第2話
世界から、音が消えた。
テントのジッパーの隙間から見えた光景が、秋山颯真の鼓膜と網膜を焼き焦がし、その思考の全てを麻痺させた。
心臓は、氷の楔で打ち抜かれたかのような激痛に凍てついていた。
隣で眠っていたはずの幼馴染、水無月莉奈。
そして、親友であるはずだった男、椿木海斗。
二つの影が、月明かりに照らされた獣道へと吸い込まれていく。
まるで、暗闇が彼らを蜜のように招き入れているかのように、密やかに、寄り添って。
その道は、颯真が知り尽くしていた。
何度も一人で歩き、土の感触も、枝葉の匂いも、その全てを記憶に刻みつけている。
明日、莉奈を連れて行くはずだった。あの道だ。
「俺たちだけの秘密の場所だ」
そう囁いた、展望台へと続く、たった一本の獣道。
心臓を氷の掌に直接掴まれ、握り潰されるような激痛が走る。
血液が逆流し、手足の先から急速に温度が失われていくのが分かった。
違う。これは、何かの間違いだ。
海斗が何か用事で、莉奈は心配でついて行っただけかもしれない。
ありえない妄想が、必死に現実を塗り替えようと脳内で明滅を繰り返す。
だが、二人の歩調はあまりにも自然で、一点の迷いもなかった。
まるで、幾度となく繰り返してきた、秘密の逢瀬のように。
それは、純粋な衝動だった。
いつもなら、あらゆる可能性を考慮し、最適な行動計画を立てる颯真の理性が、今は跡形もなく消え失せていた。
ただ、確かめなければならない。
この目で、この悪夢の結末を見届けなければ、きっと自分は一歩たりとも前に進めないだろう。
それがたとえ、深い谷底への転落を意味するとしても。
死んだように息を殺し、音を立てないよう、慎重にシュラフから這い出る。
彼の愛用するモンベルのダウンハガーは、今やただの冷たい布の塊にしか感じられない。
その温もりは、彼自身の心と共に、完全に失われていた。
ジッパーをゆっくりと、数センチずつ開けていく。
その金属音が、静寂に包まれたキャンプサイトに響き渡るのではないかと、心臓が張り裂けそうだった。
テントの外の空気は、昼間とは比べ物にならないほど冷え切っている。
冬の訪れを予感させる、肌を刺すような寒さだ。
颯真は靴に足を滑り込ませると、無意識に二人の消えた獣道へと足を踏み出した。
追跡。
それは彼の得意分野の一つだった。動物の足跡を追い、地形を読み、気配を殺して対象に接近する。
その技術が今、自らの心を抉り取るための道具になっているという、あまりにも残酷で、血腥い皮肉。
腐葉土が靴音を吸い込む。
月明かりが木々の隙間からまだらに差し込み、彼の進む道を不気味に、そして嘲るように照らし出していた。
時折、遠くから莉奈の甘えたような笑い声と、海斗の低く響く声が風に乗って聞こえてくる。
その断片が耳に届くたび、胸に突き立てられた見えない刃が、さらに深く、容赦なくねじ込まれるようだった。
数分が、数時間にも感じられた。
呼吸するたびに、胸の痛みが鈍く、しかし確実に響く。
やがて、木々が途切れ、視界が開けた。
そこが、展望台だった。
彼が「聖域」と呼んでいた場所。
かつて朽ちかけていたベンチを、学校の木工室で端材をもらってきて、一人で修理したのだ。
ここから見える町の夜景は決して派手ではないが、まるで宝石箱をひっくり返したように温かい光を放っている。
その景色を、いつか莉奈と一緒に見たいと、ずっと、ずっと思っていた。
莉奈と二人で、この場所で、未来を語り合いたかったのだ。
颯真は最後の木の幹に背を預け、息を潜めてその聖域を覗き込んだ。
そして、彼の世界は完全に、修復不可能な形で砕け散った。
ベンチに座る海斗。その膝の上に、莉奈がまたがっていた。
単なるキスではなかった。お互いの存在を確かめ、貪り合うような、激しい抱擁。
莉奈の指が海斗の髪を掻き乱し、海斗の手は莉奈の背中から腰のラインを、まるで所有物であることを誇示するようにゆっくりと、しかし力強く撫でていた。
月明かりに照らされた莉奈の横顔は、颯真が今まで一度も見たことのない表情をしていた。
蕩けるような、恍惚とした瞳。わずかに開いた唇から漏れる、熱っぽい吐息。
それは、颯真との穏やかな時間の中では決して見せることのなかった、剥き出しの「女」の顔だった。
「ん……かいと……」
媚びるような、甘ったるい声。
自分の名前ではない、親友の名前を呼ぶその声が、脳髄を直接揺さぶった。
脳の奥底まで染み込み、思考を停止させる。
「ん? どうした?」
海斗は莉奈の髪を優しく撫でながら、唇の端に支配者の笑みを浮かべていた。
それは、クラスの中心にいる時の愛想の良い笑顔とは全く違う、獲物を前にした肉食獣の、本能的な愉悦に満ちた笑みだった。
