第4話

 錆びついたアーチ状のゲートをくぐると、そこは、あらゆる色彩が褪せ果てたモノクロームの世界だった。


 「水上町」とゲートには書かれていた。かつては鮮やかだっただろう塗装は剥げ落ち、その下から覗く赤錆が、まるで血管のように雨に濡れて黒ずんでいる。


 秋山颯真は、過去の抜け殻を引きずるように、その通りを歩く。


 降りしきる六月の雨は、肌に張り付く冷たい膜となり、容赦なく颯真の気力を削ぎ落としていった。


 東京の自宅を出るときに着ていた薄手のシャツとジーンズは、とっくに限界を超えて水分を吸い込み、まるで湿った砂袋のように四肢にまとわりつく。一歩ごとに体力を奪う重さに、呼吸すらままならない。


 バックパックの中には、いつものようにゴアテックスのレインウェアが入っているはずだった。だが、それを羽織るという思考さえ、今の彼には億劫だった。


 計画。


 準備。


 予測。


 かつて彼の存在証明だったそれらの言葉が、今や頭蓋の内側で、彼を嘲笑う呪いとなって反響する。


「颯真は優しいけど……退屈なの。全部計画通りで、マニュアル読んでるみたい」


 莉奈の甘ったるい声が、冷たい雨音に混じって聞こえる。


「海斗といると、ドキドキして、生きてるって感じがする」


 違う。


 お前が感じていたのは、ただの背徳感と、裏切りという安っぽいスパイスだけだ。生きてる感じなんかじゃない。


 反論しようとして、乾いた唇がわずかに震えた。


 だが、声は出ない。


 誰に反論するというのか。ここには誰もいない。


 視線を上げると、道の両脇には、土産物屋や食堂らしき建物が口を閉ざすように並んでいた。


 その固く閉ざされたシャッターは、もはや単なる鉄板ではなく、町の記憶が歪んだまま固まってしまったかのように、かつての活気を無慈悲に封じ込めている。ガラスが割れたまま放置されたショーウィンドウ。色褪せ、原型を留めないほどに劣化した食品サンプル。


 アスファルトのひび割れから、どくだみの白い花がしぶとく顔を覗かせていた。


 平日の昼間だというのに、人影は一つもなかった。


 車の音もしない。


 聞こえるのは、自分の濡れたスニーカーが水たまりを弾く音と、町全体を包み込むような、絶え間ない雨音だけだ。


 ここは、彼の心象風景そのものだった。


 活気を失い、ただ緩やかに朽ちていくだけの世界。


 あの展望台で、莉奈と海斗の姿を見た瞬間に崩壊した、彼の内なる景色。


 ふと、背筋に悪寒が走った。


 単なる寒さではない。指先が痺れ、思考が鈍くなっていく感覚。


 アウトドアの知識が、頭の片隅で警鐘を鳴らす。低体温症。


 その単語は、かつての彼を奮い立たせた鋭利な指令ではなく、水底の泡のように、ゆっくりと消えていく。


 まずい。雨を……しのげる場所を……。


 かつての颯真なら、即座にそう判断し、最善の行動を開始しただろう。


 地図を読み、地形を把握し、利用可能なリソースを瞬時に計算する。それが彼の得意技であり、アイデンティティそのものだった。


 しかし今、その思考はまるで他人事のように遠く、現実感を伴わなかった。


 計画を立てる?


 何のために?


 準備をする?


 誰のために?


 生き延びる?


 ……どうして?


