顔──。
「──ウィズローは……似てるね」
ゴミ箱を抱いたまま、ウィズローがぴたりと止まった。
「──ごめん! その、ウィズローが……モデルみたいに、カッコよくて」
「……光栄です。じゃあ、このお茶を淹れますね」
「うん! そうして」
すみれはそそくさとソファに戻った。キッチンに立つ彼の横顔を眺めながら、彼女は目頭を指でつまんだ。
「……へえ、学生マンションの営業事務なんですね」
「営業事務と言っても、契約取りに行ったりはしないんだよ。営業さんと連絡をとったり、顧客に契約の確認をしたりとか。大した事はしてないよ」
ローテーブルに置かれた紅茶カップは白磁器で、花や果物の浮彫模様でとてもかわいい。お茶請けのケーキは、すみれの好きなモンブランだった。
「でも、頭の回転が早くないと、できない仕事だと思います」
「……そうかなぁ」
褒められ慣れていないから、つい照れてしまう。
「そういえば」
紅茶のお代わりを注ぎながら、ウィズロ─が遠慮がちに尋ねた。「今日、仕事帰りだったんですか?」
「え? 違うけど」
「服装が、かちっとしてるから」
形状記憶のカッターシャツに、薄手のトレンチコート。タイトなスカートに、ベージュのストッキング。雨なのに、5センチヒールのパンプスを履いてきた。
「……確かに、かっちりしたの着てきたなぁ」
「それもいいけど、すみれさんは、ふわっとした服も似合いそう……」
ウィズローは言ってすぐに、顔を曇らせた。ティーカップをにらみつける自分に驚いたのかも知れない。
「ごめん。俺、失礼なこと言ったかな?」
「あ、ううん! そうじゃないの。えっと……」
ティーカップの浮彫を、無暗にさすってしまう。ウィズローは静かにソファに座りなおした。
「……本当は今日、お気に入りのワンピースを着てこようと思ってたの。藍染の、麻のワンピース。長袖だけど暑くないの。胸のあたりに、花の刺繍がいっぱい入れてあるやつ。そこにショート丈の靴下を合わせて、レインブーツで来ようかなって……」
ウィズローは小さく頷いた。
「でも……ちょっと、『知り合い』に会うかも知れないと思って……その人、最初は仕事で知り合ったんだけど……」
「……彼氏?」
「……元、ね」
バカ、だな。
大人っぽい服が好きだったあの人に、偶然会えるかもなんて……。そんなことのために、本当は好きじゃない服を着て……。
「せっかく絵を描いてもらいに来たのに、しまったな……」
「……その人って」
ウィズローの声が、アトリエに響いた。「なんていう名前だったの?」
「……名前?」
まっすぐに見つめてくるウィズローをぼんやりと眺めて、すみれはちいさく首をかしげた。君にそっくりな人だよ。ほら、また少し眉を下げて……大好きだったあの人にそっくり──
「……篤志」
「うん」
彼は、微苦笑した。まるで、自分が呼ばれたみたいに。
ため息に混ざりあって、身体の中に溜まっていたものが一気に吐き出された。どれだけ濁ったものが入っていたのか。グラスについた水滴をぬぐったときのような透明感が、頭の先から肩口まで広がっていく。指先で鼻根を押さえて、すみれはつぶやいた。
「私……なんの話をしてたんだっけ?」
「服の話だよ」
「あ─、そうだったね……」
「次は、お気に入りのワンピースを着てきてよ」
ウィズローは、背中をまげて、覗き込むようにすみれを見つめた。「それで、もっと笑って」
ウィズローの指が、すみれの髪に絡んだ。きれいに手入れされた爪が頬にふれる。指、冷たい。私の頬が熱いせいだ。肩がこわばる。
目を閉じようとしたら、両手で肩を、ぽんぽんとたたかれた。
「ね。約束」
そのしぐさは、篤志には似ていなかった。まるで小さな子供を扱うみたいで、こちらがうなずくのを待っている。
「……じゃあ、絵は、次回から描いてくれる?」
「もちろんだよ!」
今日初めての、屈託のない笑顔が弾けた。
なんだその、あざといギャップ!
「またすみれさんに会えるの、嬉しいな」
うそー! ここでクールを突き通さないのが、逆に良い! 全部計算づくですか。
十万円を忍ばせていたバッグを抱いて、すみれは小さくガッツポーズした。
ぜんぜんいける! 十万円払っても、この出会いは高くない。
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