紅の間にて

 その夜、遼司は夢を見た。


 どこまでも深い闇の中で、誰かの声がした。

 柔らかく、甘やかで、それでいて冷たい声。


『あなたは、本当に“勇者”なの?』


 問いに答えようとしたが、口が開かない。

 その代わりに、闇の中から白い指が伸びてきて、彼の頬に触れた。


『じゃあ……嘘の勇者。あなたの本音を、聞かせて』


 遼司が目を覚ましたとき、部屋はまだ夜の静けさに包まれていた。


* * *


 翌朝、王城の一室に“魔族の使者”が訪れたという報が入った。

 表向きは物資交渉だが、実態は非公式の“密会要請”だった。


 送り主は――ミレイア・ヴァン=ノクターン。


 魔王本人である。


「……王都に、自ら来るなんて」


 エリナが青ざめるのも無理はなかった。

 リオンや上層部は会見に否定的だったが、ミレイアは「会うなら勇者とだけ」と条件を突きつけてきた。


 しかも――


『場所は、赤の迎賓館。

 扉は閉じて、灯火ひとつで。ふたりきりの密会が条件よ』


 遼司は迷いながらも、条件を飲んだ。


 理由はわからない。

 だが、心のどこかで彼女を“知りたい”と思っている自分がいた。


* * *


 迎賓館の最上階、“紅の間”。

 名の通り、深紅の絨毯と天幕で飾られた、妖艶な空間だった。


 そこに、彼女はいた。


 魔王――ミレイア。


 漆黒のドレスに、真紅の唇。

 まるで夜そのものが人の姿をとったような、美しさ。


「来たのね、“嘘の勇者”さん」


 彼女はゆっくりと椅子をすすめた。

 遼司が腰かけると、紅茶の香りが漂ってきた。


「……俺に何の用だ」


「焦らないで。こういうのは、順番が大事なのよ。

 たとえば……まずは挨拶。次に、少しだけ駆け引き。

 そして、そのあとは――本音の時間」


 ミレイアはカップを持ち上げ、唇を濡らす。

 その指先の動き一つすら、どこか妖しい。


「あなたのこと、ずっと観察していたの。

 偽の勇者として召喚されながら、演じ続けて……それでも人々に手を差し伸べた。

 私には、できないことだった」


 「……魔王が、何を言ってる」


 「ふふ。おかしいかしら?

  私はこの世界に生まれて、ずっと“破壊者”としての役割を押しつけられてきた。

  でもね、あなたを見ていて気づいたの。

  “役割”なんて、所詮誰かが押しつけた幻想。

  演じることで、人は“自分を選び直せる”のだと」


 遼司は、その目の奥にある寂しさを見逃さなかった。


「……あんたも、演じてるんだな」


 「当然よ。私は“魔王”としての仮面をかぶっているだけ。

  本当の私は、ただの“世界の片隅で立ち止まった少女”」


 沈黙が落ちた。

 その静けさの中で、ミレイアはふと立ち上がる。


 ドレスの裾が揺れ、彼女はゆっくりと遼司に歩み寄ってきた。


「ねえ。ひとつ、確かめてもいい?」


 彼女は遼司の前で膝を折り、すっと顔を近づけた。


「あなたは、女に触れられると、どう反応するの?」


 遼司の肩に、ひんやりとした指先が置かれた。

 そのまま首筋に沿って滑り、耳元で囁く。


「私は、敵。……でも、あなたのこと、少しずつ興味が出てきたの。

 “人間”としても、“男”としても」


 その瞳は、夜のように深く、情熱的に赤かった。


「どう? 今ここで、キスしても……抵抗しない?」


 「……させたら、敵と寝ることになるかもしれないぞ」


 遼司はかすれた声で答える。


 ミレイアは少しだけ笑って、指先を離した。


「ふふ、それも悪くないわ。

 でも……それは、“もう少し先”のお楽しみにしましょう」


 魔王は立ち上がり、ドレスを払った。


「今夜は、ただの“対話”。

 だけど、これがきっかけになるのなら……私は“敵”のまま、あなたに惹かれてもいいと思ってる」


 遼司は何も言わなかった。


 ただ、心のどこかで――

 この“魔王”に、もう一度会いたいと思ってしまった自分を、否定できなかった。

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