 莉奈に「退屈」と断じられた計画性。海斗に「土いじり」と嘲笑された知識。


 それらはもはや、彼にとって何の価値もないガラクタだった。


 むしろ、それらを思い出すこと自体が苦痛だった。


 ポケットの中の財布の感触を思い出す。中には数枚の千円札と小銭。


 何か温かいものでも買おうか。


 しかし、開いている店が一軒もない。このシャッター街は、彼のわずかな希望さえも拒絶しているようだった。


 ああ、そうか。


 俺は、ここで死ぬのかもしれない。


 計画性のない旅の、無計画な結末。皮肉なものだ。


 俺が最も嫌い、最も恐れていた生き方の果てが、これか。


 その考えは、不思議なほど穏やかに彼の中に染み渡った。


 絶望の底は、怒りも、悲しみも、嫉妬も飲み込み、ただ純粋な無関心だけを残していた。鉛のように重い虚無感が、颯真の全身に染み渡っていく。


「どうせ明日になれば、また泣きついてくるさ。お前の「ごめんね」が聞きたくてな」


 海斗の嘲笑が、最後に彼を突き動かした棘だった。


 あの言葉があったから、彼は引き返さなかった。


 あの侮辱があったから、彼はここまで来た。


 お前の思い通りになんて、なるものか。


 その微かな反骨心だけが、完全に停止しかけた彼の心を、かろうじて動かしていた。


 足がもつれる。


 視界の縁から、墨汁が滲むように黒が広がる。音も、匂いも、全てが遠ざかっていく、その前に……。


 もう、いいか……。


 アスファルトに膝をつきそうになった、その瞬間。


 滲む視界の先に、ぼんやりとした灯りが見えた。


 オレンジ色の、温かい光。


 この死んだ町で唯一、命が宿っているかのような、か細い光。


 本能だった。あるいは、絶望の淵でようやく目覚めた、微かな生の抵抗だった。


 虫が光に吸い寄せられるように、颯真は最後の気力を振り絞って、その光へと向かって歩き出した。


 一歩、また一歩と、濡れたコンクリートの上を引きずる足。


 光は、一軒の小さな店の窓から漏れていた。


 『はぎわら』と、古風な字体で書かれた木製の看板が軒先に掲げられている。


 土産物屋だろうか。ガラス戸の向こうには、木彫りの熊や、こけしのような民芸品がぼんやりと見えた。


 あと、数メートル。


 あの光のそばへ行けば、何かが変わるかもしれない。


 そんな根拠のない期待が、彼の最後の燃料だった。


 だが、その燃料は、店の軒先にたどり着く直前で尽きた。


 がくん、と膝から力が抜ける。


 視界がぐにゃりと歪み、天と地が逆転した。


 体を支えることができず、彼は糸が切れた操り人形のように、水たまりの広がるアスファルトの上へと崩れ落ちた。


 頬を打つ、コンクリートの冷たさと硬さ。雨水と泥の、生臭い匂いが鼻をついた。


 ああ、ここまでか。


 遠のく意識の中で、彼は自嘲した。


 結局、俺の計画は、こんな路上で行き倒れるという結末のためにあったのか。


 その時、ギィ、と錆びた蝶番が軋む音がした。


 店の引き戸が開いたのだ。


 颯真は、力の入らない首を必死に持ち上げ、光が漏れる方を見た。


 そこに、一人の少女が立っていた。


 履き古された、色の褪せたスニーカー。制服だろうか、グレーのスカートからのぞく、細く白い脚。


 そして、顔。


 彼と同じくらいの歳だろうか。切り揃えられた黒髪が、湿気を含んで頬に張り付いている。


 その瞳が、地面に転がるゴミでも見るかのように、冷ややかに颯真を見下ろしていた。


 同情はない。驚きもない。


 ただ、うんざりとした、どうしようもない倦怠と、微かな苛立ちだけがその表情に浮かんでいた。


「またか……」


 吐き捨てるような、低い声だった。雨音にかき消されそうなほど小さいが、妙に明瞭に、颯真の耳に届いた。


 少女は一歩、店の外に出て、腕を組んだ。その仕草には、長年繰り返されてきた面倒事に直面した者の、手慣れた諦観が滲んでいる。


「感傷旅行? 失恋でもした?」


 嘲るような響きだった。しかし、海斗のそれとは質が違う。


 莉奈の偽りの涙、海斗の底の浅い嘲笑とは違う。この少女の言葉には、ざらついた、ありのままの現実の手触りがあった。


「悪いけど、うちはそういう心の駆け込み寺じゃないの。ボランティアでやってるわけじゃない」


 少女は、冷たい視線を颯真から外し、灰色の空を仰いだ。


「この町にはね、感傷に浸る余裕なんて、どこにもないんだよ。生きてるって実感したいなら、もっと他を当たりな」


 その言葉は、刃物のように鋭く、今の颯真の心にはあまりに深く突き刺さった。


 だが、不思議なことに、その痛みは彼を傷つけなかった。


 むしろ、そのあまりに純粋な拒絶が、偽りの優しさで塗り固められた世界にいた彼の意識を、ほんの少しだけ覚醒させた。


 何か、言わなければ。


 助けてくれ、と。せめて雨宿りだけでも、と。


 颯真は唇を開いた。


 しかし、喉から漏れたのは「ひゅっ」という、空気が抜けるような音だけだった。


 体が言うことを聞かない。


 急激に低下した体温が、彼の生命活動そのものを鈍らせていた。


「……」


 少女は、声も出せずに震える颯真を、再び見下ろした。その表情は、相変わらず冷たい。


 だが、その瞳の奥に、ほんのわずかな変化が生まれたのを、颯真は見逃さなかった。


 苛立ちと諦観の奥底で、何かが揺らいだ。


 その瞳。悲しみでも、怒りでもない。


 ただ、全てが燃え尽きた後の灰だけが残ったような、完全な虚無。それは感傷に浸る者のそれとは決定的に違っていた。


 少年が何かを伝えようと、必死に唇を動かしている。


 しかし、言葉にはならない。


 その無力な姿が、なぜか少女の心の奥にある、固く閉ざしていた何かを、ほんの少しだけ揺さぶった。


「……ちっ、面倒な」


 少女は忌々しげに舌打ちを一つすると、颯真に背を向け、店の中に向かって声を張り上げた。


「じいちゃん! また変なの拾っちゃった! タオルと毛布、持ってきて!」


 その声は、相変わらずぶっきらぼうで、棘があった。


 けれど、その響きは、颯真の世界に投じられた、最初の救いの石だった。


 視界が、急速に白んでいく。


 最後に彼が見たのは、迷惑そうに眉をひそめ、それでいて、深淵を覗き込むようにじっと自分を見つめる少女の瞳だった。その瞳は、まるで荒れ果てた大地に、それでも咲こうとする一輪の野生の花のように、冷たくも力強い光を宿していた。


 その瞳の色を焼き付けながら、秋山颯真の意識は、深い闇の中へと沈んでいった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る