二人の唇が離れ、銀色の糸が月光を反射してきらめいた。
颯真は、呼吸の仕方を忘れた。
岩陰で、まるで石になったかのように動けず、ただその光景を見つめることしかできない。
ここがどこなのか、自分が誰なのか、全てが曖昧になっていく。
五感全てが機能不全に陥ったかのようだった。
そして、彼の世界に止めを刺す会話が、悪夢のように耳に届いた。
「……ねえ、海斗。やっぱり、海斗といる方が楽しい」
莉奈は海斗の首に腕を回し、子供のように身をすり寄せた。
その声には、一切の悪意も罪悪感も感じられない。
純粋な本音が、鋭利な刃となって颯真の胸に突き刺さった。
「颯真は優しいのはわかるんだけど……正直、退屈なの」
「全部、きっちり計画通りで、なんだかマニュアル読んでるみたいでさ」
「私、もっとこう……生きてるって感じがしたいの」
その言葉は、一本の槍となって颯真の胸を貫いた。
計画性。
準備。
それは颯真の信条であり、アイデンティティそのものだった。
莉奈に最高の体験をしてもらうために、彼はいつも何週間も前からプランを練り、下調べを重ねてきたのだ。
その全てが、今、「退屈」という一言で切り捨てられた。
「昼間の星の話とかも、すごいなとは思うけど……結局、本で読んだこと、言ってるだけなのかなって思っちゃった」
「ドキドキしないんだもん。安心はするけど、それだけじゃ、もう足りないよ、私」
莉奈の無邪気で残酷な言葉が続いた。
その無邪気さこそが、より深く颯真の心をえぐり取る。
海斗は、心底愉快そうに喉の奥で笑った。
その笑い声は、颯真のコンプレックスを的確に抉り出す、毒を含んでいた。
「だろ? あいつはさ、何でもきっちりやりたがるから」
「キャンプも、ただの勉強会みたいになってるよな」
「自然ってのは、もっと衝動的に、身体で感じるもんだろ?」
「あいつには、そういう『ワイルド』な部分がねぇんだよ。……な、莉奈?」
海斗は莉奈の顎に指をかけ、くいと持ち上げた。
その瞳には、颯真に対する明確な侮蔑と、勝利者の驕りが浮かんでいる。
それは、長年の劣等感を晴らすかのような、ねじれた歓喜だった。
「本当の『遊び』ってやつを、俺が教えてやるよ」
「お前が颯真とじゃ、絶対味わえない、もっと気持ちいい世界をさ……全部。な?」
その言葉は、颯真の愛した全てを汚し、否定し尽くすために選ばれていた。
彼が大切にしてきたアウトドアへの情熱。
自然への敬意。
莉奈と分かち合いたかった静かで美しい時間。
その全てが、海斗の言う「本当の遊び」の前では、価値のないガキのおままごとだと断じられたのだ。
風景から、色が消えた。
鮮やかだったはずの木々の緑も、夜空の深い藍も、町の温かい光も、全てが色褪せたモノクロのフィルムに変わっていく。
思考が停止し、耳鳴りが世界を支配する。
何も聞こえない。
ダメだ。ここにいては。
本能が警鐘を鳴らす。
これ以上、見てはいけない。これ以上、聞いてはいけない。
後ずさろうとした、その瞬間だった。
パキリ。
乾ききった小枝が、彼の体重に耐えきれず、甲高い音を立てた。
その音は、静寂の聖域に響き渡る破滅の号砲だった。
二人の動きが、ピタリと止まる。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、二つの顔がこちらを向いた。
最初に、莉奈の瞳が颯真を捉えた。
彼女の顔から、血の気が引いていくのが月明かりの下でもはっきりと分かった。
驚きが恐怖に変わり、やがて何も映さない硝子玉のような瞳になる。
半開きの唇が、声にならない何かを形作ろうとして、微かに震えていた。
その顔は、見たこともないほど蒼白だった。
次に、海斗の視線が突き刺さった。
彼の顔には、一瞬だけ、「しまった」という焦りの色が浮かんだ。
だが、それはすぐに消え去り、後には、全てを理解した上での、残酷で歪んだ勝利の色がじわりと広がっていった。
まるで、チェスで相手を完全に詰ませたプレイヤーのような、冷酷な愉悦。
静寂。
世界の音が、本当に消えた。
風の音も、虫の声も、遠くの町の騒めきも、何も聞こえない。
ただ、三人の壊れた呼吸だけが、かつて颯真の聖域だったはずの場所に、墓標のように響き渡っていた。
吸って、吐いて。
吸って、吐いて。
莉奈の浅く、途切れ途切れの、怯えた呼吸。
海斗の、全てを嘲笑うかのような、余裕のある深い呼吸。
そして、颯真の、溺れる寸前の人間のような、か細く、悲鳴にも似た呼吸。
三つの心臓が刻む、絶望的な不協和音だけが、そこにあった。
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