爪たて女



 ことの発端ほったんは、一緒に治療にあたっている歯科衛生士の悲鳴だった。


「きゃぁっ!」


 なにかを見た彼女は、治療器具を放り投げてその場から逃げてしまう。


「ちょ、ちょっと冴島さえじまさん!? なにしてんの!?」歯科医師のわたしは、まず患者の心配をした。「大丈夫ですか? おケガは? ——いったん、うがいして」

「あら——」患者さんは高齢の女性だった。「先生が魔法で歯を治しちゃったから、おどろいたんじゃない?」


 冗談を言える状態でまだよかった。冴島さんが持っていた治療器具も、なにかを削ったりする鋭利なものではなかったから、それも幸運だった。患者さんは、口のなかに新たなケガをつくらずに済んだ。


「す、すいません。彼女、入ったばかりで」


 治療中に患者に謝るなんて、研修のころ以来だ。


「そんな気にしないで、なにかのよ、きっと」


 その日、冴島さんは具合がわるいと言って早退。そのまま翌日以降も、出勤することなく辞めてしまった。辞める理由をたずねても、きっと信じてもらえない、という答えが返ってくるだけで、とりつく島がなかった。


 それからだった。一日の来院患者数らいいんかんじゃすうがどんどん減っていく。その原因は、ネットに書かれたレビューだった。


《先生はいい人。雰囲気もいい。だけどなぁ、なんでだろ。足が痛くなるんだよね》

《いい病院みっけた〜! と思った二日後。おれ、足骨折。どうなってんの? なんか憑いてんじゃないの?》

《うちの子、歯は治ったけど、自転車で転んで足を切った。うーん……。あんまりそういうの信じないけど、ほかのレビューにもあるし……》


 こうなってはどうしようもない。自分がいくらいい治療をしようが、院内の雰囲気を明るくしようが、風評被害には勝てない。


 開業して一年もしないうちに、わたしは新たな土地を探し、新たな開業を迫られることになった。貯金が減るどころか、借金をすることになるなんて。



「どうですか——?」もぬけのからになった我が医院を前に、わたしは言った。「なにか視えます?」

「——」霊媒師が目を閉じる。「うん……」


 悔しかった。なぜ、こんなことになったのか。原因はきっと土地にあるのだろう、と思ったわたしは霊媒師をネットで探した。


 評判がよくて、書籍も出している彼女に依頼するには、けっこうな金が必要だった。


「……視たままを言いますね」

「はい」

「——江戸時代の服装です。ここには、一軒の平家がありました。そこに住む家族が、物盗りに押し入られたあげく、惨殺されています」


 やっぱりその類か、とため息が出た。


「三人家族。まず、いちばん力のある旦那さんが刀で殺されます。次に、奥さんも刀で突いた。泣き声がうるさいからと、二歳の子供も。しかし奥さんはまだ息がありました。ゆるさない、あんただけは、ぜったいにゆるさない——そう言って、物盗りの片足を——」

「も、もういいです」


 わたしはホラーが極度に苦手だった。


「えと……」霊媒師はすこし困った様子で、「ここからが大事なところなのですが——」

「あ、いや、だいたいわかりました。つまり、ここで開業したわたしがわるかったんですよね。そ、そういうことで——」


 だめだ、心臓がどんどん暴れていく。このさきは聞きたくない、聞きたくない、と本能が叫んで暴れている。霊媒師と話せる時間は一時間あったが、わたしはものの一〇分じっぷんで彼女に背を向けてしまった。


「あの——」霊媒師の声が追ってくる。「まだ時間がありますから、ちゃんと最後まで——」

「いや、大丈夫ですぅ」わたしは軽く振り返って、手を挙げた。「もう次の土地買ってあるんで、また新天地でがんばりますー」


 背中に霊媒師の視線が刺さっていることはわかっていた。けれど、土地さえ変えればもう関係ない。わたしには原因がなかった。運がわるかっただけだ——。



 ・…………………………・


 霊媒師の安斎しずくに、新しいアシスタントが雇用された。名は、冴島ともこ。


「冴島さん、歯科衛生士だったのに、めずらしいよね」 しずくが言った。「どうしてこの業界入ろうと思ったの?」

「なんというか、霊媒こっちのほうが合ってる気がして」

「そっか——」


 事務所の革ソファに座るしずくは、プラスチックカップに刺さる緑色のストローを咥えて、アイスコーヒーを飲む。


「ちょっと、踏みこんじゃっていい?」

「あ、はい、なんでも」デスクで資料をまとめるともこが笑顔を見せる。

「履歴書にさ。フジモリ歯科ってあるじゃない?」

「——」ともこの顔が一気にくもった。「……はい」

「入ってすぐに辞めちゃってるけど、なにか理由があったの?」


 ともこは口を結んで、呼吸を乱していく。

 上下する肩、そのテンポがだんだんと速くなる。


「ごめん、思い出させちゃった?」しずくは心配する。

「……あの。わたし、配属してしばらくしたときでした」

「うんうん」

「床に這いつくばるようにして、患者さんの片足にぐっ——、と。強く爪をたてる、血塗れの女性の霊が視えたんです。びっくりしちゃって。もうだめだ、ここにはいられない、ってなってしまって」

「——そっか。それから霊がよく視えるようになって、いろんな仕事がうまくいかなくなって——」


 この業界に、ともこは入る決意をした。


「恥ずかしながら……」

「なによ、恥ずかしいことないわよ。視える人の苦労なんて、うちらにしかわかんないんだから」


 しずくは、ずず、とプラスチックカップの底を鳴らして、空になったそれをローテーブルに置いた。


「あのね、二年くらい前にさ。そのフジモリさん、うちに依頼したよ」

「え——そうなんですか!?」

「うん。あの土地で人殺し強盗があったところまでは話したんだけど。そのさき——むしろいちばん重要なところを聞く前に、あの人帰っちゃってさ。こわい話が苦手だったのかな」

「その、重要なところって?」

「え? ああ——」


 しずくはテーブルの菓子入れにある来客用のクッキーをひとつ、手にとった。砂糖がいっぱい入ってるんだろうな、と思いながら。


「フジモリさんの前世。その人殺しの強盗だから。ちゃんとしたお祓いしないと、このさきもずっと、憑いてまわるよ——その、爪たて女が」



 休憩時間になり、ともこはスマホを開いた。

 ネットで、それらしい歯科医を検索する。


「あ——藤森けいご院長——これだ」


 歯科医院の名前は、どんまい歯科。

 再起を決意したんだな、と思える名前だ。

 レビューは★☆☆☆☆——つまり一だ。


《行くと足が痛くなる、なんで!?》

《先生はすっごいいいんだけど、定期検診に行くと、その数日以内に足ケガする》

《げ! あの先生の病院だったのか! わたしはぜったい行きません! 前この先生がやってたところに通った息子、自転車で転んで足大変だった!》


 ともこはスマホの画面に指を触れて、上にスワイプ——ホーム画面にもどして、呼吸を整える。


「あのとき逃げないで、ちゃんと言えばよかったのかな……」そう言って、スマホをデスクに置いた。








 〜爪たて女〜






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