舞台裏のエンパシー
むちむちのルチノー
序章 ささくれ立つ日常
第一話 整えられた舞台
梅雨入り前の昼下がりは、どうしてこうも人を無気力にさせるのだろうか。
窓の外では、名前も知らない白い花が湿った風を受け、重たげに首を垂れていた。
私立
「……ふう。これでよし」
私は、返却されたばかりの文庫本の背に分類ラベルを貼り付け、小さく息をついた。
頭の中が整理されていくような、静寂に満ちた空間。誰にも邪魔されない、私だけの城。
――その城に土足で踏み込んでくる奴がいなければ、もっと良いんだけど。
貸出カウンターの椅子から腰を上げ、私は室内を見渡す。
「む……いない?」
予想していた人物は、いない。
あいつが、私の傍から半径二十メートル以上離れることなど、あり得るのだろうか。
歴史書の棚、哲学書の棚、その影。私がいつも座る閲覧席の、机の下。そして、一番怪しいのは、陽光が差し込む窓際の、あの大きなソファだ。
「……いた」
案の定、ソファの影になった部分で、小さな塊が丸くなっていた。見慣れた制服の濃紺。肩まで伸びたアッシュブラウンの髪が、ソファの肘掛けから滝のようにこぼれ落ちている。
私は音を立てないようにそこへ近づくと、その小さな頭の真上から言葉を落とした。
「
「おわっ……」
塊が、もぞりと動く。やがて、眠たげなヘーゼルブラウンの瞳が私を捉える。
「おやおや~。葵君じゃあないか。こんなところで会うとは、奇遇だねぇ」
「何が奇遇なんですか。わざとらしい。神聖な図書室にまで付きまとわないでください」
夜凪暦。中等部からの腐れ縁で、クラスメイトで、ストーカー。私の人生における最大のバグ。
「付きまとうだって? うーん。わざわざ僕のことを探していたのは、君の方だよねぇ?」
「……例えば。自分の部屋の中に蚊がいるかも知れないと感じたら。徹底的に探して殺しますよね」
「ええ〜? じゃあ僕は、君にとっての蚊かい? あははは──おっとと」
暦はむくりと体を起こしたかと思えば、ふらふらと私に寄りかかってきた。小柄な彼女の全体重が、私の肩にかかる。
「うう……血が足りないようだ……君のを吸っても、いいかな?」
「ダメです。叩き潰しますよ。何か食べたらどうですか」
「購買まで遠いんだよ〜。なにか食べ物を持っていないかい?」
「たとえ持っていてもあげません。それに、ここは飲食禁止です」
「じゃあ、食堂まで運んでくれよ〜」
「自分の足で歩いてください」
いつものやり取り。彼女がだらしなく甘え、私が容赦なく突き放す。これが、中学から続く私たちの日常だ。暦は、私のそっけない返事に気分を害した様子もなく、むしろどこか嬉しそうに私の制服の袖を掴んでくる。その姿に、私はまた一つ、大きなため息をついた。私がこの甘やかしを許容するから、彼女はいつまで経ってもこうなのだ。分かっては、いるのだけれど。
辟易していると、図書室の重い扉が勢いよく開いた。
「葵先輩! いらっしゃいますか!」
息を切らして飛び込んできたのは、オカルト研究会の後輩、一年生の中村さんだった。私は人差し指を口に当て、静かにするよう促す。
「どうしたんですか中村さん。そんなに慌てて」
「あ、す、すみません……。でも、聞いてくださいよ! 出たんですよ、ついに!」
牛乳瓶の底みたいな眼鏡をかけた中村さんが、何度も息をつまらせながら説明を試みる。が、中々要領を得ない。
「えっと……何が出たんですか?」
「本物です! 私たちの仕掛けじゃない、本物の怪異が!」
「怪異が出た……? まずは深呼吸しましょうか」
中村さんの話を手短に要約すると、こうだ。
サークルの存続をかけて、彼女らが自主制作していた「霞月学園の七不思議」というものがある。
その一つとして「夜中に誰もいないはずの第一音楽室から、校歌が聞こえる」という噂を流し、実際にタイマー仕掛けのスピーカーを設置していたらしい。それはまあ、微笑ましい努力だ。
しかし、問題が起きた。彼女らがスピーカーを回収しに行った日の深夜二時頃。巡回の警備員が、確かに第一音楽室から、ピアノの音を聞いたというのだ。もちろん、スピーカーはもうない。
「警備員さん、怖がっちゃって……。私たちのイタズラが、本物の霊を呼び覚ましちゃったんじゃないかって……!」
「はあ。きっと何かの聞き間違いでしょう。あるいは、警備員さんが気を利かせてくれたんじゃないですか。それならそれで、オカ研冥利に尽きるでしょう」
「でも……!」
「でも、ではありません。問題を大きくしたくないのであれば、以降はイタズラ禁止です。真面目に働いている警備員さんが可哀想ですよ」
後輩をなだめ、諭している間、暦は壁に寄りかかったまま、あくびをしていた。全く興味がない、という顔だ。
後輩たちがしょんぼりと帰っていくのを見送って、私は再び暦に向き直った。
「さて。私たちも戻りますよ。ほら、いつまでそうしてるんですか」
「……」
暦は何も答えなかった。ただ、先ほどまで後輩たちがいた扉の方を、じっと見つめている。それから窓の外に広がる灰色の空に目を移すと、ふと小さな声で呟いた。
「……整えられた舞台」
「え?」
その眠たげな瞳の奥に、ほんの一瞬、冷たい知性の光が宿る。
「……壇上にあがったのは幽霊、か」
意味深な言葉。
私が「どういう意味ですか?」と聞き返すより早く、暦はいつものだらしない顔に戻っていた。
「さてね。それより、僕は喉が渇いてしまったよ。あおい〜〜お茶」
「……自分で買ってください」
いつものやり取り。いつもの日常。
だというのに、何故だろう。
暦の先ほどの言葉と、あの瞬間の冷たい光を宿した瞳。
無視できない小さな棘のように、私の胸の奥に突き刺さっていた。
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